薄くオレンジ色になりかけた空を見つめながら、黒川悠希(くろかわゆき)は閑散とした校舎裏を歩いていた。土を踏む己の靴音だけが響いている。
 ——疲れた……。
 両腕を上げて軽く伸びをした。今日はとんだ厄日だった。
 どこから噂を聞きつけてきたのか、一つ年上の上級生に呼び出されてしまい喧嘩をふっかけられたからだ。
 過去に父親が空手の道場を営んでいたのもあり、小さな頃から生徒と一緒に稽古をつけられていた。
 あまり身長は伸びなかったけれど、護身術としてとても役にたっている。
 何故かこの辺を仕切っているヤンキーだと偽情報を流されていて、鵜呑みにした輩にこうして絡まれる事も珍しくない。
 真面目まではいかないが、至って普通の男子高校生なのに……。
 迷惑以外の何者でもなかった。
 心底煩わしい。骨格が細くて中性的な容姿なのもあって、楽に勝てるのだと思われているのだろう。
 見た目こそこうではあるが、悠希は黒帯所持者である。
 そこらのヤンキーにも引けは取らない。自分から喧嘩を吹っ掛けはしないが。
 悠希は大きなため息をついた。
「平肉屋のコロッケが食べたい」
 乱れてしまった制服を整えて学校を出る。
 学校から家までの途中の道のりには、ちょっとした飲食店街があった。
 そこを抜けると亡き父親が師範をしていた道場があり、もう少し進んでいくと肉屋がある。そこで売っている自家製のコロッケとメンチカツが格別に美味いのだ。悠希行きつけの店だ。
 コロッケ目当てに歩いていると、その店と店の間から人の足らしきものが見えて足を止めた。
 ——何だあれ……死体とかじゃないよな? まさかな。
 内心ドキドキしながら近付くと、その足の主がかったるそうに上体を起こす。
 攻撃されると思ったのか、やたらこちらを見る眼光が鋭い。寒気がするほどの威圧感に気圧されてしまった。
 ——喧嘩でもしてたのかな?
 強そうだな、と思うと不覚にも心が躍る。しかし座るまでは倒れていたのを思い出して、怪我人かもしれないと声をかけた。
「あんた何で倒れてたの? 何処か痛いのか? 必要なら救急車呼ぶよ?」
「……」
 男が無言のまま見つめてくる。問いかけた言葉に返事はなかった。
 ぐぎゅるるるる……。
「へ?」
 男の所から盛大な腹の音が聞こえてきて目を瞠る。
「……昨日から、何も食べてない」
「あはは、まさかの腹ペコかよっ。ちょっと待っててくれる?」
 悠希は肉屋から二人分のコロッケとメンチカツを買うと、半分を男に差し出す。
 じっと見つめているようだったが揚げたての香りに誘われたのか、男がコロッケに齧り付く。どこか面食らったような顔をしていた。
 結構な大きさがあったコロッケが二口で男の口内へと消えていった。
「美味いだろ? オレもここのコロッケ好きなんだ。そのメンチカツも美味いぜ?」
 男がパクリと食いつく。
「美味い……」
「なら良かった」
 ニッコリと微笑んでみせた。「え……」と言葉を発した男が体を硬直させている。
 ——ん? なんか変だったか?
