最初から破滅の予感がしていた。この学校でまことしやかに囁かれる噂。戦後、この学校の敷地に、大勢の死者がゴミのように埋められていると。
私は都内の私立高校に通う二年生――名前は間崎紀子。夏休み明けの朝、いつもより早く登校した理由は自習室にこもるためだった。成績は中の上くらい。特別に目立つわけでもなく、かといって地味でもない。SNSには明るい高校生活を投稿しているけれど、実際のところ心は塞ぎがちだ。どこかで人間関係に疲れている。そんな私が、この日だけは嫌な胸騒ぎを拭えなかった。
ホームルームの開始時間ギリギリになって、見慣れない男が入ってきた。白いシャツの袖口が微妙に赤く染まっている。大人にしては痩せすぎていて、その瞳には何か――言いようのない焦りがある。
「皆さん、おはようございます。今日からこのクラスを受け持つことになった式澤直樹です。担任の代理で来ました」
教室には奇妙な沈黙が降りた。代理の教師が突然やってきた事情も知らない。そもそも、担任の先生がどうして急に姿を消したのか説明もない。私だけでなくクラスメイトたちも混乱している。それでもやむなく席に着き、いつもどおりに朝のホームルームが始まった。
「俺のやり方で皆さんを立派な大人に育て上げるつもりです。やり方はちょっと変わっていますが、安心してください。真実を暴けば、必ず自由になれますから」
自由になれる――それは何を意味しているのだろう。短い言葉なのに、刃物を突きつけられた気分になった。クラスの全員が息を呑んでいる。隣の席の基井も目を丸くして教師を見つめていた。
授業が始まっても、式澤は全員にひたすら個人的な質問を投げかけた。名前、生まれた場所、家族構成に加え、休日の過ごし方やこれまでに犯したいちばん大きなミスについてまで……どこからがプライバシーで、どこからが教育なのかわからない。妙な違和感がずっと胸に渦巻いていた。教師というより尋問官のようでもある。
質問は昼まで続いた。異常だ。他の授業があるのに、来た先生を追い返すという暴挙。昼休みになると、式澤はようやく職員室へ向かった。私は千夏に声をかけられ、「ねえねえ、何か知ってる?」と訊かれたが、当然何も答えられない。突然やってきた代理教師。説明のない交代劇。彼が言う「真実を暴けば自由になれる」という言葉。その意図がまったく読めない。
心配になって、私は校内で聞き込みを試みることにした。職員室の前と通っていると、式澤の声が聞こえてきた。ドア越しの声だから、誰かと喋っている断片しか聞き取れない。けれど、その声には焦りと狂気が同居していた。
「今度こそ……俺は失敗……お前たちの正体……暴き出して……」
何を暴くつもりなのか。なぜ焦っているのか。そして何より、教師のはずなのに「お前たち」とはいったい誰を指しているのか。疑問ばかりが積み重なる。私は胸の鼓動を抑えられないまま、その場に立ち尽くした。
*
その夜。自宅でSNSを眺めていると、突然知らないアカウントからDMが届いた。内容はただ一言だけ。それは私の心を凍りつかせるには十分だった。
『式澤を信じるな』
いったい誰が何の目的で送ってきたのか。その警告が示す意味は何なのか。私の頭の中には様々な予測と疑いが渦巻きはじめる。あの教師は何者なのか。この学校で何が起きているのか。眠気が遠ざかっていく。
自問している間にも、夜はどんどん深くなる。それでも私は目を閉じられない。得体の知れない暗闇に絡め取られる感覚だけが増していく。
そのとき、スマートフォンが再び震えた。画面にはまた別のメッセージが表示されている。真夜中の警告は、より深い闇への入り口かもしれない。
内容を読みかけた瞬間、私は息を止めた。
そこには、今まで見たことのない衝撃的な言葉が浮かび上がっていた……。
*
『お前のすべてを曝す』
昨夜のDMが、私の世界をひび割れさせた。
席について見渡す。教室にはいつもと違う空気が張り詰めていた。全員が無言で席についていて、やけに静かだ。窓から差す日差しが痛いほど眩しい。
式澤直樹――昨日から担任代理として現れた教師。突然姿を消した本来の担任についてはいまだに説明がない。彼は一体何者なのか。私は彼の言葉と、深夜の警告が示す真意を探ろうとしていた。
一時間目のHRが始まると、式澤は薄い笑みを浮かべて教壇に立った。
「さて……今日から本格的に授業を進めていきます。今後は俺のやり方でクラスの実態を暴いていくつもりです。たしかこのクラスで三名の行方不明者が出てますよね」
教室内には沈黙が重くのしかかる。クラスメイトは目を伏せたり、ぎこちなくうなずいたりするだけ。私は不安をこらえながら、ノートを開くふりをして式澤の言動を観察する。鋭い眼差し、弱点を探し当てようとするかのような姿勢……普通の教師とは違う。まるで敵を拘束するための手段を考えている軍人みたいだ。
その日の授業は昨日の焼き直しだった。式澤は教科書の内容にはほとんど触れず、生徒一人ひとりに質問を投げる。家族構成、目標、そして他人に知られたくない秘密まで尋ねようとする。誰もが一瞬戸惑いながら、誤魔化しながら答えていた。私の番が近づくにつれ、心拍数が上がっていく。
「間崎。君は自分の弱さを認められるか」
名指しされた瞬間、クラス全員の視線が私に集まる。息を呑んで言葉を探す。しかし、式澤の瞳に射すような鋭さを感じ、何も言えなくなってしまう。スマートフォンに残ったあのメッセージが脳裏をチラつくからだ。彼を警戒する自分がいる一方で、何かを暴き出すことに執着する彼の本心を知りたい気持ちもある。
私はごくりと唾を飲み込んだ。
「……まだ、わかりません」
自分でさえ気づいていない弱さ。もしかすると、あのメッセージはそういう部分をえぐり出すための仕掛けかもしれない。式澤は私を見据えて、静かに頷いた。私はその視線に釘付けのまま、次の問いかけを待つ。けれど、彼は何事もなかったかのように次の生徒へ質問した。単調だけど不穏な時間がじわりと続いた。
休み時間になると、千夏が隣の席から小声で話しかけてきた。
「紀子、何か知ってるの……? あの先生、本気でヤバい気がする。大人のすることとは思えない」
私は答えに詰まる。メッセージのことはまだ話すべきじゃない気がしていた。根拠はないが、誰かに漏らせば何らかのトラブルが生じそうな危うさを感じる。
昼休み、私は校舎裏の喫煙エリアにこっそり向かった。もちろん高校生だからタバコを吸うわけではない。授業中に生徒が来ることはありえない場所……そこなら誰にも邪魔されずに考えを巡らせられると思ったからだ。秋の風が冷たく頬をかすめる。スマートフォンを取り出して、あのアカウントを再確認する。送り主の正体は依然不明。フォロワーもゼロで、プロフィールもほぼ空欄。手がかりなどないに等しい。
そのとき、表示されていた通知に目が止まった。同じアカウントから新たなメッセージが届いている。しかも未読を示す数字は「1」じゃない……「3」だった。夜中に同じ人物が立て続けに送ってきたのか、それとも別の誰かなのか。
メッセージを開こうとした瞬間、私の心臓が跳ね上がる。後ろに誰かの気配を感じたからだ。振り向くと、そこには式澤が立っていた。担任代理のはずの教師が、授業中のはずの時間帯に何をしているのか……疑問はすぐに恐怖へと変わる。
「間崎」
式澤の声は低く、はっきりと響いた。その視線は私のスマートフォンに向かっている。内心を読み取ろうとするように、じっとこちらを見据えていた。
「何か隠してるのなら、早めに吐いたほうがいい。嘘の上に立った世界なんて、いつか必ず崩れるからね」
私は目をそらしたくなる衝動を必死にこらえる。誰にも言えない――言いたくない秘密が私の中にあることを見抜かれている気がした。しかし、この場で逃げ出すわけにはいかない。学校という閉ざされた空間で、彼からはそう簡単に逃れられないのだ。
「どういう意味ですか……?」
式澤はわざとらしく時計を見たあと、少しだけ笑みを浮かべた。
「授業に戻りましょう。今はまだ、いい」
式澤はそれだけ言い残して、ひっそりと教室の方へ戻っていく。私は残されたまま、強い風に吹かれながら立ち尽くした。スマートフォンの画面は暗転してしまい、メッセージを開く機会を失っていた。
本当に何が起きているのか。あの警告は誰が、何のために。式澤は何を暴こうとしているのか。私にはまだわからない。だけど、このまま放置しておけば、どこまで深みにはまるか予想もできない。そう感じていた。
