梅雨の晴れ間、部活動が終わった放課後の校舎裏。

「全然うまくいかないなぁ...」

小池太一(こいけたいち)は溜息をつきながら、カメラの液晶画面を見つめていた。写真部のエースとして学校中に知られる彼だが、今日はなぜかシャッターチャンスを逃し続けていた。

「あれ?小池くん、まだ帰らないの?」

背後から聞こえた声に振り向くと、文芸部の足立陽花(あだちはるか)が立っていた。彼女は学校一の読書家で、いつも物語の世界に浸っている夢見がちな少女だった。

「ああ、もう少しだけ」

太一はカメラを手に持ち直し、西日に照らされた校舎を見上げた。

「何を撮ってるの?」
と陽花が覗き込んでくる。

「雨上がりの光...なんだけどね」

太一は少し困ったように笑った。

「梅雨の晴れ間の光って独特だから、それを写真に収めたいんだけど、なかなかイメージ通りにならなくて」

陽花は首を傾げると、太一のカメラの中の写真を見せてもらった。

「綺麗じゃない。でも...何か足りないの?」

「うん、何かが...」

太一は言葉を濁した。どこか物足りなさを感じるが、それが何なのか自分でもわからない。技術的には申し分ないはずなのに。

「私、前に読んだ小説で、こんな一節があったの」

陽花は目を閉じて、暗記している文章を口ずさんだ。

「『光は時に色を持ち、時に音を持つ。そして時に、誰かの記憶を運んでくる』」

太一は陽花の言葉に、はっとした。

「記憶...」

「うん。写真って、光の記録だけじゃなくて、感情の記録でもあるんじゃないかな」

陽花は太一のカメラを優しく指差した。

「それに、雨上がりっていうのは、全部が終わった後じゃなくて、何かが始まる前なのかもしれないね」

太一は陽花の言葉に心を掴まれた感覚がした。彼女の言葉には、いつも自分が気づかない視点がある。

「足立...一緒に歩かないか?」

「え?」

「この光、移ろいゆくから。一緒に歩きながら、雨上がりの光を探したい」

陽花は少し驚いた表情を見せたが、すぐに柔らかな笑顔になった。

「いいよ。私も見てみたい、小池くんの見つける光」

二人は並んで校庭を歩き始めた。太一はときどきシャッターを切り、陽花は時折立ち止まっては、空や草花を見つめる。

「あっ!」

突然、陽花が立ち止まった。太陽の光が水たまりに反射し、校舎の壁に七色の光の筋を作り出していた。

「見て、プリズム...」

太一は思わず息を呑んだ。そこには確かに、彼が求めていたものがあった。

「足立、少しそこに立ってみてくれないか」

陽花が水たまりの傍らに立つと、彼女の周りにも虹色の光が舞い始めた。太一はすかさずシャッターを切った。

「どうだった?」
陽花が尋ねた。

太一はカメラの画面を彼女に向けた。そこには、光に包まれた陽花の姿と、彼女の横顔に落ちる虹のようなプリズムが映し出されていた。

「これだ...」

太一の声は小さく震えていた。彼が求めていたのは、ただの光の記録ではなく、この瞬間、この感情だったのだ。

「綺麗...」
陽花も息を呑んだ。

二人の間に落ちる沈黙は、言葉よりも多くを語っていた。

「小池くん」

「うん?」

「写真って、一瞬を切り取るものだよね」

「そうだね」

「でも、私たちの今ってずっと続いていくんだよね?」

太一は陽花を見つめ、静かに頷いた。

「うん、この光が消えても、僕らの物語は続いていく」

雨上がりの夕暮れ、二人の影が長く伸びていく校庭に、新しい何かが芽生え始めていた。



 翌日の昼休み、太一は写真部の部室で昨日撮影した写真の現像作業に没頭していた。デジタルデータを確認しながら、特に気に入った一枚を実際にプリントするための準備をしている。