 見つめられているのは分かっていたけれど、気が付かないフリをして食べ終わるなり腰を上げた。
「お前、名前は?」
「オレ? オレは黒川悠希。あんたは?」
蓮水然(はすみ ぜん)
「蓮水か」
「然でいい」
「んじゃ、然な。お腹膨れただろ? もう喧嘩しないでちゃんと帰れよ。じゃあな!」
 手を振って帰路につく。それが然との出会いだった。





 然と会って三ヶ月が経過していた。
 今日のクラス内は朝から賑わっていて、慌ただしさまでもがある。
 何でも転入生が来るらしく、しかもその生徒がイケメンだとかで女子の裏返った黄色い声が飛び交っていた。
 さして気にもせずに窓際からボンヤリと外を眺めていると、騒がしかった教室内がもっと騒がしくなったのが分かった。
「悠希、見つけた!!」
「へ?」
 突然両脇に手を差し込まれて持ち上げられたかと思いきや抱きしめられた。
 人目を気にする余裕などなくされるがままになっていたが、あまりにも長いので己を持ち上げている主の頭を叩く。
「いい加減にしろ! 誰だよあんた!?」
 少し体を離されたので初めて顔を拝めた。そのまま動きを止める。
「あれ……あんた前に会った腹ペコ男じゃないか」
「同じクラスで安心した。違うクラスなら、悠希と同じクラスになれるまで暴れようかと思ってたから」
 ——うん、同じクラスで良かった。
 名指しでこの190センチはありそうな大男に暴れられたら全校生徒に名前を覚えられそうだ。そんな恐ろしい事にならなくて良かった。本当に良かった。
「何だやっぱり黒川の知り合いか。同じクラスにしといて正解だったな。こいつが暴れると先生止める自信ないわ。んじゃ皆席につけー。転入生は、と……」
 ——アンタ教師だろ! 止めろよ!
 教師がクラスをぐるりと見渡している。空いている席をさがしているのだろう。
 然だけは悠希の真横の生徒をガン見していた。
 ——脅すな脅すな。目、見開き過ぎだから……。瞬きを忘れるな。あいつめっちゃ脂汗かいてるじゃないかよ。
 あまりにも不穏な空気を察した生徒が飛び上がらんばかりに席を立つ。
「せせせ先生〜僕目が悪いので前の空いてる席に移動したいので転入生はここの席でも良いですか?」
 プルプル震えながら、真横に座っていた男子生徒が荷物をまとめて逃げるように席を離れていく。
 ——あいつ、目ぇ悪かったっけ?
 そんな事実はなかった気がする。
「そうか? なら蓮水は黒川の隣に座ってくれ」
「分かった」
 もしかして己はとんでもない男を餌付けしてしまったのではないか? そんな考えが脳裏をよぎった。
 ため息をついた悠希とは対照的に、然はかつてない程に上機嫌で、隣でぶすくれている悠希を眺めていた。
 ——面倒な事になったな……。
 授業が開始されたものの、然は前を向かないままずっとこちらを見ている。
 たまにチラリと視線をやるとバッチリ目が合った。
 教師の逆鱗に触れ幾度となく当てられるが、全問正解なのもありやがて教師たちは何も言わなくなった。
 ——転入してきたばかりで頭も良いとかズルくね?
 ムカつくので、腕を伸ばして然の頬をつねる。然はドロドロに蕩けた甘い顔をするだけでちっとも堪えた様子はなかった。
「然、次体育だから案内するよ」
「今行く」
 歩きながら女子生徒が然を見てキャーキャー言いながらはしゃいでいた。聞こうとしなくても耳に入ってくる。
 当然と言えば当然なのかもしれない。然はバスケ部員やバレー部員並みに長身でガタイもいい。
 その上、モデルだと言われても違和感ないくらいに顔も整っている。
 ——隣歩くのヤダなー。
 平均身長にも満たない己からすれば羨ましい事この上ない。比べられるのが本当に嫌だ。
 ——くそ、縮んでしまえ。
 単なる妬みだと分かりながらも、心の中で悪態をついた。
 体育館につき、先ずは体操着だけを取り出して先にロッカーに荷物を詰め込む。しかし、制服のシャツを脱いだ瞬間にズボッと体操着を頭から被せられた。
 ——曲芸かな……。
 意味が分からない。
「破廉恥」
「いや……体育なんだから脱ぐだろ普通。つうか破廉恥なんて言う奴お前くらいだぞ。じいさんかよ!」
「悠希は駄目。誰かが見てたらどうするの?」
「オレの裸なんて見ても誰も得なんてしないよ」
 笑った。
 ——訳わかんねえなコイツ。
 上半身を見られたからって男なのだからどうって事ない。
 空手をやっているのもあって細身ながらも多少は筋肉もついている。見られて恥ずかしい程に貧相な体はしていない。
「オレは変質者かよ。然て変。おかしい」
「こんな可愛い変質者なんていないよ。悠希は連れて帰って愛でたいくらい可愛い。拐われないように俺が一生守るから」
「は?」
 カチンときた。
 ——可愛い……だと?
