「深月ー、おはよう」
最近やっと涼しくなってきた朝の廊下を歩いていると、リュックを背負った彩芽が後ろから声を掛けてきた。
「あ、おはよう彩芽」
彩芽はいつも私たちよりも少し遅めに来るから、登校の時間が被るのは珍しい。
「クラゲ君もおはよう」
「おはよう辻さん。今日なんか早くない?」
心の中に浮かんだ疑問を隣を歩いていたクラゲ君がすぐに代弁してくれて、私はまたもや彼はテレパシーが使えるのではないかと疑う。
「いやぁ漢字のワーク終わってなくてさ。早めに来てやることにしたの」
「今日だっけ、それ?」
「そうだよ。え、もしかして平田サン、やってないんですか?」
「やってあります」
「何だよもー!」
横で聞いていたクラゲ君が楽しそうに笑った。
「クラゲ君は? いつ提出?」
「明日だったと思う」
「みんな大体一緒でしょうよ」
私がそう言うと、彩芽は「分かってないなぁ深月」と首を振る。
「1日違うんだよ。24時間猶予があるんだよ。すごく大きな違いじゃない?」
「いや、その前に終わらせれば」
「これだから優等生はー! クラゲ君も何か言ってやってよ」
「うん、僕も1日違うって大きいと思う」
課題を溜めるタイプではない彼なのに、楽しそうに笑いながらそんなことを言う。味方がいないんだけど、と文句を言う私を無視して、「じゃあクラゲ君またねー」と言いながら彩芽が一足先に教室に入っていった。
「またね。じゃあ、深月さんもまた帰りに」
「うん、また」
互いにひらりと手を振って、私も教室に入る。窓から見える紅葉が、少しずつ色づいてきているのが見えた。
「ねぇ深月さん。くらげってね、ほとんど自力で泳げないんだって」
帰り道を歩きながら、クラゲ君が変なことを言い出した。
関係性の名前が変わっても、一向に『クラゲ君』呼びから変化しない私への抗議? いや、それを言うならクラゲ君の方こそずっと『さん』付けではないか。
本音を言えば、私の中ではクラゲ君が『クラゲ君』という固有名詞を持って存在しているので、呼び名を変えることには割と強い違和感がある。絶対に嫌、ではないけど。
「……そうなの?」
思考を間に入れたせいで、返答に不自然な間が開いた。
「うん。多少ふわふわ動くことはできるけど、基本的に水流に乗って漂うだけだから、水流がないと沈んじゃうらしいよ」
唐突なくらげ解説を続ける彼を見ながら、私の頭の上には疑問符が沢山浮かんでいたのだろう。クラゲ君が私の顔を見て、可笑しそうに笑った。
「あぁ、別に何か明確な意図があってこの話をしたんじゃないんだけど」
「呼び名への抗議ではないと?」
「違う違う。僕ね、ずっとこの渾名、僕にぴったりだと思ってたんだ」
ぴったりだと言いながら、少し寂しげに彼が笑う。
「自分の意思ではどこにも行けなくて、周りの流れに乗って漂ってるだけ。まぁそこそこに楽しいし、何より楽だからさ。くらげになって、自分の奥底にある意思には蓋をしてたんだけど」
クラゲ君が息を吸い込んで、続けた。
「深月さんと会って、話をするようになって。よく分かんない関係から、よく分かんないなりに話して、『仲良し』って名前が付いて。……僕、ずっとこんな関係性が欲しかったんだなぁって、最近思うんだ」
私には到底言い表せないような言葉を、さらりと言ってのける。こういう時に、『私も同じだよ』って。『実は私もずっと欲しかった関係なんだよ』って。
素直に、綺麗に、そう言えたら良い。
「そうなの? 良かった」
普段なら、ここで止めた。でもほんの少し、欲が出た、とでも言おうか。
「……私もだよ」
彼に聞こえるか、聞こえないか。口に出した癖に後者に賭ける私は、やっぱり臆病者だ。
その彼は、こちらを見て。
ちょっと驚いたような顔をして、それからすごく嬉しそうに笑った。
「今はね、僕の渾名、本当に好きなんだ」
笑顔の余韻を残した声で、クラゲ君が再び言葉を紡ぐ。
「ぴったり、じゃなくて?」
「うん。僕は流されてると思ってたけど、でも確かに自分の意思で動いてきたから、今がある訳でしょう? だからもうぴったりだとは思わないけど」
クラゲ君の目が、波間に揺らめく海の月を追いかけるように微かに揺れた。
「綺麗じゃない? くらげって、すごく」
クラゲ君のその言葉を聞いて、私も笑った。
「うん、そうだね」
くらげを見たいな、と思う。
「私も、綺麗だと思う」
波間に揺らめく本物のくらげを、久しぶりに見てみたいと思った。
