「あーっ、教科書がねえっ!」

 ユーヤの叫びが、教室に響いたのは四限の数学の時間前のことだった。

「どーしたの?」

 そうマオたちが尋ねるよりはやく、「教科書忘れた〜っ」と言って席を立った。まだ尋ね顔の余韻を残すマオらの脇をすり抜け、ユーヤはつかつかと隼人のもとへやってきた。

「きょーかしょ貸せよっ」

 ばん、と隼人の机を叩いて、ユーヤは言った。隼人は不可解そうに顔を上げる。ユーヤは焦れたように見下ろし、「ん!」と手を差し出した。

「いーだろ、貸せよっ」
「いや、俺も――」

 教科書使うから、その言葉は最後まで音にならなかった。ユーヤは隼人の手にある数学の教科書を掴むと、強引に取り上げた。

「へへ、やーりいっ」

 ごきげんに笑って、席に戻っていった。
 ぽかんと周囲が黙る中、ユーヤはご機嫌に教科書を開く。隼人が我に返り、「ちょっと!」と立ち上がった。

「それじゃ俺が……」
「はぇ? 隣のやつに見せてもらやいーじゃんっ」

 ユーヤはこて、と首を傾げ笑った。「な、いーだろっ?」そう言って譲らない。隼人が言い募ろうとすると、ケンやマオ、ヒロイさんがユーヤと隼人の間に割って入った。

「それでいーじゃん」
「貸してやれよ」
「からあげは友達おーいじゃん?」

 にやにやと笑う目にはすごい険があった。明らかに先のことを根に持っている、ちくちくした言い方だった。

「うおいっ? それじゃ俺が友達いねーみてーじゃんっ?」

 ユーヤが素っ頓狂におどける。彼らはどっと笑った。
 そうしてバリケードを築かれている間に、チャイムがなってしまう。隣の子には、大変気まずげに目をそらされた。
 そして、隼人は教科書なしで授業を受ける羽目になってしまったのだ。

◇◇

「どーもっ」

 昼休みになり、ユーヤに教科書の返却を求めに行くと、すでにパンにぱくついていたユーヤは、おもむろに教科書を隼人に投げつけ返した。
 隼人は大変遺憾だったが、ぐっとこらえて席に戻った。
 龍堂がやってきたのは、そのすぐ後のことだった。

「中条」

 龍堂は教室の扉から、少し身を乗り出して隼人を呼ばった。隼人は一瞬ぽかんとしたが、すぐに「うん!」と立ち上がる。

「どうしたの、龍堂くん」
「数学の教科書持ってるか?」
「うん、持ってるよ」
「悪いけど貸してくれないか? 忘れちゃったんだ」

 こちらをうかがうように、その強い目が隼人の目を覗き込んだ。隼人は、ぱあっと気分が明るくなり、「待ってて」と肩にかけた鞄を開いた。
 ようようと教科書を取り出して、渡そうとする。しかし、そこではたと思い至り教科書の中身をチェックした。何か変なことでも書いてたら大変だ。

「……っ!?」

 隼人は勢いよく教科書を閉じた。背中に嫌な汗が吹き出たのがわかる。お腹の底が、一気に冷たくなった。
 教科書は、おびただしい落書きでいっぱいだった。性器の俗称や、卑猥な絵が、ボールペンで殴り書かれていた。

「中条?」

 龍堂が、隼人を呼んだ。その声に、眼差しに、静かに気遣いが満ちているのがわかる。それで隼人は、余計に泣きたくなってしまった。

「ご、ごめん。龍堂くん。教科書貸せない……」

 消え入りそうな声で、隼人は言った。喉を裂くように痛い言葉だった。けれども、こんな教科書、絶対に貸すことはできない。
 最悪の気持ちだった。
 もう手に教科書は握られているのに、貸せないなんて。意地悪してるも同然ではないか。
 隼人がいたたまれない気持ちで、小さくなっていると……後ろから明るい、けれどどこか棘のある声が割って入った。

