久しぶりに制服に袖を通し、久しぶりに電車に乗り、久しぶりに高校の門をくぐる。
夏休みが終わったら少しは暑さもマシになると思っていたのに、一向に夏が終わる気配はない。教室のクーラーが始業と同時に点くのも相変わらずだ。遅刻をしない優等生が不利益を被るこの世界が憎い。蒸した始業前の教室で、自席に座って溜息を吐いた。
「おはよう深月、久しぶり」
上から声が降ってきて顔を上げると、彩芽がにこにこしながら立っていた。
「おはよう彩芽。この前ありがとうね」
「いえいえ此方こそ。この前って言ったってもう1ヶ月近く前だけどね」
「もうそんなに経つのか。早いね」
それなのに未だに暑さは続くことを心の中で嘆きながら、彼女と夏休みの課題の確認をする。幸い、私も彩芽もやり忘れたものはないようだ。
「そういえば深月、結局クラゲ君とは遊んだの?」
「いや、遊ばなかったよ」
「なぁんだ」
連絡は取ってたけど、なんて言うとまた話が面倒な方向に転がりそうなので、黙っておくことにする。
てか深月、と彩芽が話を方向転換させたので、私は顔を上げた。彼女は私の席の前にしゃがみ込んで、私の顔を覗き込むように眺めている。
「今日って何するの?」
「学校で、ってこと? 放送で始業式やって、課題出して、色々やってその後授業だと思うけど」
「なぁんでまた夏休み明け初日から授業受けなきゃいけないのー?」
彩芽が私の机にずるずると突っ伏して、彼女の額がゴンと鈍い音を立てる。
「暑い中来てすぐに帰されるよりはマシじゃない?」
「確かにそうかもだけど……」
もごもごと言葉を続ける彩芽に笑いながら、慰めるように頭を撫でる。
「深月のよしよし落ち着く〜」
「そう? 嬉しいけど彩芽、そろそろ席戻らないと」
もうそんな時間なの? などと文句を言いながら、彩芽は自席に戻っていった。
「クラゲ君、お疲れ様」
帰りのHRを終えた教室を出ると、クラゲ君が既に廊下に立っていた。声を掛けると、文庫本を開いていた彼の目が私を捉える。
「深月さん。お疲れ様、久しぶりだね」
「久しぶり。帰ろっか、私なんか疲れた」
「長期休み明けた初日の疲れ方って異常だと思うよ」
「ほんとだね」
話しながら階段を降りて、校門をくぐる。もうすぐ9月というのに、容赦なく照りつける強い陽射しに溜息を吐いた。
「ねぇクラゲ君」
「ん?」
「夏ももうそろそろ終わりじゃん」
「そうだね」
「涼しくなった感じする?」
「……全然」
当然のように、また同時に困惑するように首を横に振るクラゲ君に、思わず笑ってしまう。クラゲ君も釣られたように笑っていたけど、その笑顔に僅かな違和感を覚えて、私は心の中で首を傾げた。
駅まで歩いて電車に乗り、最寄り駅に着いたところで、クラゲ君が口を開いた。
「深月さん。僕ね、謝らないといけないことがあって」
歩きながらそんなことを言い出すクラゲ君の横顔を、私は驚いて見つめる。
謝られるようなことをされた覚えはない。一体何だろうか。声のトーンが暗くなりすぎないように気を付けながら、言葉を返した。
「なに?」
「前に深月さんにさ、深月さんは恋愛とか関係なく話せる人だからありがたい、みたいな話したじゃん」
「…あぁ、あったね」
私が胸の中に持て余している感情に、彼は気付いたんだろうか。もしそうなら、私は。私は──
「あれから僕、色々考えたんだけど。いや、実はあの前から色々考えてたんだけど、……その、」
クラゲ君の目に、不安の色が掠めた。
「深月さんに抱いてる感情が、よく分からなくなっちゃって。その、友達として好きなのか、……恋愛感情なのか」
あぁ、これは。
想定外だ。
私の目が、大きく見開かれていくのが分かる。驚いた。ただ、ただ、驚いた。
私の感情が彼にいつか知られる覚悟は、きっと心のどこかでしていた。ただ、これは、なんというか──
