「夜は明るくすれば良いというものではないのです。そうは思いませんか、哲佐(てっさ)君」
「俺にそんなこと言われてもなぁ」
「まぁ、哲佐君のお仕事には関係ありませんものね」

 鷹一郎(おういちろう)の涼やかな声は飄々とした風とともに俺の耳に流れ込んでくる。
 いつもながら酷い言われようだが俺の仕事はここに現れる化物の生贄になることだから、確かに明るさなど関係はない。
 時刻は既に丑三ツ時(午前2時半)。年も押し迫る冬の夜はしずしずと更け、往来は既に闇に染まり人気(ひとけ)はなく、雲間にぽかりぷかりと浮かぶ丸い満月だけがこちらを静かに見下ろしていた。
 目の前の昨明治15年に完成したばかりの神白(かじろ)県庁舎が、時折差し込む月の光を反射しつつ、威風堂々とそびえ立っている。俺と俺の雇い主である土御門(つちみかど)鷹一郎は、この寒い夜中に県庁舎を正面に見る正門前に陣取っていた。
 この正門から正面の県庁舎までは、幅員10メートル、距離100メートルほどのまっすぐな道で繋がっている。そして俺たちの侵入を阻むように、道に沿って冷たく乾いたからっ風が身を切るように吹きすさび、陰陽師を名乗る鷹一郎が(まと)う土御門家の蝶紋が縫い込まれた狩衣(かりぎぬ)の袖と烏帽子から流れる一房にまとめられた長い髪をバサバサとはためかせていた。自分の羽織る分厚い(あわせ)に綿入り半纏という防寒対策を施した姿と比べる。
「お前、やっぱり寒そうだな」
「冬用に分厚いんですけどね。これでなければ格好がつかないのです。お洒落は我慢とも申しますし」
「風邪引くぞ」
「それより、来ますよ」
 短い呟きが耳に入った瞬間、何者かの気配に首筋が総毛立つ。
 いつの間にやら夜闇と同色の昏い霧があたり一帯に立ち込めていた。目を凝らすとそれは次第に凝縮し、見上げる銅板葺きの県庁舎屋上に、じわりと何者かの姿が滲み(いで)た。
 ヒョウという物寂しい鳥の声のような、或いは風が擦れるような音がした。心のうちに不安が巻き起こる。
 夜の鳥の声。様々な姿が合成されたわけのわからぬもの。
「つまりあれが、(ぬえ)か」
「多分ね。調査した文献とは少し異なりますが、だからこそあれが鵺なのでしょう」

 文献。それは平家物語。
 そこでは鵺とは猿の顔、狸の胴体、虎の手足、蛇の尾の姿として描かれている。けれども月明かりに照らされくぐもった唸り声を上げる怪異は少し異なる。胴体は噂に聞く象のように厚い皮膚に覆われて盛り上がり、顔もより大きく赤く長い蓬髪(ぼさぼさの髪)を備えた狒々(ひひ)のように思われる。よくわからぬ恐ろしいもの。全体が随分と大きく、体長は5メートルほどあるように思われた。

 本当にこんな化物が倒せるのか。俺の中に疑問と恐怖がふわりと沸き立つ。
「おや。ひょっとして怖いのですか? 哲佐君」
 (からか)うような鷹一郎の声が刺さる。
「怖ぇえよ。お前と違って俺はただの人間だからな」
「哲佐君がただの人間であれば、この世の人の数はもっと少なくなっているのでしょうね」
「精神の話だ」
 鷹一郎は県庁舎に巣食う化け物退治を神白県から頼まれた。そして俺は生贄として鷹一郎に雇われた。眼の前の怪異は俺を襲い、そこを鷹一郎が倒す。そんな手筈で、既に作戦は立てていた。
 鷹一郎との会話を思い出す。

 昨朝。
 長屋の戸口がトントンと叩かれ、返事も待たずにガラリと開けられた。目を上げると鷹一郎が戸口から覗き、その整った顔をにこにこと微笑ませながら、開口一番。
「哲佐君、お手伝い下さいな」
「……お前、なんで俺が金がない時がわかるんだよ」
 ちょうどその時の俺は、狭く薄暗い長屋の一室で提灯張りの内職をしていた。そして金の予感に腹がグゥと鳴った。俺はちょくちょく鷹一郎におかしな仕事を頼まれて金を稼いでいる。