「おい、小池!それ新しい作品か?」

部長の佐藤が太一の背後から声をかけた。

「ああ、昨日撮ったものなんだ」

太一はモニターに映る陽花の写真を見せた。雨上がりの光に包まれた彼女の横顔は、まるで物語の一場面のように美しかった。

「おぉ...これはいいな」
佐藤は感心した様子で頷いた。
「なんか、いつもと違う感じがする。柔らかいというか...温かいというか」

「そう?」

「ああ。お前の写真っていつも完璧なんだけど、どこか冷たさがあったんだよな。でもこれは違う」

太一は少し考え込んだ。確かに自分でも、この写真には特別な何かが宿っていると感じていた。

「モデルは...足立か?文芸部の」

「うん、たまたま一緒になって」

佐藤は意味深な笑みを浮かべたが、それ以上は何も言わなかった。



放課後、太一は図書館へと足を運んだ。陽花がよくいる場所だと知っていたからだ。案の定、窓際の席で彼女は一人、分厚い本に目を落としていた。

「足立」

静かに声をかけると、陽花はびっくりしたように顔を上げた。

「あ、小池くん」

「ごめん、驚かせた?」

「ううん、大丈夫。ちょうど物語の山場だったから、少し入り込んでたの」

太一は陽花の向かいの席に座ると、カバンから一枚の写真を取り出した。

「これ、昨日の...プリントしたんだ」

「わぁ...」

陽花は写真を受け取ると、しばらくじっと見つめていた。紙に定着された雨上がりの光と自分の姿に、彼女は言葉を失ったようだった。

「すごい...私、こんなふうに見えてたんだ」

「うん」

「何だか不思議な感じ。私の見てる世界と、菊池くんの見てる世界が、この一枚の写真で交わるなんて」

太一は彼女の言葉に、はっとした。それは自分が写真に込めたい思いそのものだった。

「足立は言葉が得意だね。いつも、僕が表現したいことをうまく言い当てる」

陽花は少し照れたように微笑んだ。

「私は言葉しか持ってないから。でも菊池くんは違うよね。写真という別の言語を持ってる」

二人は図書館の窓から差し込む光を見つめながら、しばらく黙っていた。

「ねぇ」
陽花が静かに口を開いた。
「私、この間から考えてたんだけど...」

「何を?」

「私の書いた物語を、小池くんの写真と一緒に展示できないかなって」

太一は驚いた顔で陽花を見た。

「文化祭とか...写真と文章のコラボレーション展示。私の言葉と、小池くんの写真で一つの世界を作れたら素敵だと思って」

太一の胸の内に、期待と不安が入り混じった。これまで彼の写真は、完全に彼だけのものだった。誰かと共有するという発想はなかった。

「難しいかな...」
陽花は太一の表情を見て、少し不安そうに尋ねた。

「いや...」
太一は首を横に振った。
「面白そうだ。やってみたい」

「本当?」
陽花の顔が明るくなった。

「ただ、僕も足立も、それぞれの世界を持っている。それをどう重ねるかは、考える必要があるかも」

「そうだね...でも、それを探る過程も楽しそう」

陽花は太一に向かって笑顔を見せた。その笑顔に、太一は思わずシャッターを切りたくなった。だが今は、カメラを持っていない。その代わりに、彼は心の中にこの瞬間を焼き付けた。

「明日から、少しずつ準備を始めてみようか」

「うん!」

図書館の静けさの中、二人の新しいプロジェクトが動き始めた。それは二人の距離を縮めるきっかけとなるはずだった。

しかし太一は知らなかった。この共同作業が、彼自身の中の何かを大きく変えることになるとは。そして陽花も気づいていなかった。彼女の中に芽生え始めた感情が、物語以上に彼女自身を動かし始めることに。

