三年前の春のこと。

休日の午後、高橋蒼(たかはしあおい)はカメラを片手に近所の小さな公園を歩いていた。桜が咲き始めたばかりで、風に舞う花びらが美しい光景を作っていた。

そのとき、ベンチの前でしゃがみ込み、落ちた花びらを拾っている女性、佐々木陽菜佐々木陽菜(ささきひな)が目に入った。

「……あの」

「はい?」

「よかったら、そのまま少し動かずにいてもらえますか。写真を一枚だけ……」

驚いた顔でこちらを見ていた彼女は、すぐにふわっと笑った。

「そんなに変な顔してませんか?」

「……いや、とても、綺麗です」

一瞬で顔が赤くなったのは、どちらだったか覚えていない。

それが、蒼と陽菜の出会いだった。



写真を撮ったあと、彼女が「陽菜」と名乗り、二人は自然と会話を交わすようになった。お互いに読書や散歩が好きで、静かな時間を大切にするところが似ていた。

ある日、陽菜が雑貨屋で働いていることを知った蒼は、彼女の店に足しげく通うようになる。

「また来たんですか?」

「いや……近くに用があって」

「嘘ですね。何回“近くに用”あるんですか」

そんなやりとりを繰り返しながら、ふたりの距離は近づいていった。

そして、初めてのデートの日。

蒼はぎこちなく、でも真剣に言った。

「陽菜さん。よかったら……俺と、付き合ってください」

「うん。こちらこそ、よろしくお願いします」

その笑顔を見たとき、蒼は本当に世界が少しだけ変わった気がした。




しかし交際から一年が経つころ、ふたりの関係は少しずつすれ違い始める。

仕事の忙しさや、言葉の足りなさ。互いを思っているのに、伝わらないもどかしさが募り──

ある夜、陽菜がつぶやいた。

「私たち、これ以上一緒にいても、傷つけ合うだけかもしれない」

「……そうかもな」

そうして、ふたりは静かに別れた。

それから二年。

蒼は一度も陽菜のことを忘れたことがなかった。写真を撮るたび、彼女の笑顔が脳裏をよぎった。

そんなある日。

> “久しぶり。7時に、あのカフェで待ってる”



というメッセージが届く。

雨上がりの午後七時。カフェの前で蒼は待っていた。時計が19時を指したとき、あの笑顔が、そこにあった。



再会後、ふたりは少しずつ心を通わせ直していく。前よりもお互いをよく知っているからこそ、無理せずに素直でいられた。

ある夜、陽菜がぽつりと口にする。

「ねえ、また一緒に暮らさない?今度はちゃんと、向き合いたいの」

蒼は黙って頷き、そっと彼女の手を握った。




一年後の秋。

箱根の旅館。紅葉に染まる庭園。静かな池の前、蒼は陽菜の前に立つ。

「君と、またこうして笑い合えることが、何より嬉しい。……だから、これから先も、ずっと隣にいてほしい」

ポケットから小さな箱を取り出し、開いた。

「結婚してください」

陽菜は涙ぐみながら、静かにうなずいた。

「はい。よろしくお願いします」




春。桜が咲く頃。

家族と友人に囲まれ、小さな教会で式を挙げた。

誓いの言葉のとき、蒼の声は少し震えていた。

「陽菜、君が笑ってくれるだけで、世界が優しくなる。これからもずっと、一緒に笑っていたい」

陽菜は涙を拭いながら、そっと言った。

「あなたと出会えて、ほんとによかった。これからも、よろしくね」

鐘の音が鳴る中、ふたりは手を取り合って歩き出す。




それからさらに一年後、晴れた午後。

ふたりは公園のベンチに座っていた。陽菜のお腹には、新しい命が宿っている。

「ねえ、名前どうする?」

「うーん……“光”ってどう? 君と出会った日、あの桜の光みたいに」

「……いい名前だね」

蒼はカメラを構え、陽菜の横顔を撮った。

シャッター音が響く。

その瞬間、風がふたりの髪を揺らし、桜の花びらが空に舞った。

それは、確かに“幸せ”という名の一枚だった。