 糊の壺に刷毛を差し入れ、ペタペタと提灯の骨に塗り付ける様を鷹一郎は感心したような、見方によっては小馬鹿にしているようにも見える表情で眺めた。
「それにしても相変わらず手先が細かいですねぇ」
「まあな。それで……いくらなんだ」
 俺は昨日、博打で有金を全部()った。昨晩のやけ酒と空腹が俺の胃を締め上げているが、この提灯を納めなけりゃ今日の晩飯にもありつけない有様だ。
 弓張り提灯は一張3銭。普段の身入りは日雇い仕事で15銭ほど。
 日雇いのほうが割がいいが、冬場は仕事が少ないのだ。
 一方で鷹一郎が俺に持ってくる仕事の話は碌でもないものばかりだ。碌でもないが金はいい。そしていつも、俺に金がないのを見計らったようにこの男は俺の前に現れる。
「そうですねぇ。たった今夜一晩、10円で如何(いかが)
 鷹一郎はにやにやと俺の手元を眺める。俺が断るはずがないと思っていやがる。
 大卒銀行員の初任給が10円の時代だ。一晩でそれと同じ、俺の日当の70倍弱を稼げるわけだ。
「危ねぇのか」
「立ってるだけで結構ですよ、破格でしょう?」
 危険性については一応尋ねてみたものの、いつも通りまともに答えはしないのだ。けれども俺は既に手元はそぞろで頭はすっかり傾いていた。
「それで俺は何に食われる(・・・・)んだよ」
「多分、鵺。でも今回は祓うだけです。珍しく純粋な囮です。よかったですね」
「よくねぇよ。そりゃ純粋に(おとり)ってことじゃねぇか」

 囮、囮ね。
 鷹一郎が俺に頼む仕事。それは簡単に言うと化け物の生贄になることだ。鷹一郎が言うには俺は世にも珍しい生贄体質(・・・・)というやつらしく、ありとあらゆる、とくに人に悪事をなそうとする化け物は、一目俺を見ると我を忘れて襲ってくるそうな。
 鷹一郎は陰陽師なんてヤクザな仕事を生業にしていて、金で怪異を祓うことを仕事として請け負っている。そして鷹一郎は俺を囮に化け物を罠にかけ、手練手管で(なだ)めすかして手下に収めるのが趣味(・・)なのだ。
 けれども今回の鵺には交渉の余地などないのだろう。だから趣味は諦めて仕事(・・)として祓ってお終い。ぶっちゃけただの囮のほうが危険性は低い。呼び寄せるだけ呼び寄せて俺が危険に陥る前に鷹一郎が倒す。そのような算段ではあろう。

 そもそもこの『化物退治』は神白県から依頼されたものらしい。
 先週頃から新庁舎に勤務する職員、それも夜間の宿直を中心に人が次々と倒れる事件が発生した。最初は4年前(明治12年)と昨年に大流行したコレラの再来かと思われた。けれども症状が異なる。体が震えて気を失い、かえって熱を出すという。
 そのうち宵闇に紛れて県庁舎に鳥の声が響き始め、ダダンと屋根上に足を踏み鳴らすような振動が巻き起こり、ぴかぴかの銅板屋根の上に足跡に見える(すす)が付着しているのが発見された。夜回り(警備員)が真っ黒な何者かが月明かりに照らされた屋根上を闊歩(かっぽ)するのを見た。それはおよそ人智の及ぶものではなかったという。
 この段になって土御門神社、つまり陰陽師である鷹一郎に祓いの依頼がきた。
 そして鷹一郎は何度か下見に来て、その様子から、それが鵺であると当たりをつけたものの、相手が屋根上から降りてこないものだから手の出しようがなかったそうだ。だから俺が雇いに来た。
 ふわりと長屋が暗くなる。日が陰ったのだろう。

「鵺ってあれだろ、平家物語で藤原三位頼政(ふじわらさんいよりまさ)が倒した奴だろ?」
「おや、詳しいですね。そういえば哲佐君はお武家の出でしたね」
「元な。困窮具合は今とさほどかわらんが、やたら軍記物の話は聞かされて育ったな」
 そんな生活も既にはるか昔のことだ。
「ならご存知でしょう? 頼政は弓で鵺を撃ち落としましたが私は弓はさほど得意ではありません。夜目も効く方ではないのでね。射掛けて貴重な破魔矢を失いたくはない。哲佐君におびき寄せて頂けるなら無駄な損耗が減るのです」
「俺は矢以下かよ」
 そういえば鵺というのはよくわからぬものの代名詞だ。
 平家物語でも頭が猿、体は狸、尾は蛇、手足は虎で鳴き声が鳥。浮世絵だのなんだので姿が描かれることはよくあるが、やはり何だか判然としない。
「その鵺ってな、一体何なんだ?」
 俺は一体何に食われるのだ。

「鵺ってのは何であんなに混ざってんだ?」
「おや、異なことを。いや、混ざっている、のかな? ふうん、哲佐君は面白いですね」
 鷹一郎はにこりと俺を眺め下ろす。嫌な気分になる。
「変なことでも言ったかよ。つか、鵺って何なんだ」
「いいえ。よく考えれば虎やら猿やらというものは実体がありますね。だから実在すると考えてもおかしくはないのか。虎狼狸(コレラ)のように」
 虎狼狸?
 そういえば黒船が異国から持ち込んだこの疫病は、虎の模様をもつ狸のような化け物が広めているという噂がたったな。あれも複数の生物がよりあわさった姿だ。
 鷹一郎の話では宿直が熱を出している。ということは鵺も病を媒介しているのだろうか。先程は熱が出ると言っていた。
「その、鵺、は病を振りまくものなのか?」
「さぁて、どうなのでしょうね」
「はっきりしろよ、気持ちの悪い」

