消えた記憶
凛花が消えてから、僕はこの世界に存在していない。そう感じる瞬間がある。いや、正確には「僕だったもの」が、どこか別の場所で静かに息づいているような感覚が残っているだけだ。
学校では何事もなかったかのように日常が続いている。クラスメイトたちは笑い合い、教師たちはいつも通り授業を進めている。けれど、僕がいた痕跡はすべて消えていた。机も、教科書も、写真も――まるで最初から存在しなかったかのように。
ただ一つだけ、この世界に「僕の存在」を証明するものが残っていた。それはあの古びたノートだった。
ノートを拾う少女
ある日の放課後、図書室の隅で一人の少女がそのノートを拾った。彼女は見覚えのないそのノートを手に取り、不思議そうに表紙を撫でた。
「これ……誰のだろう?」
ページをめくると、「白石凛花」という名前とともに、不気味な記録がびっしりと書き込まれていた。事故の記録、目撃情報、そして最後のページにはこう記されていた。 「白石凛花――存在しない生徒。しかし確かにそこにいた。」 少女は眉をひそめながら、その名前を口にした。
「白石……凛花?」
その瞬間、頭の奥に鈍い痛みが走った。そして、断片的なイメージが脳裏に浮かんだ。校舎裏で誰かと話している自分。図書室で誰かと並んで本を読んでいる自分。そして――夕陽の中で微笑む長い黒髪の少女。
「……誰?」
自分でも知らないはずの記憶。それはまるで、消された何かがほんの一瞬だけ蘇ったような感覚だった。
異界への呼び声
その夜、少女――彼女の名前は高瀬美咲――は奇妙な夢を見た。夢の中で彼女は薄暗い校舎裏に立っていた。そして、その前には一人の少年が立っている。
少年は振り返り、美咲を見つめた。その瞳には深い悲しみと決意が宿っていた。そして彼はこう言った。
「君が次なんだ。」
目が覚めた美咲は息を荒げながらベッドから飛び起きた。額には冷たい汗が滲んでいる。夢とは思えないほど鮮明だったその光景。そして何よりも、その少年――どこか懐かしい気持ちになる彼の顔。
「次……ってどういうこと?」
美咲は胸騒ぎを抑えられないまま学校へ向かった。そして再び図書室へ足を運び、あのノートを開いた。
凛花との再会
その日の放課後、美咲は校舎裏へ向かった。なぜだかわからない。ただ何かに導かれるように足が勝手に動いていた。そしてそこで――彼女は見た。
夕陽の中に立つ一人の少女。その長い黒髪が風になびき、その横顔にはどこか寂しげな微笑みが浮かんでいる。その姿を見た瞬間、美咲は息を呑んだ。
「……白石凛花?」
少女――凛花はゆっくりと振り返った。その瞳には深い闇と光が宿っていて、美咲をじっと見つめていた。
「あなた……誰?」
美咲は答えることができなかった。ただ、自分でも理由のわからない涙が頬を伝うだけだった。そしてその涙を見て、凛花もまた小さく微笑んだ。
「そう……また繋がったんだね。」
悠斗から託された役割
凛花は静かに語り始めた。この世界と異界との歪み。そして、それを修復するために選ばれる存在――それが美咲だったということを。
「悠斗君……彼もまた、この歪みを正すために選ばれた一人だった。でも彼は、自分自身を犠牲にして私を救おうとしてくれた。」
「悠斗君……? 誰、それ?」
美咲にはその名前に聞き覚えはなかった。しかし、その名を聞くたびに胸の奥が締め付けられるような感覚になる。
「あなたもいずれ気づくわ。この世界には“存在してはいけないもの”と“守るべきもの”があるってこと。そして、その選択肢があなたにも訪れる。」
凛花はそう言うと、美咲の手にそっと触れた。その瞬間、美咲の頭の中に無数の映像と感情が流れ込んできた。それは悠斗と凛花、そして二人が共に過ごした日々だった。
美咲の覚醒
凛花が語った真実は、美咲にとってあまりにも受け入れがたいものだった。この世界が歪みを抱えたまま存在していること。そして、自分がその歪みを正すために選ばれた存在であること。
「待って……どうして私なの? 私なんて普通の高校生だよ。悠斗君って人みたいに特別なわけじゃない!」