「深月さんのことを変な目で見ているわけではないし、付き合いたいか、とか訊かれてもよく分からないんだけど。夏休み中は特に、自分でも怖いぐらい、その……深月さんに会いたくなって」
そう。その通りだ。私も、そうだ。
でも声を出すことは、できなかった。
「……ごめんね、急に変なこと言って」
クラゲ君の目が、私を気遣うような優しい光を宿して揺れる。でもその優しさを覆い隠してしまいそうなくらい、不安が、戸惑いが、申し訳なさが。彼の視線から、痛いほど伝わってくる。
「………ううん」
何とか、声を絞り出す。クラゲ君は私の小さな声をちゃんと聞き取って、此方を向いてくれた。
「ごめんね、ちょっと……驚いて」
「うん、ごめ」
「私も、同じだったから」
今度はクラゲ君の目が、驚きに見開かれる番だった。
「ずっと、クラゲ君に抱いてる感情が友愛なのか恋愛なのか分からなくて。いつか話した『整理のつかない感情』っていうのも、それのことだったんだ。……夏休み中すごく会いたくなってたのも、一緒。黙ってて、ごめんね」
「………え、ほんと?」
「うん。信じ難いことに、本当」
信じ難いことに。言葉の通りだ。
前から波長が合う人だとは思っていたけど、まさかこの価値観を共有できる人がこんなに近くに居るとは思っていなかった。
音を立てて、クラゲ君の口からゆっくりと溜息が洩れる。彼の表情が、安堵感に少しずつ染まっていくのが見えた。
「……ごめん、ちょっと待って。僕いま、感情が一方通行じゃなくてかなりほっとしてる」
「私も今驚きと安堵が一緒に来てるから、ちょっと待って」
「感情が渋滞してる」と私が続けると、彼も「分かる」と呟いて空を見上げた。
普段ならぼうと眺められる青空も、今は目が眩むほどに眩しく見える。感情というものは、見える景色までも変えてしまうものなのか。
「……さっきも言ったような気がするけど」
クラゲ君が再び口を開く。私が其方に顔を向けると、彼は青すぎる空を見上げたまま言葉を続けた。
「別に深月さんとどうこうなりたいわけじゃないんだ。でも思い切って『ただの友達』よりも一歩踏み込んじゃえば、お互い変な遠慮とか、しなくて済むような気もするんだよね」
「あぁ、ただの同級生ではないし、今は『友達』で収まる気もしてないけど……関係性に似合う適当な名前がなくてフワッとしてるからかな、確かに今はどこか遠慮…というか躊躇い? があるかも」
「そうそう。いっそのこと恋人、っていうのもしっくり来ないし」
「……確かに」
クラゲ君のことは好きだ。
未だに確信を持って恋愛感情だと言えるわけではないけど、私の今までの経験の中では恋愛感情に最も近いのではないかと真面目に思うくらいには、彼のことが好きだ。
でも確かに、クラゲ君と恋愛関係になりたいかと問われると頭に疑問符が浮かぶ。
ただの友達でも、恋人でもない。
はて、そんな言葉を、前に彼自身の口から聞いたような。
「………『仲良し』?」
「え?」
突如私の口から零れ出た言葉に困惑したように、クラゲ君が驚いたような声を上げる。
「……あ、小説の話?」
「うん。前にクラゲ君が言ってたやつ、なんかあれと似てない?」
真面目に言ったのに、クラゲ君は私の目を見てふっと笑った。
「なに?」
「ううん。深月さんらしいなと思って」
私らしい。どういう意味か分からなかったけど、マイナスな意味ではなさそうだった。
「……でも、そっか。『仲良し』か」
クラゲ君が確かめるように何度か頷く。
「ねぇ深月さん」
「ん?」
「もし僕が深月さんに、『仲良し』になってよって言ったら……深月さんは嫌?」
「ううん」
首を横に振って、クラゲ君の目を見る。
今日も彼の目は、優しい色をしていた。
「寧ろ、大歓迎」
そう言って笑う。顔を上げると、クラゲ君の嬉しそうな、同時に安心したような、そんな笑顔が見えた。