 鷹一郎は秀麗な眉を(ひそ)めて面白そうにクフフと笑う。
 鵺とは何なのだ。俺だって、わけのわからぬ病なんぞもらいたくはない。破格の金でも死んでしまえばしようがない。
 この神白には開港(外国に開かれた港)神津(こうづ)港があり、先のコレラの大流行でも多くの人死が出た。コレラというものはそりゃぁ酷い死に様だ。地獄のような腹下しの末に体が冷たくなってあっという間に干からびて死んじまう。早ければ半日もかからぬ。
 そう考えると熱の出る鵺の症状はコレラでは、ない、のかな。
 だから良いってもんじゃぁ全然ないが。
「哲佐君は面白いですね。私は鵺とは鳥だと考えていました」
「鳥だと? どこに鳥の要素がある。いや、鳥の声はするのだったか」
「えぇ。そもそも鵺の初出は古事記です。夜明けを告げる鳥を指す。それが時代が下るにつれて不吉や怪異に導かれ、平家物語でよく知られるあの姿に成りはしたものの、『鵺』とはその姿を言及したものではない」
 鷹一郎は何でもないかのようにすらすらと(そら)んじる。

 平家物語第4巻、源三位頼政の鵺退治にはこう記載されている。
 従者である井の早太は駆け寄り(井の早太つつと寄り)
 鵺が落ちたところを取り押さえて(落つるところを取って押さへて)
 続けざまに9回刀で刺した(続け様に九刀ぞ刺いたりける)
 その時御殿の上下に控えていた者たちが(その時上下)
 灯りをかざして鵺を見たところ(手々に火を灯いてこれを御覧じ見たまふに)
 頭は猿、体は狸、尾は蛇、(手足は虎の姿なり)
 手足は虎の姿だった(手足は虎の姿なり)
 鳴き声は鵺に似ていた(鳴く声鵺にぞ似たりける)
 恐ろしいなどという言葉では言い尽くせない(恐ろしなんどもおろかなり)

「つまり、鵺というのは化け物自体ではなく、化け物のうちの声のみを指す言葉なのです。だから鵺とは鳥なのです」
 鷹一郎はもっともらしく述べるが、それじゃ疑問は募るばかりだ。
「じゃあその体は何なんだよ。どこから来たんだよ」
「そこで問題です。鵺には実体があるのでしょうか」
「実体、だと?」
 想定もしなかった問いかけに、わずかに狼狽えた。
「伝承によると鵺というのは鳴いて不幸を呼ぶだけで、『恐ろし』いその姿によって、つまり物理的に襲って来たりはしないのですよ」
 鷹一郎は俺に諭すように言う。
 話の中身を思い返せば確かに鵺とはそのようなものだ。
 その獰猛な虎の手足で人を引き裂く存在ではなく、その獰猛な狒々(ひひ)(あぎと)で人を食らう存在でもなく、太い(くちなわ)の尾から生じる毒で人を病ませるのでもない。
 闇夜に浮かび、ただ、鳴く。
「なら、なんでそんな姿をしている」
「姿、姿ですよね。果たして鵺に実態は存在するのかが新たな疑問です」

「存在しないなら矢で撃つ必要はねぇだろう」
 鷹一郎はその通り、というようににやりと微笑んだ。
「鵺は物語では御殿の鬼門丑寅(東北)にある東三条の森から黒雲の姿でやって来ます。それで頼政が矢で射落としてバラバラにします。その姿が初めてわかるのは、バラした後に灯火で照らしてからなのです。つまりそれまで鵺は声でしか存在しない。化物の体自体は船に乗せて川に流したから残ってない」
「つまりどういうことなんだ」
「古籍において、倒した直後の鵺の姿を確認したのは頼政と従者だけなのですよ」
 姿を確認したのは?
 平家物語の姿を思い浮かべる。頼政と従者が恐ろしい姿の鵺に矢を射掛けている。そう思っていたが、確かに頼政が矢を射掛けたのは黒雲なのだ。
「だから鵺の姿は頼政によって与えられたものと思っていました。頼政は複数の獣の死骸の一部を用意し、化け物に見せたと思っていました。家成様のご治世の際(天保8・1838年)志賀理斎(しがりさい)という儒者が編んだ理斎随筆(りさいずいひつ)という書物があります」

 その書物によると、この組み合わせは意図的なものなのだそうだ。
 (とら)の足が示すのが鵺がやってくる東北東。その真反対側に位置するの(さる)の頭が示す西南西。そして(くちなわ)の尾が示すのが南南東。
 その姿の指し示すのは方角。
「蛇の対とすると北北西がないじゃないか」
「頼政の従者の名は猪早太(いのはやた)というんですよ。だから亥で北北西。寅と申、巳と亥を結ぶときれいに十字になります」
「つまり何なんだ?」
「この『鵺退治』という行為はとても呪術的なのです。うちの神社にも年明けに神に豊穣や厄除けを祈る奉射(おびしゃ)という神事があります。少し角度はずれますが、まず(北東)に射掛け、次に(南東)。そこからは神社によって違いはありますが、うちでは続いて(南西)、最後に(北西)、そして()()を射ます。なんだか似ていませんか」
「頼政の弓は何かの儀式ってことか?」
「そう考えていました。四方を封じて残るものが鵺の声。そしてその後に現れる鵺も鳥なのです」

