「真白、今朝も牛乳を飲んでいたけど、牛乳でお腹がゴロゴロする人は背を伸ばすのに効果がないと思うよ。もうやめときな」
「そうだよね……でも大きくなりたいな」
「人の価値は背の高さじゃないでしょ。真白はそのままでも充分素敵だよ」
ひ弱な僕は全然素敵じゃないと思うけれど、他は慶ちゃんの言うとおりだ。
僕の幼馴染、天堂慶汰は、いつも正しい。
だって慶ちゃんは成績優秀で、運動も得意で、親切。何と言っても生徒会長だ。
そのうえ顔もカッコよくて背が高い。
八頭身の形のいい頭、艶々の黒髪。へアイスタイルはセンターパートで、綺麗な額と真っ直ぐな鼻梁の付け根が見えている。
制服の白いジャケットとロイヤルブルーのネクタイを着崩すことなく着ている姿はまるで貴公子のようだ。
あ、違う。慶ちゃんは本当に貴公子だった。
慶ちゃんの家は住宅街の中でもひと際目立つ豪邸だ。
本家が華道の家元で、三男の慶ちゃんのお父さんは、関連企業のある大きな会社を経営している。
そんな慶ちゃんと僕は家が隣だから幼馴染になれたけど、本当なら僕のようひ弱なな男は慶ちゃんと友達にはなれなかっただろう。
僕は見た目が女の子のようだね、って小さな頃から言われてきた。
目の大きさが人の倍くらいあると笑われるほどで、男らしくなく細く長いまつ毛で囲まれている。
髪も慶ちゃんみたいに意思の強そうな真っ直ぐではなく、ふにゃふにゃした腰のない緩いくせ毛だ。
色は生まれつき薄い茶で、学校の先生に染めていると疑われて眉を顰められたこともある。
神様って不公平だと思う。
僕は髪も顔もひ弱そうなのに、結局高校生になってからも背を伸ばしてくれる気配がない。
苦手の牛乳を頑張って飲んでいたのに、慶ちゃんの言うとおりだったな。
「真白、なんだかフラフラしてる。こけると危ないから俺に掴まって」
「あっ、僕ったらごめんなさい」
寮から学校への通路を進む中、不満なんて思っているからぼうっとしていたらしい。ちゃんと歩いているつもりだけれど、慶ちゃんが僕の肩に腕を回して引き寄せてくれた。
「いいんだよ。危なかっしい真白を守るのは俺の役目だからね」
これは慶ちゃんの口癖。
ひ弱な幼馴染を気にかけてくれる慶ちゃんは、いつでも僕に寄り添ってくれている。
とても優しい人だ。昔からそうなのだけれど。
「なあに? 俺の顔になにかついてる?」
かっこいい顔を見上げてニヒヒ、と笑っていると、慶ちゃんが優しく微笑んだ。
歩きながら人の顔を見ているのも危ないけれど、今は慶ちゃんがしっかりと肩を抱えてくれているから大丈夫。
「ううん。慶ちゃんが幼馴染で本当によかったな、って思ってる」
「そう? じゃあ俺のこと、好き?」
「うん。大好き、っていうかそれ以上だよ。僕は慶ちゃんがいないと生きていけないって本気で思うもの」
この言葉、僕も口癖になっているけれど、心底思うから何度も言ってしまう。だけど慶ちゃんは呆れる様子をまったく見せずに、花がほころぶように美麗に微笑むんだ。
「嬉しいな。俺も真白が大好きだよ」と。
僕も嬉しいよ。僕はひ弱にみえるせいか、慶ちゃんの他には友達がいないのだ。
いつ頃からだろう。中学生になってからだと記憶している。
僕は慶ちゃんと一緒に中高一貫の男子校を受験した。
小高い丘の上にあるこの学校は、家柄のよい生徒が集まる少人数制で、全寮制だ。
普通の家の子の僕がどうしてここに入学できたかと言うと、慶ちゃんの強い勧めと慶ちゃんの家からの推薦状があったからだ。
もちろん、勉強も頑張った。小学四年生になって以降、慶ちゃんの家で一緒に家庭教師をつけてもらえたし(これもほぼ慶ちゃんの家が援助してくれた)、家庭教師の時間じゃない時は、ずっと慶ちゃんが勉強を見てくれた。
慶ちゃんだって自分の勉強があっただろうに、僕の勉強を見ることが勉強になる、だなんて言ってくれていたのだ。
それに、僕の両親にも言ってくれた。
「穏やかな環境なので、スレたところのない真白君に校風が合うと思います。それにキャリアのある家柄の生徒を集め、人材育成に力を注いでいる学校なので、安定した将来の準備になりますから」と。
小学生ながら僕には思いつかない言葉でスラスラと話す慶ちゃんはキリッとしていたな……僕の両親も願ってもない話だと、とても喜んでいた。
話が少しそれてしまった。
この学校は慶ちゃんの言ったとおりに、どの生徒も落ち着いた様子で物腰の柔らかい生徒がほとんどだ。
それで、入学してすぐの頃はみんな優しく声をかけてくれた。けれどだんだんとよそよそしくなって、今では必要最小限の会話しかない。
その時だってどうしてか遠慮がちな様子だ。やっぱりひ弱そうに見える僕だから、声をかけるだけで怖気づくと思われているのだろうか。
一度距離ができてしまうと僕からは声をかけられなくて、僕が唯一話せるのは、いつでもぴったりと寄り添ってくれている慶ちゃんだけ。
コース制だから、六年間慶ちゃんと同じクラスで良かった。
寮の部屋も一年ごとに部屋替えがあるけど、偶然にも僕はずっと慶ちゃんと同じで、とても安心している。
そういえば、慶ちゃんが言っていたことがある。
「きっとずっと一緒だと思うよ。俺が真白をこの学校に誘ったんだもの。いつも一緒にいて守ってあげられるように、日々お願いしてるからね」と。
