死んでしまいたい。
死んで、楽になって、何も考えずに、ただ、水中を漂う海月のように。

七月一日
背中に浴びせられる光が、痛い。燃えるような熱を伴って、私の魂を吸い取るみたいだ。
本格的に七月になった日本は、より一層気温が高くなっていって、汗が滲んでいく。
自然と歩く速度も、遅くなった。

「今日、漢字テストだっけ!?」
「え? 本当に? やばい! 何もやってない!」
「大丈夫、私もだから!」

そんな眩しい太陽に負けじと、その唇に弧を描く。
私とはまるで正反対の二人組が、颯爽と私の横を駆け抜けていった。
ああ。眩しいな。
私は目を伏せて、カラカラになったアスファルトを眺めて歩く。そうすることがもう、体に染み付いていた。
もう、世界の色も分からない。
太陽の輪郭は何色で縁取られていたか。
道路に影を与えるその草木は、何色だったか。
私の影を運ぶアスファルトは何色だったか。
揺蕩う雲の色。広がる空の色。
その全てが、もう分からない。
私から静かに消えていってしまった。
私はただ希死念慮を抱えたまま、叶うことのない死を望んで生きている。
惰性のように伸びた影を追いかけて、私は校門を潜った。
相変わらず変わり映えのない日々。

「はあ」

そんな日々にため息を吐いて、教室へと向かった。高い壁のように感じられる階段を、一歩づつ踏んで、歩いていた時だった。
カラン
耳の近くで、鈴が鳴った。

「うわっ!」
「……え?」

大きな衝撃が、左肩に当たったかと思うと、私の視界は傾いていく。眼前だった床が、斜めに傾いていくのを感じていた。
けれど、私は何も出来なかった。
このまま落ちてゆくのも、私らしい。それでいい、そう思っていたのに、私の体は誰かの中に抱えられていた。
感じたことのない触感だった。

「ごめん! 大丈夫だった?」
「あ……」

ぎゅっと瞑った目を開くと、そこに広がったのは私の顔を覗き込む知らない男の顔。視界いっぱいに映し出され、驚いて声も出ない。
僅かに擦れる肌同士が痒くなって、それでも体を起こせずにいた。

「あ、紺野(こんの)さん。……何もなくて、よかった」

けれど、目を見開いたまま何も言わない私をよそに、その男はまだ言葉を紡ぐ。
心底安心したというように、肩を下げて、小さく笑って。見ていてどこか懐かしいような、ふわりと舞うような、そんな笑顔。
そしてどこかぎこちなさも現れていた。
こんな経験は初めてだった。
誰かが自分を知っていることも、自分の危機に駆けつけてくれることも。唖然として動かない私をよそに、男は私の体の向きを丁寧に正す。

「じゃあ、俺、行かなきゃだから。ぶつかっちゃって、ごめん」
「……あ」

小さく柔らかい笑みを浮かべたと思うと、その男はひらりと手を振って、階段を登っていく。一応、助けてもらったのだから、お礼を。
そう分かっているのに、唇は一向に開かない。
階段の踊り場にほのかに残る、優しくて、どこか落ち着く匂いが鼻腔をくすぐる。こんな朝は初めてだ。
けれど私はすぐさま首を振った。
そんなことない。
たまたま、だ。
そして私は姿勢を正して、教室へと向かった。
なるべく音を発さないようにして、扉を開く。
夏の間だけは誰も寄りつかない、直射日光が差し込む窓側の席。
その一番後ろが、私の居場所だ。
まるで私の席だけが、この世界から切り取られたようで。孤立と言う言葉がお似合い。
滲む汗を拭って、私はゆっくりと椅子を引いた。
尻に伝わる生温かい温度が吐き気を催す。
それを振り払うように、背負っていたリュックサックからスマホを取り出した。
特にやることもない。友達もいない。
そんな私の暇つぶしなんて、四角い電子機器以外なかった。
そして画面を軽くタップした時だった。
何かのメッセージを受信したらしく、画面が光る。初期設定のままのロック画面に、小さな吹き出しが現れた。
何だろう。
私には連絡が来る友達も、家族もいない。
不可解に思いながら、私はそのメッセージをタップした。匿名の、SNSのアカウントに来た、ダイレクトメッセージらしい。

