翌朝。俺は、眠い目をこすりこすり追試に向かった。
 父さんは、数学ほど一夜漬けに向かねえもんはないって言ってた。しかし、俺の場合は少なくとも六夜は漬けてるわけだから、ちっとは味が染みているはずだ。
 
「おはようございまーす」

 教室を開ければ、まだ誰も来ていなかった。単純に、俺以外みんな合格しただけかもしれねえけど。

「あいつも受かったんかな……」

 適当な机に鞄を置いて、筆記用具を取り出した。
 早朝の学校って、なんかいいよな。静かで、広くて、特別な感じがする。
 部活してる声を聞きながら、「俺も部活してえなあ」なんて考えてたら、葛城先生が来た。

「おはようございます」
「おはよう、吉村。ちゃんと勉強してきただろうな?」

 教卓にプリントを置き、葛城先生が睨みを利かせる。今日も今日とて、すげえ短パンから突き出た足に目を取られつつ、「うす」と頷いた。
 葛城先生は、時計に目をやって呟いた。

「早速始めたいところだが。まだ来ていないようだな」
「えっ」

 俺以外に、そんな馬鹿がいんの?
 そう思ったとき、ガラッと扉が開く音がした。

「おはようございまぁす」

 フラッと教室に入ってきたのは、イノリだった。ふあ、と欠伸をしながら、俺の斜め前の席に着く。
 イノリ、まだ合格してなかったのか。
 ごそごそと鞄を探っているイノリの、でっかい背中をまじまじと眺めた。

「桜沢、お前も今日こそ合格しろよ。いくら生徒会でもな、一般教養をおろそかにはさせんからな」
「はぁい」

 葛城先生の喝に、イノリはゆるく頷いた。
 そして、突然、くるりと俺を振り返る。

「ねえ。消しゴム、もういっこ持ってる? 忘れちゃったんだ」
「お?」

 イノリは、こてんと首を傾げながら俺に手を差し出した。俺は、イノリの顔とその手とを見比べていたが、「ん」と促されて慌てて筆箱を探った。
 俺は、筆記具は一個余分に持ってる。昔から、よく忘れてくる奴がいたからさ。

「ほい」
「ありがと」

 イノリは消しゴムを受け取ると、すぐに前を向いた。
 葛城先生は呆れ顔で、テストを俺たちの机に配った。

「まったく。では、追試を始めるぞ!」

 俺は問題を解きながら、ちらちらイノリを見るのがやめられず。最終的に、業を煮やした葛城先生に、後ろ向きで座らされた。



「では、おつかれ。結果は昼休みまでに伝える」

 葛城先生は授業の準備があるらしく、さっさと出て行った。
 教室には、俺とイノリの二人だけが残される。
 イノリは両腕を上げて、せいせいと伸びをしていた。
 俺は、荷物をまとめつつ、辺りを見渡した。廊下にも、人気はない。

「あのさ、」
「吉村くん」

 声をかけようとして、イノリに遮られた。はっとすると、イノリは何も言わずに手を差し出してくる。
 咄嗟に手を出すと、消しゴムを握らされた。

「助かったよ。それじゃ」
「あっ、おう」

 でも、消しゴム忘れたんなら、無いと一日困るんじゃねえの。
 そう気づいて、言おうとしたときには、イノリはすでに教室を出てっちまってた。
 俺は、空っぽの教室で、がくりと肩を落とす。

「吉村くんて。そんな呼び方、したときねえじゃん」


 この学校に来てから、イノリとはこんな感じだ。
 最初は、そうじゃなかったんだよ。
 でも、一週間くらい経った頃だったと思う。真っ青な顔したイノリに、いきなり言われたんだよな。

「トキちゃん、ごめん。もう、俺に話しかけてこないで」

 びっくりしたよ、そりゃ。赤ん坊のころからのダチにさ、急にこんなん言われてビビらない奴、いる?
 もちろん、何でだよって聞いたけど。
 そしたらイノリの奴、「俺と一緒にいるとこ見られると、トキちゃんに良くないから。ごめん、今は許して」って、泣きそうな顔して言ったわけ。
 もうさ、何言ってんのかわかんねえよって、言いたかった。
 でも、俺も動転してたんかな。死にそうな顔してるイノリに、うまく聞けなくて。
 そっからずっと、まともに話せてねえって言うか。
 近づこうとしたら、あいつ猫みたいに逃げてくし。校則で、スマホは没収されてるせいで、電話もムリで。
 そうこうしてる内に、イノリは生徒会に入って、ますます近寄りづらくなった。

「やっぱ、最初にちゃんと話せなかったのがイテエよなー……」

 イノリとはずっと一緒にいたから、知らんかったけどさ。
「何考えてんだ?」とか「どうした?」とか、側にいなくちゃ聞けねえんだよな。

「はあ~~」

 でっかいため息吐いて、イノリに貸した消しゴムを見下ろす。
 「消しゴム貸して」が久々の会話とか、事務的すぎだろ。筆箱に戻そうとして、「あれ」と思う。
 消しゴムケースに、細い紙が挟まっていた。
 引っ張り抜いて、二つに折られているそれを開いた。
 中を見て、目を丸くする。

『昼休みに、21号館の305教室に来て』

 そこには、見慣れたイノリの字で、そう書かれていた。