お願いって、神様にしているのかな。
慶ちゃんほど万能な人でも、僕みたいに「神様お願い」なんて、都合のいい神様にお願いすることがあるんだな、と微笑ましかった。
だけど本当に。
慶ちゃんはいつも僕を守ろうと見ていてくれる。
部活を決めるときもそうだった。
中学生になった僕は少しでもひ弱さを克服したくて柔道部に入ろうとした。
だけど慶ちゃんが、真白には似合わあないよ、って。そもそも運動部は汗をかくから、僕の肌が荒れてしまうって心配してくれた。
「ほらここ、いつも湿疹みたいなのができているでしょう?」
僕の制服のシャツを静かにめくり、お腹にいつの間にかできる赤い斑点をそっと撫でて僕の目を覗いた慶ちゃん。
慶ちゃんの綺麗な指は少しくすぐったくて、僕は背筋をプルッと震わせてしまったっけ。
あの時は勝手に顔も赤くなったし、恥ずかしかったな。
だけど慶ちゃんって、僕の肌が弱いことを僕よりも両親よりもわかってくれているみたい。
体育のあとなんて、他に生徒がいない空き教室に連れて行ってくれて、そこで着替えを一緒にして、肌を丁寧に観察してくれる。
少し恥ずかしいけれど、汗で湿疹が出ていないかを見てくれているんだそうだ。
痒くはないけどたまに背中にできているみたいで、指で優しく撫でてから、唇をつけてくれる。
そうすると本当に不思議。僕がそこに触って確かめると、本当に湿疹は消えている。
これは慶ちゃんの家に代々伝わるおまじないなのだそうだ。
だからそのおまじないをしてあげたことも内緒だよ、と言われている。
効力がなくなったら困るからね、と。
***
「会長おはようございます」
学校につくと、多くの生徒が慶ちゃんに挨拶をしてくる。この学校で、中学生の時から突出して優秀な慶ちゃんは、高校一年生でもう生徒会長だ。上級生だって、先生だって慶ちゃんに一目置いている。
慶ちゃんは「家からの寄付金が多いだけだよ」と何でもないことのように言うけれど、僕は違うと思うな。
入学したばかりの頃、どうしてか僕をチラチラ見てくる先輩がいて、放課後に呼び出されたことがあった。
僕は何の用事だろうと、靴箱に入っていたメモを見ながら首を傾げた。
すると慶ちゃんがそれを取り上げ、僕には見せたことがないような冷ややかな目をして言った。
「害虫は、今までどおり早いうちに潰さないとね」と。
最初は何のことかわからなかったけど、この学校にもたまに捻くれた生徒がいて、下級生をパシリにすることがあるそうだ。だからひ弱な僕に目星をつけていたのかもしれない。
僕より先を歩いて先輩の元へ言った慶ちゃんは「今後一切真白に手出しするな。チラッと見るのも禁止だから」と凄んでいた。
小学生の頃から大人っぽいのはあるけど、先輩を視線と言葉だけで黙らせるんだもの。
慶ちゃんには天性のリーダー力、みたいなものが備わっているのだと思う。
やっぱり、僕の幼馴染はすごい。
だけど、慶ちゃんにも弱点がある。
「真白、今日は放課後に生徒会の会議があるんだ。だから一緒に頼むね」
「うん、もちろんだよ」
そんなふうに見えないのに、慶ちゃんは生徒会活動の時に緊張するそうだ。
だから幼馴染の僕に隣にいてほしいんだと言う。
僕は生徒会役員じゃないから部外者なのだけれど、慶ちゃんたっての希望だもの。いつもお世話になっているから少しでもお願いを叶えたい。
そう思って部活に入るのはやめて、放課後はほぼ慶ちゃんと生徒会室で過ごしている。
他の役員さんが何も言わないのは、慶ちゃんの人望なのだろう。
慶ちゃんとはとても釣り合わない僕が慶ちゃんの隣に座っていても、緊張したらしい慶ちゃんがときどき僕の手を握るのを見ても、何も言わない。どっちかというと見て見ぬフリをしてくれている。
ただこれは最近、学校の生徒全員が同じようになってきているかも。
僕には友達がいないけれど、かっこいい慶ちゃんに釣り合わない友人だからって嫌がらせに遭うことはない。
僕も慶ちゃんの人望の恩恵を受けているのだろう。
だけど────
僕ももう、高校一年生になったのだ。
三年後にはこの守られた環境から卒業する。「慶ちゃんがいないと生きていけない」なんて言っていないで、少しずつ自立していかなければ。
そこで僕は寮での夕食後、慶ちゃんに言ってみた。
「今日からお風呂も眠るのも、別にしない?」
これまでは僕を心配してくれる慶ちゃんに任せて、いろいろな生活の行動を慶ちゃんと共にしてきた。
けれど本当いうと、どれも家にいる時は一人でできていたことだ。
入寮当初は、勝手が違って戸惑いもあったから慶ちゃんの気遣いに甘えた。そしてなんと高一の今日までそのままきてしまった。
毎日が修学旅行みたいで楽しかったのもある。
「……どうして?」
あれ……? 慶ちゃんもすぐに賛成すると思っていたのに、どうしてか綺麗な顔が歪んでいる。こんな顔、僕に見せたことはないのに。
「えっと……あの、どうしてっていうか。ほら僕たち、もう高校生になったし、さすがに一緒にお風呂とか、ベットもひとつって、子供っぽいかなって」
空気が重い気がして、釈明みたいな言い方になる。
「真白」
「な、なあに」
