その日、僕は彼女に出会った。
正確に言えば、彼女を見たのだ。校舎裏の薄暗い廊下で、夕陽が差し込む窓辺に立つ彼女を。
長い黒髪が西日を受けて金色に輝き、その横顔は彫刻のように整っていた。しかし、それ以上に目を引いたのは彼女の瞳だった。まるで深い井戸の底を覗き込むような、不気味なほど静かな暗闇がそこにはあった。
 「君、誰?」
思わず声をかけた僕に、彼女は一瞬だけ視線を向けた。だが、すぐに興味を失ったように目を伏せると、小さく呟いた。
「……関係ないでしょ」
 その冷たい声に、僕は一瞬怯んだ。けれども、どうしてだろう、その場から離れることができなかった。まるで彼女自身が、この世界から切り離された存在であるかのような感覚に囚われてしまったのだ。
 「いや、関係あるよ」
僕は自分でも驚くほど強い口調で言い返していた。「だって君、ここにいるんだから」
 その言葉に、彼女は再び僕を見た。そして、ほんの少しだけ口元を歪めると、不思議な笑みを浮かべた。
「……変わってるね、君」
 こうして僕――三浦悠斗と彼女――白石凛花の奇妙な関係が始まった。

 二人の間には大きなギャップがあった。僕はどこにでもいる普通の高校生で、目立つこともなく平凡な日々を送っていた。一方で白石凛花は学校中で噂される「謎の転校生」。誰とも話さず、友達も作らない孤高の存在だった。それでも僕は彼女と話すたびに、その冷たい態度の裏側に隠された何かを感じずにはいられなかった。
 やがて僕らは少しずつ距離を縮めていった。しかし、それと同時に奇妙な出来事が周囲で起こり始めた。クラスメイトが次々と不可解な事故に巻き込まれたり、校舎内で誰もいないはずの場所から足音が聞こえたり……。
 そしてある日、僕は知ってしまう。白石凛花という存在そのものが、この世界には「本来存在してはいけないもの」だということを――。

 白石凛花と話すようになってから、僕の日常は少しずつ変わり始めた。彼女は相変わらず冷たく、必要以上に僕に心を開くことはなかったけれど、それでも僕たちは毎日のように会話を交わした。校舎裏の廊下や、誰もいない図書室の隅で。
 「どうして君は、いつも一人なんだ?」
ある日、思い切って聞いてみた。彼女は窓の外を見つめながら、少しだけ口元を歪めた。
 「……一人じゃないと、いけないから」
 その答えに、僕は戸惑った。けれど、それ以上問い詰めることはできなかった。彼女の声には、何か触れてはいけないものが潜んでいるように感じたからだ。

奇妙な出来事
 それから数日後、学校で妙な噂が広がり始めた。
「まただよ……三組の山下が階段から落ちたんだって」
「えっ? この間も誰か怪我してなかった?」
「うん……でもさ、ちょっとおかしいんだよね。誰も突き飛ばしたわけじゃないのに、急に足を滑らせたとか……」
 クラスメイトたちの話を耳にしながら、僕は背筋が寒くなるのを感じていた。これで三件目だ。この一週間だけで、校内で起きた不可解な事故が三件目。しかも、その全てが白石凛花の周囲で起きていることに気づいたのは僕だけだった。
 偶然だろうか? いや、そんなはずはない。彼女には何か秘密がある。それだけは確信していた。

凛花の秘密
 放課後、僕は意を決して彼女を問い詰めることにした。
「凛花……君、一体何者なんだ?」
彼女は驚いたように目を見開いたが、それも一瞬だけだった。そして、いつもの冷たい微笑みを浮かべると、小さく首を振った。
 「何者でもない。ただの高校生よ」
「嘘だ!」
思わず声を荒げてしまった僕に、彼女は少しだけ困ったような顔をした。そして、小さくため息をつくと呟いた。
 「……悠斗君には関係ないことよ。でも……」
一瞬だけ言葉を切り、それから彼女は僕をじっと見つめた。その瞳にはいつもの冷たさではなく、どこか悲しげな色が宿っていた。
「もし私と一緒にいるなら……覚悟してね」

真実への扉
 その夜、不思議な夢を見た。暗闇の中で凛花が立っている。その背後には無数の影が蠢いていて、それらが次々と彼女に襲いかかろうとしていた。しかし彼女は微動だにせず、その影たちを睨みつけていた。そして、不意にこちらを振り向き、小さく囁いた。
 「悠斗君……助けて」
 目が覚めると、額には冷たい汗が滲んでいた。その夢がただの夢ではないことを、本能的に感じていた。そして同時に決意した。彼女の秘密を知るためなら、どんな危険でも乗り越えてみせる、と。