放課後、下校時刻になっても私は教室を出られずにいた。ぽつんとひとりぼっち。SNSに、また新たな通知があるかもしれない。けれど、開く勇気が出ない。もしかすると、そこには私が逃げ出したくなる現実が書かれているかもしれないから。
やっと意を決してスマートフォンに手を伸ばそうとしたその瞬間、扉の向こうから足音が近づいてきた。誰だろう……心臓の鼓動が速まる中、私は無意識に息を止めた。入ってきたのは――式澤直樹だった。彼は私の席の前まで来ると、ゆっくりと口を開く。
「君のスマートフォン……面白いものが入っているね」
どうして私のスマートフォンの中身を知っている……? 私は言葉を失って立ち上がりかけた。それでも彼は続ける。
「明日の昼休み。屋上で待っている。……そこできちんと話そう」
その言葉を残して式澤が教室を出ていったあと、私は座ったまま動けずにいた。彼が何をどこまで知っていて、何を私に暴かせようとしているのか。疑問は尽きない。窓の外には夕暮れが迫っているのに、頭の中にはずっと夜の闇がこびりついた感覚。
どちらにせよ明日、私の秘密が暴露されるのかもしれない。そして、あの正体不明のメッセージを送ってくる人物が指し示すもの……すべてが結びついたとき、何が起きるのだろう。
止まらない思考が一周しそうになる頃、チャイムが鳴り響いて校内放送が流れ始めた。そのアナウンスの声をただぼんやりと聴きながら、私は胸の奥の不安と対峙する。逃げ場はもうないのかもしれない。
そのとき、ポケットの中でスマートフォンが再び振動した。画面を確認すると、例のアカウントから新着のメッセージが届いていた。開くか、開かないか――私の手は微かに震えていた。
躊躇いを振り切って画面をタップし、表示された文字を見た瞬間、私は思わず息を呑んだ。その内容は明らかに、私の逃げ場を完全に断ち切るものだった……。
『深夜零時、学校へ来い』
そのメッセージは私を追い詰める凶器だと思った。
私が抱える秘密が無関係とは思えない。昨夜受け取った警告──「式澤を信じるな」という言葉。不安は膨らむ一方だ。
「絶対にいかない」
当たり前の判断をした。
*
翌日、昼休みの前に再びDMが届いた。『屋上に来い』と。昼間なら屋上は開放されているし、そこまで危険ではない。そう判断して向かった。
なぜ、何のために、どのような話なのか予想もつかないまま、重い足取りで階段を上がる。時刻は正午を少し過ぎた頃。屋上のドアを開くと、眩しい太陽と冷たい風が一斉に吹き込んできて息が詰まる。
一年生のグループが弁当を食べていた。いや、もう食べ終わっていた。彼女たちが私と入れ替わるように階段へ向かう。
ふと気づく。式澤が奥のフェンス近くに立っていた。まばゆい光を背にして、私に手招きしていた。
「来たんだな」
式澤の声は地を這う。
私は喉が渇いて、言葉を出すこともできない。屋上という場所へ呼び出された理由を想像すればするほど、まともに息ができなくなる。
「昨日の放課後、君のスマートフォンを覗いた。悪いとは思わない。教師として必要な行為だった」
式澤の口ぶりは淡々としていて、罪悪感など微塵も感じていない。
「どうやってそんなことを……?」
震える声で問いかける。なぜ私のスマートフォンに執着するのか。この学校で何を暴こうとしているのか。その答えを知りたくて、けれど知るのが怖くて足がすくむ。
「君が何を隠しているか確かめるためだ。クラスには、嘘をついている者が多すぎる。表面だけ飾っていても、本質は誤魔化せない」
式澤は不気味なまでに落ち着いている。私は思わず後ずさりし、フェンスの鉄柵が背中に当たってひやりとした。誰が、いつ、どこで嘘をついているのか。それを暴くのが彼の使命だと言わんばかりの態度だ。
「……私が隠していることって、何ですか」
式澤の視線は鋭い。私はその視線から逃げられない。
「自分の中にある弱さだよ。君はSNSでは明るい日常を演じているが、本当は人間関係に疲れている。誰かに責められるのを恐れて、いつも適度な距離を保っている。それが嘘だと言っているんだ」
確かに……思い当たる節はある。私は強い人間じゃない。傷つくのを避けたくて、友達と一定の距離を置き、波風を立てない方法を選んできた。そんな私の心の内を、式澤は既に見通しているというのか。
「それでも……先生が勝手にスマートフォンを見るのはおかしい。何でそこまで……」
私は言葉を途切れさせた。式澤の瞳に潜む苛立ちが一気に噴き出したように見えたからだ。強い風が吹いて私の髪をかき乱す。胸が苦しくなるほどの沈黙が続く。
「なぜここまでやるかって? 俺は真実を隠す人間を許せないんだ。教員になったのは、自分の正義を実行する場所が学校しかないと思ったからだ。ここで嘘をつく奴がいるなら、俺がそれを糾弾する」
狂気にも似た執念を感じる。声が出ない。どのように応じればいいのかもわからない。それでも怖気づいてばかりではいけない。私は覚悟を決めて、例の警告メッセージのことを切り出す。
「先生……昨日の夜、私のところに警告が届いたんです。『式澤を信じるな』って。誰が何の目的で送ってきたのかは、わからない。けど……もしかして先生には、心当たりがあるんじゃないですか」
式澤は微かに目を見開いた。驚きなのか、それとも別の感情なのか判別できない。だが、その表情から一瞬、動揺が見え隠れする。
「誰かが俺を陥れようとしている? ああ、いや、気にする必要はない。俺は正しいことをしているだけだ。悪意を持つのは、嘘を正当化しようとする人間のほうだ」
まるで論破するかのごとき強い言葉。私は返す言葉を失う。正義を振りかざして、生徒たちの秘密を暴こうとする教師……本当にそれが正しい行いなのかどうか、私は疑問をぬぐえない。
そのとき、屋上のドアが乱暴に開く音が響いた。振り返ると、息を切らせた千夏が立っていた。彼女の瞳には焦りと恐怖が色濃く宿っていた。
「紀子……大変……職員室で誰かが先生のことを……」
千夏は私と式澤を交互に見つめて言葉を詰まらせる。何が起きているのかはわからない。けれど、何か良くない事態が動き始めているのは確かだ。千夏の震える声が、それを告げている。
「何かあったの?」
私の問いに、千夏はうまく言葉にできない。式澤も険しい顔つきのまま、次の言葉を待っている。風が吹き抜ける屋上に、誰かの悲鳴に近い声が遠くから響いている気がする。心臓がぎゅっと締め付けられた。
千夏は細い指を強く握りしめて、ようやく口を開いた。
「本当かわからないけど……先生が警察に通報されたって……」
千夏がチラと式澤を見たとき、私の中で何かが弾けた。警察が絡むような事態が、なぜ学校で……式澤には何が隠されているのか。真実を暴くと宣言していた式澤自身が、何か重大な秘密を抱えているのではないか。そう思わずにいられない。
問いただそうと口を開いた矢先、式澤が鋭く息を吐いた。その表情には確かな焦りが宿っている。
「ちょっと行ってくる」
式澤はそれだけを言い放つと、千夏を押し退けるようにして屋上から姿を消した。私は千夏と顔を見合わせる。風が強く吹きつけて、私たちの髪を一瞬で乱していく。さっきまでの式澤の言葉が混乱を生むばかりで、何一つ確証が持てない。
彼は本当に正義のために行動しているのか。それとも、真実を隠しながら生徒を追い詰める「ヤバいやつ」に過ぎないのか。警察に通報されたという事態が何を意味するのかも含め、疑問は深まる一方だった。
私は震える手を押さえながら、千夏に向かって言う。
「職員室……見に行ってみよう」
千夏は無言で頷く。二人で屋上から駆け下りようとしたそのとき、私のスマートフォンが再び振動した。画面を確認すると、あの警告を送ってきたアカウントから、また新たなメッセージが届いていた。
迷わず開くと、そこには衝撃的な文言が並んでいた。いったい、この学校で何が……そして式澤直樹の周囲で、どんな事実が隠されているというのだろう。
思考の渦に呑み込まれかけた瞬間、廊下の向こうから再び悲鳴めいた叫び声が聞こえた。私と千夏は言葉を失いながら、ただ瞳を交わす。身動きできないまま、危険な予感だけが胸を締め付けていった。
*
警察が来るなんて……この学校は、もう普通じゃない。
屋上での式澤との対峙から一夜が明けた。けれど、まだ頭は混乱したままだ。昨日、千夏が飛び込んできて告げた「先生が警察に通報された」という衝撃的な情報。あれは誰が、いつ、どんな理由で通報したのか。まったく見当がつかない。式澤自身がやったとも思えないし、通報したのは生徒なのか、職員なのか、あるいは外部の人物なのか。何もわからないまま朝を迎えた。