どもってしまった。だって慶ちゃんが僕の真ん前まできたからだ。今度は悲しそうな顔をして。
慶ちゃんは僕の片肘を握りしめてきた。
「本当のことを言うとね。真白のためじゃなくて俺のためだったんだ。俺ね……ひとりでお風呂と眠るのが怖いんだよ」
「えっ」
初耳だ。
「だって、生徒会で緊張する俺だよ? 実は怖がりだって、今まで気づかなかったかな?」
「あ……!」
そういえばそうだ。慶ちゃん、ときどき言うもの。
僕の姿が見えないと不安だから、離れたらいけないよ、と。
「あれって、僕の心配じゃなくて、慶ちゃんが不安ってことだったの?」
「あーーーー!」
わ、びっくりした。
珍しいことに、急に慶ちゃんが大きな声を出し、顔を手で覆って天を仰いだ。
「こんな弱虫なところ、真白には知られたくなかったな。守ってあげるなんて言った手前、カッコよくいないと駄目だって気を張ってきたのが台無しだ」
そう恥ずかしそうに言うと、「くそー」なんて、汚い言葉だから使っちゃ駄目だと僕に言ってきた言葉を零した。
だけどそれがなんだか嬉しくて。
慶ちゃんの方が僕より弱い部分があるなんて知って、今までよりも慶ちゃんが身近に感じた。
僕は慶ちゃんの手を握った。顔を隠している方の手だ。そっと下ろして、目を覗く。
「慶ちゃん、なんだか可愛い」
思わずふふっ、と笑ってしまうと、慶ちゃんもふんわりと微笑んだ。
「ほんと? 俺のこと、チキン野郎の大嘘つきだって思わない?」
「なにそれ」
「小説でそんなセリフがあったから真似してみた」
僕はまたふふっと笑ってしまう。
「思わないよ。反対に、慶ちゃんの弱点を知って、僕でも慶ちゃんの役に立てるのかもって喜んでる」
「そうだよ。だから今までどおりシャワーもベッドも一緒がいいな」
慶ちゃんが僕の手を握り返す。笑顔のままでもギュッと力を入れてきて、どうしてもそうしたいのだとわかった。
「いいよ。慶ちゃんの怖がりがなくなるまで一緒に、ね」
「真白……大好きだよ。ねえ俺、カミングアウトしたから、これからはもっと真白に甘えてもいいかな?」
今まで非の打ち所のなかった慶ちゃんが、僕に甘えたいだって!
なんだか急に、大人になれた気がする。頼られるっていいな。
「いいよ……わっ」
少し驚いたのは、急に慶ちゃんがハグしてきたからだ。ぎゅうっと腕に力を入れられると、僕の方が小さいから少し苦しい。
それでも、甘えた声で言うから。
「真白、大好き。ずっと一緒にいようね」
「うん、僕も慶ちゃんが大好きだよ。ずっと友達でいてね」
僕も慶ちゃんの体に腕を回して、心からの気持ちを伝えた。
***
そしてその夜も、僕たちは一緒にお風呂に入った。
寮の部屋のお風呂は明らかに一人で入る大きさだ。
そんなのもあって、そろそろふたりで入るのはやめた方がいいと思ったのだけれど、慶ちゃんはそれも嬉しかったそうだ。
「肌がくっついていると、ぬくもりをすぐ近くで感じて怖くないんだよね」
「そっか、それはそうかもしれないね」
頷くと、慶ちゃんは僕の体に手を伸ばしてきた。
「ねぇ真白。甘えてもいいって言ったでしょ」
「うん」
「洗いっこしたいな」
「洗いっこかぁ」
背中とかかな。お父さんとしたことがある。お父さんも僕が背中を洗ってあげると「頼もしいな」なんて喜んでいたっけ。
「いいよ」
それで僕から、慶ちゃんの背中を洗ってあげた。だけど慶ちゃんは全身を洗ってほしいなんて甘えてくる。
「えー。それは、恥ずかしくない?」
中一からずっと一緒にお風呂に入っていても、だんだんと見せない場所もできていた。そこも洗いっこってこと?
「男同士だし、大丈夫でしょ」
「うーん、だけど……」
渋っていると、慶ちゃんが手にソープを取って泡立てた。
「じゃあさ、俺が先に洗ってあげるね」
「えっ、僕はいいよ。あっ」
慶ちゃんの大きな手が、あっという間に僕の体に触れた。僕の肌は弱いからと、タオルを使わずに手で洗ってくれるものだから、とても恥ずかしかった。
その後交代で僕も慶ちゃんを洗ったけど、する方でも恥ずかしい。
僕とは違って、慶ちゃんは大人の体みたいだって、劣等感も感じてしまったし。
「真白、どうしたの?」
お風呂のあと、慶ちゃんが髪を乾かしてくれながら顔を覗いてきた。
恥ずかしさとちょっぴりの悔しさで、僕がだんまりになっていたからだ。
「なんでもない。今日も慶ちゃんのベットでいい?」
やっぱり明日、洗いっこはナシって言おうと思いながら、慶ちゃんのベットを見る。
寮に入ってからずっとそうだから確認なんて必要ないのかもしれないけれど、今日からまた新たな気持ちで一緒に眠るのだから一応は。
……今日から僕が怖がりの慶ちゃんを守るんだ。
「んー。じゃあ、今日から真白兄さんのベッドで眠らせてもらおうか」
わぁ。やっぱり慶ちゃんも、同じく新たな気持ちなんだね。
それにしても「兄さん」だなんて。
僕のほうが慶ちゃんよりも誕生日が二ヶ月早いけれど、慶ちゃんの方がお兄さんの役割をしてきてくれたから新鮮だ。そして、嬉しい。
「いいよ、待ってて。綺麗にするから」
僕はいそいそとベッドに行って、シーツの皺を伸ばし、足元に畳んでいる掛け布団を整えた。
いままで僕のベッドは眠るためではなく、ソファ代わりだったから。
