梅雨の季節、午後の雨が激しく降り続いていた。会計事務所で働く橋本理恵(25歳)は、クライアントとの打ち合わせを終えて駅に向かう途中、突然の大雨に見舞われた。

「参ったな...」

理恵は慌てて近くの小さなカフェ「カフェ・リベルテ」に駆け込んだ。店内は温かい照明に包まれ、コーヒーの香りが漂っていた。

「いらっしゃいませ。雨宿りですか?」

カウンターから声をかけてきたのは、エプロン姿の男性だった。佐々木健人(27歳)、このカフェの店主兼バリスタだった。

「すみません、急に雨が...少しお借りできますか?」

「もちろんです。お飲み物はいかがですか?雨宿りの方には特別に温かいココアをサービスしています。」

健人の優しい笑顔に、理恵は心が和んだ。

「それじゃあ、お言葉に甘えて。」

健人は手慣れた様子でココアを作り始めた。ミルクを泡立てる音、スプーンでかき混ぜる音、そして外の雨音が店内に心地よいリズムを刻んでいた。

「お待たせしました。」

カップには可愛らしいラテアートが描かれていた。

「わあ、すごく上手ですね!これ、猫ちゃん?」

「はい。うちの看板娘のミルクをモデルにしました。」

健人は店の隅で丸くなって眠っている白い猫を指差した。理恵は思わず笑顔になった。

「可愛い...私、猫が大好きなんです。」

「そうなんですか?ミルクも人懐っこいので、よかったら撫でてあげてください。」


それから理恵は仕事帰りに時々カフェ・リベルテに立ち寄るようになった。健人のコーヒーは絶品で、何より彼との他愛もない会話が一日の疲れを癒してくれた。

「今日はお疲れさまでした。いつものブレンドですか?」

「お願いします。今日は特に忙しくて...健人さんのコーヒーが恋しくて。」

理恵は思わず本音を漏らしてしまい、頬を赤らめた。

「ありがとうございます。そう言ってもらえると、豆を挽く手にも力が入ります。」

健人も嬉しそうに微笑んだ。

ある日、理恵は勇気を出して健人に尋ねた。

「健人さんは、どうしてカフェを?」

「実は元々、大手商社で働いていたんです。でも、忙しすぎて自分を見失いそうになって...それで思い切って脱サラして、昔からの夢だったカフェを開いたんです。」

「すごい決断力ですね。私には真似できないかも。」

「理恵さんだって、毎日数字と向き合って、クライアントさんのために頑張ってらっしゃるじゃないですか。それもすごいことだと思います。」

お互いの仕事への想いを語り合ううちに、二人の距離は自然と縮まっていった。


秋が深まった頃、理恵は健人にお礼がしたくて手作りのチーズケーキを持参した。

「いつもお世話になっているお礼に...お口に合うかわからないですが。」

「ありがとうございます!理恵さんの手作りなんて、嬉しいです。」

健人が一口食べると、表情がぱあっと明るくなった。

「美味しい!すごく美味しいです。お店で出せるレベルですよ。」

「本当ですか?実は...お菓子作りが趣味なんです。」

「それなら今度、うちのカフェでお菓子作り教室なんてどうですか?僕がコーヒーを淹れて、理恵さんがお菓子を教える。」

「え、でも私なんかが...」

「お客さんにも喜んでもらえると思います。一緒にやりませんか?」

健人の提案に、理恵の心は躍った。



しかし、順調に見えた二人の関係に暗雲が立ち込めた。理恵の会社が業務拡大のため転勤を命じてきたのだ。転勤先は隣県の支社で、通勤は不可能な距離だった。

「転勤...ですか。」

理恵がカフェで健人に報告すると、健人の表情が曇った。

「いつからですか?」

「来月末から。断ることもできるけれど、キャリアアップのチャンスでもあって...」

「それは良いことじゃないですか。理恵さんの頑張りが認められたんですね。」

健人は努めて明るく言ったが、その笑顔は少し寂しそうだった。

理恵も複雑な気持ちだった。キャリアは大切だが、健人との関係も大切にしたかった。しかし、まだ恋人同士でもない関係で、転勤を断る理由にするのは重すぎるように思えた。

「最後に、お菓子作り教室、やりませんか?」健人が提案した。

「はい。ぜひ。」



お菓子作り教室当日、カフェには5組のカップルが参加した。理恵はアップルパイの作り方を教え、健人は合間にコーヒーのペアリングについて説明した。

「理恵先生と健人さん、息がぴったりですね。ご夫婦ですか?」

参加者の一人が尋ねると、二人は慌てて否定した。

「あ、いえ、私たちは...」

「ただの友人です。」

しかし、お互いにその言葉がどこか虚しく響いた。

教室が終わった後、二人は店内の片付けをしながら沈黙していた。

「理恵さん。」
健人が突然口を開いた。

「はい。」

「僕...実は、あなたのことが好きです。」

理恵の手が止まった。

「初めて雨宿りで来てくれた日から、ずっと。でも、今まで言えなくて...転勤前に、どうしても伝えたかったんです。」

理恵は振り返って健人を見つめた。彼の目は真剣だった。

「私も...私も健人さんのことが好きです。でも、転勤が...」

「待ってください。」
健人は理恵の手を取った。
「距離なんて関係ありません。本当に大切な人なら、どんな困難も乗り越えられると思うんです。僕たちなら、きっと大丈夫。」

「健人さん...」

「理恵さん、お付き合いしてください。遠距離になっても、必ず会いに行きます。そして、いつか一緒に暮らせる日まで、待っています。」

理恵の目に涙が浮かんだ。

「こちらこそ、よろしくお願いします。」


転勤から一年後、理恵と健人は毎週末に会うようになっていた。時には理恵が地元に帰り、時には健人が理恵の住む町を訪れた。

遠距離恋愛は決して楽ではなかったが、二人の絆はより深くなっていった。

「理恵、実は相談があるんだ。」

ある週末、健人が切り出した。

「何?」

「君の住んでいる町に、カフェの2号店を出そうと思っているんだ。」

理恵は驚いた。

「本当?」

「うん。君のいる町でも、美味しいコーヒーを求めている人がいるはずだから。それに...」

健人は照れながら続けた。

「君の近くにいたいから。」

理恵は健人に飛び込んだ。

「ありがとう。でも、無理しないで。」

「無理じゃないよ。これは僕の夢でもあるから。理恵と一緒に、新しいお店を作り上げていきたいんだ。」


カフェ・リベルテ2号店のオープンから半年後、理恵と健人は結婚した。小さな式だったが、二人の笑顔は誰よりも輝いていた。

新婚旅行から帰った夜、二人は2号店で静かにコーヒーを飲んでいた。

「覚えてる?初めて会った日のこと。」健人が言った。

「もちろん。雨宿りでお邪魔して、美味しいココアをご馳走になったのよね。」

「あの雨に感謝しなくちゃね。」

「そうね。雨がなかったら、私たちは出会えなかったかも。」

そのとき、外で軽い雨が降り始めた。二人は微笑み合った。

「また雨宿りのお客さんが来るかもしれないね。」理恵が言った。

「今度は僕たちが、素敵な出会いのお手伝いをする番だね。」

窓の外では雨上がりの空に、美しい虹がかかっていた。理恵と健人は手を取り合い、これからも一緒に歩んでいく未来に想いを馳せた。

雨音と共に始まった恋は、今や二人の人生を彩る虹のように美しく輝いていた。