 しかも二回も言われた。
 己にとって〝可愛い〟は禁句だった。もはや地雷に近いレベルで言われたくない言葉になっている。
「お前がオレに喧嘩売ってんのは分かった。もう然なんて知らない」
 言い合いをしていると「お前ら授業始まるぞ」というクラスメイトの呼び声に、慌てて着替え終わるなり体育館の集合場所に向かった。
 ——ああ、イライラする。
「悠希?」
「……」
「悠希、怒ってる? ごめんね?」
 わざと無視を決め込む。
 気分は絶賛急降下中。吐息すら合わせるように隣に張り付いてくる然の存在が今は煩わしくて堪らない。
 体育が終わって次の授業に移っても気持ちの切り替えが出来なくて、窓の外ばかりに視線を走らせる。
 昼食の時間になってようやく気持ちが落ち着いてきたら、少し申し訳ない気持ちになってきた。
 然は転入してきたばかりだし、己が〝可愛い〟と言われるのを嫌いだと知らない。
 ——もし知っていれば言わなかったかもしれないよな……。
 やっと己が子どもじみた怒りをぶつけていたのだと気がつく。
「然てさ、買い弁? 持ち弁?」
 声をかけると然が大きな尻尾を振り回さんばかりに表情を明るくした。
「持たされた」
「じゃあ、一緒に屋上……行かないか?」
 バツが悪くて俯く。正面から視線を合わせられなかった。
「行く」
 二人で屋上に続く階段を上がって外に出る。真っ青な空がどこまでも続いていて、風が心地良い。
 校舎の影に移動して鞄から弁当を取り出し、そして固まった。
「何で重箱!?」
「? これ弁当じゃないの? 料理人たちが作った物をいつもコレに入れて、家政婦たちが持たせてくれるよ?」
 ——然てもしかしてとんでもなく良いとこの坊ちゃんなんじゃないのか?
 コロッケとメンチカツに満足気な顔だったので予想だにしていなかった。
「然て何者?」
「普通だと思う」
「普通は重箱で弁当持ってこないし、料理人も家政婦もいないぞ?」
「そうなのか?」
 首を傾げているのが小憎たらしい。何だか怒っていたのが馬鹿みたいに思えてきて、声に出して思いっきり笑った。
「はははっ、お前めちゃくちゃな奴だな。腹減らして道端に行き倒れてるし、なのに重箱弁当てなんだよそれ。ホント変な奴」
 然が呆けた顔をして見つめていた。
 若干顔が赤くなっているのは陽射しのせいだろうか。
「あのさ、然。オレ可愛いって言われるの嫌いなんだ。こんな顔だし昔からこれをネタに揶揄われてるから本当にすっげえ嫌い。だからさっき怒ったんだよ。然は知らないのにごめんな。あと、こんな見てくれだけど空手段持ちだから守って貰うほど弱くないぞ。だからあまりそういうの言ってほしくない」
「そっか。嫌われてなくて安心した。ごめんね。もう言わない」
 さっきからずっと見つめられている気がした。
「どうかしたか?」
「何でも……ない」
 ——もしかしたら何か幻滅させてしまったんかな。
 顔を赤くしたまま視線を泳がせ、挙動不審になった然の顔を下から覗き込んだ。
「ぜーん?」
「〜〜っ!」
「お前さっきから何でそんなに顔赤いんだ? 熱でもある? 保健室行くか?」
「平気。何でもない。悠希もこれ一緒に食べる?」
 然が重箱の蓋を開ける。視線は中身に釘付けになった。
「え、いいのか!? 凄い!! 高級料理店のパンフとかに載ってそう!」
 悠希の表情に花が咲いたのと同時に然の顔はまた赤くなる。
 ——え、何? またまたどうしたんだろコイツ。
 然が分けてくれた彩り鮮やかな弁当を口の中に入れた瞬間に、世界が輝き出した気がした。
「うっま!! 何これ!」
 然はやはり良いとこの坊ちゃんだ。悠希はそう確信すると納得するように一人頷いた。
 隣で何故か然が地面に転がっていたのでまたまた首を傾げる。
「どうかしたのか?」
「かわ……っ、あの頃のままとかズルい……っ、ん゛ん゛ん゛、いや……何でもない」
 ——変な奴だな。
 口の中に広がる旨みを噛み締め、然の持ってきた重箱弁当を堪能したのだった。



 ***



 悠希の生活の中に然が突然入り込んできて一ヶ月が経過していた。