「よし。じゃあ、慶ちゃん、おいで」
僕はベッドに座ると、腕を広げた。
いつも慶ちゃんがしてくれていたことを、今夜から僕がする。
慶ちゃんはフフ、と美麗に微笑むと、僕に抱きついてベッドに倒れ込んだ。
「わっ、重いよ慶ちゃん」
「我慢してよ、兄さん。甘えさせてくれるんでしょ」
「もう、慶ちゃんたら、急に赤ちゃんみたいだね」
「そ。優しくしてね」
慶ちゃんがクスクス笑って僕にしがみつく。
これまでは慶ちゃんに背を向けた姿勢で抱きしめられて眠っていたけれど、今夜から対面で僕が慶ちゃんを抱きしめる。
慶ちゃんは満足げな顔で僕の胸に顔を埋めて、長い足を僕の足と腰下に絡ませた。
なんだか本当に赤ちゃんみたいだ。
こんな慶ちゃんを見ることができるなんて、想像してなかったな。
「でも慶ちゃん」
「なぁに、真白」
「ちょっとずつ怖がりを直さないとね」
「……どうして?」
慶ちゃんが顎を上げ、僕と視線を重ねて問う。
「だって、どうしたって三年後には卒業して寮を出るでしょう。僕と慶ちゃんは違う道に進むだろうし」
そこまで言った時だった。
慶ちゃんがムクリと起き上がり、四つん這いで僕の上になった。
見下されているからか、表情が鋭く見える。
「真白、俺たちは別の道には行かないよ」
「……え」
慶ちゃんの声がいつもより低い。
そんなわけないのに、姿勢と表情と声に、威圧されている気持ちになる。
「真白は危なっかしいからね。やっばり俺がずっと見ていてあげないと。大学も同じところに行くよ?」
「でも、でも僕は高校を出たらトリマーになろうと」
思っているんだ、と最後まで言い切る前に慶ちゃんが声をかぶせた。
「トリマー? まだそんなこと考えてたの? 真白はアレルギーがあるからやめときなって教えたでしょ。動物の毛なんかでひどくなったら大変だよ」
「でも、でも、最近はあまりアレルギー症状は出てないから」
慶ちゃんに夢を否定されて悲しくなる。
小学生の頃からなりたかったトリマー。慶ちゃんはずっと反対していたから、中学生になってからは黙っていたのだ。
まだ反対なんだね。僕の体を気遣ってくれるのはありがたいけど、僕は夢を捨てたくない。
僕は見下ろしてくる慶ちゃんに続けて言った。
「それにアレルギー薬もいいのが出てるから、大丈夫だよ」
「駄目。薬には副作用がある。蓄積されて真白の体に不調が出たら俺は悲しいよ?」
慶ちゃんはなおも反対を唱え、頬をそっと撫でてくる。大事なものを触るように、優しく。
「そう、なのかな……」
「そうだよ。真白、自分の体を傷つけるような道を選ばないで。俺と同じ学部に入って経済を学んで、卒業したら父さんの会社で一緒に働こう。そうしたら何の心配もない」
「おじさんの、会社……」
「うん。俺が継ぐことになってるの、知ってるでしょう? ねえ、だから助けてよ。俺のことを誰よりも知ってる真白じゃないと、秘書は務まらないよ。そう思わない?」
そんなことない。僕はひ弱だし危なかっしいし、慶ちゃんが本当は怖がりだって、幼馴染歴十六年で、初めて知ったのに……。
「え、と……あの、慶ちゃん」
「もう何も言わないで。お願いだよ、真白。秘書になってほしい。真白は努力家だから、きっと素敵な秘書になるって信じてる。俺を助けてよ」
──僕を信じてる。
──慶ちゃんを助ける。
こんなふうに言われたら、弱ってしまう。
ずっと助けてくれた人が必死にお願いしてくれる。
僕、これを断ったら非情な人間になってしまうんじゃないのかな。
「うん……」
本当はまだトリマーを諦められない。だけど慶ちゃんの願いを断るより僕の夢を断つ方が、喜んでくれる人が多い気がする。
この学校に入るのに援助してくれた慶ちゃんのお父さん。僕がここに通うためにお金を払ってくれている両親。そして、いつも僕のそばにいてくれる慶ちゃん……。
「わかったよ。頑張ってみる。また勉強教えてくれる?」
「……真白! 嬉しいよ」
慶ちゃんが破顔した。
さつきまでの暗い影が消え、光が差したような笑顔だ。
よかった。喜んでくれる。
慶ちゃんが嬉しいと僕も嬉しいもの。
きっとこれでいいんだ。
「真白」
「ん?」
慶ちゃんが四つん這いをやめ、僕の隣に横になった。
髪に指を通され、頭を優しく撫でられる。
「真白、大好きだよ。一生一緒にいようね」
「うん。僕も慶ちゃんが大好きだよ」
一生一緒、とは返さなかった。
今だけの言葉として答えればいいのかもしれないけど、この先同じ会社に入っても、慶ちゃんも僕もいつかは好きになった人と結婚をするのだ。
「ずっと一緒」は友達でも言うけど、「一生一緒」はそういう相手に言うものだと思うから。
「とりあえず今日は寝ようか」
慶ちゃんが電気を消す。
とりあえずって、どういうことだろうと思ったけど、暗くなった部屋で慶ちゃんに抱きつかれたら、温かさで眠気が襲ってきた。
僕は静かな静かな眠りの中に引き込まれていく。
────夢の中。慶ちゃんが愉しそうに笑っている。
「簡単だな。でもそうなるようにずっと仕向けてきたから、当然だけど」なんて言いながら。
勉強のことかな。生徒会の議案のことかな。
夢の中だから、全然違うことかもしれない。
わからないから、僕は夢の中でも慶ちゃんに頷いていた。
