徳田修一(とくだしゅういち)は、静かな住宅街の一角にある訪問介護・看護の事業所でケアマネージャーとして働いていた。32歳。淡々と仕事をこなしつつも、どこか他人との間に一線を引いているような雰囲気があった。

ある春の日、彼は新たな利用者の自宅を訪れた。村瀬遥(むらせはるか)、27歳。診断名は双極性障害。紹介状には「軽躁状態とうつ状態を繰り返す」「対人関係に困難あり」と書かれていた。

玄関先で出迎えた遥は、長い髪を後ろで一つにまとめ、部屋着のままこちらを見つめていた。

「……ども」

それが最初の言葉だった。
徳田は軽く会釈し、訪問記録のファイルを手に持ったまま靴を脱いだ。

「失礼します。今日は簡単にお話をうかがいに来ました」

「……話すこと、あんまりないけど」

遥は目を合わせようとせず、ソファに腰を下ろした。リビングは整ってはいたが、どこか空気が淀んでいるようにも感じた。カーテンが少しだけ開いて、春の光が床に斜めの影を落としていた。

徳田は距離を取りつつ、向かいの椅子に腰を下ろす。

「無理に話さなくて大丈夫ですよ。僕はケアマネージャーの徳田といいます。これから関わらせてもらうことになりますので、よろしくお願いします」

「……よろしく」

その日は、病歴や生活のリズムについて、必要最低限のことだけを聞いて終わった。遥は表情をあまり変えず、どこか壁を作るような受け答えをしていたが、それが無理もないことだと徳田は理解していた。