一時間目の授業が始まっても、クラスには奇妙な空気が漂っている。生徒たちは皆、式澤が教壇に立つのを待つ気配すらない。友人の基井や千夏も落ち着かない表情をしている。気まずい沈黙に耐えきれず、私は千夏に小声で尋ねた。
「昨日の職員室、結局どうなったんだろう……基井くん、何か聞いてる?」
千夏は視線を伏せる。
「警察が来たらしいって噂は本当。でも詳しいことは誰も話してくれないんだ」
心臓が高鳴る。式澤は何を隠しているのか。誰かが彼を告発しようとしているのか。それとも、もっと別の陰謀が渦巻いているのか。私が考え込んでいるうちに、いつもなら既に姿を見せるはずの式澤が、授業開始のベルを過ぎても来ない。クラスの皆も不安げに顔を見合わせている。
二十分ほど経った頃、ようやく式澤が教室に入ってきた。苦しげな表情を見せることなく、冷静そうな瞳で私たちを見回す。
「遅れてすまない。……職員室が少し騒がしかった」
教室に張り詰めた沈黙が落ちる。式澤がちらりと私の方へ視線を投げた。ぐっと息を呑む。彼は何事もないかのように出席を取り始めたが、クラスメイトの誰もが先生の一挙一動を見逃すまいとしている。空気が重い。息が苦しい。
一時間目が終わり、休み時間になると、私と千夏は意を決して職員室へ向かうことにした。真相が知りたい。今、何が起きているのかを確かめないと、ずっとこの閉塞感から抜け出せない気がしたからだ。廊下を急ぎ足で進んでいくと、職員室の手前に人だかりができている。誰が集まっているのかと近づくと、そこにいたのは見慣れないスーツ姿の大人たちだった。
彼らは警察関係者だろうか。私は思わず立ち止まり、千夏と顔を見合わせる。どう動くべきか、足がすくんでしまう。けれど、そのとき後ろから私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「紀子」
振り向くと、基井が小走りでこちらへ来る。基井はいつもクラスで目立たないタイプだけれど、情報通として信用できる存在だ。
「噂だけど、式澤先生の前任校で起きた事件に関して、警察が事情を聞きに来たみたい。何か……暴力沙汰があったって話らしい」
基井の言葉に唖然とする。暴力事件……式澤が、前任校で? それが事実なら、あの狂気に満ちた教育方針も妙に納得できる部分はある。彼は「嘘を許さない」という正義の名の下、手段を選ばない人間なのかもしれない。
「それ、いつ……どこで……どうして事件が起きたのか、わかる?」
基井は首を横に振る。
「詳しいことまでは聞いてない。ただ、式澤先生が退職を余儀なくされた……って噂。今回の代理就任も、あくまで臨時の措置だったみたいだよ」
私は小さく息を吐く。前任校を辞めた理由、警察の捜査……そして今、ここでも何かを暴こうとしている式澤。彼の本当の目的は何なのか。次々と疑問が湧いては、私の不安を逆立てる。
昼休み、私は千夏と一緒に再び校舎裏へ向かった。誰にも聞かれない場所が必要だった。あのメッセージを送ってくる謎のアカウント。まだ新着があるかもしれない。私はスマートフォンを取り出し、恐る恐る画面を確認する。すると……やはり通知が増えていた。既に未読のメッセージが五通になっていた。震える指でアプリを開く。
最初の一通目には、こう書かれていた。
『式澤は真実を隠している。あの事件を調べろ』
あの事件……前の学校で起きた暴力問題を指すのだろうか。二通目、三通目も似たような文言だが、読んでいくうちに送り手が何者なのか、うっすらと意図を感じ始めた。どうやら私に式澤の過去を暴かせたいらしい。しかも、そのための資料らしきファイルをネット上にアップしているという情報まで書かれている。
四通目にはこうある。
『下手に動けば、君も危険に巻き込まれる。慎重に』
そして五通目──。
『今夜、校舎の地下倉庫へ行け。そこに答えがある』
地下倉庫……? 夜の学校に忍び込むなんて簡単ではない。もし見つかれば停学どころか退学の危険もある。それでも、このまま真実が見えないままでいるのは耐えられない。千夏に相談すれば止められるかもしれない。けど、私は思い切って心に決めた。夜になったら、何とか校内へ潜り込んで倉庫を探す。彼の過去を知るために。
放課後、私は手がかりを集めるべく学校内を歩き回った。教師の誰かが何か知っていれば、それだけでも心強い。けれど、職員室の空気は重く、誰も多くを語りたがらない。式澤もすでにどこかへ消えてしまった。私は薄暗くなりかけた校内を歩き回りながら焦燥感に駆られていた。
その夜、約束どおり私はこっそりと校舎へ忍び込んだ。人感センサーで点灯する廊下の蛍光灯が、不安定なまばたきを繰り返している。心臓の鼓動が耳に響き、足音をできるだけ抑えながら地下へ続く階段を下りていく。
鍵がかかっているのでは……という心配はなかった。夜間も清掃や備品の移動で使われることがあるらしく、倉庫には基本的に施錠されていないのだ。
冷たい空気が肌を刺すように感じる。倉庫の入り口を開けると、コンクリート打ちっぱなしの壁と古い棚が見えた。かなり荒れた印象で、埃っぽい匂いが鼻につく。
「何があるんだろう……」
私はスマートフォンのライトを照らしながら、倉庫内をゆっくりと進んでいく。そこら中に段ボールが積まれている。古い書類、壊れた備品、使われなくなった器具……。一見、何の手がかりもなさそうに見えた。
それでも奥へ進んでいくと、棚と棚の狭い隙間で、やけに新しいファイルが不自然に置かれていた。まるで私を誘導するように配置されている。緊張で手汗がにじむ。そのファイルをそっと開いた。
そこには古い新聞記事のコピーと、写真が挟まれていた。写真は暴力事件の現場を写したものらしい……血痕と乱れた教室の様子が記録されている。新聞記事の日付は二年前。事件を起こした教師の名前が……「式澤直樹」とは違う名前に見えた。でも、記事を読み進めると、その教師と密接に関わっていた人物が「式澤直樹」だとわかる。何が起きたのか……頭がぐらりとするような衝撃が走る。
背後で足音がした。私は悲鳴を飲み込んで振り向こうとする。暗闇の中で人影が揺れる。誰……? 怖さと疑問が入り混じったまま硬直してしまう。すると、その人影はゆっくりと近づいてきて、耳元で低く囁いた。
「こんな所で何をしている?」
その声を聞いた瞬間、私は息が止まる。間違いない。これは――。
「式澤……先生……」
声にならない声が唇からこぼれ落ちる。視線の先には確かに式澤直樹が立っていた。彼の表情は薄暗い光の中で読めない。狂気を孕んだ瞳がじっと私を見つめている。月明かりの差さない地下倉庫で、私の脳裏で赤の警告灯が回り始めた。
ファイルに書かれている事件の情報。誘導されるようにして辿り着いた真実。そして、こんな夜に現れた式澤直樹。本当の闇は、いったいどこまで続いているのか。
次の瞬間、倉庫の入口付近から何かが倒れる音が響いた。私と式澤が同時にそちらへ目を向ける。暗闇の中、もう一つの人影がうずくまっていた。私は息を呑んで、その姿を凝視する。誰がこんな時間に、何のために……?
倉庫には、ただ冷たい闇だけが広がっている。私の鼓動が激しくなる中、その人影はゆっくりと顔を上げ――。
私はその表情を見た瞬間、声にならない悲鳴を飲み込んだ。
スマートフォンの灯りに照らされて、その人物の顔が浮かび上がる。
「基井くん……」
普段は穏やかな彼の瞳が、不自然なほど見開かれている。声をかけても反応が薄い。呼吸はあるものの意識がはっきりしていない。何があったのか、私は混乱の渦に巻き込まれそうになる。
「何を見た?」
式澤の低い声が響いた。彼はファイルに視線を落とすと、押し殺したような笑みを浮かべる。光の少ない倉庫の中で、その表情を細かく読み取るのは難しい。けれど、熱を帯びた瞳が、この瞬間も「嘘を隠す人間」を暴こうとする執念を感じる。
「先生……ここにある記事は……全部、先生の過去と関係があるんですか」
私は意を決して問いかける。式澤は一瞬だけ黙り込んだ。基井はまだ意識が朦朧としている様子で、倒れ込んだまま動かない。冷たい空気の中で、私の鼓動だけがはっきりと聞こえていた。
「知りたいなら、知るがいい」
式澤の声は低く、妙な自信を感じる。彼がふたたびファイルを手に取ろうとしたそのとき、基井がかすかに身じろぎした。私は慌ててしゃがみ込み、彼の肩を支える。
「ねえ、大丈夫……? それに、どうしてここに……」
基井はうわ言のように何かをつぶやく。聞き取ろうと耳を近づけると、「SNS……メッセージ……」という言葉がかすかに聞こえた。もしかして基井も、私と同じように謎のアカウントから連絡を受け、ここへ来たのだろうか。
