納得できない。
日夏は、保健室で、むくれていた。友人が、心配げに自分を見下ろしている。そのおろおろした気づかわし気な様子にも腹が立つ。心配してるなら、言えよ。
湿布を貼られたすねを、ぎゅっと抱えた。幸人に思いきり足払いをかけられたのだ。すっ転んで、体を打ちつけた間に、幸人は去っていった。思い出して、痛みが増してきたように思う。これから、大事をとって病院に行くが、病院では治らない痛みだった。
「なんで、ユキトはあそこまで庇うんだよ」
確かに、泣かせたのは悪かったかもしれない。けど、自分はずけずけ正論で人を攻撃して、浮気までしておいて、都合が悪くなったら泣くなんて。それでも男か、という気持ちになる。泣いたら助けてもらえるなんて、どれだけ甘やかされてるんだろう。自分は泣いたって、助けてくれる人間なんていなかったのに。だから、こうして戦って椅子を勝ち得るしかなかったのに。
幸人はそこを、理解してくれていると思ったのに。
「なんで、ひなつは人に対してそんなに突っ込むんだ?」
転校したての頃、幸人に聞かれた、今日みたいに、本気でぶつかったら、相手が殴り掛かってきたのを、幸人が庇ってくれたのだ。幸人が代わりに殴られて、さすがに悪かったし、気持ちがありがたかった。幸人の誠意に応えたいと、日夏は話した。
「裏でいろいろ言われてるガキだったから、はっきり言ってほしいんだ」
と。幸人は納得してくれた。そして、「でも、危ないからああいうのはよすんだぞ」と心配してくれた。
あんまりわかってないんだな、と苦笑したけど、幸人のそういう「いい奴さ」が好きだった。
瀧見家に迎えられたのは、日夏が七つの時だった。それまでは、母と二人で暮らしていて、父は、家に訪ねて来てくれていた。父親が、いつも家から「帰って」いく理由はわからなくて、泣いてすがったものだ。だから、一緒に暮らそうと言ってくれた時は本当に嬉しかった。
けれど、家には腹違いの兄が二人いたのだ。父は、自分だけの父ではなかったのだ。ショックだった。
それから、日夏は父に何度も尋ねたものだ。
「お母さんと前のお母さんとどっちが好き?俺とにいちゃんたちとどっちが好き?」
と。幸い父は、自分にうそをつかなかった。まっすぐ目を見て、「お前の母さんと、お前が好きだよ」と言ってくれた。だから、辛かったけど裏切りを許した。
問題は、兄たちだった。
日夏より、五つと七つそれぞれ年上の兄たちは、日夏のことを、ちゃんと迎えて「くれた」。そう――「くれた」のだ。遊んでと言えば遊んでくれたし、勉強だっていつも教えてくれた。わがままだって聞いてもらえた。
受け入れてもらって安堵した、などと母は言っていたが、日夏にはわかった。兄たちは、自分のことが、嫌いなのだと。
笑う目の奥に、いつもなにか笑み以外のものが見えたし、優しいことをいう口は、嘘くさかった。どうにも気味が悪くて、でもそれを母には言えなくて、辛かったものだ。
だから、兄たちが屋根裏部屋で日夏と母の悪口を言っていた時、傷ついたけどむしろどこかすっきりした。
遊んでもらおうと部屋に行ったら、兄たちは何か話していて、虫の知らせで、日夏は足音を消して、耳をそばだてた。
「本当に、息がつまるよ」
「ああ」
疲れ切った声だった。日夏の母を「母とは思えない」とか、「死んでいった母さんが浮かばれない」とか、いろいろ言っていた。表では、あれだけにこにこしていたくせに。日夏はショックと同時に、怒りが這い寄ってきた。
「でも、日夏は子供で、関係ないですよ」
「わかっているさ。だからちゃんと接しているんだ」
兄たちは、日夏のことも悪く言った。
「それでも、腹が立つよ。『どっちが好きか』などといちいち聞かれるとな」
「それは、たしかに」