 昔から友人だったかのように馴染んでしまったのは、然のスキンシップが過多だからだろう。
 腰を抱き寄せられるのは始めこそ抵抗感があったものの、一週間も経つと諦めの念が出た。
 今じゃされるがままだ。
 力の差は歴然としているし、然は口で言っても辞めないので放置していると言った方が正しいかもしれない。
「悠希、こっち」
 今日も席に腰掛けていると抱き上げられてまで膝の上に座らされた。今そのままの体勢でスマホを弄っている所だ。
「悠希、誰にメッセージ?」
「んー、母さん。今日会社の飲み会で遅くなるからご飯適当に食べてってさ」
「ならうちに来る? そのまま泊まればいいよ。明日一緒に学校行こ?」
「それ良いな。お前んち広いしベッド大きいから好き」
 予定は決まった。即行で母親にメッセージすると「OK」と返事がくる。
 母子家庭同士、互いの母親も意気投合したのもあって、今では親公認の友人関係になっていた。
 平日でも構わずに寝泊まりするくらいだ。
「悠希来るの楽しみ。早く放課後にならないかな」
 首筋に顔を埋められる。然の柔らかい癖っ毛が皮膚を掠める度にくすぐったくて笑いを溢すと、然に再度髪の毛攻撃された。
「ふはは。ちょっ、然、やめろ! くすぐったい!」
「悠希は首筋弱いよね」
 ペロリと舐められる。
「おい、だからそれやめろって! くすぐったい!」
 しばらくの間そんなやり取りをしていたら、周りから注目を浴びているのに気がつき無理やり然の頭を退ける。
「なあ、お前らって付き合ってんの?」
 そう聞いてきたのはクラス内のムードメーカーでもある陽キャの男だった。
「何でだよ」
「空気感ヤバくね?」
 何がヤバいんだろう。意味が分からない。
「普通に友達だけど?」
「え? ええーーー……」
 困惑気味に視線を逸らされた。
「友達の家に泊まったりするだろ?」
「まあ、するけどさ。お前らが言うと妙に艶っぽいっつうか。怪しく聞こえるっていうか」
「はあ? 何言ってんだよ」
 ますます訳がわからない。何故かドン引かれてしまったので正面から見つめる。
「普通の友達はそんな距離感ゼロの付き合いはしないし、膝の上にも乗らない、首筋にキスもしないもんだよ。お前らの距離は友達超えてると思うんだけど……」
 大きく瞬きした。まさかそんな事を言われるとは思ってもみなかったからだ。
「人それぞれだろ。然は見た目怖いけど案外甘えたなんだ。大型犬みたいで可愛いだろ?」
「それ黒川にだけ。周りの奴らには番犬兼ね狂犬。全然可愛くない。黒川に近付くと睨んで……「悠希に変な事を吹き込まないでくれる?」……」
 言葉尻を奪い、然が言った。
 然の事を「番犬」と称した件には納得がいく。絡んできていた上級生が寄り付かなくなったからだ。
 番犬で間違いない。うん、ありがたい。然が盾になってくれているのだと思う。
「黒川は? 蓮水をどう思ってるんだ?」
 言われてみて初めて然との関係や距離感を考えた。
 距離感ゼロと言われても、もうこれが普通になってしまっているし大切な友人でもある。今更離れるのは他人行儀な気がして嫌だ。
 然が触れてこないのは違和感がある。
「然とは初めっからこんな感じだから今更変えるのもなー……。然と居るの楽しいし。オレは今のままが心地良い。然の隣はオレ。オレの隣は然が良い」
 振り返るなり然に視線を向けて頭を撫でてやった。どことなく嬉しそうに見えて、様子をうかがうように顔を覗き込む。
「なんか良い事あったのか?」
「悠希が撫でてくれるのが嬉しい」
 甘えるように掌に頬を押し当てられる。場所が場所だけに掌に唇が当たった。柔らかくキスされている気がしてドキリとしてしまう。そんな訳ないのに。
 どうしてこんな気持ちになるのか分からなくて、モヤモヤを誤魔化すように胸元を掴んだ。
 その様子をジッと見つめて観察されていたらしい。
「あー、なるほどね。そういう事か。やっと分かったよ。邪魔してごめんな。噛まれん内に俺はどっか行くわ」
 ——何が?