「そうだね、慶ちゃんの言うとおりだよ」
おわり
「そうだよね……でも大きくなりたいな」
「人の価値は背の高さじゃないでしょ。真白はそのままでも充分素敵だよ」
ひ弱な僕は全然素敵じゃないと思うけれど、他は慶ちゃんの言うとおりだ。
僕の幼馴染、天堂慶汰は、いつも正しい。
だって慶ちゃんは成績優秀で、運動も得意で、親切。何と言っても生徒会長だ。
そのうえ顔もカッコよくて背が高い。
八頭身の形のいい頭、艶々の黒髪。へアイスタイルはセンターパートで、綺麗な額と真っ直ぐな鼻梁の付け根が見えている。
制服の白いジャケットとロイヤルブルーのネクタイを着崩すことなく着ている姿はまるで貴公子のようだ。
あ、違う。慶ちゃんは本当に貴公子だった。
慶ちゃんの家は住宅街の中でもひと際目立つ豪邸だ。
本家が華道の家元で、三男の慶ちゃんのお父さんは、関連企業のある大きな会社を経営している。
そんな慶ちゃんと僕は家が隣だから幼馴染になれたけど、本当なら僕のようひ弱なな男は慶ちゃんと友達にはなれなかっただろう。
僕は見た目が女の子のようだね、って小さな頃から言われてきた。
目の大きさが人の倍くらいあると笑われるほどで、男らしくなく細く長いまつ毛で囲まれている。
髪も慶ちゃんみたいに意思の強そうな真っ直ぐではなく、ふにゃふにゃした腰のない緩いくせ毛だ。
色は生まれつき薄い茶で、学校の先生に染めていると疑われて眉を顰められたこともある。
神様って不公平だと思う。
僕は髪も顔もひ弱そうなのに、結局高校生になってからも背を伸ばしてくれる気配がない。
苦手の牛乳を頑張って飲んでいたのに、慶ちゃんの言うとおりだったな。
「真白、なんだかフラフラしてる。こけると危ないから俺に掴まって」
「あっ、僕ったらごめんなさい」
寮から学校への通路を進む中、不満なんて思っているからぼうっとしていたらしい。ちゃんと歩いているつもりだけれど、慶ちゃんが僕の肩に腕を回して引き寄せてくれた。
「いいんだよ。危なかっしい真白を守るのは俺の役目だからね」
これは慶ちゃんの口癖。
ひ弱な幼馴染を気にかけてくれる慶ちゃんは、いつでも僕に寄り添ってくれている。
とても優しい人だ。昔からそうなのだけれど。
「なあに? 俺の顔になにかついてる?」
かっこいい顔を見上げてニヒヒ、と笑っていると、慶ちゃんが優しく微笑んだ。
歩きながら人の顔を見ているのも危ないけれど、今は慶ちゃんがしっかりと肩を抱えてくれているから大丈夫。
「ううん。慶ちゃんが幼馴染で本当によかったな、って思ってる」
「そう? じゃあ俺のこと、好き?」
「うん。大好き、っていうかそれ以上だよ。僕は慶ちゃんがいないと生きていけないって本気で思うもの」
この言葉、僕も口癖になっているけれど、心底思うから何度も言ってしまう。だけど慶ちゃんは呆れる様子をまったく見せずに、花がほころぶように美麗に微笑むんだ。
「嬉しいな。俺も真白が大好きだよ」と。
僕も嬉しいよ。僕はひ弱にみえるせいか、慶ちゃんの他には友達がいないのだ。
いつ頃からだろう。中学生になってからだと記憶している。
僕は慶ちゃんと一緒に中高一貫の男子校を受験した。
小高い丘の上にあるこの学校は、家柄のよい生徒が集まる少人数制で、全寮制だ。
普通の家の子の僕がどうしてここに入学できたかと言うと、慶ちゃんの強い勧めと慶ちゃんの家からの推薦状があったからだ。
もちろん、勉強も頑張った。小学四年生になって以降、慶ちゃんの家で一緒に家庭教師をつけてもらえたし(これもほぼ慶ちゃんの家が援助してくれた)、家庭教師の時間じゃない時は、ずっと慶ちゃんが勉強を見てくれた。
慶ちゃんだって自分の勉強があっただろうに、僕の勉強を見ることが勉強になる、だなんて言ってくれていたのだ。
それに、僕の両親にも言ってくれた。
「穏やかな環境なので、スレたところのない真白君に校風が合うと思います。それにキャリアのある家柄の生徒を集め、人材育成に力を注いでいる学校なので、安定した将来の準備になりますから」と。
小学生ながら僕には思いつかない言葉でスラスラと話す慶ちゃんはキリッとしていたな……僕の両親も願ってもない話だと、とても喜んでいた。
話が少しそれてしまった。
この学校は慶ちゃんの言ったとおりに、どの生徒も落ち着いた様子で物腰の柔らかい生徒がほとんどだ。
それで、入学してすぐの頃はみんな優しく声をかけてくれた。けれどだんだんとよそよそしくなって、今では必要最小限の会話しかない。
その時だってどうしてか遠慮がちな様子だ。やっぱりひ弱そうに見える僕だから、声をかけるだけで怖気づくと思われているのだろうか。
一度距離ができてしまうと僕からは声をかけられなくて、僕が唯一話せるのは、いつでもぴったりと寄り添ってくれている慶ちゃんだけ。
コース制だから、六年間慶ちゃんと同じクラスで良かった。
寮の部屋も一年ごとに部屋替えがあるけど、偶然にも僕はずっと慶ちゃんと同じで、とても安心している。
そういえば、慶ちゃんが言っていたことがある。
「きっとずっと一緒だと思うよ。俺が真白をこの学校に誘ったんだもの。いつも一緒にいて守ってあげられるように、日々お願いしてるからね」と。