「っ!」

その刹那。
添付された写真と文字を見た私は、声にならない悲鳴をあげた。ぎゅっと握っていたスマホを、机に放り投げてしまう。
ドクドクと、血が巡っていく。
だってそこには、

紺野詩乃(こんのしの)へ。一ヶ月後の今日、あなたの心臓を止めます』

そう書いてあったんだから。
薄い隔たりの先には、煩わしいほどの声量で蝉が鳴いているのに。
教室内には雑音が響いているのに。
それが、全く耳に入ってこない。
どういう、こと。
指先が震えていく。
丁寧に添付されていた一枚の写真。それは私とは思えないくらいに笑顔を溜めた私だったのだ。
それだけではない。
住所や学校。家族構成や、私の個人情報の全てとも捉えられる情報が、記載されていた。
心臓が暴れるように波打つ。
先ほどまでとは違う気持ち悪い汗が、背中と下着を密着させる。

「どう、してっ……なんで……」

ようやく吐き出した言葉は、またもや喧騒に溶けていって。
恐怖だけが、私を取り囲んでいく。
けれど、その意味を完全に理解した途端、指先の震えがピタリと止まった。
なんだ。
良かった。
それは、心の底から込み上がってきた言葉だった。ただ取り繕うわけでもなく、溢れ出た言葉。
だって、私は、殺される。
メッセージを送ってきたアカウントは匿名で、誰だか分からない。
そんな人に、一ヶ月後に殺される。
死ぬんだ。
この世界にさようならを告げることができる。
そう思うと、気持ちの悪い汗が引いていく。
そう、私は死を望んでいた。
ただずっと。それだけを望んで、息を吸っていた。
この色彩のない、暗く、冷たく、平坦すぎる毎日から、逃げ出したかった。
たまにふと思ってしまう。
どうしてこんなにも、私は独りになったのだろうか、と。どうしようもなく堕ちて、堕ちて、誰の手も届かない、奥底へ。
それはきっと、あれから。
お母さんが消えて、悪魔が来た日から。
その悪魔は私から居場所を奪っていった。
私の全ては狂った。けれどそんな地獄から這い上がる勇気もなくて。
だからだろう。
不気味に白く光るこのメッセージが、救世主のように感じられた。
もう、苦しまなくて済む。
もう、乾いた胃酸を吐き出さずに済む。
お母さんのことだけが気がかりだったけれど、それも、もういいや。
死ねるのだから。
体の奥底から沸々と何かが満ちていく。それはこの世と別れられる嬉しさなのか、まだ右手に残る覚めない興奮なのか。
私は乱れた呼吸をそっと戻していく。
一ヶ月後の今日。
つまり八月一日。私の十六回目の誕生日。そして、私の命日。
終止符が打たれるその瞬間が、待ち遠しい。
握りしめたスカートの裾には、しわくちゃに型がついていた。綺麗なプリーツスカートだったはずなのに。
そのスカートはまるで、私そのものを表しているような気がした。
未だ鳴り止まない心臓を抑えていると、頭上からチャイムの鐘が鳴り響いた。

「おい、ほら。みんな席につけー」

酸素の薄い空気の中。
その空気に飛び込んできたのは、担任の岩田だ。乱雑な手つきで扉を開け、クラスメイトの肩を跳ねさせる。
けれど、普段よりも優しい手つきだった。反射的に機嫌がいいのだと察す。

「はぁい」

次々にクラスメイトが間延びした返答を返す。
普段なら眉を顰めるはずなのに、未だその口角は上がったまま。
何かあったのだろうか。
けれどその理由はすぐに判明する。
そんな岩田の後ろを辿るように歩く、人影が見えたのだ。
カラン
小さく鈴の音が鳴る。

「え? 先生、誰?」
「待って、こんな人、この学校にいたっけ?」

その人影に気がついたクラスメイトが岩田に投げかける。その一言にスマホに夢中だった生徒も視線をあげた。
途端、騒めく教室。
こんなにも狭いのに更に喧騒に包まれると、より居心地が悪い。

「しっ! 静かに! 今から紹介してやるから。席に座れ」

煩わしそうに眉を顰めるそのその様子はいつもと何ら変わらない。
そう手を叩く岩田の隣に立っているのは、男子生徒だった。

「……あ」

消えゆるような声が漏れ出た。
朝の、人だ。
そう。岩田の隣に立っていた人は、今朝、助けてくれた人だったのだ。
端正な顔立ちで、高身長で。纏う柔らかい雰囲気に、クラスメイトたちが騒ぐ理由も分かった気がした。
数分前かの再会だったからだろうか。
無性にその男子生徒から目を離せない自分がいた。夏服から覗く細く白い腕も、柔らかく余裕そうな笑みも、全部。
どこか気になる。
不意に朝の柔らかい匂いが鼻をついた。
まだ熱の冷めない心臓が、ドクンと波打つ。

