朝の通学は気が重い。
別に学校が嫌とか、そういう訳じゃない。ただ、これから乗る満員電車のことや、今日の授業のことなんかを考えると、どうしても気分が沈んでくる。
「おはよう」
右隣から声がして顔を上げると、クラゲ君が立っていた。
待ち合わせているわけではないけど、同じ駅で同じ学校に行くとなると自然と時間が被ることも多い。こうしてばったり会えば、なりゆきで朝も一緒に登校することが多いのだ。
「おはよう。そういえば、借りたミステリ読み終わったよ」
イヤホンを外しながらそう言うと、クラゲ君の顔がぱっと輝いたのが見えた。
「読んだ? どうだった?」
「……めっちゃくちゃに後味悪い」
「だよね、ヤバいよねあれ」
後味が悪い、という言葉で収まれば良かったのだけど、読み終わって冷静になればなるほど、恐怖が足元から駆け上がってきた。昨夜、夜に読まなければ良かったと後悔したほどだ。昼に読んでも同じことになっていた気はするけど。
「絶対法の裁き受けないやつじゃん。何あれ、犯人特定ハッピーエンドと思いきや、実はもう犯人だけ生き延びる運命とか、やばい。胸糞悪い」
興奮して話し続ける私を楽しそうに眺めて、にやりと笑ってクラゲ君が応える。
「……でも、面白かったでしょ?」
「……それはもう」
はい、とその本をクラゲ君に手渡すと、「ありがとう」と言って彼がそれを鞄に仕舞った。
確かに、面白かった。文句なしに。
ただ、怖かった。私はタイムリミット系の本格ミステリは向いていないな、なんてぼんやり思う。なのにもう1回読みたくなっているのだから、小説は怖い。
「そういえば深月さんから借りた短編集、あと数日で読み終わると思う」
「ゆっくりで良いよ、そっちはほんわかする系の話だし」
「うん、癒されてる」
ふわりと笑ったクラゲ君に私も笑って、だよね、と頷く。
クラゲ君と喋って笑っているうちに、沈んでいた気持ちが少しだけ上向いていることに気付いて、思わずもう一度笑ってしまった。

「深月、おはよう」
教室で自席に座っていると、友人がいつものように挨拶してきた。
「あ、おはよう彩芽(あやめ)
私も挨拶を返して、ひらりと手を振る。
「今日って何か提出物あったっけ?」
「あのー、あれ、生物基礎のプリント。彩芽ちゃんとやってきた?」
彼女の表情がピシリと固まった。あぁ、忘れてたな。
「……何時間目?」
「1時間目だけど」
「詰んだ。終わった。ゔあぁあ」
変な声を出しながら机に突っ伏す彩芽に、早く仕上げておいでと言って笑う。
「お姉さんはもうやったの? やったよね深月のことだから」
「優等生なので。写させてあげないからね」
「ゔわぁあ」
私の冗談にツッコミを入れる余裕もないらしい。これは早急に追い払って課題をやらせた方が良いだろう。
「はいはい、早くやっておいで。今からなら間に合うかもよ」
すごすごと席に戻る彩芽を視界の端に捉えながら、私はひとつ欠伸をして授業の準備を始めた。

12時50分のチャイムが鳴った。
教室全体が生き返ったようにように騒がしくなる。
「深月ーお弁当一緒に食べても良い?」
「いつも一緒に食べてるじゃん。良いよ」
「ありがと」
彩芽が私の隣に座り、お弁当を広げる。
「生物の課題間に合った?」
「ギリギリセーフ」
彼女がにっと歯を見せて笑う。ピースサインが眩しかった。
「おつかれさま」
「そういえばさ、深月って」
彩芽がそう話し始めて、卵焼きを箸で口に運びながら、そちらに顔を向ける。
「夏休み。オーキャンどっか行く?」
「行かなきゃいけないから何個か予約しようと思ってるけど」
「えらいよー。ねぇどっかあたしも一緒に引きずって行ってよ」
引きずって行くのは良いけど、学部が違ったら結局バラバラになるんじゃないだろうか。
「彩芽、どの学部行きたいんだっけ」
「英語関係だけど」
「じゃあダメだ、私日本文学だもん」
うわぁあ深月ぃ、と唸るような声を上げながら、彼女が朝のようにずるずると机に突っ伏して行く。
「彩芽は予約が面倒なだけでしょ」
「その通りー」
「頑張れ。情報化社会だよ今は」
「嫌だ。あたしはずっとアナログ世界で生きていくんだ」
いじけたように口を尖らせる彩芽を見て、私は声を上げて笑った。

「深月さんはさ」
クラゲ君の声に顔を上げると、整った横顔が鋭い日差しに照らされているのが見えた。
「うん?」
いつもの帰り道だ。空気が肌に纏わりつくように重くて、私は額の汗を拭った。
「進路もう決まってる?」
彩芽と進路の話をしたその日にこれだ。別に起こらなくても良い偶然だな、なんて思いながら、「どうしたの藪から棒に」と返してみる。
「今日のLHRに、担任との軽い面談があって。進路の話になったから何となく、深月さんはどうなのかなって」
「なるほどね。私は今のところ大学進学の予定かな。夏休み中にオーキャン行ってみようかと。クラゲ君は?」
「僕は専門学校かなぁ」
クラゲ君の口から進路の話が出たのは初めてだった。ふぅんと相槌を打って、空を見上げる。
「夏休みまであとひと月か。オーキャンどうしよ」
「宿題もね」
「そういえば試験も迫ってるじゃん」
気が滅入るようなことを次々に言った挙句、どちらからともなく項垂れて、ゔぅと唸った。
「……思考したくない」
「ほんとに」
中身のない会話だ。冷静に考えると馬鹿らしくなってくる。
でも、こんな中身のない会話が、これ以上ないくらいに心地良かった。
「クラゲ君、試験期間中どうする?」
そう問うた私の言葉に彼が首を傾げたのを見て、言葉が足りなかったと気付く。
「試験期間中。学校残って勉強する?」
あぁ、と呟いたクラゲ君がちらりと空を見て、「残るかも。深月さんは今回も帰るよね?」と訊き返してきた。
「うん、私はさっさと帰る派」
「オッケー、行き違うと困るもんね」
軽くそんなことを言うクラゲ君を見ながら、今年の5月の試験期間中に盛大に行き違ったことを思い出す。スマホも見ないでさっさと帰った私も悪いけど、でも。
「幾ら何でも5時までは待ち過ぎだよ」
心の中で言ったつもりだったのに、その言葉は口を突いて出ていたらしい。
「あぁ、この前の試験期間中の話?」
「そう。……声に出てたか」
驚きつつ、思わず笑ってしまう。
これだから、隠し事が絶望的に下手と言われるのだろう。
クラゲ君も明るく笑い飛ばしてくれて、ほっとする。
「深月さんも酷いよ、せめて一言連絡入れて欲しかった」
「……反省してます」
しょんぼりと俯いた私に、クラゲ君がまた明るい笑い声を上げる。
「てか、あれさ、彩芽に言われてなかったら何時まで待ってたの」
「分かんない。朝まで待ってたんじゃない?」
「忠犬か」
「はは、忠犬クラゲ公?」
「うん。でもなんか、語呂悪いね」
「ひっど。一縁でも語呂悪いんだから諦めてよ」
はは、とクラゲ君がまた声を上げて笑った。今日はよく笑うような気がする。
空を見上げると、真っ青な空を飛行機雲が斜めに横切っているのが見えた。