美咲は声を荒げた。しかし、凛花は静かに首を振った。
「悠斗君も最初はそう思っていた。でもね、彼には“選ばれる理由”があった。あなたにも同じことが言えるわ。」
「理由って……何?」
凛花は少し迷うような素振りを見せた後、言葉を選ぶように答えた。
「それは……まだ私にも分からない。でも、あなたがこの世界にいる限り、いずれその理由に気づく時が来る。」
美咲は納得できなかった。それでも、凛花の瞳に宿る悲しみと決意を見ていると、それ以上問い詰めることができなかった。
影の再来
その日以降、美咲の周囲で奇妙な出来事が起こり始めた。廊下で誰もいないはずの背後から足音が聞こえたり、教室の窓ガラスに一瞬だけ黒い影が映ったり――それは徐々に頻度を増していった。
そしてある日の放課後、美咲は校舎裏の廊下で再び影と遭遇した。それは形を持たない黒い塊でありながら、どこか人間のような輪郭を持っていた。その存在から発せられる冷たい気配に、美咲は体が凍りつくような恐怖を感じた。
「……お前が新しい扉か。」
低く響く声が耳元で囁く。美咲は後ずさりしながら叫んだ。
「何なのよ、あなたたちは!」
影は答えなかった。ただ静かに手を伸ばし、美咲へと近づいてくる。その瞬間――
「触れるな!」
鋭い声とともに光が溢れ、影を弾き飛ばした。その光の中から現れたのは凛花だった。彼女は美咲を庇うように立ち塞がり、影を睨みつけていた。
「彼女にはまだ触れさせない。戻りなさい。」
影は一瞬だけ動きを止めたかと思うと、不気味な笑い声を残して消え去った。
凛花の決意
「凛花……あれ、一体何だったの?」
美咲は震える声で尋ねた。凛花は少しだけ悲しげな表情を浮かべながら答えた。
「あれは“異界”の住人。この世界を歪ませる存在よ。そして、あなたや悠斗君みたいな“扉”を利用して、この世界へ侵入しようとしている。」
「じゃあ……私は狙われてるってこと?」
凛花は静かに頷いた。
「だから私はあなたを守るためにここにいる。でも、それには限界があるわ。」
「限界って……どういうこと?」
凛花は答えなかった。ただその瞳には深い覚悟と悲しみが宿っていた。
悠斗との再会
その夜、美咲は再び夢を見る。それは以前と同じ薄暗い空間だった。しかし今回は、そこに悠斗が立っていた。彼はどこか懐かしい表情で美咲を見つめていた。
「君が美咲だね。」
「あなた……悠斗君?」
悠斗は微笑んだ。そして静かに語り始めた。
「僕も最初は君と同じだった。この世界で普通に生きていると思っていた。でも、本当は“扉”として選ばれていただけだったんだ。」
「扉って……どういうこと?」
悠斗の表情が少し曇る。
「扉というのは、この世界と異界を繋ぐ存在だ。僕や凛花、そして君みたいな人間が、その役割を担わされる。でも、その役割には必ず代償が伴う。」
「代償……?」
悠斗は頷いた。
「僕の場合、その代償としてこの世界から消えることになった。でも、僕には後悔していない。凛花を守るためなら、それだけで十分だったから。」
美咲は言葉を失った。そして次の瞬間、悠斗の姿がぼやけ始めた。
「待って! まだ話したいことが――」
「大丈夫だよ、美咲。君ならきっと乗り越えられる。僕もいつかまた会える日を信じてるから。」
そう言い残して悠斗の姿は消え、美咲は目を覚ました。
凛花の覚悟
翌朝、美咲は校舎裏で凛花と再び向き合った。夢で悠斗と話したことを伝えたい気持ちがあったが、凛花の顔を見ると、その言葉が喉の奥で詰まってしまった。彼女の表情はどこか遠くを見つめているようで、今にも消えてしまいそうな儚さを纏っていたからだ。
「……美咲、聞いてほしいことがあるの。」
凛花は静かに口を開いた。その声には、どこか決意が滲んでいた。
「私はこの世界に長くいられない。私がここにいる限り、異界の影たちはあなたを狙い続ける。そして、最終的にはこの世界そのものが壊れてしまうわ。」
「そんな……じゃあどうすればいいの?」
美咲は必死に問いかけた。しかし凛花は小さく首を振った。