「子供に敬意なんて求めても仕方ないが。あの子は、少し欲しがりなんじゃないかな」
そこで、もう我慢ならなかった。屋根裏部屋に乗り込んで、持っていたチェスボードを、兄たちに向かって投げつけた。兄たちは、ぎょっとした顔をして、あわてて「ひなつ」とつくろおうとした。それにもっと腹が立った。
「隠してんじゃねえ!こっちは全部聞いたんだからなっ!」
くやしさに、ぼろぼろ涙がこぼれる。けれど、口はよく回った。「嫌いなのはばれてた」とか「嘘つくなんて最低だ」とか、思いつく限り、兄たちがいかに卑怯か、叱り飛ばしてやった。兄たちは、呆然としていた。
騒ぎを聞きつけて、使用人たちがやってきた。
兄たちは、父に厳しく叱られたが、日夏の心がそれで癒えたわけではなかった。社会は「いい人」だと、「立派」だと兄をほめる。その時の騒ぎに対しても、「無理はない」と同情的だった。
それ以降、日夏は、嘘を――そして、外面だけの善人を憎悪するようになった。
そしてそういった人を嗅ぎ当てるのが、日夏は恐ろしくうまかった。だから、そのぶん、いっぱいもやもやすることも傷つくことも多かったのだ。
人とちゃんと付き合うには、ちゃんと気持ちを全部打ち明けてくれないと嫌だし、しない人間は信用できない。それに、その人自身も、不幸だ。誰にも気持ちを打ち明けないのは、独りぼっちの証拠だから。
それが、日夏の信条だった。
実際に、兄たちは改心してから、気持ちに向き合ってくれるようになり、本当の善人になったし、毎日安息して、幸せそうだ。
「こうして打ち明けられてよかった」
と、兄をはじめ、心を開いてくれたひとたちは、日夏にみんなそう言った。だから、自分の正しさを確信した。正直にあらないと、人は不幸になるし、人のことも不幸にする。
幸人は優しくていい奴だ。なのに、どうして皆見のことを庇うんだろう。優しさを、はき違えてる。
日夏は苛々と爪を噛んだ。
日夏は、保健室で、むくれていた。友人が、心配げに自分を見下ろしている。そのおろおろした気づかわし気な様子にも腹が立つ。心配してるなら、言えよ。
湿布を貼られたすねを、ぎゅっと抱えた。幸人に思いきり足払いをかけられたのだ。すっ転んで、体を打ちつけた間に、幸人は去っていった。思い出して、痛みが増してきたように思う。これから、大事をとって病院に行くが、病院では治らない痛みだった。
「なんで、ユキトはあそこまで庇うんだよ」
確かに、泣かせたのは悪かったかもしれない。けど、自分はずけずけ正論で人を攻撃して、浮気までしておいて、都合が悪くなったら泣くなんて。それでも男か、という気持ちになる。泣いたら助けてもらえるなんて、どれだけ甘やかされてるんだろう。自分は泣いたって、助けてくれる人間なんていなかったのに。だから、こうして戦って椅子を勝ち得るしかなかったのに。
幸人はそこを、理解してくれていると思ったのに。
「なんで、ひなつは人に対してそんなに突っ込むんだ?」
転校したての頃、幸人に聞かれた、今日みたいに、本気でぶつかったら、相手が殴り掛かってきたのを、幸人が庇ってくれたのだ。幸人が代わりに殴られて、さすがに悪かったし、気持ちがありがたかった。幸人の誠意に応えたいと、日夏は話した。
「裏でいろいろ言われてるガキだったから、はっきり言ってほしいんだ」
と。幸人は納得してくれた。そして、「でも、危ないからああいうのはよすんだぞ」と心配してくれた。
あんまりわかってないんだな、と苦笑したけど、幸人のそういう「いい奴さ」が好きだった。
瀧見家に迎えられたのは、日夏が七つの時だった。それまでは、母と二人で暮らしていて、父は、家に訪ねて来てくれていた。父親が、いつも家から「帰って」いく理由はわからなくて、泣いてすがったものだ。だから、一緒に暮らそうと言ってくれた時は本当に嬉しかった。