 平家物語の頼政の鵺退治の直後にはまた別の鵺の話が続く。
 二条院様が御在位の時(二条院御在位の時)
 鵺という化け物鳥が宮中に鳴き(鵺といふ化鳥禁中にないて)
 しばしば帝のお心を悩ますことがあった(しばしば宸襟をなやます事ありき)
 目を凝らしても見えない闇の中(目さすとも知らぬ闇ではあり)
 鵺の姿も見えないから(姿形もみえざれば)
 矢をどこに射ていいかも決まらない(矢つぼをいづくとも定めがたし)

「鳥、だな」
「でもね、哲佐君とお話していて見落としていたことに気がつきました。ひょっとしたら哲佐君が少々危険になるかもしれませんが、うまくいったら少々お給金を上乗せして差し上げましょう」
 狭い長屋の上り口に改めて腰掛けた鷹一郎は、何やらニヤニヤと口角を上げながら長屋の内をキョロキョロと眺め始めた。
「ドツボに嵌った気分だ」
「捕まえるのに必要なものは何でしょうか。色々楽しみですねぇ」
 俺を襲って食おうとするものの姿がわかれば、一応は平静を保てるかもしれない。そう思ったのに、鵺が何かはやはりまるでわからなかった。これもまぁ、いつものことといえばいつものことだ。

「久しぶりにお前の予測が外れたな」
「ええ。鵺に本当に実在するとはね。予め用意をしておいてよかったです」
 鷹一郎が珍しく俺を揶揄しない。
「用意ってこれでよかったのかよ」
「あの姿から推測すると、重畳でしょう」
 結局、目の前に鵺は現れた。けれども俺も、その実在の程は未だ不確かだった。

 わけがわからないものが目の先にいる。
 その体躯にまとわりつく黒い霧に隠れ、それから雲間に現れ浮き沈む月明かりに照らされて、目を凝らせば狒々、象、虎、蛇といった様々なパーツがチラリチラリと垣間見える。グルルと体を低く屋根上に伏せて唸っているようにも見えるが、それはビョウと吹く強い風の音かもしれないし、ただ闇の見せる幻なのかもしれず、全てはどこか朧げだ。
 そのような、実体が確かに目の前にいるという物理感と同時に感じる存在の不確かさ。そういえば鳥の要素がないな。
 けれども鷹一郎は酷く嬉しそうに肩を揺らした。
「何が何だかわからねぇ」
「頼政は何を見たのでしょうね。これは頼政が見たものとは異なるのでしょうが。けれども何かは知れました。切ろうと思っていましたが、やはり作戦変更です。アレが欲しくなってきました」
「やはりアレは切れるものなのか」
「実在しようがしまいが、私はそもそもアレを切るつもりでしたよ」
 鷹一郎の声は実に嬉しそうだが、俺にとってはその実在のほどが高ければ高いほど、具体的な危険性というものが弥増(いやま)すのだ。その不気味さに俺はただ身震いするだけだが、一方の鷹一郎の眉は趣味の成就に期待をはせて、嬉しそうに弧を描く。
「変更も何も、もともと作戦なんて聴いちゃいねぇぞ。それでアレは何なんだ」
「『わけのわからぬもの』ですよ。今は『わけのわからぬ恐ろしい姿』をしています。それがアレなのでしょう」
「結局何が何だか『わからねぇ』」
「まずはその実なる姿を明らかに致しましょう。なに、哲佐君のお仕事は変わりません。ここでアレを呼んでください。私は傍に控えていますから」

 土御門はそう述べて俺の半纏の前を開き、その懐に大量の紙片を押し込んだ。その上から生ゴミの詰まった袋を俺の腹にくくりつける。俺の家にあった魚の骨なんかもあるが、大部分は鷹一郎に言われて長屋の共同のゴミ溜めから集めたものだ。あの『鵺』を俺の元まで呼び寄せるための餌だ。
「これで良し」
「生臭ぇ」
「あちら側に風を吹かせますから少し我慢下さいな。では、宜しくお願い致します」
 そう言って鷹一郎は風と共にひゅうと脇に下がり、闇に紛れた。
 すると背中側からふわりと風が吹き始め、それは次第に冷たく強く吹き荒れ始め、俺の背をしたたかに押し始める。やがてその暴風は踏ん張らねば倒れかねないほどに成長する。バサバサと顔の両側から吹き飛ばされる髪の毛が視界にちらつき鬱陶しく、ゴォゴォという風の音が耳を塞ぐ。
 先程までのゴミの臭いも吹き飛ばされるから多少はましに思えるものの、それにしてもこの冬の風というやつは身をじわりと凍りつかせようとするのだ。

