傍らのローテーブルに道具を広げて、イノリは振り向いた。

「トキちゃん、こっち来てー」
「お、おう」

 ひらひら手招かれ、脱いだジャージの上とTシャツを腕に抱えて、俺はおずおずと近づいた。
 イノリの前に敷かれた座布団に、膝を抱えて座り込む。なんか落ち着かなくて、背中を丸めていると、ぺたっと背中に手のひらが触れた。

「わっ」
「これ、剥がすね?」

 爪先で、熱さまシートの端をかかれて肩がビクッとする。恥ずかしい。
 イノリは何も言わずに、手早く二枚とも剥がしてしまう。ヒンヤリのもとがなくなって、打ち身がじんじんと熱くなった。

「赤くなってる。だいぶ痛いでしょう?」
「んん。そんなに」
「……我慢強いなぁ」

 胸に染み入るような声で、イノリが呟く。
 それから、あったかい濡れタオルで背中を拭ってもらった。程よい力加減で拭われて、ほうと息がもれる。
 暖房の温度を上げてくれてたから、上が裸でもぬくぬくだった。むしろ、イノリは暑いんじゃねえかってくらい。
 ちょっとウトウトしながら、湿布のテープをはがす音を聞いていると、

「ねえ、トキちゃん。――何があったの?」
「えっ?」

 ド直球に聞かれて、一気に目が覚める。
 イノリは湿布をもくもくと貼ってくれていて。でも、俺の話すのを待っているのが、ありありと伝わってくる。
 どうしよう。正直に言うべきなのか? けど……。

「今日は、格闘実技の授業もなかったよね」
「うぐ」

 逃げ道を塞がれて、うっと言葉に詰まる。しどろもどろになっていると、イノリは落ち着いた声で「話して?」って言った。
 俺は、観念して口を開く。

「うう。……大したことじゃ、ねんだけど」
「うん」
「今日、ちょっと変な奴らに絡まれちまってさー」
「……うん」
「押されて、ちっと背中を打っちまったって言うか。でも俺、ちゃんとやり返したんだぜ!」
「そうなの?」
「おうよ! 土の魔法使って、超ビビらしてやった! あいつら、「覚えてやがれ!」って捨て台詞吐いてったよ。すげーだろ?」

 俺は、喋りまくった。ぺらぺらと、できるだけ軽く聞こえるように。
 でもさ。
 実際、俺は奴らをやっつけたと思うんだ。イノリが魔力を起こしてくれたおかげで、やられっぱなしじゃなかったぜ。
 だから、心配いらないぞ。
 
「そっかぁ」
「おう!」

 俺の話に、イノリは静かに相槌を打ってた。
 元気よく頷くと、そっと湿布の上から打ち身に手を当てられる。
 あったかい手のひらに、胸がつまって。腕の中のジャージをくしゃくしゃに揉んで、膝を抱え直した。

「まあ、そういうわけなんだわ。だから、その」

 と、その時。
 イノリの両腕が伸びてきて、背中から抱きしめられる。怪我が痛まないように、優しく腕の中に包まれて、はっと息を飲んだ。
 米神に、さらりとイノリの髪が零れかかる。

「頑張ったね、トキちゃん」
「あ……」
「ほんと、すごいや」
「……!」

 イノリの体温を感じて、胸がぎゅうっと苦しくなった。俯くと、頭を優しく撫でられる。
 まずい。
 優しくされると、胸の中にあったつかえがゴロゴロ震えだす。
……氷室さんに言われたこと、実はけっこうむかついた。
 なんじゃこの人、ってビビったし。すげえモヤモヤして、でも、ずっと気にしてるなんて悔しかったから。なかったことにしようとしたんだけど……。
 ぎゅっと、イノリの腕に瞼を押し付ける。鼻の頭がつんと痛くなったけど、ぐっと堪えた。
 イノリは何も言わないで、ずっと頭を撫でてくれている。
 痛む背中ごとすっぽり包まれて、あったかい。
 じわじわって、ゆっくりと染みてくみたいだった。