「私が異界に戻るしかない。でも、それだけでは不十分なの。異界との繋がりそのものを断ち切るためには、“扉”であるあなた自身が、その力を封じる必要がある。」
「封じるって……どういうこと?」
凛花は少し躊躇した後、言葉を絞り出すように答えた。
「それは、あなた自身の存在をこの世界から“消す”ということよ。」
美咲の葛藤
凛花の言葉に、美咲は愕然とした。自分が消える――それはつまり、自分という存在そのものがこの世界から完全に失われるということだ。それまで築いてきた日常も、家族や友人との思い出も、すべて消えてしまう。
「そんなの……そんなの嫌だよ!」
美咲は叫んだ。しかし凛花は静かに彼女を見つめていた。その瞳には深い悲しみと、それ以上に強い覚悟が宿っていた。
「私も嫌だった。悠斗君が消えた時、本当に辛かった。でもね、美咲……彼は自分の意思で選んだの。私やこの世界を守るために。そして今度は、あなたが選ぶ番なの。」
「選ぶ番……?」
「そう。この世界を守るか、それとも自分自身を守るか。それは誰にも強制されるものじゃない。あなた自身が決めることなの。」
悠斗からのメッセージ
その夜、美咲は再び夢の中で悠斗と出会った。彼は以前と同じ穏やかな表情で彼女を見つめていた。
「美咲、君にはまだ迷いがあるね。」
「当たり前じゃない! 私なんて普通の高校生だよ。どうして私だけこんな選択を迫られなきゃいけないの?」
悠斗は少しだけ微笑んだ。そして静かに語り始めた。
「僕も最初はそう思っていた。でもね、この世界には守るべきものがたくさんある。それを知った時、自分が何をすべきか自然と分かったんだ。」
「でも……怖いよ。自分が消えるなんて……」
美咲の声は震えていた。それでも悠斗は優しく頷いた。
「怖くてもいいんだよ。人間なんだから。でもね、美咲……君には一人じゃないってことを忘れないでほしい。僕も凛花も、君と同じ道を歩んできた。そして、君がどんな選択をしても、それを支える存在が必ずいる。」
そう言うと、悠斗はそっと美咲の肩に手を置いた。その手から伝わる温もりに、美咲は少しだけ涙ぐんだ。
最終決断
翌日、美咲は凛花に会いに行った。彼女の中では答えが出ていた。そして、その答えを伝えるためにここへ来た。
「凛花……私、自分自身を消すことにする。」
その言葉に凛花は驚いたような表情を浮かべた。しかし次の瞬間には、静かに微笑んだ。
「そう……ありがとう、美咲。」
「でも、一つだけお願いがある。」
美咲は凛花を真っ直ぐ見つめながら言った。
「私が消えた後も、この世界で生き続けてほしい。そして、この世界で幸せになってほしい。それだけが私の願いなの。」
凛花は一瞬だけ目を伏せた後、小さく頷いた。
「約束するわ、美咲。」
扉の封印
その夜、美咲と凛花は校舎裏で儀式を行った。それは異界との繋がりそのものを断ち切るための儀式だった。美咲自身も知らなかった力――“扉”としての力――が解放され、その力によって異界への通路が閉ざされていく。
光と闇が交錯する中、美咲の体が徐々に透け始めた。そして最後に残った彼女の姿もまた、光となって消えていこうとしていた。
「ありがとう、凛花。あなたのおかげで怖くなかったよ。」
美咲は微笑みながらそう言った。その顔にはもう迷いや恐怖はなかった。ただ穏やかな安らぎだけがあった。
そして――彼女は完全に消え去った。
終章:影と光
それから数日後、学校では再び平穏な日常が戻っていた。しかし誰一人として、高瀬美咲という名前や存在について覚えている者はいなかった。ただ一人、白石凛花だけがその記憶を持ち続けていた。
放課後、凛花は校舎裏で一人空を見上げていた。その瞳には涙が浮かんでいる。しかし、その涙には悲しみだけではなく、確かな感謝と希望も宿っていた。
「ありがとう、美咲。そして悠斗君……私は二人のおかげでここにいる。この世界で生き続けるよ。」
風が吹き抜ける中、凛花はそっと目を閉じた。その姿にはもう迷いや孤独など微塵も感じられなかった。ただそこには、一つの決意と新しい未来への一歩だけがあった。