夏休みが終わったら少しは暑さもマシになると思っていたのに、一向に夏が終わる気配はない。教室のクーラーが始業と同時に点くのも相変わらずだ。遅刻をしない優等生が不利益を被るこの世界が憎い。蒸した始業前の教室で、自席に座って溜息を吐いた。
「おはよう深月、久しぶり」
上から声が降ってきて顔を上げると、彩芽がにこにこしながら立っていた。
「おはよう彩芽。この前ありがとうね」
「いえいえ此方こそ。この前って言ったってもう1ヶ月近く前だけどね」
「もうそんなに経つのか。早いね」
それなのに未だに暑さは続くことを心の中で嘆きながら、彼女と夏休みの課題の確認をする。幸い、私も彩芽もやり忘れたものはないようだ。
「そういえば深月、結局クラゲ君とは遊んだの?」
「いや、遊ばなかったよ」
「なぁんだ」
連絡は取ってたけど、なんて言うとまた話が面倒な方向に転がりそうなので、黙っておくことにする。
てか深月、と彩芽が話を方向転換させたので、私は顔を上げた。彼女は私の席の前にしゃがみ込んで、私の顔を覗き込むように眺めている。
「今日って何するの?」
「学校で、ってこと? 放送で始業式やって、課題出して、色々やってその後授業だと思うけど」
「なぁんでまた夏休み明け初日から授業受けなきゃいけないのー?」
彩芽が私の机にずるずると突っ伏して、彼女の額がゴンと鈍い音を立てる。
「暑い中来てすぐに帰されるよりはマシじゃない?」
「確かにそうかもだけど……」
もごもごと言葉を続ける彩芽に笑いながら、慰めるように頭を撫でる。
「深月のよしよし落ち着く〜」
「そう? 嬉しいけど彩芽、そろそろ席戻らないと」
もうそんな時間なの? などと文句を言いながら、彩芽は自席に戻っていった。
「クラゲ君、お疲れ様」
帰りのHRを終えた教室を出ると、クラゲ君が既に廊下に立っていた。声を掛けると、文庫本を開いていた彼の目が私を捉える。
「深月さん。お疲れ様、久しぶりだね」
「久しぶり。帰ろっか、私なんか疲れた」
「長期休み明けた初日の疲れ方って異常だと思うよ」
「ほんとだね」
話しながら階段を降りて、校門をくぐる。もうすぐ9月というのに、容赦なく照りつける強い陽射しに溜息を吐いた。
「ねぇクラゲ君」
「ん?」
「夏ももうそろそろ終わりじゃん」
「そうだね」
「涼しくなった感じする?」
「……全然」
当然のように、また同時に困惑するように首を横に振るクラゲ君に、思わず笑ってしまう。クラゲ君も釣られたように笑っていたけど、その笑顔に僅かな違和感を覚えて、私は心の中で首を傾げた。
駅まで歩いて電車に乗り、最寄り駅に着いたところで、クラゲ君が口を開いた。
「深月さん。僕ね、謝らないといけないことがあって」
歩きながらそんなことを言い出すクラゲ君の横顔を、私は驚いて見つめる。
謝られるようなことをされた覚えはない。一体何だろうか。声のトーンが暗くなりすぎないように気を付けながら、言葉を返した。
「なに?」
「前に深月さんにさ、深月さんは恋愛とか関係なく話せる人だからありがたい、みたいな話したじゃん」
「…あぁ、あったね」
私が胸の中に持て余している感情に、彼は気付いたんだろうか。もしそうなら、私は。私は──
「あれから僕、色々考えたんだけど。いや、実はあの前から色々考えてたんだけど、……その、」
クラゲ君の目に、不安の色が掠めた。
「深月さんに抱いてる感情が、よく分からなくなっちゃって。その、友達として好きなのか、……恋愛感情なのか」
あぁ、これは。
想定外だ。
私の目が、大きく見開かれていくのが分かる。驚いた。ただ、ただ、驚いた。
私の感情が彼にいつか知られる覚悟は、きっと心のどこかでしていた。ただ、これは、なんというか──