「式澤先生……何を隠してるんだ」
基井の言葉は震えている。彼の瞳には明らかな怯えが見えた。私もまた、同じ恐怖を感じている。式澤が生徒を操っているのか。嘘を暴くという動機の奥には、別の目的が隠されているのかもしれない。
「お前たちこそ、何を隠している?」
式澤の言葉に、私はぎくりとする。基井の唇からすがるような声が漏れた。
「隠してなんか、ない……ただ……このままだと……」
彼の声は途中で途切れた。私は立ち上がって式澤を見据える。彼に問いたださなければならないことは山ほどある。夜の学校で、何が起きているのか。警察が動いているのは何故か。どうして前任校での事件を封じ込めようとするのか。問いは次々に浮かんでくるけれど、式澤の表情は不気味なまでに落ち着いていた。
「俺は嘘を憎んでいる。それだけだ」
式澤の言葉に、私は息苦しくなる。その一点だけを掲げて、彼はどんな手段をも正当化するのだろうか。この倉庫に置かれた記事は、かつて式澤の周りで起きた悲惨な出来事を示しているのに、彼自身は微塵も後悔していないように見える。
「じゃあ……この事件で本当にあったことは……?」
私は震える声で問いかける。暗闇の中、ファイルを挟む式澤の腕が、獲物を押さえ込む捕食者のように見え、吐き気を覚えるほどの緊張が走る。
「詳しく知りたいのなら……自分で調べるといい。それが、真実を求める者の責任だ」
式澤はそう言い残すと、ドアのほうへ向かって歩き出した。その背中は冷徹で、人間味が感じられない。私は基井を助け起こそうとするも、彼は力が入らないのか立ち上がれない。スマートフォンを握りしめたまま、悔しそうに唇を噛んでいた。
「あのアカウントから……指示が……」
基井の言葉を聞き「やはり」と思いながら、私は再び頭を悩ませる。謎のメッセージを基井も受け取っていたのだとすれば、送り主はいったい誰なのか。そして、こんな危険な場所へ誘導して、私たちに何をさせたいのか。考えれば考えるほど、背筋が冷えていく。
「立てる? ここから出よう……」
私は基井の肩を支えながら、なんとか歩き出す。喉の奥が渇ききっていて声がうまく出ない。彼を連れて早くこの闇から抜け出さなければ。だが、出口へ向かおうとした瞬間、倉庫の照明が突然光を失った。バチンという音を立てて、真っ暗な闇が私たちを呑み込む。
「え……どうして……」
慌ててスマートフォンを取り出そうとするが、基井を支えているせいで手が足りない。視界はゼロに近く、廊下から差すはずの淡い光も途絶えている。誰かが意図的に電源を落とした。胸の鼓動は早鐘のように鳴り響き、息が乱れる。
そのとき、背後でドアが閉まる音がした。私は反射的に振り返る。暗闇の中では何も見えない。冷や汗がこめかみを伝い、頭がぐらりと揺れる。閉じ込められた? それとも誰かが鍵をかけたのか。あまりの恐怖に、基井の肩を支える手も震え始める。
「ねえ……誰か、いるの……?」
問いかけてみても応答はない。基井の苦しげな息遣いだけが耳を打つ。心臓は潰れそうなほど激しく脈打っている。こんなところでどうすればいいのか。助けを呼びたい。しかし、深夜の学校には誰もいないはず。
暗闇の中でスマートフォンを探り当て、ライトを点けようとする。しかし、バッテリー切れなのか、何度もエラーが出てシャットダウンしてしまう。思考は混乱し、呼吸が荒くなる。基井を安心させたいが、自分自身がこの状況に耐えられるかわからなかった。
「嘘をつく人間を許さない……って、式澤は言ってた」
基井がぽつりと呟く。その声はかすれている。私はごくりと唾を飲み込みながら答えた。
「もし私たちが……先生から見て嘘をついてる……と思われたら、どうなるんだろ」
返事はない。けれど、基井の肩に伝わる小さな震えが、彼の不安を物語っていた。どこかで遠い物音がして、私は思わず身を硬くする。もしや誰かが再びこの倉庫に……そんな想像が頭を支配する。真っ暗な世界で、出口の位置さえわからない。私たちが苦し紛れに進んでいる方向が合っているのかもわからない。
「落ち着いて……出口を探そう」
震える唇をなんとか動かして、基井に呼びかける。後退してしまいそうな足を踏みとどめながら、闇の中を手探りで進む。廊下へ出るまで、あと数歩のはず。祈るような気持ちで前に踏み出したその瞬間、私の足は段差に突っかかった。バランスを崩して倒れ込みそうになる。かろうじて基井を巻き添えにしないように身体を捻るが、肘を強く打ちつけて思わずうめき声を上げた。
激しい痛みが全身を駆け巡る。頭が朦朧としかけたそのとき、視界の片隅で微かな灯りが揺れた。誰かが懐中電灯か何かを点けたのかもしれない。その光は倉庫の奥へと向かっており、私たちとは反対側にある。そこにいるのは式澤なのか。それとも――。
痛みに耐えながら顔を上げた私は、光を持つ人影がファイルの置かれた棚の前に立っていた。服装は教師のものには見えない。生徒なのか、あるいは他の何者か。闇と光の境界線で、その影はゆっくり振り向いた。
思わず息を止める。そこには見覚えのある顔が……いや、何かが違う。頭が混乱して正体がはっきりしない。けれど、その人物は明らかに私と基井の動きを知っているのか、意味ありげに笑ったように見えた。私は思わず叫びそうになる声を必死でこらえる。
照明が落ちた密室の地下倉庫に、謎の影と私たち。そして、式澤がどこにいるのかもわからない。逃げ場のない闇に飲み込まれながら、私は確信する。これまで追ってきた嘘の正体は、私たちが思っているよりずっと深く、残酷なものなのだと。
光を手にした影が一歩近づくたび、私は恐怖に凍りつく。基井のかすれた声が耳元で微かに震える。
「紀子……逃げ……」
暗闇は私たちの声も意思も全てを封じ込める。逃げ道を探す余裕など、もうどこにもない。私は暗い天井を仰ぎながら、胸の奥にこみ上げる絶望を感じていた。
そのとき、廊下のほうから大きな音が響いた。何かが壁に衝突したような衝撃音。私と基井は思わず身を硬くする。光を持つ影が一瞬だけ姿勢を変えた。その一瞬が、私たちにとっては唯一の動けるタイミングだったかもしれない。
倉庫の入口が乱暴に開け放たれた。そこから飛び込んできたのは……。
私は目を見開いた。真夜中の校舎で、絶対に見かけるはずのない人物だった。光のない世界で、その姿こそが最後の希望になるのか、それともさらなる絶望の入り口なのか。胸の奥に沸き立つ戦慄を抑えられないまま、私と基井は震える手を重ね合うしかなかった……。
*
「紀子……無事なの?」
クラスメイトの千夏だ。いつもは控えめな彼女が、こんな危険そうな場所へ乗り込んでくるとは思わなかった。震える手で懐中電灯を握ったまま、千夏は私と基井の姿を確認して安堵のため息をつく。
「ど、どうして千夏がここに……?」
私はひどく混乱していた。あまりに突然の登場に加えて、千夏自身も顔面蒼白で足元がおぼつかない。それでも強い意志を宿した瞳で奥に潜む人影を睨んでいる。照明が落ちた倉庫の中には、式澤の姿はもうない。彼がどこへ行ったのか検討がつかず、私の胸は不安で締め付けられる。
「紀子がここに来るって、誰かから連絡があったの。こんな時間に学校に侵入するなんておかしいって思ったから、急いで追いかけてきた」
千夏の声は震えている。誰かから連絡……またあのアカウントが動いたのか。基井も微かにうめき声を上げながら、私の腕につかまったまま千夏を見上げた。その瞳には混乱と安堵が入り混じっていた。
「助かった……けど、気をつけて。何者かが……奥に……」
基井は苦しそうに視線を動かす。すると、倉庫のずっと奥にいるはずの光の持ち主が、こちらへ一歩ずつ歩き始めた。廊下から差し込む千夏の灯りとは違う。やがて、その姿がぼんやりと浮かび上がった。
私は基井を抱えるようにして後ずさった。千夏も同じく身構える。懐中電灯の輪郭が人の足元を照らし、じわじわと姿が露わになる。その人物は微妙にフードを被り、顔を隠すようにして立っていた。
「……やっぱり、あなただったんだ」
千夏が低くつぶやく。私には、まだフードの下の顔がはっきりと見えない。だが、千夏の反応を見るかぎり、彼女はこの相手の正体を知っているのだろう。基井が縋るような目つきで訴えてくるが、私も言葉が出ない。ただ心臓が壊れそうなほど鳴り響くだけだ。
「これ以上、学校の秘密を暴かれたくない……そう思ったんでしょ?」