「おい、イジワルしてんなよっ! わざと貸さないとかっ」

 ユーヤだった。びし! と指さして隼人を叱りつける。隼人はかあっと顔を赤らめた。羞恥と怒りでである。
 どの口が言うんだ。俺の教科書に酷い落書きしたの、一ノ瀬くんだろう!
 そう、言ってやりたかった。けど、そんなこと言ったら……龍堂に自分の状況を知られることになる。それだけは、耐えがたかった。
 ユーヤはそんな隼人の気持ちを知って知らずか、にっ! と口角をつり上げると龍堂に懐っこく笑いかける。

「ごめんなあ、リュードー! ほら、俺の貸してやるっ!」

 そう言って――数学の教科書を差し出した。
 隼人は唖然とした。
 持ってるじゃないか、教科書……『教科書忘れたっ』というユーヤの言葉がよみがえる。だったら、何で……隼人がユーヤの行動の意図を掴みかけたときだ。
 ケンとマオが、龍堂とユーヤの間に割り込んだ。

「やめとけよ、ユーヤ」
「そーだよ。俺らもまだ後で授業あるじゃん」

 龍堂に仲間が親しくするのが気に食わない、そんな表情だ。ユーヤは、一瞬不快そうに顔をしかめたが、すぐにニコッと笑っておどける。

「いーんだって! おれ、困ってるやつほっとけねーのっ」

 イジワルもな! と、隼人を横目でぎっと睨みつけた。隼人は悔しくて、奥歯をくいしめた。ケンとマオは、これには面白くなかったと見え、さらに言い募った。

「いやその授業がかぶってっかもだしさ」
「そーだよ。それに返ってくっかわかんね〜じゃん」

 マオが龍堂に排他的な目線をよこし、ユーヤに言った。するとユーヤは顔色を変えた。

「リュードーはそんなことしねーよっ!」

 割れんばかりの大声で怒鳴った。
 よ、よ……と余韻が広がる中、しん、と動揺に満ちた沈黙が落ちる。ユーヤの剣幕は凄まじく、ケンとマオが思わず気圧されたほどだった。思わずふたりが、顔を見合わせている間に、オージがやってきた。

「いい加減にしろ、ユーヤ」
「オージ……!」
「自分の面倒も見られないやつが、他人(ひと)に世話をやこうとするな」
「るせえっ、関係ねーだろっ」

 二人は激しく言い合う。隼人は呆然と成り行きを見ていたが、ふと、龍堂が自分を見ていることに隼人は気づいた。「あ、」と声を上げそうになったのを目で制される。
 視線が交わる。
 それだけでわかった。
 龍堂は、片手を軽く上げ、背を向けた。

「うーるーせー! とにかくっ、俺のすることに口出しすんな! ―― リュードー! んっ!」
 
 オージにたんかを切ったユーヤが、くるりと振り返り、教科書を差し出した。
 しかし、その先にはもう、龍堂の姿はなかった。

「あぇ……? リュードー……?」

 しばらくきょとんとしていたが、すべてを察したユーヤが、顔を紅潮させた。唇をくいしめ、ぐるんと背を向ける。――その際、遠心力で、隼人の顔を教科書でぶつことも忘れずに。
 ユーヤは隼人を睨みつけた。

「ジャマすんなよな!」

 唇からのぞいた歯は、酷くくいしめられていた。
 そのままずかずかと席に戻っていくユーヤを、ケンとマオが呆気にとられて見ていた。オージは嘆息し、マリヤさんのもとへ向かった。マリヤさんはこちらを見ていたようだが、目が合うと気まずそうにそらした。
 隼人は頬を押さえつつ、席へ戻る。
 散々な目にあった。
 けど、気分は最悪から浮上していた。教科書どうしようとか、酷いじゃないかとか思わねばならぬこと、思うこともあるのだが……龍堂の目を思い返す。すると、胸がぎゅっと熱くなって、気持ちが優しいものに包まれるのだ。
 龍堂くん、心配して来てくれたんだ。
 身にしみるように、龍堂のやさしさが嬉しかった。
 スマホが震える。マリヤさんからだった。

『大丈夫?』

 ひとこと。けれど、それだけで十分だった。
 隼人は強い気持ちで、席に座り直す。
 大丈夫。何も怖いことはなかった。