 ふいに、世界が少し明るくなった。
 強風に押され、上空を漂う雲が完全に晴れたのだ。
 風の隙間をわずかに見上げる。煌煌と光を放つ満月はその周囲に更に大きな(かさ)を伴い、銅板葺きの県庁舎の屋根を明るく照らす。そしてその赤茶けた銅の金属板は月光を反射し鵺の姿を下から明るく照り返す。重なる光で鵺の纏う闇は次第に払われ、その姿が明らかとなっていく。
『さぁて、明るくなりました』
 鷹一郎の声が透き通るような風にのって、僅かに聞こえた。
 確かに月の光はソレを照らし、顕にした。

 なんだ、あれは。その姿に慄いた。
 そこにくっきりと現れた姿は先程見た『鵺』の印象とは少し異なっていた。
 大きな狸? それにしては妙な格好。
 確かにその足には虎のような模様があり、尾は蛇のように長くまだら。体は象のようにずんぐりでかいが、その滑らかさは皮ではなくて毛皮のようだ。頭は光を嫌うように深く俯き、よくはわからない。
 奇妙な姿をしている。そして明るく闇から浮かび上がったその姿からは、先程まで感じていた怪しさは全く失われた。そいつは明確な存在感を持ち、獣の気配を漂わせ、そしてぬるりと屋根から飛び降り県庁舎の暗がりに紛れる。
 突然背筋が凍る。ゴクリと喉がなる。
 アレが何だかはよくわからないが、獣だ。動物だ。
 これまでは『鵺』というわけのわからぬものであり、高く鳴いて病を振りまく(あやかし)の類と思い込んでいた。だが月の明かりに照らされて見たそれは、名はわからぬものの明確に『恐ろし』い獣。
 再びキュイィと高い音が響く。
 あの獣が発する音だ。先程の屋根上の姿はそれなりに、大きかった。体長も5メートルほどはあったように思われる。大型犬に比べても随分と大きいだろう。俺を襲って食うには十分であるほどには。
 背中に油汗がじわりとにじむ。あの虎のような太い足の爪は鋭いのだろうか。
 未だ見えぬその牙は、その顎は鋭いのだろうか。
 現実に現れた姿は現実的な恐怖を俺に刻み込む。
 そうと思えばタッタッと小さくこちらに近づく足音が聞こえ、フハという獣の生臭い息遣いが聞こえてくるようだ。

 来る。
 これまで鷹一郎に言いくるめられて対峙した化け物どもは数あれど、それらはこの世のものとは思えぬ姿を有する存在ばかりだった。まさに妖だ。そして鷹一郎は妖であれば祓うことはできるだろう、それが鷹一郎の仕事なのだから。
 しかし獣では?
 化け物ではなくただ獣であっても鷹一郎は祓えるのだろうか。
 鷹一郎はさほどガタイがいいわけではない。今日の鷹一郎は刀を帯びていたがそれにしたって相手は大きい。刃渡りは1メートルもないはずだ。
 本当に、大丈夫なのだろうか。
 背から吹く風は冷たく、俺の体をかじかませる。けれども手先が震えているのはこの風のせいだけか。
『夜は明るくすれば良いというものではないのです』
 先程の鷹一郎の声がふいに思い浮かぶ。
 確かに暗いままでは、あの獣の『恐ろしさ』を知ることはなかった。
 今、県庁舎からこの正門に至る広い道は満月に照らされ、あたかも昼日中のように明るい。そしてその明るい道を塞ぐように、ノソリと黒く太い前足が現れた。
 足がすくみ膝が笑う。無意識に体が逃がれようと揺らぐ。

 これは今まで請け負った仕事と明確に異なる。
 獣。
 鋭い爪と牙。
 明確に想像される物理的な恐怖。絶体絶命。
 そして獣は一歩、光の中に更に足を踏み出しその姿がさらに露わとなる。
 嫌だ。恐ろしい。
 その恐怖に踏ん張る足にさらに力が籠もる。
 けれども俺の足腰は背後から吹きすさぶ強風に耐えるので精一杯で、前方向、つまりその獣がいる方向以外には動けない。
 けれどもそれだけは、それだけは御免被る。
 さらに一歩、黒い足が前に出る。
 何故、こちらに来る。何故。
 その理由は明確だ。俺が獣の姿がわかるように、満月は獣と同じく俺の姿をも等しく闇から(くく)りだし、あの獣に見せつけているのだ。そしてこの強風が俺の、つまり生ゴミと餌の匂いをたっぷりと獣に届けているのだろう。畜生め。
 ことここに至っては最早どうしようもない。俺の姿は獣にとって明白で、俺はここから動けない。
 気持ちは既にやけっぱちだ。
 南無三。
 どうとでもしやがれ。