千夏の問いかけに、フードの下の人物は何も言わず首を傾げた。声どころか呼吸音すら感じられないほど静かだ。息苦しい沈黙が続き、底冷えする倉庫の暗闇が私たちを追いつめる。基井の痛々しい呼吸が耳に残り、私も恐怖で体が強張る。
私は思い切って尋ねた。
「あなたは誰……どうしてこんな場所に?」
しばらくの沈黙のあと、その人はフードをずらして顔を見せた。淡い光に照らされて浮かび上がる表情は……私が見知った生徒のものだった。名前は秋吉――三年生で生徒会役員の一人だ。いつも優等生然と振る舞い、教師受けも良かったはずの上級生。しかし、ここの空気に似つかわしくない怜悧な眼差しを私たちに向けている。
「千夏……下がって」
私が警戒心を滲ませながら言うと、千夏は首を振る。
「秋吉先輩……どうしてこんなことを。あのSNSのメッセージを送っていたのは先輩なんですか」
言葉をぶつけると、秋吉は口元に笑みを浮かべた。それは嘲るようでもあり、どこか達観したようでもある。彼は小さく息を吐くと、軽く肩をすくめた。
「メッセージを送っていたのは、たしかに俺だよ。でも、俺が何でも仕組んだわけじゃない。この学校にはもっと根深い問題がある。式澤先生だけがヤバいわけじゃない。嘘の上に成り立っている生徒も教師も……すべてが繋がっているんだ」
その言葉に、千夏が動揺を見せる。私も頭の中で警鐘が鳴る。秋吉先輩は何を知っているのか。前任校での暴力事件に式澤が関与していた事実も、この学校が抱える秘密に含まれるというのか。途方もない不安が私を襲う。
「じゃあ、基井くんや私をここへ誘導したのも……」
私は声を震わせながら問いかけると、秋吉はあっさりと頷いた。
「見てほしかった。知ってほしかったんだ。何が正しくて、何が偽りか……俺たち生徒自身が判断しないといけない。式澤先生は言うだろう、嘘は許さないって。でもさ、あれは正義なんかじゃない。ただの押し付けだ」
秋吉の言葉に、今までの違和感が少しずつ繋がっていく。式澤の正義は純粋に見えて、実は「嘘をつく生徒を引きずり出す」行為を正当化するための手段だったのかもしれない。彼のやり方は、暴力事件さえ引き起こすほどの危うさを孕んでいる。秋吉はそれを止めるために、私たちを使って何かをしようとしているのか……。
「先輩は……私たちを守るために?」
そう問いかけると、秋吉は小さく笑った。
「守る?そうでもあり、そうでもない。俺も式澤先生に個人的な恨みがある。あの人は、この学校の悪いところだけじゃなく、もっと深い場所を暴こうとしている。そのやり方を認めるわけにはいかない。でも……俺だけじゃどうにもならないから」
言い終わると、秋吉は手早くスマートフォンを取り出して画面を見せてきた。そこには学校の内部文書らしきデータが写っている。教師や生徒会が知り得ない裏情報が満載で、違法まがいの業務が行われていることを示すものもあった。何が本当で、どこからが嘘なのか判別しづらいほど複雑で、私の頭はクラクラする。
「式澤先生が前任校での事件を隠しているんじゃない。学校側が、そこに目をつぶって受け入れたんだ。優秀な教師という評判だけを鵜呑みにして、過去の問題を封じ込めた結果がこれ」
秋吉は唇を噛みながら、画面をスワイプして別の資料を見せる。そこにはこの学校名や理事長の署名も含まれている。式澤が赴任したのは、いわば「学校の体裁を保つ」ためだったのか。危険な人物だとわかっていても、問題を抱える学校の事情と結託すれば、すんなり職を得られる……そんな構図なのかもしれない。
「だから……俺たちを利用して式澤を追い出したいってこと?」
基井が苦しそうに顔を上げ、秋吉を見つめる。秋吉は否定も肯定もせず、冷たい沈黙を保ったまま少し目を伏せた。そっと息を吐き出すと、淡々と口を開く。
「式澤先生だけが問題じゃない。嘘で取り繕う学校のシステムそのものを壊す必要がある。けど、それを正面から訴えても、理事長や教師たちが動くはずもない。だから、まずは式澤先生の本性を皆に曝す必要があるんだ。『嘘を許さない』という教師が、実は何よりも嘘を利用してここにいる――それを周知できれば、学校は混乱する。そこからが勝負だ」
秋吉の声は低く、しかし決意がこもっていた。私の心は揺れ動く。式澤を追い詰める目的……確かにわかる。彼を危険と感じているのは私も同じだ。けれど、その手段として私や基井が巻き込まれたことが釈然としない。千夏もまた複雑な顔をして言葉を探している。
「私や基井、千夏をこんな夜中に倉庫へ誘い出す必要があったんですか」
問いかけると、秋吉は肩をすくめた。
「今夜証明できた。君たちに行動力があるってさ。それなら変えられるかもしれない。そう思った。動かないまま黙っているより、真実を目にした方が話が早い。危険だとわかっていたけど、こうするしかなかった」
心臓が痛いほど脈打つ。確かに私は何も知らないまま、この学校で漂っていただけかもしれない。SNSに投稿する日常の裏で、心の中にある澱の正体にも目を背けてきた。その結果が、今の事態を呼んでいるのかもしれない。けれど……。
「式澤は……消えたみたいだけど、先生の狙いは何なんでしょう。私たちに嘘を暴かせたいのか、自分自身が何か暴こうとしているのか」
千夏が不安そうに言葉を継ぐ。秋吉はゆっくりうなずいた。
「そこが一番の問題だ。次に式澤先生が何をしようとしているのか――わからない。だから急いで準備しなくちゃならない。俺は、理事長に直接この資料を突きつけるつもりだ。学校もろとも、嘘を覆い隠す仕組みを壊すために」
その決意表明の中には、明確な覚悟があった。私の背筋に緊張が走る。もしそんな事をすれば、秋吉先輩だけでなく、私たちもただでは済まないのではないか。退学に追い込まれるのはもちろん、警察沙汰になるかもしれない。もう後戻りはできないのか。
「……協力します。俺も、あの先生のやり方は許せない」
基井の決意に満ちた声が響き、私と千夏は驚いて顔を見合わせる。いつも大人しそうに見える基井が、こんなにも強い覚悟を示すなんて……。しかし、その瞳にははっきりと意思が宿っていた。
「私も一緒にやる。もう逃げたくない。嘘を見て見ぬふりしてきたのは、私自身だと思うから」
声を震わせながら私も続ける。秋吉は一瞬だけ微笑むと、無言で頷いた。その横で千夏は視線を落とし、何かを飲み込むように唇を噛む。彼女は必死で恐怖を抑えているのだろう。やがて、決意を固めた表情で顔を上げた。
「わかった。私も行く。何が起こっても、もう黙っていたくない」
四人の思いがひとつになったその瞬間、倉庫の出口から廊下へ続く電気が急に点滅を始めた。誰かがスイッチを操作したのか……明滅するライトに照らされて、廊下の奥に一つの人影がゆらりと浮かび上がる。生徒にしては背が高い。大人の男――間違いなく教師の姿だ。
そして、その人物こそが私たちが追い続ける存在。式澤直樹がゆっくりとこちらへ歩を進めてくる。薄暗い廊下で、その瞳は鋭く私たちを見据えていた。絶対的な支配欲と、狂気の正義。
「……まだ逃げないのか。君たちは何を見た?」
式澤の低い声が倉庫に反響する。私と千夏、基井、そして秋吉が黙り込む中、式澤は小さな笑みを浮かべた。無防備に見えるが、その体からははち切れんばかりの緊張が伝わってくる。
「嘘にまみれた学校の方が都合がいいのか……それとも、俺の正義を受け入れるか。それを決めるのは、君たちだ」
静寂の中で私たちの心は揺れる。式澤の正義……秋吉の抵抗……どちらも一筋縄ではいかない。基井や千夏と顔を見合わせながら、私は胸の内に渦巻く恐れと戦おうとした。学校の嘘、式澤のやり方、秋吉の計画……一度に抱えきれないほどの情報が脳を駆け巡る。だが、もう立ち止まれない。嘘を暴くか、嘘に溺れるか――そのどちらかしか道はないのだから。
数秒か、数分か。時間の感覚が失われるほどの沈黙の末、秋吉が一歩前へ出る。手の中のスマートフォンを握りしめたまま、式澤をまっすぐ見上げる。その決意が空気を張り詰めさせ、私も基井と千夏も声を出せないまま固唾を呑んで見守る。
「やるしかない……」
秋吉が呟いた瞬間、倉庫の奥から不意に電子音が鳴り響く。誰かのスマートフォンだ。私は自分のポケットを探る。違う。千夏でもなく基井でもない。式澤のものでもない。その音は倉庫の薄暗い一角から聞こえていた。私たちはぎょっとしてそちらを振り向く。しかし視線の先には何も見当たらない。
式澤が不審そうに眉をひそめた。秋吉も息を飲む。電波が入りづらいはずの地下倉庫に、警告のような着信音が響く違和感。もしや、ここには私たちが気づいていないもう一人――何者かが潜んでいる……?