「えーっと……」

けれどそんな鼓動を消えさせたのは、岩田の掠れた声。次の瞬間に響き渡るチョークと黒板が擦れる音。
軽快なリズムを立てて黒板に映し出されたのは、名前らしい単語だった。

「今日から、このクラスメイトの一員になる──」
保坂春琉(ほさかはる)です」

教室の真ん中で騒ぐクラスメイトたちとはどこか違う。
落ち着いていて、余裕があって、包み込むような声が鼓膜を撫でた。

「え? 転校生? え? やったっ」
「しかもかっこいいし!」
「でも、この時期に? だって夏休み前だぜ?」

けれどそんな空気は一瞬で。
口々に騒ぎ立てるクラスメイトたち。
ああ、いつも通りだ。
小さくため息を吐いた。
新しい誰かが来ても、環境が変わっても、相変わらず騒がしくて、息苦しい空間がそこにあった。

「し! 静かに!」

岩田が黒板を叩く。
黒板に黒く指の跡がついた。

「では、保坂くん。自己紹介をしてくれるかな?」
「はい」

保坂くんと呼ばれたその人が一歩前に出る。
クラスメイトの視線を一心に浴びても、堂々とした立ち振る舞いだ。私とは違う。猫背になって、辿々しい声でしか離せない私とは。
私は無意識に視線を外していた。
窓の外の景色に目をやる。
保坂くんから発せられる声の旋律だけが耳に入ってくる。

「こんな時期の転校で、驚かせてしまったと思いますが……。保坂春琉と言います。これから皆さんに一ヶ月程度、お世話になります」

けれど、その自己紹介には違和感があった。

「一ヶ月程度ってどういうことですか?」

その違和感に気がついたクラスメイトが口を割り込む。
けれど、その意見には同感だった。
期間限定の転校生なんて、聞いたことがない。
そう思った私は窓に反射する保坂くんを横目で眺めていた。
保坂くんは岩田と目を合わせたあと、困ったように口を開く。

「実は──病気なんです、俺。心臓の持病で、先が長くない。だんだん拍動が遅くなって、最後には止まって、死んでしまう病気です。余命も宣告されています。なので、死ぬまで。お世話になります」
「え?」

教室の空気が凍てついた瞬間だった。
息を呑む声が聞こえる。
私も例外ではなかった。
心臓の、病気?
余命?
それは簡単には呑み込めない言葉たち。何度も私が望んだシチュエーションであり、叶わなかった未来。
それをいざ目の前にすると、どんな言葉も紡げない。
あの喧騒から一変。世界が変わったかのように、静寂な空気が纏い出す。
クラスメイトたちは顔を合わせ、その異変を共有しあっていた。
それもそうだった。
突然転校生に余命があると言われて、どんな言葉を投げ掛ければ良いかわからない。きっと慰めの言葉だって、陳腐なものと化してしまう。
けれど当の本人の笑みは、まだ失われないままでいた。
重々しい雰囲気なんてどこにもない。相変わらず柔らかい空気を纏って、困ったように眉毛を寄せ合っている。

「友達を悲しませないために、転校してきて。でもやっぱり病人で死にたくなくて。最期まで普通の人でいたくて、学校に通うことにしました。だから普通に接してください」

まるで全てを受けて入れているかのように。
最初から全て諦めているかのように。
そう小さく笑った。
私だって、何度も死を描いてきたから分かる。
どんなに辛い思いをしたって。お父さんからいないように扱われたって、いじめられたって、孤独で死にたくなった時だって。
私は死にきれなかった。
死ぬのが怖かったから。
それなのに、どうして。
どうして、そんな簡単に言ってのけるのだろう。
視界が翳るように不鮮明になっていく。