 一瞬だった。
 獣はグゥと低く唸って一瞬体を縮め、最初の1歩は小さく、けれども次の2歩目は大きく、歩を進めるたびにどんどんと速度を増していく。彼我の100メートルの距離を詰めるのに10歩もかからずその勢いのままどぅと俺を押し倒す。強い衝撃が背中を打つ。カハと肺腑から呼吸を吐き出す前にその酷い重さで両肩を冷たい路面に押さえつけられ、カヒュゥと妙な空気が漏れた。
 恐ろし、い。
 目の前の巨大な獣の頭部は逆光で真っ黒な影に沈み、はっきりとは見えないままに、その口腔から粘つく獣臭い唾液がどろりと胸に落ち、くくりつけられた生ゴミの袋がシャクシャクと食い荒らされて俺の胸上に散らばっていく。そして次の瞬間、顔にゴフという生臭い息がふきかけられ、ベロリとざらついた太い舌が顎から頬を撫であげた。
 ああ、もう駄目だ。
 ぴくりとも動けぬ。
 肩はミシリと軋み、体はきっちり縫い留められる。獣の毛皮の生暖かさと生臭さが俺が感じる世界の全て。
 そしてその大顎が大きく開けられた。
 もう、駄目だ。一巻の終わりだ。

 そう思った瞬間、俺の懐に押し込まれていた紙片の束がパラパラと宙に浮かんで虚空に散った。月の光を反射しながら紙片はどんどんとその数を増し、バサバサと音をたて、目の前で涎を滴らせる獣に貼り付きその全体を覆い始める。
 獣は呻きながら紙片を払おうともがくが、その圧倒的な紙数に次第に張り子のように白く包み込まれ、動きが緩慢となっていく。
 そして、祝詞を唱える低い声が響いていることに気がついた。
 そして、月の光が今や白く染まった黒獣と俺の姿を浮き立たせたのと同じように、月の光は鷹一郎が纏う白い狩衣をその光の中に隠していたことに気づく。鷹一郎は俺のすぐ側にいた。

大願(たいがん)成就(じょうじゅ)なさしめ(たま)へと(かしこ)(かしこ)(もう)

 祝詞の終わりに空気がふつりと揺れて世界が共振し、鷹一郎の狩衣の長い袖の下から放たれた白い剣光は弧を描いて美しく(ひらめ)き、たくさんの白い紙片ごと黒獣を俺の体の上からずさりと弾き飛ばし、何かを切り飛ばす。
 本当に一瞬のことだった。
 鷹一郎は俺のすぐ傍に音もなくふわりと着地し、刀を鞘に終って俺を涼しげに見下ろす。ようやく息が、つけた。
 先ほどまでの恐怖に満ちた時間はいつのまにか溶け落ち、静かな月の明かりが滔々と降り落ちている。
「怖かったですか?」
 その呟きには、わずかな誂いが混ざっていた。
「怖ぇに決まってるだろ馬鹿。それから……生臭ぇ」
「風は止めてしまいましたからね。でももう大丈夫ですよ」
 一体何が大丈夫なんだ、そう呟こうとした時、タタという足音が近づき、ペロリと何かが頬を舐めた。思わず体がびくりと硬直したが、その何かはゴロゴロと喉を鳴らしながらペロペロと頬を舐め続けている。
「なんだ、こりゃぁ」
 僅かに体を起こして改めて眺めると、そこには奇妙な生き物がいた。
 体長は思っていたのより少し小さく2メートル弱ほど。鼠のような顔。狸のような体には短い(たてがみ)と、やはり虎のような斑点、手足が黒く尾は縞模様でキュゥと鳴いた。
 その何だか妙に間の抜けた姿に、先程までの恐ろしさは既に失せていた。

「……こいつは何だ。化け物なのか?」
「通常よりは大きそうですが、恐らくジャコウネコというものですね。レグゲート商会で見たことがあります」
 レグゲート商会というのは神津港の外国人居留区で商売をやってる異人の商会だ。鷹一郎は外国の呪物といった妙なものを仕入れたと聞けば、足繁く買い付けに行っている。
「そうするとこれは外国の化け物なのか?」
「いいえ、変な姿ですが今は化け物ではありませんよ。動物です、ネコの仲間。恐らく輸入されてきたものが野生化したのでしょう」
「ネコ?」
 虎模様、狸の体、体躯は犬より大きく、寧ろまさに虎狼狸というにふさわしい姿をしている。コレラも黒船とともに来たのだから、こいつも同じように海を渡ってきた、のだろうか。
 鷹一郎が獣に向かって手をのばすとその獣はひょいと飛び退きグルルと唸る。鷹一郎は酷く残念そうな顔をした。
 ようやくすっかり体を起こす。するとそのジャコウネコとやらは、丁度鷹一郎の真反対から体を俺に擦り付けてきた。仕草は猫というより犬のような。