今にも時間が止まりそうなほどの静寂と緊張。それを破ったのは、再び倉庫を照らす白い閃光だった。何が起きたのかわからない。突然あたりが眩しく染まり、私たちは一斉に目を覆う。視界が真っ白に染まる中で、式澤の叫び声とも苦しげな声ともつかない音が耳を裂いた。
「くっ……やめろ……」
どこから来た閃光なのか、何が起こったのか。私たちには判断できない。基井が悲鳴を上げ、千夏が叫ぶ。秋吉が必死にスマートフォンの明かりをかざすが、光の渦に飲み込まれて何も見えない。私は顔を伏せたまま、早鐘のように打ち続ける心臓を抑えることしかできなかった。
一瞬の閃光が収まった後、辺りは再び暗闇に落ちる。そこには倒れ込んだ式澤の姿があった。薄れゆく廊下の照明の下で、式澤は床に手をついて苦しげに何かを訴えようとしている。言葉にならない声が消えていく中、私たちはただ呆然と立ち尽くした。
いったい誰が、何の目的でこの強烈な光を放ったのか。倉庫に隠れていた人物は誰なのか。式澤を倒すための手段だとしたら……その先にあるのは救いなのか破滅なのか。答えは見えないまま、私たちは闇と混乱の中で息を呑み続けるしかない。
そして――絶望に染まる沈黙を引き裂くように、式澤が微かに口を動かした。
「嘘……を……許さ……ない……」
その掠れた声は、もはや執念。死神の宣告のように聞こえた。今にも途切れそうな息の合間に、彼の狂気は確かに燃え続けていた。
私と秋吉、そして千夏と基井は動けない。視線の先で式澤が手を伸ばし、なにかを掴み取ろうとしている。その光景だけが目に焼きついて離れない。
私たちは、どうすることもできないまま立ち尽くしていた。嘘を暴こうとする狂気の教師と、嘘を隠蔽する学校の闇……どちらが正しいかを考える余裕など、もはやない。ただ一つだけ確実なのは、この事態が平穏に終わるはずがないということ。
手の震えが止まらない私たちを嘲笑うかのように、倉庫の天井から一筋の冷たい雫が落ちてくる。時間すら凍りついたかのように感じる闇の底で、私の鼓動は限界を超えそうだった……。
*
あの地下倉庫での閃光と悲鳴……倒れ込んだ式澤直樹の姿が、まだ頭から離れない。事件の翌朝、校内には混乱が広がった。あちこちの教室で囁かれる噂は、式澤が警察に逮捕されるというもの。
私や基井、千夏、そして秋吉は、未明までに教頭たちへ倉庫で起きた一部始終を報告した。式澤が負傷した状態で倒れ、正体不明の第三者も絡んでいた事。危ういところで夜間の警備員が来たため、すぐに救急車を呼んで式澤は一命を取り留めた。
入院先の病院でも、彼は相変わらず「嘘を許さない」と呟き続けているらしい。真夜中に照らされたあの閃光が何だったのか――私たちにも分からない。
二日後の放課後、職員室へ呼び出された私たちは、この学校の理事長と対峙していた。基井は資料を握りしめて固い表情を崩さない。秋吉は腕を組んだまま沈黙している。千夏も視線を落としながら、一言も口を開かない。私は心臓が潰れそうなほどに鼓動しながら、理事長の言葉を待った。
「君たちは、式澤直樹が前の学校で起こした事件を知ってしまった……そうだね」
理事長の声は低く、明確な敵意を含んでいた。私は唇を噛みながら頷いた。
「はい……先生の前任校の暴力問題、それを隠蔽しようとした経緯も……全てファイルで確認しました」
言葉が震えてしまう。理事長は険しい表情で眉を寄せる。
「この学校は長い間、生徒の問題行動や教師の過剰指導を、双方うまく取り繕ってきた。成績や進学実績を守るには、そうするしかなかったんだ。式澤くんの以前の件も、表沙汰にしない代わりに有能な彼を教師として迎えた」
秋吉が強い視線を向ける。
「結局は嘘を重ねただけです。その犠牲になったのは……式澤先生自身と、他の生徒だった。だからこそ、彼は歪んだ正義を抱え込んでしまったんじゃないですか」
理事長は目を伏せ、反論する気配はない。代わりに、警備担当者が前に出て声を張り上げた。
「しかし、だからといって夜の校舎へ侵入するなど言語道断だ。今回の件で、君たちには相応の処分が下るかもしれない」
反論したい気持ちはあるのに、言葉が出ない。私も千夏も基井も、あの夜、確かに校則を破ってまで地下倉庫へ潜り込んだ。結果として式澤が倒れ、不審者まで現れたのだから、責任を問われても仕方がない状況だ。
「理事長……私たちは、ただ真実を知りたかっただけです」
千夏が震える声で言う。理事長は硬い表情のまま、秋吉へ目をやった。
「秋吉くん。君は生徒会の立場を利用して不正に資料を入手した。黙っておけば見過ごしてやれたが、もう遅い。今さら学校を糾弾したところで、全てが丸く収まるわけではないんだよ」
秋吉は唇を固く結ぶ。
「丸く収めるためだけに嘘を重ねるのは、もう終わりにしませんか。こんな形で明るみに出た以上、これからは本当の意味で再生する道を探すべきでしょう。私たちは……そのために動いたんです」
その言葉を聞き、理事長は大きく息を吐き出した。沈黙が落ちて、時計の秒針だけがやけに響く。やがて、理事長は教頭と顔を見合わせ、渋々何かを決断したように頷いた。
「わかった……とりあえず、式澤直樹の処遇を正式に検討する。君たちが巻き込まれた一連の騒ぎについても、警察の捜査結果次第だ。厳しい処分が下る可能性は高い。それでもいいのかね」
私たちは互いに視線を交わし、最後にはしっかりと頷いた。もう逃げない。嘘を蔓延らせてきた責任は、誰か一人ではなく全員にあるのだから。理事長が微かに顔をしかめたところで、職員室の扉が乱暴に開け放たれた。そこに現れたのは――。
式澤直樹だった。包帯こそ巻いているが、目の奥に宿る狂気の正義は薄れていない。彼は私たちを一瞥すると、理事長の机に手をついて低く唸る。
「話を聞かせてもらう。俺を排除したところで、君たちの嘘が清算されるわけじゃない」
理事長が動揺しながら席を立つ。式澤の頬には痛々しい痣が残っているが、その瞳の光は失われていない。私も基井も思わず息を呑んだ。秋吉は一歩退き、千夏は身を固くしている。
「先生……どうしてまだ」
私が問いかけると、式澤は首を振った。
「前任校で起きたことも含め、俺は自分の責任からは逃げない。ただし、この学校が嘘を隠そうとする限り、俺はそれを暴く。たとえどんな代償を払っても」
教員と生徒の立場など関係ない。一人の人間として、式澤は自分の信念を貫き続けるというのだろうか。理事長が険しい表情で口を開く。
「式澤くん。もう充分だ。これ以上事を荒立てたくない。我々は君を暫定的に解雇する。捜査が進めば刑事責任に問われる可能性だってあるんだぞ」
式澤はまるで聞く耳を持たず、私たちを見つめる。滲んだ血のような赤い光が、その瞳に宿っている気がした。ゾクリとする寒気が背中を駆け上がる。
「嘘をつく連中が裁かれない現実を、俺は許すわけにはいかない。たとえこの場所を追われても、真実を追い続ける」
式澤の言葉は重くて鋭い刃物のようだ。教頭や他の教師たちが制止に入ろうとするが、彼はかすかに笑みを浮かべただけで微動だにしない。混乱の真っただ中にある職員室の空気が、一気に張り詰める。
そのときだった。扉の外から警察官らしき制服姿の男たちが慌ただしく入ってきた。式澤の姿を見つけるや否や、一人がきっぱりとした声で言う。
「式澤直樹さん。事情聴取にご協力いただきます。前任校の事件にも新しい証言が出ていまして……署までご同行願います」
式澤は足を止め、警察官を睨んだ。次の瞬間、その視線が私たちに移る。私と基井、千夏、そして秋吉。彼は唇を震わせ、最後の言葉を吐き出した。
「俺がいなくなっても、嘘は嘘だ。真実を暴く覚悟がないなら、全員が闇に沈むだけだ」
その言葉を残して、警察官たちに腕を取られながら式澤は連行されていく。その背中には狂気だけでなく、ある種の悲壮感も滲んでいるように見えた。彼の正義は歪んでいる……でも、それが生まれた背景もまた、この学校の嘘にあったのだと私は気づいてしまった。
職員室には沈黙が残された。理事長が暗い顔で頭を抱えている。教頭は溜息をつき、教師たちは呆然としたまま立ち尽くす。秋吉はスマートフォンを握りしめたまま拳を震わせ、基井と千夏は私の隣で戸惑いの表情を浮かべていた。
「これから、どうなるんだろう」
千夏が小さく呟いた。その問いに答えられる者は誰一人いない。式澤が去っても、嘘と歪みはまだ学校に根を張り続けている。私も視線を床に落とした。これから先、私たちができるのは何だろう。誰に責められたとしても、真実を見極める勇気を失ってはいけないのではないか……そう思いながら、ぎゅっと拳を握る。
やがて、警察官の足音と式澤の姿が完全に消える。冷えた沈黙の中、理事長が口を開きかけた瞬間、私のスマートフォンが震えた。画面を確認すると、あのアカウントからのメッセージが届いている。嫌な予感に胸が騒ぎながら、私は震える指で画面を開いた。
そこに表示された言葉は――
『終わったと思うな。真実はまだ眠っている。もし本気で闇を暴きたいなら、夜の三号棟へ』
思わず秋吉を見る。彼じゃない。ではこのDMは誰が。……三号棟は使われなくなって久しい旧校舎。何が隠されているのか。このタイミングでメッセージが届いたのは偶然ではない。私は千夏や基井、秋吉と視線を交わす。
結局、式澤が追い続けていた嘘は、本当の核心に迫っていなかったのかもしれない。連れ去られる瞬間、彼が私たちに残した言葉……それを無視してしまえば、同じ嘘の泥沼に沈むだけ。そんな不安と決意が胸を揺らす。
「三号棟……夜」
私が小声で呟くと、秋吉はすぐにスマートフォンを取り出して地図を確認した。基井は痛む身体を支えながら顔をしかめ、千夏は青ざめた表情で震えている。それでも……私たちの目に宿ったものは、怯えだけではない。もう一歩踏み込まなければ、大切なものを失う気がする。