夕暮れの図書館、二人の間に流れる沈黙だけが、これからの予感を静かに包んでいた。

 文化祭前日、夕暮れの美術室。

「これで、最後の作品も完成だね」

太一は壁に並べられた写真と文章のコラボレーション作品を見渡した。二ヶ月かけて二人で作り上げた展示は、明日から多くの人の目に触れることになる。

「信じられないくらい素敵な展示になったね」

陽花は感慨深げに言った。彼女の書いた短編小説の一節一節に、太一の写真が寄り添い、それぞれが互いを引き立て合っている。

「『光と言葉が紡ぐ物語』...良いタイトルだったね」
太一は展示全体のタイトルを読み上げた。

「うん。でも、これは私たち自身の物語でもあるよね」

陽花が静かに言った言葉に、太一は振り返った。夕日に照らされた彼女の横顔は、あの日の「雨上がりのプリズム」の時と同じように、光に包まれていた。

「足立...」

「この二ヶ月、たくさんの時間を一緒に過ごしたね」

陽花は窓の外を見つめながら言った。

「最初は写真と文章のコラボレーションだと思ってた。でも今は...もっと大切な何かが生まれたような気がする」

太一は静かに彼女の横に立った。二人の影が床に重なる。

「僕ね、気づいたんだ」

「何に?」

「足立の言葉があるから、僕の写真は輝くんだって」

太一は真剣な眼差しで陽花を見つめた。

「この作品を作る前、僕の写真は完璧だけど冷たいって言われてた。でも星野の言葉と一緒になった時、初めて写真に温かさが生まれた」

「そんなことないよ...」

「いや、本当なんだ」
太一は強く言った。
「君の言葉があるから、僕の見る世界は色づく」

陽花は目を丸くして太一を見つめた。彼のそんな表情は初めて見るものだった。

「小池くん...」

「太一でいいよ」

彼の言葉に、陽花は微かに頬を赤らめた。

「太一くん...私も気づいたことがあるの」

彼女は勇気を出して続けた。

「私の言葉は、いつも本の中の物語だった。でも太一くんと一緒に過ごして、初めて自分の物語を生きたいと思ったんだ」

美術室に流れ込む夕日の光が、二人を優しく包み込む。

「陽花」

太一は彼女の名前を呼んだ。初めて彼女の名前を呼ぶ感覚は、不思議なほど自然だった。

「ここに展示してある物語は、まだ終わりじゃないんだ」

「うん、そうだね」

「続きを...一緒に作っていこう」

太一はポケットからカメラを取り出すと、セルフタイマーをセットした。

「ねぇ、私たちの物語の続き、どんな展開になるのかな?」

陽花が少し照れくさそうに尋ねた。

「それは...」

太一は彼女の隣に立ち、肩を並べた。

「二人で紡いでいくんだ」

カメラのシャッターが切れる3秒前、太一は勇気を出して陽花の手を取った。驚いた彼女が顔を上げた瞬間、シャッターが切れた。

その写真に写っていたのは、互いを見つめ合う二人の、幸せに満ちた表情だった。


文化祭当日、「光と言葉が紡ぐ物語」の展示は大盛況だった。多くの来場者が二人の作品に感動し、
「写真と文章がこんなに美しく調和するなんて」
と感嘆の声を上げていた。

「太一くん、見て!先生たちも褒めてくれたよ」

陽花は嬉しそうに太一の腕を引っ張った。

「ああ、展示も成功して良かった」

太一は笑顔で答えたが、心の中では別の喜びが大きく膨らんでいた。

展示の最後に置かれた一枚の写真。それは他の作品と違い、写真だけで文章が添えられていなかった。セルフタイマーで撮った二人の姿。その下には小さく「まだ書かれていない物語の始まり」というタイトルが付けられていた。

「この写真だけ、文章がないけれど...」

ある来場者が不思議そうに言った。

「この写真の物語は、これからふたりで紡いでいくんです」

陽花は太一の隣で、自信を持って答えた。太一は彼女の言葉に、心の中で静かに頷いた。

文化祭の喧騒の中、二人は互いの手をそっと握り締めていた。これからの物語を一緒に作っていくという約束を、言葉なしで確かめ合うように。

展示室の窓から差し込む光は、まるであの日の雨上がりのプリズムのように、七色に輝いていた。それは、二人の未来を照らす光のようでもあった。

「これからも、私の言葉と太一くんの写真で、たくさんの物語を作っていこうね」

「ああ、一生分、撮り続けるよ」

太一の言葉に、陽花は幸せそうに微笑んだ。

彼らの物語は、ここからが本当の始まりだった。光と言葉が交わる場所で、二人の未来が今、鮮やかに色づき始めていた。