凛花が消えてから、僕はこの世界に存在していない。そう感じる瞬間がある。いや、正確には「僕だったもの」が、どこか別の場所で静かに息づいているような感覚が残っているだけだ。
学校では何事もなかったかのように日常が続いている。クラスメイトたちは笑い合い、教師たちはいつも通り授業を進めている。けれど、僕がいた痕跡はすべて消えていた。机も、教科書も、写真も――まるで最初から存在しなかったかのように。
ただ一つだけ、この世界に「僕の存在」を証明するものが残っていた。それはあの古びたノートだった。
ノートを拾う少女
ある日の放課後、図書室の隅で一人の少女がそのノートを拾った。彼女は見覚えのないそのノートを手に取り、不思議そうに表紙を撫でた。
「これ……誰のだろう?」
ページをめくると、「白石凛花」という名前とともに、不気味な記録がびっしりと書き込まれていた。事故の記録、目撃情報、そして最後のページにはこう記されていた。 「白石凛花――存在しない生徒。しかし確かにそこにいた。」 少女は眉をひそめながら、その名前を口にした。
「白石……凛花?」
その瞬間、頭の奥に鈍い痛みが走った。そして、断片的なイメージが脳裏に浮かんだ。校舎裏で誰かと話している自分。図書室で誰かと並んで本を読んでいる自分。そして――夕陽の中で微笑む長い黒髪の少女。
「……誰?」
自分でも知らないはずの記憶。それはまるで、消された何かがほんの一瞬だけ蘇ったような感覚だった。
異界への呼び声
その夜、少女――彼女の名前は高瀬美咲――は奇妙な夢を見た。夢の中で彼女は薄暗い校舎裏に立っていた。そして、その前には一人の少年が立っている。
少年は振り返り、美咲を見つめた。その瞳には深い悲しみと決意が宿っていた。そして彼はこう言った。
「君が次なんだ。」
目が覚めた美咲は息を荒げながらベッドから飛び起きた。額には冷たい汗が滲んでいる。夢とは思えないほど鮮明だったその光景。そして何よりも、その少年――どこか懐かしい気持ちになる彼の顔。
「次……ってどういうこと?」
美咲は胸騒ぎを抑えられないまま学校へ向かった。そして再び図書室へ足を運び、あのノートを開いた。
凛花との再会
その日の放課後、美咲は校舎裏へ向かった。なぜだかわからない。ただ何かに導かれるように足が勝手に動いていた。そしてそこで――彼女は見た。
夕陽の中に立つ一人の少女。その長い黒髪が風になびき、その横顔にはどこか寂しげな微笑みが浮かんでいる。その姿を見た瞬間、美咲は息を呑んだ。
「……白石凛花?」
少女――凛花はゆっくりと振り返った。その瞳には深い闇と光が宿っていて、美咲をじっと見つめていた。
「あなた……誰?」
美咲は答えることができなかった。ただ、自分でも理由のわからない涙が頬を伝うだけだった。そしてその涙を見て、凛花もまた小さく微笑んだ。
「そう……また繋がったんだね。」
悠斗から託された役割
凛花は静かに語り始めた。この世界と異界との歪み。そして、それを修復するために選ばれる存在――それが美咲だったということを。
「悠斗君……彼もまた、この歪みを正すために選ばれた一人だった。でも彼は、自分自身を犠牲にして私を救おうとしてくれた。」
「悠斗君……? 誰、それ?」
美咲にはその名前に聞き覚えはなかった。しかし、その名を聞くたびに胸の奥が締め付けられるような感覚になる。
「あなたもいずれ気づくわ。この世界には“存在してはいけないもの”と“守るべきもの”があるってこと。そして、その選択肢があなたにも訪れる。」
凛花はそう言うと、美咲の手にそっと触れた。その瞬間、美咲の頭の中に無数の映像と感情が流れ込んできた。それは悠斗と凛花、そして二人が共に過ごした日々だった。
美咲の覚醒
凛花が語った真実は、美咲にとってあまりにも受け入れがたいものだった。この世界が歪みを抱えたまま存在していること。そして、自分がその歪みを正すために選ばれた存在であること。
「待って……どうして私なの? 私なんて普通の高校生だよ。悠斗君って人みたいに特別なわけじゃない!」