 一人納得したクラスメイトが颯爽とその場を去っていくのをポカンと眺める。
 こちらの疑問は置いてけぼりにされ、妙なモヤモヤと意味不明な胸の昂まりだけが己の中に残った。



 ***



 半年くらい経って妙な噂を耳にするようになった。
 夜な夜な然が何処かの族と喧嘩しているというものだ。初め耳にした時、出会った時の然を思い出してしまって落ち着かない気持ちにさせられた。
 しかもメイクで隠してはいるが、打撲痕のようなものが顔や体にある。只事ではない気がして声をかけた。
「然、今日空いてる? 家に行きたい」
「ごめんね。しばらくの間予定が埋まってるんだ」
「そか。それなら仕方ないな」
 ——用事って何……? オレより優先する予定って何だよ?
 こんなのは今まで一度もなかった。
 先に帰っていく然の後ろ姿を見ていると、胃がムカムカして気分最悪になってくる。
 ——オレに飽きた? それともオレの他に気の合う友達でも出来た? もしかして彼女?
 どちらにせよ面白くなかった。
 然が己以外を優先するのが面白くないし腹がたつ。
 何か己には言えない理由があるのかもしれない。でも話して貰えない事も悔しくて、また寂しく思えた。
 ——あーもうムカつく! オレを悩ませる然が悪い! お前の隣はオレの場所だろ!!
 理不尽な怒りが爆発する。
 この目で実際真偽を探ってやろうと、学校が終わってから然の後をつける事にした。
 30m先を歩く然の後ろを追いかけていく。すると、普段は通らない道を迷いなく歩いて行き、ある建物の前で足を止めた。
 ——何しに行くんだアイツ?
 潰れたゲームセンターなんてガラの悪い奴らの溜まり場だと相場が決まっている。然は戸惑いもせずに中へと入っていった。
 周りを見渡して、悠希も後に続く。
「よう、然。今日も逃げずに来たな。気は変わったか?」
「変わらない。俺はもう抜けると言った。やるならさっさとしてくれない? その代わり約束は守ってよね。俺らには手を出すな」
 会話の途中で男が然の鳩尾に蹴りを入れる。苦悶に表情を顰めた然が男を睨んだ。
「十日間耐えられたら族を抜けて良いってやつか。ああ、良いぜ? その代わりに今度はお前が最近連んでるってダチだけを標的にしてやるよ。約束したのは二人って話だから約束は破ってないぜ?」
 下卑た笑いがゲームセンターの中に響いていた。十人……いや、二十人くらいはいそうだ。
「あ゛? てめえ……」
 片膝をついた然が立ち上がる。嫌悪感を露わに冷めた視線で誰かを見つめる然は初めて見た。
 ——なるほどな。これのせいか……。
 然の怪我も、己に秘密にしていた理由も分かった。
 それを踏まえてその場に飛び込む。
「然!!」
「悠希?」
「何だ、自分から来ちゃった……ごふっ!?」
 近寄ってきた男の足を払って思いっきり地面に叩きつけるなり、鳩尾に肘をいれると男は動かなくなった。
「オレは守られる程弱くないって言っただろ、バカ然。やるならオレも混ぜてくれよ」
 体をくの字にして然が笑う。
「悠希って最高。昔から負けず嫌いで強くなろうと我慢しながら泣いても努力やめないし。もうホント……見てて飽きない」
「え?」
 ——昔から?