「えーっと、そういうことなので。皆さん、仲良くしてあげてください」

そんな空気を切り裂いたのは、不覚にも岩田だった。
けれどそんな岩田もどうすれば良いか戸惑っているようだった。

「え、がち?」
「やばくない? あんなに元気そうなのに?」
「どうやって接すればいいの?」

次第に雑音が入り混じり、再び充満していく喧騒。
でも、私には関係ない。
揺れ動く心臓を抑えながら、私はまた空を仰いだ。
クラスメイトという肩書きを背負ったまま、きっと関わりもなく、保坂くんは気がつけばいなくなっているのだろう。
そしていつか、そんな人もいたんだと懐古するだけだ。
けれど、人生とはそう簡単に進ませてくれない。
今までもそうだったように。私の意思とは無縁に、物事は進んでいく。

「静かに! まあ、そういうことだから。色々手伝ってやれ」

岩田が場を仕切るように手を叩く。

「じゃあ、保坂くんの席なんだが……。好きなところ座ってもらって、いいよな?」

目を伏せて淡々と告げる岩田。
余命残りわずかな生徒だと、色々待遇も変わってくるのかもしれない。
問いかけられたクラスメイトたちは顔を見合わせ、首を縦に振る。
その様子を保坂くんは笑って見ていた。
その微笑みは、確かに覇気を失っているようにも見える。
余命宣告を受けた人に相応しいような、全てを諦めているような。色がなくて、平坦で。
私とどこか似ているような気がした。

「ありがとうございます。じゃあ俺は、あの席でいいですか?」

保坂くんはその白くて細い指で、ある場所を指した。

「……いいんじゃね? だって、ほら。あの子じゃん」
「確かに。変に隣になったらどうしようかと思った」

まるで人間の醜さを具現化したような会話が交わされる。
けれど私はただ傍観するだけにはいかなかった。
だって、保坂くんが指したのは、私の隣の席だったのだ。

「……え?」

私とは、ほんとど面識もない。
それにクラスメイトの反応からして、私が敬遠されていることなんて分かるはずなのに。
どうして。

「じゃあ、紺野の隣で決定だ。みんな仲良くしろよ」
「……はい」

全てが円満に終わって一安心したのか、最後は投げやりに帰っていく岩田。
岩田の後ろ姿を確認すると、保坂くんはゆっくりと足を踏み出した。
コソコソと噂話をする声が充満していく。
けれど、どうしてか、その足音だけが響いて聞こえた。
コツコツ
一定のリズムを刻みながら、その音は近づいてくる。
何故か心臓が強く拍動して、正体の分からない緊張に包まれる。けれど、その足音はゆっくりで優しくて、心地の良い音だった。
いつかの記憶で聞いたような、そんなリズム。
その刹那。
カラン
また鈴の音が響く。

「よろしくね。紺野さん」

高校生にしては少し高い声。けれど、その声には落ち着きがあって、自然と耳に流れ込む。
反射的に背筋をピンと伸ばしてしまった。
振り返った先にいたのは、眩しい笑顔で私を見ている保坂くんだった。

「……よろしく、お願いします」
「うん。よろしく」

蚊の鳴くような声。
誰からも敬遠されている声。
そんな声に、保坂くんは目を細めて、優しく頷いた。
そして隣の席に腰掛ける。一気に距離が近づいて、少し甘い匂いが鼻腔をついた。
けれど、近くで見ると本当に不思議な人だ。
確かに病気のせいなのか、全体的に色素が薄くて、細くて、消えてしまいそうな透明感を放っていて。
長い睫毛は、どこか儚い雰囲気を醸し出して。
童話にでも登場しそうな顔立ちをしていた。

「どうか、した?」

そんな私の視線に気がついたのか、顔を覗き込まれる。

「あ……いや。何でもないです」
「──その鈴」

けれど、そう訂正した声には気づいていないようで。
細い指先で、机の脇にかかっていた私の通学カバンを指す。

「これ、ですか?」

通学カバンから、その鈴を掬いあげた。
カラン
小さく鈴の音が響く。

「うん。持ってて、くれてたんだね」
「……持ってて?」

そう告げる声は、どこか震えているような気がした。目は伏せられていて、睫毛がかかってどんな表情をしているのか分からない。

「俺も、おんなじの持ってるよ? ほら、海月のキーホルダーがついてる。お揃いだね」

そして掬いあげたのは、私と同じキーホルダーだった。
カラン
鈴の近くには、私と同じく海月が泳いでいて。

「本当だ。──同じですね」
「うん。お揃いだね」
「そう……ですね」

少しだけ驚いた。
だってこの鈴は、ずっと隣にいて。
私が四歳の時に消えたお母さんがくれたものかもしれない。
はたまた、道で拾ったのかもしれない。
どちらにせよ、小さい頃から持っているものだったから。
まさか、全く同じものを持っているなんて。
けれど、私は保坂くんのように笑顔を浮かべることは出来なかった。引き攣ったように、頬が固まる。
きっと笑顔なんてもう枯れてしまったけれど、
小さく毒つく。
二人の間に、ゆるりと静寂が通う。
そんな空気を掻き消したのは、また保坂くんだった。