最近やっと涼しくなってきた朝の廊下を歩いていると、リュックを背負った彩芽が後ろから声を掛けてきた。
「あ、おはよう彩芽」
彩芽はいつも私たちよりも少し遅めに来るから、登校の時間が被るのは珍しい。
「クラゲ君もおはよう」
「おはよう辻さん。今日なんか早くない?」
心の中に浮かんだ疑問を隣を歩いていたクラゲ君がすぐに代弁してくれて、私はまたもや彼はテレパシーが使えるのではないかと疑う。
「いやぁ漢字のワーク終わってなくてさ。早めに来てやることにしたの」
「今日だっけ、それ?」
「そうだよ。え、もしかして平田サン、やってないんですか?」
「やってあります」
「何だよもー!」
横で聞いていたクラゲ君が楽しそうに笑った。
「クラゲ君は? いつ提出?」
「明日だったと思う」
「みんな大体一緒でしょうよ」
私がそう言うと、彩芽は「分かってないなぁ深月」と首を振る。
「1日違うんだよ。24時間猶予があるんだよ。すごく大きな違いじゃない?」
「いや、その前に終わらせれば」
「これだから優等生はー! クラゲ君も何か言ってやってよ」
「うん、僕も1日違うって大きいと思う」
課題を溜めるタイプではない彼なのに、楽しそうに笑いながらそんなことを言う。味方がいないんだけど、と文句を言う私を無視して、「じゃあクラゲ君またねー」と言いながら彩芽が一足先に教室に入っていった。
「またね。じゃあ、深月さんもまた帰りに」
「うん、また」
互いにひらりと手を振って、私も教室に入る。窓から見える紅葉が、少しずつ色づいてきているのが見えた。
「ねぇ深月さん。くらげってね、ほとんど自力で泳げないんだって」
帰り道を歩きながら、クラゲ君が変なことを言い出した。
関係性の名前が変わっても、一向に『クラゲ君』呼びから変化しない私への抗議? いや、それを言うならクラゲ君の方こそずっと『さん』付けではないか。
本音を言えば、私の中ではクラゲ君が『クラゲ君』という固有名詞を持って存在しているので、呼び名を変えることには割と強い違和感がある。絶対に嫌、ではないけど。
「……そうなの?」
思考を間に入れたせいで、返答に不自然な間が開いた。
「うん。多少ふわふわ動くことはできるけど、基本的に水流に乗って漂うだけだから、水流がないと沈んじゃうらしいよ」
唐突なくらげ解説を続ける彼を見ながら、私の頭の上には疑問符が沢山浮かんでいたのだろう。クラゲ君が私の顔を見て、可笑しそうに笑った。
「あぁ、別に何か明確な意図があってこの話をしたんじゃないんだけど」
「呼び名への抗議ではないと?」
「違う違う。僕ね、ずっとこの渾名、僕にぴったりだと思ってたんだ」
ぴったりだと言いながら、少し寂しげに彼が笑う。
「自分の意思ではどこにも行けなくて、周りの流れに乗って漂ってるだけ。まぁそこそこに楽しいし、何より楽だからさ。くらげになって、自分の奥底にある意思には蓋をしてたんだけど」
クラゲ君が息を吸い込んで、続けた。
「深月さんと会って、話をするようになって。よく分かんない関係から、よく分かんないなりに話して、『仲良し』って名前が付いて。……僕、ずっとこんな関係性が欲しかったんだなぁって、最近思うんだ」
私には到底言い表せないような言葉を、さらりと言ってのける。こういう時に、『私も同じだよ』って。『実は私もずっと欲しかった関係なんだよ』って。
素直に、綺麗に、そう言えたら良い。
「そうなの? 良かった」
普段なら、ここで止めた。でもほんの少し、欲が出た、とでも言おうか。
「……私もだよ」
彼に聞こえるか、聞こえないか。口に出した癖に後者に賭ける私は、やっぱり臆病者だ。
その彼は、こちらを見て。
ちょっと驚いたような顔をして、それからすごく嬉しそうに笑った。
「今はね、僕の渾名、本当に好きなんだ」
笑顔の余韻を残した声で、クラゲ君が再び言葉を紡ぐ。
「ぴったり、じゃなくて?」
「うん。僕は流されてると思ってたけど、でも確かに自分の意思で動いてきたから、今がある訳でしょう? だからもうぴったりだとは思わないけど」
クラゲ君の目が、波間に揺らめく海の月を追いかけるように微かに揺れた。
「綺麗じゃない? くらげって、すごく」
クラゲ君のその言葉を聞いて、私も笑った。
「うん、そうだね」
くらげを見たいな、と思う。
「私も、綺麗だと思う」
波間に揺らめく本物のくらげを、久しぶりに見てみたいと思った。