翌朝、僕は早めに学校へ向かった。凛花がいつもいる校舎裏の廊下で待つためだ。昨夜の夢がただの偶然とは思えなかったし、彼女に直接話を聞かなければならないと思った。
しかし、そこに彼女の姿はなかった。代わりに、廊下の窓から見える校庭に彼女が立っているのが見えた。まるで何かを待っているように、じっと一点を見つめている。その視線の先には誰もいない。ただ空っぽの校庭が広がっているだけだった。
僕は急いで階段を駆け下り、校庭へ向かった。近づくにつれ、彼女の背中越しに聞こえてきた声が僕を足止めさせた。
「……もうやめてよ。これ以上は……」
彼女が誰かと話している? いや、周囲には誰もいないはずだ。それなのに、彼女は確かに誰かと会話していた。そして、その声には切迫した恐怖と悲しみが混じっていた。
「凛花!」
思わず叫ぶと、彼女は驚いたように振り返った。その顔には一瞬だけ動揺が浮かんだが、すぐにいつもの冷たい表情へと戻った。
「……悠斗君?」
「何をしてたんだ?」
「別に。ただ空を見ていただけよ」
嘘だ。それは明らかだった。でも、それ以上追及することはできなかった。彼女の瞳にはどこか遠くを見るような寂しさが宿っていて、それ以上問い詰める気力を奪われてしまったからだ。

奇妙なノート
その日の放課後、僕は図書室で一冊の古びたノートを見つけた。それは学校の備品ではなく、誰かが置き忘れたもののようだった。表紙には何も書かれておらず、中を開くとびっしりと文字が書き込まれていた。
最初のページにはこう記されていた。 「白石凛花――存在しない生徒」 その一文を見た瞬間、心臓が跳ね上がる音が耳元で響いたような気がした。慌てて次のページをめくると、そこには白石凛花という名前についての詳細な調査記録が綴られていた。 「白石凛花。この名前で登録された生徒記録は存在しない。しかし、目撃証言は複数ある。この矛盾する事実について調査を進める。」 さらにページを進めると、「白石凛花」が現れる場所や時間帯についても詳細な記録が書かれていた。そして、その全てに共通していたのは……彼女の周囲で必ず「事故」や「異常現象」が発生しているということだった。

凛花との対峙
その夜、僕は再び凛花に会いに行った。校舎裏の廊下で彼女を待ち伏せし、ノートを突きつけた。
「これ、一体どういうことなんだ?」
彼女はノートを見るなり顔色を変えた。そして、一瞬だけ口元を引き結ぶと、小さく呟いた。
「……それ、どこで見つけたの?」
「図書室だよ。でもそんなことより答えてくれ! 君、本当は何者なんだ?」
しばらく沈黙が続いた後、彼女はゆっくりと口を開いた。
「悠斗君……あなた、本当に知りたいの? 知ったら……もう元には戻れないよ」
「知りたい!」
僕は迷わず答えた。その時点で後戻りできないことくらい分かっていた。でも、それでも構わなかった。彼女の秘密を知ることで、この奇妙な出来事すべてに終止符を打ちたいと思ったからだ。

真実
凛花は静かに語り始めた。
「私は……この世界に属する人間じゃない。本当なら、この世界には存在してはいけない存在なの」
「どういう意味だ?」
「簡単に言えば……私は『異界』から来た存在なの。この世界とは別の場所からね。でも、本当ならこんな風に君たちと接触することなんてできないはずだった。でも……」
彼女は言葉を切り、一瞬だけ目を伏せた。そして次に顔を上げた時、その瞳には涙が浮かんでいた。
「でもね、この世界に引き寄せられた理由……それは悠斗君、あなたなの」
頭が真っ白になった。

序章
凛花によれば、「異界」と現実世界との間には通常、人間が干渉できない壁が存在している。しかし、その壁に亀裂を入れる特異点となる存在――それこそが僕自身だったという。
「悠斗君のおかげで私はここに来られた。でも、その代償として……この世界にも歪みが生じてしまった」
彼女の言葉は信じ難いものだった。しかし同時に、それまで起きていた不可解な出来事すべてに説明がついてしまう内容でもあった。
そして最後に凛花はこう言った。
「だからね……私がこの世界から消えれば全て元通りになる。でも、それにはあなた自身も――」
その先の言葉を聞く前に、不意に視界が暗転した。それと同時に耳元で囁く声――無数の影たちの囁き――が聞こえてきた。

