前日までの雨が嘘のように、空がどこまでも澄んだ朝だった。
 眩しい日差しに窓際の生徒がたまらずカーテンを引くと、初夏の風が教室を走り抜ける。

 今年は梅雨が短く、例年よりも早く夏が来るらしい。

 お天気キャスターの言葉を思い出しながら席につくと、隣の席の設楽(したら)が身を乗り出してきた。黒縁眼鏡の下の細い目がキラリと光る。

「あー夏っていいよな。青い空に入道雲。向日葵畑に、白いワンピースの美少女。青春って感じ。沖田(おきた)もそう思うだろ?」

 うっとりと宙を見つめる設楽を横目で眺め、僕は気のない返事をした。

「いや別に」

「なんでだよ! 海にスイカに美少女の浴衣。最高だろうが、夏はよー」

「だって現実にはありえないだろ、そんなの。ラノベの読みすぎだ」

「でもさー、何となくいいじゃん、夏って。何かが起こりそうな気がして」

 設楽はなお夢見る少女みたいなで語り続ける。こうなるとこいつは止まらないのだ。
 居もしない白ワンピース麦わら美少女についての説明に熱がこもってくるのを、僕は右から左へと聞き流した。

 気持ちは分からなくもないが、実際には向日葵の似合う白ワンピースの美少女なんて存在しない。存在したとしても僕の人生とは無関係だ。
 僕らみたいな目立たない男子は、白いワンピースの美少女がイケメンとくっつくところを指を咥えて見ているのがせいぜいのところで、人生の主役にはなれない。僕だけじゃない。この世の中の大半の人がそうだと断言できる。

「夏なんてのは暑いだけだし、僕はコタツに入ってみかんを食べているほうが好きだよ」

 頬杖をついて外を見ると、カーテンの隙間から眩しすぎる青が覗いた。うんざりとするくらいに晴れている。照りつける日差しは、僕には少し眩しすぎる。

「全く、ジジイかよ。俺たちは高校生だぜ。花の十七歳。もっと青春しようぜ?」

 手加減を知らない力強さで僕の背中を叩いてくる設楽。
 僕からしてみたら、高校生は皆青春できると考えている設楽のほうが信じられない。青春を謳歌できるのは一部のイケてる奴らだけなのに。
 だけれども、楽しそうに夏について語り、何の疑いもなく青春に憧れることのできるこの友人を、僕は少し羨ましく思ったりもする。ほんの少しだけど。

「でも暑いのは嫌だな。この教室、クーラーも無いし」

「確かに。暑い中勉強だなんて、マジで勘弁してほしいわ」

「せめて夏休みになれば、冷房の効いた家で一日中ゴロゴロできるのに」

「だよなぁ。あーあ、早く夏休みにならねぇかなあ。幼馴染のお姉さん系巨乳美少女のロマンスを……」

「お前、幼馴染なんか居ないだろ」

 夏休みは来月に迫っていた。

 きっとクラスメイトの中には、暑い中部活に行く奴もいるんだろう。
 友達と海やプールに行く奴も。夏期講習に行く奴も。いくつもの夏がある。

 だけど僕は、いつも通りの夏が始まるって漠然と思っていた。
 田舎のバス停に立ってる白いワンピースの美少女も、海辺の別荘で待ってる病弱な幼馴染もいやしない。
 ただ遅くに起きて、ゲームして、マンガを読んで、ネットをして、たまにスイカなんかを食べたりして。劇的じゃないけど、それなりに楽しい、いつも通りの夏を僕は想像していた。

 だけどそうならなかった。

 綿貫(わたぬき)さんが転校してきたから。



 綿貫さんが転校してきたのは、そんな梅雨が明けたばかりの、蒸し暑い朝だった。

「今日からこのクラスに転校してきた綿貫もみじです。皆さん、よろしくお願いします」

 甘く透き通るような声に、教室内が静まり返った。
 夏の日差しに透けるちょっと茶色っぽい髪の毛。もちもちと柔らかそうな色白のほっぺ。
 テレビに出ているモデルやアイドルみたいに洗練されているってわけじゃ無いけど、髪がサラサラで、色素の薄い肌で、うっとりとした大きなたれ目で、綺麗な顔のつくりをしていた。
 おまけにうちのダサい紺色の制服では無く、夏空みたいな濃い水色のセーラー服ときた。

 それだけで退屈を持て余していたクラスメイトたちの目を惹き付けるには充分に魅力的で、男子たちの心がが、この季節外れの転校生に掻き乱されたのがハッキリと分かった。
 だけれど僕は不思議と冷静だった。転校生が美人だろうがブスだろうが、僕と関わることなんて一切ない。
 何せこのクラスになってからもう二ヶ月以上経つのに挨拶以上の会話を交わした女子は一人もいないのだから。

 教卓の前にはカーテンの切れ目から日差しが差し込み、転校生をスポットライトみたいに照らしていた。
 僕はそれを日の当たらない暗がりの席からぼんやりと見ながら、まるで擦り切れてボロボロになった古い映画のワンシーンみたいだと思った。
 古い映画女優の彼女は、決してスクリーンから出て来て観客に話しかけてきたりはしない。きっと僕らもそんな関係になるのだろうと思っていた。

 だけど――。


「綿貫の席は窓際の一番後ろだ」

「はい」

 転校生が僕の脇を通って用意された席へと歩いていく。
 その時僕は、この転校生が可愛いだけでなく、少し奇妙であることに気がついた。

 モフッ、モフッ。

「ん?」

 思わず声を出してしまう。

「どうした?」

 設楽が眉をひそめる。

「い、いや、何でもない」

 僕は身を乗り出し、転校生のある一点――彼女の丸みを帯びた形のいいお尻をじっと見つめた。
 いや、正確に言うとお尻そのものではない。そこにぶら下がっていた、あるものに、僕の目は釘付けになったのだ。

 何だあれ。

 思わず何度も瞬きをする。あまりジロジロと見たら不審がられるんじゃないかと思ったけど、見ない訳にはいかなかった。

 だってそうだろう。

 あんなものがついているんだから。
 
 綿貫さんのお尻と一緒に揺れる、茶色くて、フサフサな『あれ』。


 ぴょこ。
 ぴょこ。


 ……モフッ。


 なんで誰も指摘しないんだろう。

 彼女のお尻には、茶色くて、太くて、今にも顔を埋めたくなるほどモフモフな――タヌキの尻尾が生えているのに。

 おかしい。

 何でタヌキの尻尾が生えているんだ?


 これが僕と狐憑きならぬタヌキ憑きの少女、綿貫さんとの出会い。

 そして僕と綿貫さんの奇妙な夏の始まりだ。