お願いって、神様にしているのかな。
慶ちゃんほど万能な人でも、僕みたいに「神様お願い」なんて、都合のいい神様にお願いすることがあるんだな、と微笑ましかった。
だけど本当に。
慶ちゃんはいつも僕を守ろうと見ていてくれる。
部活を決めるときもそうだった。
中学生になった僕は少しでもひ弱さを克服したくて柔道部に入ろうとした。
だけど慶ちゃんが、真白には似合わあないよ、って。そもそも運動部は汗をかくから、僕の肌が荒れてしまうって心配してくれた。
「ほらここ、いつも湿疹みたいなのができているでしょう?」
僕の制服のシャツを静かにめくり、お腹にいつの間にかできる赤い斑点をそっと撫でて僕の目を覗いた慶ちゃん。
慶ちゃんの綺麗な指は少しくすぐったくて、僕は背筋をプルッと震わせてしまったっけ。
あの時は勝手に顔も赤くなったし、恥ずかしかったな。
だけど慶ちゃんって、僕の肌が弱いことを僕よりも両親よりもわかってくれているみたい。
体育のあとなんて、他に生徒がいない空き教室に連れて行ってくれて、そこで着替えを一緒にして、肌を丁寧に観察してくれる。
少し恥ずかしいけれど、汗で湿疹が出ていないかを見てくれているんだそうだ。
痒くはないけどたまに背中にできているみたいで、指で優しく撫でてから、唇をつけてくれる。
そうすると本当に不思議。僕がそこに触って確かめると、本当に湿疹は消えている。
これは慶ちゃんの家に代々伝わるおまじないなのだそうだ。
だからそのおまじないをしてあげたことも内緒だよ、と言われている。
効力がなくなったら困るからね、と。
***
「会長おはようございます」
学校につくと、多くの生徒が慶ちゃんに挨拶をしてくる。この学校で、中学生の時から突出して優秀な慶ちゃんは、高校一年生でもう生徒会長だ。上級生だって、先生だって慶ちゃんに一目置いている。
慶ちゃんは「家からの寄付金が多いだけだよ」と何でもないことのように言うけれど、僕は違うと思うな。
入学したばかりの頃、どうしてか僕をチラチラ見てくる先輩がいて、放課後に呼び出されたことがあった。
僕は何の用事だろうと、靴箱に入っていたメモを見ながら首を傾げた。
すると慶ちゃんがそれを取り上げ、僕には見せたことがないような冷ややかな目をして言った。
「害虫は、今までどおり早いうちに潰さないとね」と。
最初は何のことかわからなかったけど、この学校にもたまに捻くれた生徒がいて、下級生をパシリにすることがあるそうだ。だからひ弱な僕に目星をつけていたのかもしれない。
僕より先を歩いて先輩の元へ言った慶ちゃんは「今後一切真白に手出しするな。チラッと見るのも禁止だから」と凄んでいた。
小学生の頃から大人っぽいのはあるけど、先輩を視線と言葉だけで黙らせるんだもの。
慶ちゃんには天性のリーダー力、みたいなものが備わっているのだと思う。
やっぱり、僕の幼馴染はすごい。
だけど、慶ちゃんにも弱点がある。
「真白、今日は放課後に生徒会の会議があるんだ。だから一緒に頼むね」
「うん、もちろんだよ」
そんなふうに見えないのに、慶ちゃんは生徒会活動の時に緊張するそうだ。
だから幼馴染の僕に隣にいてほしいんだと言う。
僕は生徒会役員じゃないから部外者なのだけれど、慶ちゃんたっての希望だもの。いつもお世話になっているから少しでもお願いを叶えたい。
そう思って部活に入るのはやめて、放課後はほぼ慶ちゃんと生徒会室で過ごしている。
他の役員さんが何も言わないのは、慶ちゃんの人望なのだろう。
慶ちゃんとはとても釣り合わない僕が慶ちゃんの隣に座っていても、緊張したらしい慶ちゃんがときどき僕の手を握るのを見ても、何も言わない。どっちかというと見て見ぬフリをしてくれている。
ただこれは最近、学校の生徒全員が同じようになってきているかも。
僕には友達がいないけれど、かっこいい慶ちゃんに釣り合わない友人だからって嫌がらせに遭うことはない。
僕も慶ちゃんの人望の恩恵を受けているのだろう。
だけど────
僕ももう、高校一年生になったのだ。
三年後にはこの守られた環境から卒業する。「慶ちゃんがいないと生きていけない」なんて言っていないで、少しずつ自立していかなければ。
そこで僕は寮での夕食後、慶ちゃんに言ってみた。
「今日からお風呂も眠るのも、別にしない?」
これまでは僕を心配してくれる慶ちゃんに任せて、いろいろな生活の行動を慶ちゃんと共にしてきた。
けれど本当いうと、どれも家にいる時は一人でできていたことだ。
入寮当初は、勝手が違って戸惑いもあったから慶ちゃんの気遣いに甘えた。そしてなんと高一の今日までそのままきてしまった。
毎日が修学旅行みたいで楽しかったのもある。
「……どうして?」
あれ……? 慶ちゃんもすぐに賛成すると思っていたのに、どうしてか綺麗な顔が歪んでいる。こんな顔、僕に見せたことはないのに。
「えっと……あの、どうしてっていうか。ほら僕たち、もう高校生になったし、さすがに一緒にお風呂とか、ベットもひとつって、子供っぽいかなって」
空気が重い気がして、釈明みたいな言い方になる。
「真白」
「な、なあに」
どもってしまった。だって慶ちゃんが僕の真ん前まできたからだ。今度は悲しそうな顔をして。