 強張りがほどけてきて、深く息を吐いた。
 顔を上げると、イノリがそっと離れた。急に背中が寒くなって、ブルっと震える。
「冷えちゃうね」って服を被せられて、促されるまま袖を通す。
 逆立った髪を手櫛で整えていると、イノリは目尻をやわらかく下げた。

「お疲れ、トキちゃん」
「あ。いや、ありがとう……」
「ううん。――ねえ。今日は、魔力起こすのやめとこっか」
「えっ!?」

 目を丸くすると、イノリは心配そうに見つめてくる。

「今日、色々あって疲れてるでしょ? 起こしたら、負担になるかもしれない」
「いや、でも」
「怪我のこともあるし。今日はもう、ゆっくりお喋りとかしとこうよ。ねっ」

 と、優しく手を握られて。
 狼狽えているうちに、イノリは決めてしまったようだ。パッと身を翻してしまう。

「あっ」
「トキちゃん、クロスワードやんない? 俺、本持ってきたんだよー。お茶でもゆっくり飲みながらさー」

 イノリは明るく話しながら、机の上を片付けていて。
 でっかい背中を見てたら、もどかしいような気持になってしまう。
 ……離れてほしくない。だってまだ、「足りない」のに。

「ん?」

 気づいたら、イノリのシャツを引っ張っていた。
 不思議そうに振り返られて、ぎょっとして本当のことを言ってしまう。

「あ、あのさ! 俺、やっぱり魔力起こしてほしい」
「え?」
「し、心配してくれてんのはわかってんだけど。その、決闘大会まで、間もないし!」
「気持ちはわかるけど、トキちゃん。無理はよくないよー」
「わかってるんだけど……! その、――そうだ。悔しいから! どうしても強くなって、勝ちてえからさ。だから、――今日がいい。イノリ、たのむ」
「……」

 その気になって欲しくて、必死に言葉を並べる。
 イノリは、心配そうに眉を下げていたけど、ふいに天を仰いだ。でっかいため息をつく。

「んもー……ずるいなぁ」
「イノリ?」
「わかった。しよう」
「マジで?!」
「あーあ。トキちゃんの負けん気にゃ、負けます。――でも、辛そうだなと思ったら止めるからね? それでいいー?」
「うん!」

 元気に頷くと、イノリは俺の頬を両手に包んだ。つらいような、まぶしいような目をして笑う。

「トキちゃんの、頑張り屋さん」

 ぎゅっと抱きしめられる。
 俺は嬉しくて、そのぶん罪悪感が湧いた。
 俺、負けん気強いとか頑張り屋とかじゃない。さっきのは、して欲しくて理由付けただけで。
 魔力に触られると、いつもよりお前を近く感じるから。
 今日はもうちょっとだけ――お前に甘やかされたかったんだ。
 ごめんな、イノリ。
 心配してくれてるのに、とんだわがまま言って。




「……ぅ」
「――トキちゃん?」

 髪を撫でられる気配がして、うっすら目を開ける。
 正面からイノリの胸に寄り掛かっている。怪我に腕があたらないように、そっと抱きしめられていた。
 あったかい。うとうとと額をすり寄せると、イノリは笑ったみてえだった。

「寝てていいよ。魔力起こして、疲れてるんだから……」
「うん」

 言われた通り、体がじんじん痺れたみたいになってて。すっげえ眠くって、全然力が入んねえ。
 イノリの魔力にひたひたにされて、満腹感に似た安堵で全身がくったりしてる。
 ゆっくり、頭を撫でられて口がゆるむ。ああ、眠い。てか、寝る……。

「ねえ、トキちゃん」
「ん……?」

 落ちる寸前に、イノリが内緒話みたいに、耳に囁いた。

「変な奴らにあったのって、いつ?」
「……んと、六限、おわって。かえっとき」

 聞かれるまま、口にする。イノリは、「そっか」と小さく呟いて、俺の頬に頬を押し当てた。

「大丈夫。――もう、なにも心配しなくていいからね」

 その優しい声を最後に、俺の意識はおちた。