「深月さんのことを変な目で見ているわけではないし、付き合いたいか、とか訊かれてもよく分からないんだけど。夏休み中は特に、自分でも怖いぐらい、その……深月さんに会いたくなって」
そう。その通りだ。私も、そうだ。
でも声を出すことは、できなかった。
「……ごめんね、急に変なこと言って」
クラゲ君の目が、私を気遣うような優しい光を宿して揺れる。でもその優しさを覆い隠してしまいそうなくらい、不安が、戸惑いが、申し訳なさが。彼の視線から、痛いほど伝わってくる。
「………ううん」
何とか、声を絞り出す。クラゲ君は私の小さな声をちゃんと聞き取って、此方を向いてくれた。
「ごめんね、ちょっと……驚いて」
「うん、ごめ」
「私も、同じだったから」
今度はクラゲ君の目が、驚きに見開かれる番だった。
「ずっと、クラゲ君に抱いてる感情が友愛なのか恋愛なのか分からなくて。いつか話した『整理のつかない感情』っていうのも、それのことだったんだ。……夏休み中すごく会いたくなってたのも、一緒。黙ってて、ごめんね」
「………え、ほんと?」
「うん。信じ難いことに、本当」
信じ難いことに。言葉の通りだ。
前から波長が合う人だとは思っていたけど、まさかこの価値観を共有できる人がこんなに近くに居るとは思っていなかった。
音を立てて、クラゲ君の口からゆっくりと溜息が洩れる。彼の表情が、安堵感に少しずつ染まっていくのが見えた。
「……ごめん、ちょっと待って。僕いま、感情が一方通行じゃなくてかなりほっとしてる」
「私も今驚きと安堵が一緒に来てるから、ちょっと待って」
「感情が渋滞してる」と私が続けると、彼も「分かる」と呟いて空を見上げた。
普段ならぼうと眺められる青空も、今は目が眩むほどに眩しく見える。感情というものは、見える景色までも変えてしまうものなのか。
「……さっきも言ったような気がするけど」
クラゲ君が再び口を開く。私が其方に顔を向けると、彼は青すぎる空を見上げたまま言葉を続けた。
「別に深月さんとどうこうなりたいわけじゃないんだ。でも思い切って『ただの友達』よりも一歩踏み込んじゃえば、お互い変な遠慮とか、しなくて済むような気もするんだよね」
「あぁ、ただの同級生ではないし、今は『友達』で収まる気もしてないけど……関係性に似合う適当な名前がなくてフワッとしてるからかな、確かに今はどこか遠慮…というか躊躇い? があるかも」
「そうそう。いっそのこと恋人、っていうのもしっくり来ないし」
「……確かに」
クラゲ君のことは好きだ。
未だに確信を持って恋愛感情だと言えるわけではないけど、私の今までの経験の中では恋愛感情に最も近いのではないかと真面目に思うくらいには、彼のことが好きだ。
でも確かに、クラゲ君と恋愛関係になりたいかと問われると頭に疑問符が浮かぶ。
ただの友達でも、恋人でもない。
はて、そんな言葉を、前に彼自身の口から聞いたような。
「………『仲良し』?」
「え?」
突如私の口から零れ出た言葉に困惑したように、クラゲ君が驚いたような声を上げる。
「……あ、小説の話?」
「うん。前にクラゲ君が言ってたやつ、なんかあれと似てない?」
真面目に言ったのに、クラゲ君は私の目を見てふっと笑った。
「なに?」
「ううん。深月さんらしいなと思って」
私らしい。どういう意味か分からなかったけど、マイナスな意味ではなさそうだった。
「……でも、そっか。『仲良し』か」
クラゲ君が確かめるように何度か頷く。
「ねぇ深月さん」
「ん?」
「もし僕が深月さんに、『仲良し』になってよって言ったら……深月さんは嫌?」
「ううん」
首を横に振って、クラゲ君の目を見る。
今日も彼の目は、優しい色をしていた。
「寧ろ、大歓迎」
そう言って笑う。顔を上げると、クラゲ君の嬉しそうな、同時に安心したような、そんな笑顔が見えた。



