春の陽だまりが窓から差し込む図書館で、水谷明希(みずたにあき)は一冊の本に没頭していた。文学部二年生の彼女は、静かで落ち着いた性格で、いつも図書館の奥の席で勉強していた。

「すみません、この席空いてますか?」

明希が顔を上げると、眼鏡をかけた優しそうな青年が立っていた。本田聡(ほんださとし)、工学部三年生。明希は軽く頷いて席を空けた。

聡は丁寧にお礼を言って座り、プログラミングの本を開いた。二人の間には心地よい静寂が流れた。



それから毎日のように、二人は図書館で同じテーブルに座るようになった。最初は挨拶程度だったが、徐々に短い会話を交わすようになった。

「明希さんは文学がお好きなんですね」
聡が話しかけた。
「はい。言葉の力って不思議だなって思うんです」
明希は微笑んだ。

聡は明希の真剣に本を読む姿に心を打たれていた。一方、明希も聡の集中して勉強する姿勢に惹かれていた。

ある日、明希が夏目漱石の「こころ」を読んでいると、聡が興味深そうに見つめていることに気づいた。

「この本、お好きなんですか?」
聡が小声で尋ねた。
「実は高校のときに読んで、すごく印象に残ってるんです。人の心の複雑さというか...」
「分かります。『先生』の苦悩が切なくて」

思わぬ文学談義が始まった。理系の聡が文学にも造詣が深いことを知り、明希は嬉しい驚きを感じた。

「今度、おすすめの本があったら教えてください」
聡が言うと、明希は頬を少し赤らめながら頷いた。



ある雨の日、明希は傘を忘れて困っていた。聡が自分の傘を差し出すと、明希は遠慮がちに一緒に入れてもらった。

駅まで歩く道中、二人は初めてゆっくりと話した。聡はプログラマーを目指していること、明希は将来教師になりたいことを打ち明けた。

「人に何かを伝えるって、素敵な仕事ですね」聡が言った。
「聡さんも、プログラムで人の生活を豊かにしているじゃないですか」
明希が答えた。

お互いの夢を理解し合えたとき、二人の心の距離はぐっと縮まった。

翌週、明希は約束通り聡におすすめの本を持参した。村上春樹の「ノルウェイの森」だった。

「この本、どうして選んでくれたんですか?」
聡が表紙を見つめながら尋ねた。
「聡さんなら、この本の繊細な心理描写を理解してくれると思ったんです」

一週間後、聡は本を返しながら感想を語った。その深い洞察に、明希は改めて聡の内面の豊かさに触れた気がした。

「今度は僕から」
と言って、聡は星新一のショートショート集を渡した。
「理系の視点から見た不思議な世界。明希さんにも楽しんでもらえると思います」

本を通じた交流が、二人の関係をより深いものにしていった。



大学三年生になった明希は教育実習で忙しくなり、聡も就職活動で図書館に来られなくなった。しばらく会えない日々が続いた。

明希は実習先で生徒との関わりに悩み、聡は面接で思うような結果が出ずに落ち込んでいた。それぞれが困難に直面していた。

離れている間も、二人は時々メールでやり取りをしていた。明希は実習先での小さな出来事を聡に報告し、聡は就職活動の愚痴を明希に聞いてもらった。

「今日、生徒に『先生の授業、つまらない』って言われちゃいました...」
明希のメールに、聡はすぐに返信した。

「きっと明希さんの真剣さが伝わる日が来ますよ。僕は明希さんの話を聞いているだけで、いつも何か学ぶことがあるんですから」

一方、聡が面接で失敗したとき、明希は夜遅くまで励ましのメールを送った。

「聡さんの優しさと誠実さは、きっと誰かが見てくれています。私が一番よく知ってますから」

物理的には離れていても、心の距離は近づいていた。



久しぶりに図書館で再会した二人。お互いの疲れた表情を見て、自然と近況を話し合った。

「生徒たちにうまく伝えられなくて...」
明希が弱音を吐いた。
「僕も面接で自分を表現するのが苦手で」
聡も正直に話した。

二人は初めてお互いの弱さを見せ合った。そして、互いを励まし合った。

「明希さんの優しさは必ず生徒に伝わりますよ」
「聡さんの誠実さを分かってくれる会社が必ずあります」



春が来た。明希の教育実習は成功し、聡も第一志望の会社から内定をもらった。

桜が満開の大学キャンパスで、二人は久しぶりにゆっくりと話した。

「明希さん、僕と一緒に歩いてくれませんか?これからも、ずっと」

聡の言葉に、明希は頬を染めながら頷いた。

「はい。一緒に歩いて行きましょう」



三年後。

教師として働く明希と、プログラマーとして成長した聡は結婚式を挙げた。会場には大学時代からの友人たちが集まっていた。

「二人が図書館で出会ったときから、こうなる気がしてたよ」
友人が笑いながら言った。

明希と聡は微笑み合った。静かな図書館で始まった恋は、賑やかな結婚式でひとつの節目を迎えた。

新居のリビングには小さな本棚があり、明希の文学書と聡の技術書が並んでいる。今でも二人は時々一緒に本を読む。

結婚から二年が経った頃、明希のお腹に新しい命が宿った。

「赤ちゃんにも本を読んであげようね」
明希が聡の手を自分のお腹に当てながら言った。
「文学も科学も、両方好きになってくれるかな」
聡が優しく微笑んだ。

やがて生まれた娘の咲良(さくら)は、二人の愛情をたっぷりと受けて育った。明希は育児休暇を取りながら、聡は在宅勤務も取り入れて家族の時間を大切にした。

咲良が三歳になった春、家族三人でお花見に出かけた。桜並木の下で、咲良は絵本を読んでもらいながら、時々両親の顔を見上げて笑った。

「ママ、パパ、だいすき!」

「ありがとう、聡さん。あなたに出会えて」
「こちらこそ、明希。君がいてくれて幸せだよ」

桜が舞う青空の下で、三人は手を繋いで歩いた。図書館で始まった小さな恋が、今では大きな家族の愛となって、これからも続いていく。静かで温かな幸せに包まれて、新しい春を迎えるたびに、二人の愛はより深いものになっていった。