「おや酷い。呪を解いて差し上げたのに」
「呪?」
「何だかよくわかりませんが、悪いものが憑いていました」
「結局やっぱり『何だかよくわからない』のか。そいつがここの県庁舎に病をもたらしたのか?」
 鷹一郎は月の光を照り返す銅板葺きの屋根を眺め、かつての鵺に目を落とす。
「どちらかというと逆じゃないでしょうか」
「逆?」
「ええ。この子は変わった姿でしょう? だから化け物だと思われて化け物になったのです。人より生じた『忌むべきもの』という思念がまとわりついて、あの黒い霧と化したのでしょう。結局この子は人を襲っていません。病をもたらしたのも人の悪意なのでしょうね。この子もさぞ気持ち悪かったでしょう」

 確かに妙にでかい奇妙な姿。俺はさっきまでの闇を纏った巨大な姿が未だ目に焼き付いている。それが県庁舎の屋根上なんぞにいるのを遠目に見れば化け物に見えなくもないだろう。けれども近くにいれば妙に愛嬌がある。
 そして俺の胸や周囲に散らばる生ゴミの残りをもぐもぐと食べ始めた。鷹一郎はやれやれと腰に手を当てる。
「これは助けたのが哲佐君だと思ってますね。餌付けまでされている。腑に落ちません」
「こいつにすりゃ、お前の匂いのする紙の上からぶっ叩かれたんだ。お前に突然殴られたと思っても仕方ないんじゃないか」
「実際殴り飛ばしはしましたけどねぇ。けれども困りました。私が頼まれたのは化け物退治ですから、このまま野放しにするわけにはいきません。うちの神社ならともかくここに居座るならば、予定通り切るしかないのです」
「ま、待て。大丈夫だよ。俺が連れて行くから、な」
 そういえば鷹一郎の仕事は県庁舎に現れる化け物の退治、か。退治というからにはその存在を失せさせなければならない。
 いつもやり込められている分、困った鷹一郎を見るのは気分がよかった。けれどもせっかく体を張ったのに、無為に殺されてしまうのは忍びない。それに明るい満月の下でよく見るとなんだか大人しそうで、人を襲うようには思わない。もともと鵺自体も人を襲ったりはしないのだ。
 (たてがみ)をまさぐるとこちらの言葉が多少わかるのか、獣はキュウと鳴いた。

 結局の所、巨大狸にしか見えぬジャコウネコは、道すがらにミケと名付けられ、鷹一郎が宮司を務める土御門神社奥の鎮守森に住み着くことになった。
 県庁舎のある神津から土御門神社のある辻切(つじき)西街道まではそれなりの距離がある。時間は幸い丑三つ時(午前2時半)。冬の朝の明けは遅い。だから夜のうちに歩いて戻ろうという話になり、俺が昼に張ったばかりの提灯掲げて、なるたけ早足に歩いたものだ。
 けれども漸く土御門神社に辿り着くころにはすっかり夜が明けていた。
「やっぱ妙だな」
「朝になってしまいましたからねぇ、姿が丸見えです。この辺りまでくれば会う人は顔見知りが多いですから構わなくはあるのですがね」
 鷹一郎の嘆息というものはそれなりに珍しい。
 朱色の単と狩袴の上に白い狩衣、烏帽子を纏う陰陽師の姿のその隣に2メートル弱はある巨大な狸。なんだか出来過ぎている。ミケはふんふんと地面を嗅ぎながら尻尾を左右にふりつつ悠長に歩いている。
 陽の光の下で見るとその姿は更になんだか間が抜けていた。でかいが背に乗れたりしないかな?
「だから嫌なんですよ。本当は宿で着替えるつもりだったのに、ミケがいると宿に入れません、全く」
「俺だって全身が生ゴミ臭ぇよ。とっとと風呂に入りてぇ。けどこいつはお前の趣味には丁度いいんじゃねぇのか」
「変わったものを集めるのは趣味といえば趣味なのですけれど、獣では意思疎通が難しいですからねぇ。せめて人語を解せればいいのですが」

 鷹一郎はこのような奇妙な事物や呪物を集めるの趣味、というか習性がある。カラスが光り物を集めるようなもので、止められはしない。だから祓えば終いであるのに俺が生贄となって危険に晒される。けれどもそれで破格の金をもらっているのだから否やとは言い難い。
「それにしてもこいつはどこから来たのかね?」
「ジャコウネコというものは緬甸(ミャンマー)越南(ベトナム)に住むと聞きますから、温かいところからきたのでしょうね。つまり臥亜(ゴア)やそのあたりを中継にしたのかもしれません」
「随分遠くから来たんだな。日の本にうまく慣れるのかね」
 鬣を撫でると、それなりには分厚いが。
「冬は厳しいでしょうね。そういえばジャコウネコ自体は平安のころから日本に輸入されているのですよ」
 古い記録では百錬抄(ひゃくれんしょう)。平清盛が後白河院にジャコウネコを持参したとある。少し遅れて藤原定家の明月記(めいげつき)にも、インコとジャコウネコを送られてインコは鳴かないしジャコウネコは猫に似ていると記載されているらしい。
 俺には猫より狸に見える。そういえばずっと気になっていた。
「お前がこいつの正体に気づいたのはいつなんだ?」
「ヒントは哲佐君に頂いたのですよ。十二支には狸がいないのです。だから鵺の実体は鳥の声という不確かなものではなくて、狸という実体があるのかなと」
 方角でなく、姿の記載に残ったもの、か。
「やっぱりネコじゃなくて狸だよな、この姿は」
「陽の下で見るとね。結局はね、何事も明らかにしてしまうから不確かなものが不確かでいられなくなるのです」
「不確か?」
「ええ、陰陽師が昼日中に歩いていればちんどん屋でしょうが。ミケもよく見れば奇妙な生き物というだけで、ただの外来種の何かに成り下がるのです」