 流石に動揺した。
 話していられたのもそこまでで、残っていたヤンキー相手に二人で相手をする羽目になってしまった。





 こんな土埃や青あざだらけで家に帰るわけにもいかずに、結局然の家に行く事になってしまった。
 そこでシャワーを浴びた後で手当を受けて二人してベッドの上で転がっている。
 汚れた制服は家政婦がクリーニングに出すからと新しい制服を手渡され、持って行った。
 ——どうしてオレのサイズを知っているんだろう……。
 恐るべし蓮水家である。
「さすがに二十人はしんどかったね」
「確かに。久しぶりに全力で喧嘩した」
 先輩に呼び出されてもせいぜい二〜三人といったとこだったから、今日の出来事は疲労困憊もいいとこだ。
 横向きになって然と目が合うなり、訳もわからず笑えてきて二人で笑った。
 散々笑った後で、真っ直ぐに視線が絡んだ。
 心臓がトクリと温かい音を刻む。
 ——ああ、やっぱり安心する。
 一緒に居るのは然が良い。然の隣は心地良い。どうしてなのか考えて「ああ、そうか」と思い至る。
「オレ、たぶん然が好きだ」
 率直に言葉にしてしまった。だから離れて行こうとしているように見えた然を見て腹が立ったし面白くなかった。
 ——然はオレの……。誰にも渡したくない。
「お前の一番はオレじゃないと嫌だ。然の隣に居るのはオレがいい……、て、あ……」
 独り言のようにそこまで言って、ようやく勢いで告白してしまったのだと気がつき青ざめた。
 ——やっべぇーー! うっかり口を滑らせた!!!
 せっかく風呂に入ったのに滝のような冷や汗が流れる。
 然は口を半開きにしたまま瞬きもせずにこちらをガン見していた。
「いや……他意はないんだ。その……友達としての好きだ……悪い忘れてくれ……オレ今日はやっぱり家帰るわ!!」
 慌てて起き上がるなり逃げようとした腕は然に引かれてしまい、ベッドの上に押し倒される。
 マウントポジションを取られると心臓の音が痛いくらいに跳ね上がり、一気に顔面の熱が上がった気がした。
 どんどん近付いてくる然の顔を見れなくて目を瞑ると、意に反して鎖骨の上に額を乗せられる。
 キスされると思っていただけに、残念のような、これで良かったような複雑な気持ちになった。ただ身体機能はバグっていてまともに作動してくれない。
 ——近い近い近い近い!
 普段はもっとくっ付いているくらいなのに、今は酸欠になっているかのように目が回っていて気が気じゃない。
「初めて悠希を見た時……何で泣いてるのにそんなに頑張ってるんだろうって思った。でも次見た時は悔しそうにしてて、泣くのを必死に堪えてた。三度目に見た時、花が咲いたように嬉しそうに笑ってて、大人の男の人に頭を撫でられてた。ああ、この子はきっとその人に認めて貰いたくて褒めて欲しくて頑張ってたんだなって思いながら毎日ずっと見てたよ」
「え?」
 然の言う男の人というのはきっと父だ。認めて貰いたかった。よくやったな、と褒めて欲しかった。そんな父は7年以上も前に他界している。生存していた時の話だと10歳くらいの話になる。
 そんな前から知られていたなんて思ってなかった。
「俺、その時からずっと悠希だけを見てたよ。表情がコロコロ変わる頑張り屋さんの悠希が堪らなく好きだ。でもその後すぐ引っ越しちゃって、去年うちの両親が離婚してこの街に母さんと戻って来たから悠希を探してたんだ。悠希の事はガラス越しに見てただけだったから名前は知らなかったし、記憶を頼りに道場の場所をウロウロしてた。道場はもう潰れてたから八方塞がり。そんな時にさっきの奴らに絡まれるようになって、気がついたら族に加入させられてた。それからは喧嘩三昧。悠希がコロッケとメンチカツくれるまでは」
 一度言葉を切った然がため息をつく。
「まあ、おかげで転校する羽目になってそこに悠希がいたから結果的に良かったんだけどね。あの時見た同じ笑顔だった。変わってなくて嬉しかったよ」
 ただただ驚きしかなかった。父が病気で他界してからは、その時の道場はもう手放してしまっている。