美咲は声を荒げた。しかし、凛花は静かに首を振った。
「悠斗君も最初はそう思っていた。でもね、彼には“選ばれる理由”があった。あなたにも同じことが言えるわ。」
「理由って……何?」
凛花は少し迷うような素振りを見せた後、言葉を選ぶように答えた。
「それは……まだ私にも分からない。でも、あなたがこの世界にいる限り、いずれその理由に気づく時が来る。」
美咲は納得できなかった。それでも、凛花の瞳に宿る悲しみと決意を見ていると、それ以上問い詰めることができなかった。
影の再来
その日以降、美咲の周囲で奇妙な出来事が起こり始めた。廊下で誰もいないはずの背後から足音が聞こえたり、教室の窓ガラスに一瞬だけ黒い影が映ったり――それは徐々に頻度を増していった。
そしてある日の放課後、美咲は校舎裏の廊下で再び影と遭遇した。それは形を持たない黒い塊でありながら、どこか人間のような輪郭を持っていた。その存在から発せられる冷たい気配に、美咲は体が凍りつくような恐怖を感じた。
「……お前が新しい扉か。」
低く響く声が耳元で囁く。美咲は後ずさりしながら叫んだ。
「何なのよ、あなたたちは!」
影は答えなかった。ただ静かに手を伸ばし、美咲へと近づいてくる。その瞬間――
「触れるな!」
鋭い声とともに光が溢れ、影を弾き飛ばした。その光の中から現れたのは凛花だった。彼女は美咲を庇うように立ち塞がり、影を睨みつけていた。
「彼女にはまだ触れさせない。戻りなさい。」
影は一瞬だけ動きを止めたかと思うと、不気味な笑い声を残して消え去った。
凛花の決意
「凛花……あれ、一体何だったの?」
美咲は震える声で尋ねた。凛花は少しだけ悲しげな表情を浮かべながら答えた。
「あれは“異界”の住人。この世界を歪ませる存在よ。そして、あなたや悠斗君みたいな“扉”を利用して、この世界へ侵入しようとしている。」
「じゃあ……私は狙われてるってこと?」
凛花は静かに頷いた。
「だから私はあなたを守るためにここにいる。でも、それには限界があるわ。」
「限界って……どういうこと?」
凛花は答えなかった。ただその瞳には深い覚悟と悲しみが宿っていた。
悠斗との再会
その夜、美咲は再び夢を見る。それは以前と同じ薄暗い空間だった。しかし今回は、そこに悠斗が立っていた。彼はどこか懐かしい表情で美咲を見つめていた。
「君が美咲だね。」
「あなた……悠斗君?」
悠斗は微笑んだ。そして静かに語り始めた。
「僕も最初は君と同じだった。この世界で普通に生きていると思っていた。でも、本当は“扉”として選ばれていただけだったんだ。」
「扉って……どういうこと?」
悠斗の表情が少し曇る。
「扉というのは、この世界と異界を繋ぐ存在だ。僕や凛花、そして君みたいな人間が、その役割を担わされる。でも、その役割には必ず代償が伴う。」
「代償……?」
悠斗は頷いた。
「僕の場合、その代償としてこの世界から消えることになった。でも、僕には後悔していない。凛花を守るためなら、それだけで十分だったから。」
美咲は言葉を失った。そして次の瞬間、悠斗の姿がぼやけ始めた。
「待って! まだ話したいことが――」
「大丈夫だよ、美咲。君ならきっと乗り越えられる。僕もいつかまた会える日を信じてるから。」
そう言い残して悠斗の姿は消え、美咲は目を覚ました。
凛花の覚悟
翌朝、美咲は校舎裏で凛花と再び向き合った。夢で悠斗と話したことを伝えたい気持ちがあったが、凛花の顔を見ると、その言葉が喉の奥で詰まってしまった。彼女の表情はどこか遠くを見つめているようで、今にも消えてしまいそうな儚さを纏っていたからだ。
「……美咲、聞いてほしいことがあるの。」
凛花は静かに口を開いた。その声には、どこか決意が滲んでいた。
「私はこの世界に長くいられない。私がここにいる限り、異界の影たちはあなたを狙い続ける。そして、最終的にはこの世界そのものが壊れてしまうわ。」
「そんな……じゃあどうすればいいの?」
美咲は必死に問いかけた。しかし凛花は小さく首を振った。
