その日は珍しく、昼休みにクラゲ君から連絡が来た。
《ごめん、今日の放課後遅くなりそうだから先帰ってて》
課題を溜めるタイプではないのに、どうしたんだろう。そう思っていると、続けてスマホがメッセージの受信を告げる。
《なんか残るように言われて》
『なんか』。心当たりがないのか。
《説教?》
《違うと思う、相手クラスメイトだし。カツアゲかな》
《ヤバそうなら逃げなね(笑)了解です、連絡ありがとう》
《気を付けて帰ってねー》
《ありがとうー》
当たり障りのない会話だ。
放課後、クラスメイト、呼び出し(に近いもの)。
思い当たる典型的場面がないわけではないけど、それは他人が詮索して良いような事柄でもないだろう。絶望的に鈍感なふりをして、小首を傾げてみる。
「どうしたのー?」
彩芽の明るい声が聞こえて、ふふっと笑った。
「ううん、何でもない」
青春、という言葉の定義は何だろう。
心の中で柄にもなくそんなことを考えながら、私はまた日常に溶け込んでいく。

クラゲ君と再び顔を合わせたのは、週が明けた月曜日のことだった。
「おつかれさま」
放課後、そう言って手を振ったクラゲ君の表情が見るからに冴えなくて、私は少しだけ不安になった。
「おつかれさま、帰ろっか」
「うん」
『機嫌が悪いんじゃないか』というような、単純な不安なんかじゃない。もっと、人情的な。感情豊かな人が好きな癖に現実主義な、私の性格には合わない感情。
心配、というのが、一番近いだろうか。
こういう時、どう声を掛けたら良いのか。人と数多く関わるということをしてきていない私には、よく分からない。

帰り道も、クラゲ君はずっと黙ったままだった。私が話しかけると一言二言、ぽつりぽつりと返ってくるけど、それからはまた黙り込んでしまう。いつもの彼じゃないみたいだった。
駅に着いて電車に乗って、最寄り駅のホームに降り立った時、クラゲ君がようやく自分から口を開いた。
「深月さん、今日急いで帰る用事ある?」
「ないけど。どうしたの?」
声が明るくなり過ぎないように、また不安を表に出さないように、最大限気を使って声を発する。
「ちょっとさ、話したいんだ。……良いかな?」
私は了承した。
その時、この日初めて、クラゲ君は弱々しいながらも笑顔を見せた。