消えた凛花
目が覚めたとき、僕は見知らぬ場所にいた。薄暗い空間に、どこからか漏れる不気味な囁き声。壁も床も天井も存在しないような感覚に、足元がふらつく。まるで現実と夢の境界が曖昧になったような場所だった。
「……凛花?」
声を上げても返事はない。代わりに、耳元で低く響く声が聞こえた。
「お前が原因だ……」
「お前が引き寄せた……」
「この世界を壊したのは、お前だ……」
その声に答えるように、周囲の闇が蠢き始めた。影のような存在が形を成し、僕に向かって迫ってくる。その瞬間、胸の奥から強烈な痛みが走った。
「悠斗君!」
その声とともに、凛花がどこからともなく現れた。彼女は僕の前に立ちはだかり、影たちを睨みつける。その瞳にはこれまで見たことのない強い決意が宿っていた。
「彼には手を出さないで!」
凛花が叫ぶと、影たちは一瞬だけ動きを止めた。しかし、それも束の間だった。次の瞬間には再び蠢き始め、今度は凛花を包み込もうとする。
「やめろ!」
僕は叫びながら彼女に手を伸ばした。しかし、その手は何か見えない壁に阻まれたように空を切るだけだった。

凛花の告白
影たちが迫る中、凛花は振り返り、静かに語り始めた。
「悠斗君……ごめんね。本当はもっと早く話すべきだった。でも怖かったの。あなたが私を拒絶するんじゃないかって……」
「拒絶なんてするわけないだろ! 君が何者だろうと関係ない!」
僕は必死に叫んだ。しかし彼女は悲しげに微笑むだけだった。
「ありがとう。でもね……私はこの世界にはいられない存在なの。この世界を歪ませている原因は私。そして、その歪みを引き起こした鍵は――あなた自身なの。」
僕は息を呑んだ。
「どういうことだ?」
「悠斗君……あなたは特別な存在なの。この世界と異界を繋ぐ“扉”そのもの。だから私みたいな存在がここに来られた。でも、その代償として、この世界そのものが壊れ始めている。」
彼女の言葉は信じ難いものだった。しかし、それまで起きていた不可解な出来事すべてに説明がついてしまう内容でもあった。

凛花の決断
「このままでは、この世界もあなたも壊れてしまう。だから私は――異界へ戻らなければならない。」
彼女の言葉に、僕は激しく首を振った。
「そんなことさせるもんか! 君が消えれば全て解決するなんて、本当にそう思ってるのか? 他に方法があるはずだ!」
しかし彼女は静かに首を振った。
「他には方法なんてないよ。でもね……悠斗君、私はあなたと出会えて幸せだった。」
そう言いながら、彼女はそっと僕の頬に触れた。その手は冷たく、それでいてどこか温かかった。
「ありがとう。そして……さよなら。」
その瞬間、凛花の体が淡い光を放ち始めた。それと同時に影たちが激しく蠢き出し、彼女を飲み込もうとする。

悠斗の正体
しかし、その時だった。胸の奥深くから何か熱いものが湧き上がる感覚。そして、それと同時に頭の中で声が響いた。
「お前には選択肢がある。この世界を守るか、彼女を守るか――」
その声に導かれるように、僕は自分自身の中へ意識を向けた。そして気づいてしまった。自分自身もまた、この世界には属していない存在であることを――。
僕自身もまた、「異界」からやって来た存在だった。そして、この世界との間に亀裂を生じさせた張本人でもあった。それゆえに凛花と引き合い、この奇妙な運命へと巻き込まれていたのだ。

最終決断
光と闇の狭間で、僕は選択肢を突きつけられていた。この世界を守るためには、自分自身も含めて全ての歪み――つまり凛花も僕も――消え去らなければならない。しかし、それでは彼女との思い出すべても消えてしまう。
一方で、自分自身を犠牲にすれば凛花だけはこの世界に残すことができる。しかし、その代償として、この世界にはさらなる歪みが生じ続ける可能性もあった。
「悠斗君!」
凛花の叫ぶ声が聞こえる。その声だけで十分だった。僕は迷わず答えを選んだ。

終章:影と光
次の日、学校ではまた平穏な日常が戻っていた。不可解な事故や奇妙な現象も全て止まり、生徒たちは何事もなかったように過ごしている。ただ一つだけ変わったこと――それは誰一人として、「白石凛花」という名前を覚えていないことだった。
そしてもう一つ――三浦悠斗という名前もまた、この世界から完全に消えていた。
図書室の片隅には、一冊の古びたノートだけが残されていた。その最後のページにはこう記されている。
「白石凛花――存在しない生徒。しかし確かにそこにいた。」