 それはいいことなのか、悪いことなのか。
 ともあれミケは『病を運ぶ妖』というわけのわからぬ存在から脱し、土御門神社奥の森に住むただの獣になりはてたのだ。あの森には鷹一郎が捕まえてきたわけのわからないものがわんさといる。見ようによっては本格的に化物になった気はしなくもない。その方が良いような、気はするが。
「世の中にはね、よくわからないまま留めておくことに意味があることも多いのです」
「よくわからないまま?」
「そう、この子はたまたま県庁舎を根城にしたから妖になってしまった。だから退治されなければならなくなった。けれどもそうでなければ、近くの山にでも住んでいたのでしょう」
 県庁舎の北側には四風山(しふうざん)が広がっている。県境をまたぐ大山地で、土御門神社の鎮守森とは比肩しようもないほど広いのだ。
昨年(明治15年)銀座大蔵屋前に灯ったアーク灯(電気灯)というものはそりゃあ明るく闇夜を切り裂いたそうですが、強い光というのはまたその影で濃い闇を産むものです。あまりに物事を(つまび)らかにしすぎると、静かに生きていたものたちまでもが駆逐され、かえって強度に訳のわからぬものを溜め込む結果になりかねません」
「なんだか妙に感傷的だな」
 すっかり明るくなった日の下で言うちんどん屋の姿からは、妙な哀愁が漂っている。
「科学の光というものは幽けきものや怪しきものの存在を許しません。私のこの力もね。そしてその傾向はますます顕著になり、100年も経てば化物なんてすっかり存在しえない世界になるでしょうね」
「そりゃあ俺が食いっぱぐれるな」
「そんなことよりそのように世界が切り離されてしまうと私の思い人にお会いするのが困難になってしまうじゃないですか」
「結局それか」
 鷹一郎の強い力の源も、鷹一郎が妖と力を集めるのもその『思い人』のためらしいが、鷹一郎からその話を聞くたびにいつもそいつは実在するのかよと疑問に思うのだ。どの方向から考えても眉唾ものだ。それを考えると、陰陽師という存在自体も最早眉唾ものになり始めている。
 ともあれ事件は解決し、鷹一郎に大金が舞い込み俺も種銭にあやかれるのだ。嫌やはない。
 その後ミケは土御門神社奥にひっそり住み着き、胡頽子(グミ)を食べて口を真っ赤にする様子がたまに立ち入る住民を驚かせているそうだ。けれどもあの神社の周辺で変なことが起こるのはいつものことで、様々な意味で鷹一郎が守っているからミケが追われることもないだろう。

 そうして年が明け、なじみの久我山(くがやま)医院の手紙を携え、年始に土御門神社を訪れた。その内容はおよそこのようなもの。

 危急の折、手紙にて失礼仕ります。
 年末より当医院に奇病の患者があり、治療を継続したところ、貴殿のご領分と思いご連絡した次第です。
 患者は五辻(いつつじ)宇吉(うきち)、男性、齢24、格別の既往歴はなし。主症状は下肢皮膚の(ちょう(悪性の出来物))の異常。発病は一週ほど前、当初は豆粒大であった出来物が次第に増殖し、現在は下肢全体に至る。
 当時外傷はなく、原因は不明。
 二日前の夜半、夜廻り(夜間警備員)が五辻の病室より不審な声を聞き立ち入った所、五辻が何者かと話している様子であったとのこと。けれども姿はなく、近くに寄ればその声は五辻の服の下から聞こえたとの報告がありました。
 何名かの夜回りに確認した所、当院に入院して以降、毎日ではございませんが同様の事象が発生していたとの報告がありました。

 次に治療状況を申し上げます。
 五辻は旧藩立病院で疔と診断の上、切開し膿の排出を行いました。しかしすぐさま再発したとのこと。これ以上の治療を不可能として旧藩立病院より当院に転院した際にはすでに衰弱し、明朗な意識はございませんでした。これ以上の外科治療は本人の体力から不可能と考え、現在は清潔に保つことを治療方針としております。生薬及び粥を口に含ませれば飲み下しますが、一日中ぼんやりと動かないままにございます。
 もとよりの不明の原因が怪異であるなれば、当院の職分ではございません。よってお時間がございます時に速やかにお越しいただけますよう、謹んでお願い申し上げます。
 諸処費用は五辻家に了承頂いておりますゆえ、ご心配なさらずとも結構でございます。
 新年お喜び申し上げます。本年もよろしくお願い申し上げます。