慶ちゃんは僕の片肘を握りしめてきた。
「本当のことを言うとね。真白のためじゃなくて俺のためだったんだ。俺ね……ひとりでお風呂と眠るのが怖いんだよ」
「えっ」
初耳だ。
「だって、生徒会で緊張する俺だよ? 実は怖がりだって、今まで気づかなかったかな?」
「あ……!」
そういえばそうだ。慶ちゃん、ときどき言うもの。
僕の姿が見えないと不安だから、離れたらいけないよ、と。
「あれって、僕の心配じゃなくて、慶ちゃんが不安ってことだったの?」
「あーーーー!」
わ、びっくりした。
珍しいことに、急に慶ちゃんが大きな声を出し、顔を手で覆って天を仰いだ。
「こんな弱虫なところ、真白には知られたくなかったな。守ってあげるなんて言った手前、カッコよくいないと駄目だって気を張ってきたのが台無しだ」
そう恥ずかしそうに言うと、「くそー」なんて、汚い言葉だから使っちゃ駄目だと僕に言ってきた言葉を零した。
だけどそれがなんだか嬉しくて。
慶ちゃんの方が僕より弱い部分があるなんて知って、今までよりも慶ちゃんが身近に感じた。
僕は慶ちゃんの手を握った。顔を隠している方の手だ。そっと下ろして、目を覗く。
「慶ちゃん、なんだか可愛い」
思わずふふっ、と笑ってしまうと、慶ちゃんもふんわりと微笑んだ。
「ほんと? 俺のこと、チキン野郎の大嘘つきだって思わない?」
「なにそれ」
「小説でそんなセリフがあったから真似してみた」
僕はまたふふっと笑ってしまう。
「思わないよ。反対に、慶ちゃんの弱点を知って、僕でも慶ちゃんの役に立てるのかもって喜んでる」
「そうだよ。だから今までどおりシャワーもベッドも一緒がいいな」
慶ちゃんが僕の手を握り返す。笑顔のままでもギュッと力を入れてきて、どうしてもそうしたいのだとわかった。
「いいよ。慶ちゃんの怖がりがなくなるまで一緒に、ね」
「真白……大好きだよ。ねえ俺、カミングアウトしたから、これからはもっと真白に甘えてもいいかな?」
今まで非の打ち所のなかった慶ちゃんが、僕に甘えたいだって!
なんだか急に、大人になれた気がする。頼られるっていいな。
「いいよ……わっ」
少し驚いたのは、急に慶ちゃんがハグしてきたからだ。ぎゅうっと腕に力を入れられると、僕の方が小さいから少し苦しい。
それでも、甘えた声で言うから。
「真白、大好き。ずっと一緒にいようね」
「うん、僕も慶ちゃんが大好きだよ。ずっと友達でいてね」
僕も慶ちゃんの体に腕を回して、心からの気持ちを伝えた。
***
そしてその夜も、僕たちは一緒にお風呂に入った。
寮の部屋のお風呂は明らかに一人で入る大きさだ。
そんなのもあって、そろそろふたりで入るのはやめた方がいいと思ったのだけれど、慶ちゃんはそれも嬉しかったそうだ。
「肌がくっついていると、ぬくもりをすぐ近くで感じて怖くないんだよね」
「そっか、それはそうかもしれないね」
頷くと、慶ちゃんは僕の体に手を伸ばしてきた。
「ねぇ真白。甘えてもいいって言ったでしょ」
「うん」
「洗いっこしたいな」
「洗いっこかぁ」
背中とかかな。お父さんとしたことがある。お父さんも僕が背中を洗ってあげると「頼もしいな」なんて喜んでいたっけ。
「いいよ」
それで僕から、慶ちゃんの背中を洗ってあげた。だけど慶ちゃんは全身を洗ってほしいなんて甘えてくる。
「えー。それは、恥ずかしくない?」
中一からずっと一緒にお風呂に入っていても、だんだんと見せない場所もできていた。そこも洗いっこってこと?
「男同士だし、大丈夫でしょ」
「うーん、だけど……」
渋っていると、慶ちゃんが手にソープを取って泡立てた。
「じゃあさ、俺が先に洗ってあげるね」
「えっ、僕はいいよ。あっ」
慶ちゃんの大きな手が、あっという間に僕の体に触れた。僕の肌は弱いからと、タオルを使わずに手で洗ってくれるものだから、とても恥ずかしかった。
その後交代で僕も慶ちゃんを洗ったけど、する方でも恥ずかしい。
僕とは違って、慶ちゃんは大人の体みたいだって、劣等感も感じてしまったし。
「真白、どうしたの?」
お風呂のあと、慶ちゃんが髪を乾かしてくれながら顔を覗いてきた。
恥ずかしさとちょっぴりの悔しさで、僕がだんまりになっていたからだ。
「なんでもない。今日も慶ちゃんのベットでいい?」
やっぱり明日、洗いっこはナシって言おうと思いながら、慶ちゃんのベットを見る。
寮に入ってからずっとそうだから確認なんて必要ないのかもしれないけれど、今日からまた新たな気持ちで一緒に眠るのだから一応は。
……今日から僕が怖がりの慶ちゃんを守るんだ。
「んー。じゃあ、今日から真白兄さんのベッドで眠らせてもらおうか」
わぁ。やっぱり慶ちゃんも、同じく新たな気持ちなんだね。
それにしても「兄さん」だなんて。
僕のほうが慶ちゃんよりも誕生日が二ヶ月早いけれど、慶ちゃんの方がお兄さんの役割をしてきてくれたから新鮮だ。そして、嬉しい。
「いいよ、待ってて。綺麗にするから」
僕はいそいそとベッドに行って、シーツの皺を伸ばし、足元に畳んでいる掛け布団を整えた。
いままで僕のベッドは眠るためではなく、ソファ代わりだったから。
「よし。じゃあ、慶ちゃん、おいで」
僕はベッドに座ると、腕を広げた。