「私が異界に戻るしかない。でも、それだけでは不十分なの。異界との繋がりそのものを断ち切るためには、“扉”であるあなた自身が、その力を封じる必要がある。」
「封じるって……どういうこと?」
凛花は少し躊躇した後、言葉を絞り出すように答えた。
「それは、あなた自身の存在をこの世界から“消す”ということよ。」
美咲の葛藤
凛花の言葉に、美咲は愕然とした。自分が消える――それはつまり、自分という存在そのものがこの世界から完全に失われるということだ。それまで築いてきた日常も、家族や友人との思い出も、すべて消えてしまう。
「そんなの……そんなの嫌だよ!」
美咲は叫んだ。しかし凛花は静かに彼女を見つめていた。その瞳には深い悲しみと、それ以上に強い覚悟が宿っていた。
「私も嫌だった。悠斗君が消えた時、本当に辛かった。でもね、美咲……彼は自分の意思で選んだの。私やこの世界を守るために。そして今度は、あなたが選ぶ番なの。」
「選ぶ番……?」
「そう。この世界を守るか、それとも自分自身を守るか。それは誰にも強制されるものじゃない。あなた自身が決めることなの。」
悠斗からのメッセージ
その夜、美咲は再び夢の中で悠斗と出会った。彼は以前と同じ穏やかな表情で彼女を見つめていた。
「美咲、君にはまだ迷いがあるね。」
「当たり前じゃない! 私なんて普通の高校生だよ。どうして私だけこんな選択を迫られなきゃいけないの?」
悠斗は少しだけ微笑んだ。そして静かに語り始めた。
「僕も最初はそう思っていた。でもね、この世界には守るべきものがたくさんある。それを知った時、自分が何をすべきか自然と分かったんだ。」
「でも……怖いよ。自分が消えるなんて……」
美咲の声は震えていた。それでも悠斗は優しく頷いた。
「怖くてもいいんだよ。人間なんだから。でもね、美咲……君には一人じゃないってことを忘れないでほしい。僕も凛花も、君と同じ道を歩んできた。そして、君がどんな選択をしても、それを支える存在が必ずいる。」
そう言うと、悠斗はそっと美咲の肩に手を置いた。その手から伝わる温もりに、美咲は少しだけ涙ぐんだ。
最終決断
翌日、美咲は凛花に会いに行った。彼女の中では答えが出ていた。そして、その答えを伝えるためにここへ来た。
「凛花……私、自分自身を消すことにする。」
その言葉に凛花は驚いたような表情を浮かべた。しかし次の瞬間には、静かに微笑んだ。
「そう……ありがとう、美咲。」
「でも、一つだけお願いがある。」
美咲は凛花を真っ直ぐ見つめながら言った。
「私が消えた後も、この世界で生き続けてほしい。そして、この世界で幸せになってほしい。それだけが私の願いなの。」
凛花は一瞬だけ目を伏せた後、小さく頷いた。
「約束するわ、美咲。」
扉の封印
その夜、美咲と凛花は校舎裏で儀式を行った。それは異界との繋がりそのものを断ち切るための儀式だった。美咲自身も知らなかった力――“扉”としての力――が解放され、その力によって異界への通路が閉ざされていく。
光と闇が交錯する中、美咲の体が徐々に透け始めた。そして最後に残った彼女の姿もまた、光となって消えていこうとしていた。
「ありがとう、凛花。あなたのおかげで怖くなかったよ。」
美咲は微笑みながらそう言った。その顔にはもう迷いや恐怖はなかった。ただ穏やかな安らぎだけがあった。
そして――彼女は完全に消え去った。
終章:影と光
それから数日後、学校では再び平穏な日常が戻っていた。しかし誰一人として、高瀬美咲という名前や存在について覚えている者はいなかった。ただ一人、白石凛花だけがその記憶を持ち続けていた。
放課後、凛花は校舎裏で一人空を見上げていた。その瞳には涙が浮かんでいる。しかし、その涙には悲しみだけではなく、確かな感謝と希望も宿っていた。
「ありがとう、美咲。そして悠斗君……私は二人のおかげでここにいる。この世界で生き続けるよ。」
風が吹き抜ける中、凛花はそっと目を閉じた。その姿にはもう迷いや孤独など微塵も感じられなかった。ただそこには、一つの決意と新しい未来への一歩だけがあった。