「あの時……倒れてたのって……」
「悠希探してたら飯食べるの忘れてた。因みに重箱も態とだよ。どうしても悠希と一緒に食べたかったから、悠希の興味を引くように料理人たちにお願いしたんだ」
 ——うぅ、何か物凄く居た堪れない。
 小っ恥ずかしくなってきて、顔が熱くなった。
 聞こえるんじゃないかと思うほどに心音が激しくて、血の巡りが良すぎて鼻血が出そうだ。
 それなのに、然がゆっくりと顔を上げようとするから思わずその頭を掴んだ。
「ダメだ! 然……今は顔を上げないでくれ。オレを……見ないで」
 今までかつてないくらいに変な顔をしている自信がある。無理やり押さえつけていた両手を取られて顔を覗き込まれた。
 こちらの熱気にあてられたのか、然の顔も一気に赤くなっていく。
「か、かわ……っ、ん゛ん゛ん゛!!」
「〜〜っ!」
 二人してベッドの上にうつ伏せて顔を隠す。胸の高鳴りが治まるまで物凄く時間がかかった。
「う……っ、然のバカ」
 弱々しい声音になる。
「悠希を好きでいていいなら、バカでいい」
 その後、然の家の家政婦が食事だと呼びに来てくれて、テーブルについてからも目が会う度に互いに赤面する羽目になって困った。




 気持ちを自覚してしまうと、何故か今まで何とも思わなかった行為一つ一つが気恥ずかしくて大昔のロボットのようにぎこちない動きになってしまった。
 然の気配がするだけで、隣にいるだけで心音が高鳴る。触れられようものなら酸素が足りなくなって眩暈がする。
 ——倒れそうだ……。
 視線さえ合わせられなくて俯く。
「然、あの……」
「俺いま悠希が嫌いな言葉を連発したい。ダメ?」
「!!」
 ——それってつまり……。
 そんな熱の籠った目で見るのはやめて欲しい。気恥ずかしくて堪らない。まさかあの禁句でこんな気持ちになる日が来るなんて思わなかった。
 ああ、ダメだ。本当にダメだ。心臓がもたない。
「ダメ……オレの心臓が止まる。勘弁してくれ」
 教室でコソコソと会話していると、近くの席にいたクラスメイトに交互に顔を見られていた。
「お前ら本格的に付き合いだしたのか?」
「付き合……っ!?」
「まだ。これから慣れさせてからだよ。その前に全方向完全に包囲はしたけれどね」
 然の声が弾んでいる。
 言葉にされるとまた心音が激しくなってきて挙動不審になってきた。
 このまま不整脈や心不全で倒れそうだ。
 脳に酸素が回らなくなってきて、机の上に上体を倒す。
 ——ムリムリムリムリ。恋愛初心者にはムリ。慣れそうにないよ。
「息しろ、黒川。つうか、いつもこれ以上に小っ恥ずかしいやり取りしてたのに気持ちに気がついた途端にウブになるって何なん?」
 呆れた口調で問われる。
「うるさい……分かっててもどうにもならないんだよ。然に触れられると心臓止まりそう……っ、今はムリ!!」
「ふはっ、マジで恋じゃん!」
 自分でも思う。本当にどうしてあんなにベタベタと然と絡めていたんだろう。おかしいと言われた意味がやっと身に染みて分かった。
 しかも気がついた時には既に時は遅く、執着男だった然にあらゆる方面から退路を絶たれていて逃げ場がない。今はもう悠希に近付くのは然のみだ。
「悠希、これからもずっと大好きだよ」
 甘く蕩けた表情で然に囁かれる。
 ——それやめろ!!! オレの心臓を破裂させる気か!
 その前に……。
「然……お前、今までのも態とだったのか」
「うん。悠希が手に入るなら俺は何でもするよ」
 朗らかに笑った然にふんわりと抱きしめられて、危うく心臓が止まりかけた。
 ——顔が良いってズルい……。
 ドキドキするのを通り越して、口から心臓が出て来そうだ。
 それでも幸せそうに微笑んでいる然を見ていると、こっちまで嬉しくなってきて、同じように微笑んでから然の頭を優しく撫でつけたのだった。


【了】

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