学校の嘘はこれで終わりではない、という事実が背筋を冷やす。式澤がいなくなった今、私たちはどう動くべきなのか。理事長が持っていた闇、前任校の事件をかき消した闇――その全てに向き合う覚悟があるのか。
私は思いきり唇を噛み締めた。式澤の残響と、アカウントの警告が重なり合いながら、胸の中でくすぶり続けている。これから先に待ち受けるのが希望なのか、さらなる絶望なのか……もう誰にも分からない。
ただ一つはっきりしているのは、私たちが嘘を受け入れて生き続けるか、真実のために立ち上がるか――その二択しか残されていないという事。
廊下に響くチャイムの音が空々しく耳を打つ。私は肺の奥から息を吐き、意を決してスマートフォンを握り締めた。夜が来るまでに準備を整えなければならない。怖い。それでも、もう逃げたくない。私も千夏も基井も秋吉も、式澤と出会ってしまった以上、かつての退屈な日常へは戻れないのだ。
*
夕刻。校舎の窓には赤い光が射し込み、褪せかけた青春の残照を映している。静まり返った廊下を歩きながら、私は決意を胸に刻んだ。新たな一歩を踏み出すためには、嘘を見破るしかない。――たとえ、その先にどんな闇が広がっていても。
そう考えた瞬間、私のスマートフォンが再び震えた。表示されたアカウント名を見たとき、全身の血の気が引く。あのメッセージを送ってきたのは、ずっと正体不明だと思っていた相手。それが画面に明確に表示されている。見覚えのある名前……私が絶対に疑わないと思っていた、あの人のものだった。
頭の中で警鐘が鳴り響く。目を逸らしたい衝動と、真実を突き止めたい欲求がせめぎ合う。どちらを選んでも、平凡には戻れない。廊下には夕闇が忍び寄り、世界を不吉な深紅で染めはじめている。
私は震える唇を噛み締め、スマートフォンの画面を凝視した。そこにはたった一言だけ――。
『三号棟で待ってる』
再び危険な夜がやってくる気配がした。私は拳を固く握り、廊下の先にある扉を睨みつける。誰を信じ、何を疑えばいいのかは分からない。けれど、この夜を越えなければ、式澤の言葉も自分の弱さも乗り越えられない。
廊下の先にある闇へ足を踏み出したとき、私のスマートフォンが一際大きな音を立てて振動した。その一瞬が、運命の扉をこじ開けてしまう予感を運んでくる。私の心臓は高鳴り、どうしようもなく息が詰まる。
そして、そのメッセージを開く前に私は立ち止まった――そこに書かれた言葉が、これまでの嘘と真実を一瞬で覆すものだと、はっきり悟ったから。
『急げ』
恐怖に駆られ、全力で走り出す。三号棟につくまでさほどかからなかった。百年前の建物は、朽ちて今にも崩れそうになっている。安全のため柵が置かれ、容易に入ることはできない。しかし私は知っている。誰かが作った入り口の場所を。
三号棟の敷地内に入り周囲を見渡す。日は沈み、あと数分で帳が下りるだろう。気温は低い。しかし背中には冷や汗が流れた。
私は建物の裏手へ回り込んだ。そこには塀がなく、学校との境目がない。森になっているのだ。スマホのライトをつけ、夜の森へ入ってゆく。
――確かめなければならない。
その一心で奥へと進む。程なくして到着した。目印のスコップもある。再びスマートフォンが震えた。
『そこか?』
どこからか私を見ているようなメッセージ。あり得ない。周りは鬱そうな森で、人の気配はない。
「そこにクラスメイト三人の死体があるのか?」
飛び上がって驚いた。誰にもつけられていないはずなのに……しかもこの声は式澤。
「な、なんのこと?」
式澤が木の陰から出てきた。
「曝すと言ったはずだ。おっと、動くな。スコップにも触るな。お前が埋めた三人の遺体に傷が入ったら困る。やっと場所が特定できたんだし」
その声と同時に、大勢の警察官が現れた。木の陰に隠れていたのだろう。
「……」
「観念しろ。俺が教師に変わりない。しかし、前の学校で暴力沙汰を起こしたのも、学校の不正も、全部嘘。ついでに言えば、基井、千夏、秋吉、理事長、全員捜査に協力してもらった。なあ、お前はなんで三人も殺した。同じクラスの学友を。無視されたという理由でなんで殺した!」
式澤の怒号がこだました。私の嘘は初めから疑われていた。
私は都内の私立高校に通う二年生――名前は間崎紀子。夏休み明けの朝、いつもより早く登校した理由は自習室にこもるためだった。成績は中の上くらい。特別に目立つわけでもなく、かといって地味でもない。SNSには明るい高校生活を投稿しているけれど、実際のところ心は塞ぎがちだ。どこかで人間関係に疲れている。そんな私が、この日だけは嫌な胸騒ぎを拭えなかった。
ホームルームの開始時間ギリギリになって、見慣れない男が入ってきた。白いシャツの袖口が微妙に赤く染まっている。大人にしては痩せすぎていて、その瞳には何か――言いようのない焦りがある。
「皆さん、おはようございます。今日からこのクラスを受け持つことになった式澤直樹です。担任の代理で来ました」
教室には奇妙な沈黙が降りた。代理の教師が突然やってきた事情も知らない。そもそも、担任の先生がどうして急に姿を消したのか説明もない。私だけでなくクラスメイトたちも混乱している。それでもやむなく席に着き、いつもどおりに朝のホームルームが始まった。
「俺のやり方で皆さんを立派な大人に育て上げるつもりです。やり方はちょっと変わっていますが、安心してください。真実を暴けば、必ず自由になれますから」
自由になれる――それは何を意味しているのだろう。短い言葉なのに、刃物を突きつけられた気分になった。クラスの全員が息を呑んでいる。隣の席の基井も目を丸くして教師を見つめていた。
授業が始まっても、式澤は全員にひたすら個人的な質問を投げかけた。名前、生まれた場所、家族構成に加え、休日の過ごし方やこれまでに犯したいちばん大きなミスについてまで……どこからがプライバシーで、どこからが教育なのかわからない。妙な違和感がずっと胸に渦巻いていた。教師というより尋問官のようでもある。
質問は昼まで続いた。異常だ。他の授業があるのに、来た先生を追い返すという暴挙。昼休みになると、式澤はようやく職員室へ向かった。私は千夏に声をかけられ、「ねえねえ、何か知ってる?」と訊かれたが、当然何も答えられない。突然やってきた代理教師。説明のない交代劇。彼が言う「真実を暴けば自由になれる」という言葉。その意図がまったく読めない。
心配になって、私は校内で聞き込みを試みることにした。職員室の前と通っていると、式澤の声が聞こえてきた。ドア越しの声だから、誰かと喋っている断片しか聞き取れない。けれど、その声には焦りと狂気が同居していた。
「今度こそ……俺は失敗……お前たちの正体……暴き出して……」
何を暴くつもりなのか。なぜ焦っているのか。そして何より、教師のはずなのに「お前たち」とはいったい誰を指しているのか。疑問ばかりが積み重なる。私は胸の鼓動を抑えられないまま、その場に立ち尽くした。
*
その夜。自宅でSNSを眺めていると、突然知らないアカウントからDMが届いた。内容はただ一言だけ。それは私の心を凍りつかせるには十分だった。
『式澤を信じるな』
いったい誰が何の目的で送ってきたのか。その警告が示す意味は何なのか。私の頭の中には様々な予測と疑いが渦巻きはじめる。あの教師は何者なのか。この学校で何が起きているのか。眠気が遠ざかっていく。
自問している間にも、夜はどんどん深くなる。それでも私は目を閉じられない。得体の知れない暗闇に絡め取られる感覚だけが増していく。
そのとき、スマートフォンが再び震えた。画面にはまた別のメッセージが表示されている。真夜中の警告は、より深い闇への入り口かもしれない。
内容を読みかけた瞬間、私は息を止めた。
そこには、今まで見たことのない衝撃的な言葉が浮かび上がっていた……。
*
『お前のすべてを曝す』
昨夜のDMが、私の世界をひび割れさせた。
席について見渡す。教室にはいつもと違う空気が張り詰めていた。全員が無言で席についていて、やけに静かだ。窓から差す日差しが痛いほど眩しい。
式澤直樹――昨日から担任代理として現れた教師。突然姿を消した本来の担任についてはいまだに説明がない。彼は一体何者なのか。私は彼の言葉と、深夜の警告が示す真意を探ろうとしていた。
一時間目のHRが始まると、式澤は薄い笑みを浮かべて教壇に立った。
「さて……今日から本格的に授業を進めていきます。今後は俺のやり方でクラスの実態を暴いていくつもりです。たしかこのクラスで三名の行方不明者が出てますよね」
教室内には沈黙が重くのしかかる。クラスメイトは目を伏せたり、ぎこちなくうなずいたりするだけ。私は不安をこらえながら、ノートを開くふりをして式澤の言動を観察する。鋭い眼差し、弱点を探し当てようとするかのような姿勢……普通の教師とは違う。まるで敵を拘束するための手段を考えている軍人みたいだ。
その日の授業は昨日の焼き直しだった。式澤は教科書の内容にはほとんど触れず、生徒一人ひとりに質問を投げる。家族構成、目標、そして他人に知られたくない秘密まで尋ねようとする。誰もが一瞬戸惑いながら、誤魔化しながら答えていた。私の番が近づくにつれ、心拍数が上がっていく。
「間崎。君は自分の弱さを認められるか」
名指しされた瞬間、クラス全員の視線が私に集まる。息を呑んで言葉を探す。しかし、式澤の瞳に射すような鋭さを感じ、何も言えなくなってしまう。スマートフォンに残ったあのメッセージが脳裏をチラつくからだ。彼を警戒する自分がいる一方で、何かを暴き出すことに執着する彼の本心を知りたい気持ちもある。
私はごくりと唾を飲み込んだ。
「……まだ、わかりません」
自分でさえ気づいていない弱さ。もしかすると、あのメッセージはそういう部分をえぐり出すための仕掛けかもしれない。式澤は私を見据えて、静かに頷いた。私はその視線に釘付けのまま、次の問いかけを待つ。けれど、彼は何事もなかったかのように次の生徒へ質問した。単調だけど不穏な時間がじわりと続いた。