けれど、家には腹違いの兄が二人いたのだ。父は、自分だけの父ではなかったのだ。ショックだった。
それから、日夏は父に何度も尋ねたものだ。
「お母さんと前のお母さんとどっちが好き?俺とにいちゃんたちとどっちが好き?」
と。幸い父は、自分にうそをつかなかった。まっすぐ目を見て、「お前の母さんと、お前が好きだよ」と言ってくれた。だから、辛かったけど裏切りを許した。
問題は、兄たちだった。
日夏より、五つと七つそれぞれ年上の兄たちは、日夏のことを、ちゃんと迎えて「くれた」。そう――「くれた」のだ。遊んでと言えば遊んでくれたし、勉強だっていつも教えてくれた。わがままだって聞いてもらえた。
受け入れてもらって安堵した、などと母は言っていたが、日夏にはわかった。兄たちは、自分のことが、嫌いなのだと。
笑う目の奥に、いつもなにか笑み以外のものが見えたし、優しいことをいう口は、嘘くさかった。どうにも気味が悪くて、でもそれを母には言えなくて、辛かったものだ。
だから、兄たちが屋根裏部屋で日夏と母の悪口を言っていた時、傷ついたけどむしろどこかすっきりした。
遊んでもらおうと部屋に行ったら、兄たちは何か話していて、虫の知らせで、日夏は足音を消して、耳をそばだてた。
「本当に、息がつまるよ」
「ああ」
疲れ切った声だった。日夏の母を「母とは思えない」とか、「死んでいった母さんが浮かばれない」とか、いろいろ言っていた。表では、あれだけにこにこしていたくせに。日夏はショックと同時に、怒りが這い寄ってきた。
「でも、日夏は子供で、関係ないですよ」
「わかっているさ。だからちゃんと接しているんだ」
兄たちは、日夏のことも悪く言った。
「それでも、腹が立つよ。『どっちが好きか』などといちいち聞かれるとな」
「それは、たしかに」
「子供に敬意なんて求めても仕方ないが。あの子は、少し欲しがりなんじゃないかな」
そこで、もう我慢ならなかった。屋根裏部屋に乗り込んで、持っていたチェスボードを、兄たちに向かって投げつけた。兄たちは、ぎょっとした顔をして、あわてて「ひなつ」とつくろおうとした。それにもっと腹が立った。
「隠してんじゃねえ!こっちは全部聞いたんだからなっ!」
くやしさに、ぼろぼろ涙がこぼれる。けれど、口はよく回った。「嫌いなのはばれてた」とか「嘘つくなんて最低だ」とか、思いつく限り、兄たちがいかに卑怯か、叱り飛ばしてやった。兄たちは、呆然としていた。
騒ぎを聞きつけて、使用人たちがやってきた。
兄たちは、父に厳しく叱られたが、日夏の心がそれで癒えたわけではなかった。社会は「いい人」だと、「立派」だと兄をほめる。その時の騒ぎに対しても、「無理はない」と同情的だった。
それ以降、日夏は、嘘を――そして、外面だけの善人を憎悪するようになった。
そしてそういった人を嗅ぎ当てるのが、日夏は恐ろしくうまかった。だから、そのぶん、いっぱいもやもやすることも傷つくことも多かったのだ。
人とちゃんと付き合うには、ちゃんと気持ちを全部打ち明けてくれないと嫌だし、しない人間は信用できない。それに、その人自身も、不幸だ。誰にも気持ちを打ち明けないのは、独りぼっちの証拠だから。
それが、日夏の信条だった。
実際に、兄たちは改心してから、気持ちに向き合ってくれるようになり、本当の善人になったし、毎日安息して、幸せそうだ。
「こうして打ち明けられてよかった」
と、兄をはじめ、心を開いてくれたひとたちは、日夏にみんなそう言った。だから、自分の正しさを確信した。正直にあらないと、人は不幸になるし、人のことも不幸にする。
幸人は優しくていい奴だ。なのに、どうして皆見のことを庇うんだろう。優しさを、はき違えてる。
日夏は苛々と爪を噛んだ。