「ねぇ」
「はい」
「紺野さん。もしも、余命のこと気遣ってるなら、心配いらないよ。俺は受けて入れてるし、紺野さんにも気にして欲しくない。クラスメイトとして、普通に接してほしい。そして良かったら仲良くしてほしい。これも何かの縁かもしれないし」

乾いた笑いをこぼし、そう髪を掻き上げた。
私が余命のことを気遣っているのだと、そう思ったらしい。
その言葉に、またもやがかかる。
そう話す声は、やっぱり不安なんてなさそうで。心配なんてしていなさそうで。
私にとっては、余命宣告なんて願ったり叶ったりだ。
私が死んで喜ぶ人はいても、悲しむ人なんて、この世で一人もいないのだから。
けれど、保坂くんはそうじゃない。
友達を悲しませないためと、そう言っていた。
友達がいるなんて、それはそれは幸せだったはずだ。一人で抱え込まずに済むのだから。味方がいるのだろうから。
そんな保坂くんが、羨ましい。
きっと、友達だと思っていた人から裏切られる感覚なんて知らないだろう。
実の母親が離れていく恐怖だって知らないだろう。
味方だと思っていた人が、私を罵倒したあの絶望だって知らないだろう。
頬を叩かれた時の衝撃だって知らないだろう。
寒くて眠れない夜のことだって知らないだろう。
それなのに。
どうして死を受け入れているの?
沸々と腹の底から、何かの塊が湧いてくる音がする。
……泣き叫べばいいのに。
自分で命を断つことも出来なくて、一ヶ月後に殺される私とは違うんだから。
疑問は渦となって、爆弾と成り果てる。

「……どうして?」
「え?」
「どうして、受け入れてるの? あなたは私とは違うんだから。私とは違って、笑うことも出来るのに。もっと泣き叫べばいい。理不尽だって、怖いって」

クラスメイトの視線が集まっていることは感じていた。
けれど、止まらなかった。
これはだの保坂くんへの僻み。
分かっているのに。

「それなのに、どうして平気だって言うの? 幸せな人生を送ってきたんだったら、送ってきたって、そういう顔をして見せてよ。縋って見せてよっ。理不尽な運命を憎むこともせずに受け入れているなんて、おかしいよ。私はあなたが羨ましい。こんなにも毎日辛いって、死にたいって、思ってる私がバカみたい。あなたといると、自分が惨めになる」
「……」

これは、ただの当てつけだ。
羨ましかった。
容姿にだって恵まれて、優しく微笑むことが出来て。
私は笑うのも泣くのも、枯れてしまった。
そうやって理不尽な運命で命を落とす人が隣にいるのに。
私は底辺の生活を営んで、死にたいと思っている。
そして一ヶ月後。どこの誰かか分からないやつに殺されるんだから。
あまりにも惨めだった。
けれど──。

「……っ! ごめんなさい!」

熱くなっていた手のひらから熱が逃げていく。
頭に登った血も、重力に従うように元へ戻る。
最低なことを言った。

「ごめんなさい!」

地面に頭がつきそうな勢いで、私は腰を折り曲げる。
けれど、下げた頭はすぐに優しい手によって、元の位置に戻された。少しだけ冷たくて、柔らかい手つきだった。

「……大丈夫だよ。ちょっとびっくりしたけど」
「え? どうして……?」

ふと見上げた保坂くんの瞳に、涙が溜まっていた。
まるで冷水を浴びせられたように、血の気が引いていく。
泣かせてしまった。
謝るために唇を開く。けれどその口は、保坂くんの細い指によって阻止された。

「大丈夫だって」
「……本当にごめん、なさい」

クラスメイトたちの囁き声がちらほら耳に入り、余計に居た堪れなくなる。
けれど、そんな私を見て保坂くんが発したのは、耳を疑いたくなるような言葉だった。
途方もなく、優しくて、温かくて。