いつも慶ちゃんがしてくれていたことを、今夜から僕がする。
慶ちゃんはフフ、と美麗に微笑むと、僕に抱きついてベッドに倒れ込んだ。
「わっ、重いよ慶ちゃん」
「我慢してよ、兄さん。甘えさせてくれるんでしょ」
「もう、慶ちゃんたら、急に赤ちゃんみたいだね」
「そ。優しくしてね」
慶ちゃんがクスクス笑って僕にしがみつく。
これまでは慶ちゃんに背を向けた姿勢で抱きしめられて眠っていたけれど、今夜から対面で僕が慶ちゃんを抱きしめる。
慶ちゃんは満足げな顔で僕の胸に顔を埋めて、長い足を僕の足と腰下に絡ませた。
なんだか本当に赤ちゃんみたいだ。
こんな慶ちゃんを見ることができるなんて、想像してなかったな。
「でも慶ちゃん」
「なぁに、真白」
「ちょっとずつ怖がりを直さないとね」
「……どうして?」
慶ちゃんが顎を上げ、僕と視線を重ねて問う。
「だって、どうしたって三年後には卒業して寮を出るでしょう。僕と慶ちゃんは違う道に進むだろうし」
そこまで言った時だった。
慶ちゃんがムクリと起き上がり、四つん這いで僕の上になった。
見下されているからか、表情が鋭く見える。
「真白、俺たちは別の道には行かないよ」
「……え」
慶ちゃんの声がいつもより低い。
そんなわけないのに、姿勢と表情と声に、威圧されている気持ちになる。
「真白は危なっかしいからね。やっばり俺がずっと見ていてあげないと。大学も同じところに行くよ?」
「でも、でも僕は高校を出たらトリマーになろうと」
思っているんだ、と最後まで言い切る前に慶ちゃんが声をかぶせた。
「トリマー? まだそんなこと考えてたの? 真白はアレルギーがあるからやめときなって教えたでしょ。動物の毛なんかでひどくなったら大変だよ」
「でも、でも、最近はあまりアレルギー症状は出てないから」
慶ちゃんに夢を否定されて悲しくなる。
小学生の頃からなりたかったトリマー。慶ちゃんはずっと反対していたから、中学生になってからは黙っていたのだ。
まだ反対なんだね。僕の体を気遣ってくれるのはありがたいけど、僕は夢を捨てたくない。
僕は見下ろしてくる慶ちゃんに続けて言った。
「それにアレルギー薬もいいのが出てるから、大丈夫だよ」
「駄目。薬には副作用がある。蓄積されて真白の体に不調が出たら俺は悲しいよ?」
慶ちゃんはなおも反対を唱え、頬をそっと撫でてくる。大事なものを触るように、優しく。
「そう、なのかな……」
「そうだよ。真白、自分の体を傷つけるような道を選ばないで。俺と同じ学部に入って経済を学んで、卒業したら父さんの会社で一緒に働こう。そうしたら何の心配もない」
「おじさんの、会社……」
「うん。俺が継ぐことになってるの、知ってるでしょう? ねえ、だから助けてよ。俺のことを誰よりも知ってる真白じゃないと、秘書は務まらないよ。そう思わない?」
そんなことない。僕はひ弱だし危なかっしいし、慶ちゃんが本当は怖がりだって、幼馴染歴十六年で、初めて知ったのに……。
「え、と……あの、慶ちゃん」
「もう何も言わないで。お願いだよ、真白。秘書になってほしい。真白は努力家だから、きっと素敵な秘書になるって信じてる。俺を助けてよ」
──僕を信じてる。
──慶ちゃんを助ける。
こんなふうに言われたら、弱ってしまう。
ずっと助けてくれた人が必死にお願いしてくれる。
僕、これを断ったら非情な人間になってしまうんじゃないのかな。
「うん……」
本当はまだトリマーを諦められない。だけど慶ちゃんの願いを断るより僕の夢を断つ方が、喜んでくれる人が多い気がする。
この学校に入るのに援助してくれた慶ちゃんのお父さん。僕がここに通うためにお金を払ってくれている両親。そして、いつも僕のそばにいてくれる慶ちゃん……。
「わかったよ。頑張ってみる。また勉強教えてくれる?」
「……真白! 嬉しいよ」
慶ちゃんが破顔した。
さつきまでの暗い影が消え、光が差したような笑顔だ。
よかった。喜んでくれる。
慶ちゃんが嬉しいと僕も嬉しいもの。
きっとこれでいいんだ。
「真白」
「ん?」
慶ちゃんが四つん這いをやめ、僕の隣に横になった。
髪に指を通され、頭を優しく撫でられる。
「真白、大好きだよ。一生一緒にいようね」
「うん。僕も慶ちゃんが大好きだよ」
一生一緒、とは返さなかった。
今だけの言葉として答えればいいのかもしれないけど、この先同じ会社に入っても、慶ちゃんも僕もいつかは好きになった人と結婚をするのだ。
「ずっと一緒」は友達でも言うけど、「一生一緒」はそういう相手に言うものだと思うから。
「とりあえず今日は寝ようか」
慶ちゃんが電気を消す。
とりあえずって、どういうことだろうと思ったけど、暗くなった部屋で慶ちゃんに抱きつかれたら、温かさで眠気が襲ってきた。
僕は静かな静かな眠りの中に引き込まれていく。
────夢の中。慶ちゃんが愉しそうに笑っている。
「簡単だな。でもそうなるようにずっと仕向けてきたから、当然だけど」なんて言いながら。
勉強のことかな。生徒会の議案のことかな。
夢の中だから、全然違うことかもしれない。
わからないから、僕は夢の中でも慶ちゃんに頷いていた。
「そうだね、慶ちゃんの言うとおりだよ」
おわり