夕方とはいえ、夏の日差しはきつい。
2人並んで、日陰のベンチに腰掛ける。
「ちょっとさ、恋愛相談して良い?」
「え゛、……良いけど」
クラゲ君の言葉に、思わず変な声が洩れた。
「ごめんね、苦手なのに」
「ううん、それは、良い、んだけど」
恋愛の話は、苦手だ。
そして彼も、その手の話は苦手だ。
どういう風の吹き回しだろう。
「この前さ、先帰っててーって言った時あったじゃん」
「うん、あったね」
「うん、あの日ね、……あー、うーん、恋愛相談っていうの何か違うな」
クラゲ君自身も話を上手く整理できていないらしい。
「人の道を踏み外さないものなら何でも聞くよ」
ちょっと戯けてそう言うと、彼の頬が少しだけ緩むのが見えた。
「うん。……あの日ね、文章には『残るように言われた』って書いたけど、正確には『ちょっと残らない?』って誘われた形に近かったんだ。別に用事とかないから良いかなって、軽い気持ちだったんだけどね」
詳しく話を聞くと、あの日クラゲ君に声を掛けたのは彼の近くの席の女子生徒だったらしい。
最初は勉強したり委員会の仕事を片付けたり各々の作業をしていたが、30分が過ぎる頃、唐突に問われたと言う。
「私のこと、率直にどう思う? ってさ」
確かにクラゲ君は人当たりも気立ても良いから、男女問わず彼を好意的に見ている人は多いだろう。信頼でも、信用でも尊敬でも、友愛でも、……恋愛、という意味でも。
「それは……びっくりするね」
言葉を選びながら言った私に頷いて、クラゲ君が続ける。
「僕も、聞かれた瞬間にびっくりしちゃって。明確な告白とか、付き合う云々の話になる前に適当に切り上げて逃げてきちゃったんだけど」
はは、と自虐的に笑ったクラゲ君に相槌を打った。それは、私だって逃げる。
「それからなんか気まずくなっちゃってね。割と話してた子だから、周りにも何かあった? って聞かれて困って、今」
「なるほどね。ありがとう、話してくれて」
「ううん、聞いて欲しかっただけだから」
クラゲ君が笑った。前から思っていたけど、この人は嬉しい時にも楽しい時にも、取り繕う時にも笑う。愛想笑いとか、誤魔化すように、とかじゃない。反射的に、という言葉が一番適当だろうか。自分を麻痺させるみたいに、笑っている。
「……これは完全に、話したければ、なんだけど」
口から零れた言葉が思っていたよりも震えていることに驚く。怒り、なわけがない。
強いて言えば、恐怖、だろうか。
自分の心を言葉にすることへの、恐怖。
「クラゲ君は、どう感じた?」
クラゲ君の双眸が大きく広がって。
息を、止める気配があった。
「……クラゲ君は、どうして欲しかった?」
クラゲ君が、ゆっくりと息を吐く。
それは、私の耳には震えて聞こえた。
「………僕は」
「うん」
「ぼくは、ね、」
「うん」
飄々としている人だ、と思っていた。
そうだけど、違った。
「よく、分かんないんだけど。……ただ、仲が良いままで良かったな」
仲が良い。
その定義は人によって様々だろう。私はクラゲ君の話を聞きながら、ぼんやりと考えを巡らせる。
私やクラゲ君みたいに、誰であっても友達としての距離感が一番心地良い人。そういう人なら、仲が良い=深い友人関係、となるのだろうか。
クラゲ君のクラスメイトの彼女のように、仲が良い=恋愛関係、と考える人もいるだろう。もちろん、それは相手が恋愛対象であることが前提になるが。
「恋愛とか、僕はよく分からないから。深月さんみたいに、恋愛云々関係なく、気兼ねなく喋れる人って良いな、と思うよね。彼女とも、そういう関係で在りたかったのかも」
「そっか。……やっぱ、難しいね。人間関係って」
「本当にね。あぁ、でもありがとう。スッキリした」
ただ話を聞いただけなのに、さっきよりも晴れやかな表情になったクラゲ君が笑う。そんな彼に、そっと心の中で話しかける。

ごめんね。
クラゲ君、ごめんね。
『恋愛云々関係なく』、私はそれに心から頷けない。
私は、私はね。
貴方に抱いているこの感情が。
恋愛なのか、友愛なのか、はたまた別の何かなのか。
分からないんだ。

私は、恋愛と友愛が明確に区別できない。できたことがない。
いっそのこと明確にスパンと分けられたら、どれほど楽だろうかと思う。
クラゲ君に向けている感情と他の友達に向けている感情は、きっとどこか別物だ。
でもここまで仲良くしている男子生徒はクラゲ君だけだから、〝深い友愛〟と言われてもきっと納得してしまう。

「深月さん? ありがとう、帰ろうか」
クラゲ君の声で、はっと我に返った。
慌てて笑顔を作って、立ち上がる。
「いえいえ。そうだね、帰ろ」
クラゲ君と並んで歩く。
別にこれ以上のことを望んでなどいないし、友愛だ恋愛だと割り切ったところで何か行動が変わるわけでもない。
つまり現状維持が一番、平穏だ。
「やっぱり、深月さんと話してると落ち着くね」
「そう? 嬉しいな、私もだよ」
目が合って、笑う。でもそこにあるのは心をとろかすような甘い雰囲気なんかではなくて、自分でも不思議に思うほどの安定感と安心感だ。