最初の訪問から数週間が経ち、徳田は定期的に遥のもとを訪れるようになった。彼は余計な詮索はせず、ただ淡々と話を聞くことに徹していた。

ある日のこと。春の終わりを告げるように、少し汗ばむ陽気の日だった。

「……徳田さんって、いつも落ち着いてますよね」

遥がふと口にした。

「そうですか? 自分ではあまりそう思っていませんけど」

「なんか、無理にこっちのこと引き出そうとしないし……安心する」

彼女の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。

「遥さんのペースでいいと思っていますよ。無理しないことが一番ですから」

遥は少し目を伏せて、それから静かにうなずいた。

「……最近、朝起きるのが前よりちょっとだけ楽になりました」

「それはすごくいい傾向ですね。何かきっかけがあったんですか?」

「うーん……たぶん、誰かにちゃんと話を聞いてもらえるって、思えたからかも」

徳田は、ふと目を見開いて、それから小さく微笑んだ。

「それは、光栄です」

遥も、少しだけ笑った。小さな、けれど確かな笑顔だった。

次の訪問は雨の日だった。外は静かにしとしとと降り、街の喧騒もどこか遠くに感じられた。

「雨、嫌いなんですよね」

遥は、窓の外を見つめながらぽつりとつぶやいた。

「そうなんですね。低気圧のせいで、体調も崩れがちになりますしね」

「それもあるけど……思い出すから、いろいろ」

徳田は少しだけ目線を下げて、彼女の言葉の続きを待った。急かさず、ただそこにいる、という空気を作る。それが、彼のやり方だった。

「大学の頃に、初めて本格的に倒れたんです。身体が鉛のように重くて、自分でも寝てるのか泣いてるのかもよく分からなくて……」

遥の声は震えてはいなかった。ただ、どこか自分を遠くから見て話しているような、そんな響きだった。

「そのとき、親にはすごく怒られて……“甘えるな”とか、“根性が足りない”とか、そんなのばっかりで」

徳田は静かに頷いた。遥はそれを見て、少し肩の力を抜いたように見えた。

「……それ以来、人と話すのがこわくなって。こうしてちゃんと話せるようになったの、たぶん、初めてかも」

「ありがとうございます、そんなふうに思ってもらえて」

彼はまっすぐに彼女を見た。

「僕もね、人に話すのは得意じゃないんです」

「え?」

「仕事だから話してるけど、もともとは無口で、何を考えてるか分かりにくいってよく言われてました」

「今でもそう思うけど」

遥は思わずくすっと笑った。そこに、少しだけ春の名残のようなあたたかさが宿った。

「でも……ちゃんと届いてます。徳田さんの言葉も、気持ちも」



季節は巡り、夏が始まろうとしていた。訪問のたびに、遥の表情は少しずつ明るさを増していた。

ある日、彼女は冷たい麦茶を出してくれた。

「今日は少し、話してみたいことがあるんです」

「はい。なんでしょう?」

「……今の自分で、どこまで社会と関われるのか、まだよく分からない。でも、ちょっとだけ、働いてみたいって思うようになりました」

「それは大きな一歩ですね」

「きっと、徳田さんがいてくれたからです」

その言葉に、徳田は少しだけ目を伏せた。

「僕は……ただ、そばにいただけです」

「それが、一番難しいことなんですよ」

遥はまっすぐに彼を見た。

夏が終わりに差しかかり、蝉の声もどこか遠ざかって聞こえるようになった頃。遥は週に二回、近所のパン屋でレジ打ちのアルバイトを始めていた。

「今日は、お客さんに“ありがとう”って言ってもらえました」

訪問の日、遥はそう言って、ふふっと笑った。

「それはうれしいですね」

「なんか、ほんとに、ほんの少しだけど……自分が、誰かの役に立ってるのかなって」

修一は、その笑顔に見とれていたことに気づき、慌てて視線を逸らした。

「……徳田さんって、休日とか、どうしてるんですか?」

遥の問いに、修一は少し戸惑ったように笑った。

「……あんまり出かけたりしないです。家で映画見たり、散歩したり、それくらいですね」

「えー、なんか意外。もっとアクティブな感じかと」

「よく言われます。でも、たぶん、あまり人付き合いが得意じゃないからかも」

遥はその言葉に、少し黙ってから言った。

「……それって、昔から?」

修一は一瞬ためらったが、少しずつ言葉を紡いだ。

「……弟が、昔事故で亡くなって。それがきっかけで、家族もばらばらになって……それから、誰かと深く関わるのが怖くなったんです」

遥は、そっと口をつぐんだ。

「……つらかったですね」

「もう、10年以上も前のことです。でも、あのとき、“ちゃんと誰かがそばにいてくれたら”って、今でも時々思います」

「……わたしも、そう思ってた。病気のこと、理解してくれる人がいたら、きっともっと違ったんじゃないかって」

修一は、静かに頷いた。

「……だから、今、遥さんのそばにいることは、僕にとっても意味のあることなんです」

遥は、目を見開いたまま、その言葉を受け止めた。

「……じゃあ、私だけじゃなくて、徳田さんにとっても、大事な時間なんだ」

「ええ、そうです」

そう答えた修一の声は、どこまでも優しかった。



夏の終わり、遥はパン屋の帰り道に、小さなひまわりを一輪買った。次の訪問の日、テーブルの上にそれが飾られていた。

「ひまわり、好きなんですか?」

「うん。なんか、元気そうでしょ。太陽のほう向いて、まっすぐ伸びてるの、いいなって」

修一はその言葉にうなずきながら、ふと尋ねた。

「……来週の休み、もしよかったら、一緒にどこか行きませんか? 散歩でも、どこか景色のいいところとか」

遥は一瞬驚いたようだったが、すぐに頬を赤らめて、小さく微笑んだ。

「……行きたいです。きっと、すごく楽しそう」

二人のあいだに流れた沈黙は、もう不安や戸惑いのためのものではなかった。心が通じ合う、静かであたたかな沈黙だった。
週末の午後。天気は快晴。修一と遥は、郊外にある小さな植物園を訪れていた。

「すごい……こんなに静かで、緑が多い場所、久しぶりかも」

遥は木漏れ日の中で目を細め、そよ風に揺れる草花を見つめていた。彼女の横顔は、春の日よりも穏やかで、どこか力強ささえ感じさせた。

「こういう場所、好きなんですか?」

「うん。なんか、心が休まるっていうか……自分がちゃんと“今ここにいる”って思える感じ」

修一はその言葉を聞きながら、静かに頷いた。

「遥さん、ほんとに変わりましたね。初めて会ったときとは、別人みたいです」

「そう……かもね。前は、自分が何にもできないって思ってた。誰かの助けがなきゃ生きていけない、って。でも今は……」

遥はベンチに腰を下ろし、空を見上げた。

「今は、助けてもらいながらでも、自分の足で立てる気がする。少しずつだけど、ちゃんと前に進めてるって思える」

「……素敵ですね。その感覚、大事にしてください」

遥は笑って、それからふと、何かを思い出したように言った。

「……あのね、もう少し元気になったら、いつか、当事者同士で支え合える場所を作りたいって思ってるの」

「支え合える場所?」

「うん。カフェでもいいし、サロンでもいい。“普通”じゃない自分を責めずにすむ場所。“がんばらなくていいよ”って言える空間」

修一は、驚いたように彼女を見つめた。

「……それ、すごく素晴らしいと思います」

「できるかどうかは、まだ分かんないけど……そういう場所があれば、昔の私みたいな人も、きっと少しは楽になれると思うから」

遥の目は、真っ直ぐに前を見ていた。そこにはもう、かつての怯えた少女の影はなかった。

「……もし、本当にその場所を作るって決めたら、僕にも手伝わせてくれますか?」

「えっ……」

「ケアマネージャーとしてじゃなくて、一人の人間として。あなたのそばで、一緒にやっていきたいと思っています」

遥は目を丸くしたあと、少しうつむいて、小さく笑った。

「……ずるいな、そういうの。泣いちゃいそう」

「泣いてもいいですよ。泣くのは悪いことじゃないですから」

「うん、ありがとう……」

遥は顔を上げ、修一をまっすぐに見つめた。

「じゃあ、これからも一緒に……歩いていってくれますか?」

「もちろんです」

その日、植物園の帰り道。夕暮れの光の中を、二人はゆっくりと並んで歩いた。言葉は少なかったが、互いの心は確かに寄り添っていた。

──もう、ひとりじゃない。

その実感が、遥の胸に、あたたかく灯っていた。