「大丈夫だよ。むしろ嬉しかった。今紺野さんに言われて思い出したんだ。前にも、そうやって俺に怒ってくれる人がいたなぁって」
「え?」

目を細めて、保坂くんは私の後ろの風景へと視線を移した。
何か大切な記憶を手繰り出すように、懐かしそうに。

「前に言ったことがあったんだ。死ぬことは怖くない。ってね。そしたら、あんたみたいに恵まれている人が怖くないって言うなって。怖いって言え。私が惨めだからって」
「……っ」

まるで私だと思った。
心臓がドクンと拍動する。

「その人は苦しんでいたのに、苦しんで苦しんで死を視野に入れていたのに、浅はかだったって、自分を憎んだよ」

そう笑う保坂くんを途方もなく優しい人だと思った。
自分にぶつけられた僻みの数々を素直に受け止めるなんて、私には出来ない。

「そう、だったん、ですね」
「大事なことだったのに。あの日から時間が経ったから、俺、忘れてたみたい。だから、思い出させてくれてありがとう」
「……そんなこと」
「ううん。あるんだ。俺にとって、どうしようもなく大事な人からの言葉だったから。忘れてたなんて、俺もダメだなぁ」

傷つけたのは私だ。
どうしようもないエゴをぶつけてしまっただけ。
だから殴ってくれればいい。
お義母さんのように、思い切り私の頬を叩けばいい。
けれど、気が付けばふわふわの髪の毛が目の前にあった。

「ちゃんと、自分のことも視野に入れてみるよ。紺野さんに言われたからには、やる以外ないからね」

ふわりと、まるで桜が舞うように笑顔を浮かべた。
きっと四歳以来だろうか。
こんなにも純粋な笑顔を向けてくれる人と出会うのは。
申し訳なさと惨めさと、懐かしさと、戸惑いと。そんな感情たちが交錯して、混ざりきらない。

「……は、はい」

結局そんな返答を返したのだと思う。
次第にいつもの平穏を取り戻してく教室。だけど、その場の誰もが保坂くんに対する接し方が変わっていたのは、事実だった。
もうすぐ死ぬクラスメイト。
面倒な顔を浮かべていた人は、もういない。
次第に、保坂くんの机を囲うクラスメイト。
そんな普通の光景が出来上がりつつあった。
けれど、応対する保坂くんの瞳は、わずかに赤くなっていて、心臓が締め付けられるように痛くなる。

「じゃあ。さっきは本当にごめんなさい」

居心地が悪くなって、吐き捨てるように椅子から立ち上がった。
保坂くんの顔を見ていられなかった。
この人の泣いている顔を見ると、私の心臓まで締め付けられるような気がする。苦しくなって、息ができなくなるような、そんな感じ。
そのまま直進して、教室の後方の扉に手をかける。
その時だった。

「紺野さん!」

クラスメイトの間隙から保坂くんが顔を出す。

「え? 何です、か」
「俺と友達になってくれませんか? もっと、紺野さんのことが知りたいんだ」
「……はい?」

初夏の蒸し暑さが飛んでいくような、朗らかな声だった。
振り返れば、どこかむず痒そうに笑っている保坂くんがいた。
そんな言葉を言われたのは初めてだ。
いつだって友達を求める側に私はいて。孤独の淵に立っているのに。
だから、唖然と立ち尽くす。
この時だけは、自分が抱えていた希死念慮も、醜い感情も、薄れたのだろうか。保坂くんの後ろで舞う葉が鮮やかに見えた。
けれど、クラスメイトたちの刺さる視線にまた世界は色を失う。
差し出された、その白い手に怯んでしまった。
ああ、小さい。
どうせ私も、保坂くんも、もうすぐ死ぬのだ。
それなら最後くらい、静かに、平穏に死にたい。
それに、きっと私はまたこの人を傷つけてしまう。どうしようもないエゴをぶつけて、泣かせてしまうだけだ。

「す、すみません!」
「あっ、紺野さん!」

蚊の鳴くような声。
私は吐き捨てるように教室から飛び出した。
後ろで聞こえたその声も、背景と化して。
正体不明の汗が吹き出してきて、額を流れていく。次々と流れ込んでくる映像に頭が痛くなって、私は気がつけば泣いていた。

七月二日
紺野詩乃 殺害まであと三十一日