休み時間になると、千夏が隣の席から小声で話しかけてきた。
「紀子、何か知ってるの……? あの先生、本気でヤバい気がする。大人のすることとは思えない」
私は答えに詰まる。メッセージのことはまだ話すべきじゃない気がしていた。根拠はないが、誰かに漏らせば何らかのトラブルが生じそうな危うさを感じる。
昼休み、私は校舎裏の喫煙エリアにこっそり向かった。もちろん高校生だからタバコを吸うわけではない。授業中に生徒が来ることはありえない場所……そこなら誰にも邪魔されずに考えを巡らせられると思ったからだ。秋の風が冷たく頬をかすめる。スマートフォンを取り出して、あのアカウントを再確認する。送り主の正体は依然不明。フォロワーもゼロで、プロフィールもほぼ空欄。手がかりなどないに等しい。
そのとき、表示されていた通知に目が止まった。同じアカウントから新たなメッセージが届いている。しかも未読を示す数字は「1」じゃない……「3」だった。夜中に同じ人物が立て続けに送ってきたのか、それとも別の誰かなのか。
メッセージを開こうとした瞬間、私の心臓が跳ね上がる。後ろに誰かの気配を感じたからだ。振り向くと、そこには式澤が立っていた。担任代理のはずの教師が、授業中のはずの時間帯に何をしているのか……疑問はすぐに恐怖へと変わる。
「間崎」
式澤の声は低く、はっきりと響いた。その視線は私のスマートフォンに向かっている。内心を読み取ろうとするように、じっとこちらを見据えていた。
「何か隠してるのなら、早めに吐いたほうがいい。嘘の上に立った世界なんて、いつか必ず崩れるからね」
私は目をそらしたくなる衝動を必死にこらえる。誰にも言えない――言いたくない秘密が私の中にあることを見抜かれている気がした。しかし、この場で逃げ出すわけにはいかない。学校という閉ざされた空間で、彼からはそう簡単に逃れられないのだ。
「どういう意味ですか……?」
式澤はわざとらしく時計を見たあと、少しだけ笑みを浮かべた。
「授業に戻りましょう。今はまだ、いい」
式澤はそれだけ言い残して、ひっそりと教室の方へ戻っていく。私は残されたまま、強い風に吹かれながら立ち尽くした。スマートフォンの画面は暗転してしまい、メッセージを開く機会を失っていた。
本当に何が起きているのか。あの警告は誰が、何のために。式澤は何を暴こうとしているのか。私にはまだわからない。だけど、このまま放置しておけば、どこまで深みにはまるか予想もできない。そう感じていた。
放課後、下校時刻になっても私は教室を出られずにいた。ぽつんとひとりぼっち。SNSに、また新たな通知があるかもしれない。けれど、開く勇気が出ない。もしかすると、そこには私が逃げ出したくなる現実が書かれているかもしれないから。
やっと意を決してスマートフォンに手を伸ばそうとしたその瞬間、扉の向こうから足音が近づいてきた。誰だろう……心臓の鼓動が速まる中、私は無意識に息を止めた。入ってきたのは――式澤直樹だった。彼は私の席の前まで来ると、ゆっくりと口を開く。
「君のスマートフォン……面白いものが入っているね」
どうして私のスマートフォンの中身を知っている……? 私は言葉を失って立ち上がりかけた。それでも彼は続ける。
「明日の昼休み。屋上で待っている。……そこできちんと話そう」
その言葉を残して式澤が教室を出ていったあと、私は座ったまま動けずにいた。彼が何をどこまで知っていて、何を私に暴かせようとしているのか。疑問は尽きない。窓の外には夕暮れが迫っているのに、頭の中にはずっと夜の闇がこびりついた感覚。
どちらにせよ明日、私の秘密が暴露されるのかもしれない。そして、あの正体不明のメッセージを送ってくる人物が指し示すもの……すべてが結びついたとき、何が起きるのだろう。
止まらない思考が一周しそうになる頃、チャイムが鳴り響いて校内放送が流れ始めた。そのアナウンスの声をただぼんやりと聴きながら、私は胸の奥の不安と対峙する。逃げ場はもうないのかもしれない。
そのとき、ポケットの中でスマートフォンが再び振動した。画面を確認すると、例のアカウントから新着のメッセージが届いていた。開くか、開かないか――私の手は微かに震えていた。
躊躇いを振り切って画面をタップし、表示された文字を見た瞬間、私は思わず息を呑んだ。その内容は明らかに、私の逃げ場を完全に断ち切るものだった……。
『深夜零時、学校へ来い』
そのメッセージは私を追い詰める凶器だと思った。
私が抱える秘密が無関係とは思えない。昨夜受け取った警告──「式澤を信じるな」という言葉。不安は膨らむ一方だ。
「絶対にいかない」
当たり前の判断をした。
*
翌日、昼休みの前に再びDMが届いた。『屋上に来い』と。昼間なら屋上は開放されているし、そこまで危険ではない。そう判断して向かった。
なぜ、何のために、どのような話なのか予想もつかないまま、重い足取りで階段を上がる。時刻は正午を少し過ぎた頃。屋上のドアを開くと、眩しい太陽と冷たい風が一斉に吹き込んできて息が詰まる。
一年生のグループが弁当を食べていた。いや、もう食べ終わっていた。彼女たちが私と入れ替わるように階段へ向かう。
ふと気づく。式澤が奥のフェンス近くに立っていた。まばゆい光を背にして、私に手招きしていた。
「来たんだな」
式澤の声は地を這う。
私は喉が渇いて、言葉を出すこともできない。屋上という場所へ呼び出された理由を想像すればするほど、まともに息ができなくなる。
「昨日の放課後、君のスマートフォンを覗いた。悪いとは思わない。教師として必要な行為だった」
式澤の口ぶりは淡々としていて、罪悪感など微塵も感じていない。
「どうやってそんなことを……?」
震える声で問いかける。なぜ私のスマートフォンに執着するのか。この学校で何を暴こうとしているのか。その答えを知りたくて、けれど知るのが怖くて足がすくむ。
「君が何を隠しているか確かめるためだ。クラスには、嘘をついている者が多すぎる。表面だけ飾っていても、本質は誤魔化せない」
式澤は不気味なまでに落ち着いている。私は思わず後ずさりし、フェンスの鉄柵が背中に当たってひやりとした。誰が、いつ、どこで嘘をついているのか。それを暴くのが彼の使命だと言わんばかりの態度だ。
「……私が隠していることって、何ですか」
式澤の視線は鋭い。私はその視線から逃げられない。
「自分の中にある弱さだよ。君はSNSでは明るい日常を演じているが、本当は人間関係に疲れている。誰かに責められるのを恐れて、いつも適度な距離を保っている。それが嘘だと言っているんだ」
確かに……思い当たる節はある。私は強い人間じゃない。傷つくのを避けたくて、友達と一定の距離を置き、波風を立てない方法を選んできた。そんな私の心の内を、式澤は既に見通しているというのか。
「それでも……先生が勝手にスマートフォンを見るのはおかしい。何でそこまで……」
私は言葉を途切れさせた。式澤の瞳に潜む苛立ちが一気に噴き出したように見えたからだ。強い風が吹いて私の髪をかき乱す。胸が苦しくなるほどの沈黙が続く。
「なぜここまでやるかって? 俺は真実を隠す人間を許せないんだ。教員になったのは、自分の正義を実行する場所が学校しかないと思ったからだ。ここで嘘をつく奴がいるなら、俺がそれを糾弾する」
狂気にも似た執念を感じる。声が出ない。どのように応じればいいのかもわからない。それでも怖気づいてばかりではいけない。私は覚悟を決めて、例の警告メッセージのことを切り出す。
「先生……昨日の夜、私のところに警告が届いたんです。『式澤を信じるな』って。誰が何の目的で送ってきたのかは、わからない。けど……もしかして先生には、心当たりがあるんじゃないですか」
式澤は微かに目を見開いた。驚きなのか、それとも別の感情なのか判別できない。だが、その表情から一瞬、動揺が見え隠れする。
「誰かが俺を陥れようとしている? ああ、いや、気にする必要はない。俺は正しいことをしているだけだ。悪意を持つのは、嘘を正当化しようとする人間のほうだ」
まるで論破するかのごとき強い言葉。私は返す言葉を失う。正義を振りかざして、生徒たちの秘密を暴こうとする教師……本当にそれが正しい行いなのかどうか、私は疑問をぬぐえない。
そのとき、屋上のドアが乱暴に開く音が響いた。振り返ると、息を切らせた千夏が立っていた。彼女の瞳には焦りと恐怖が色濃く宿っていた。
「紀子……大変……職員室で誰かが先生のことを……」
千夏は私と式澤を交互に見つめて言葉を詰まらせる。何が起きているのかはわからない。けれど、何か良くない事態が動き始めているのは確かだ。千夏の震える声が、それを告げている。
「何かあったの?」
私の問いに、千夏はうまく言葉にできない。式澤も険しい顔つきのまま、次の言葉を待っている。風が吹き抜ける屋上に、誰かの悲鳴に近い声が遠くから響いている気がする。心臓がぎゅっと締め付けられた。
千夏は細い指を強く握りしめて、ようやく口を開いた。
「本当かわからないけど……先生が警察に通報されたって……」
千夏がチラと式澤を見たとき、私の中で何かが弾けた。警察が絡むような事態が、なぜ学校で……式澤には何が隠されているのか。真実を暴くと宣言していた式澤自身が、何か重大な秘密を抱えているのではないか。そう思わずにいられない。
問いただそうと口を開いた矢先、式澤が鋭く息を吐いた。その表情には確かな焦りが宿っている。
「ちょっと行ってくる」
式澤はそれだけを言い放つと、千夏を押し退けるようにして屋上から姿を消した。私は千夏と顔を見合わせる。風が強く吹きつけて、私たちの髪を一瞬で乱していく。さっきまでの式澤の言葉が混乱を生むばかりで、何一つ確証が持てない。
彼は本当に正義のために行動しているのか。それとも、真実を隠しながら生徒を追い詰める「ヤバいやつ」に過ぎないのか。警察に通報されたという事態が何を意味するのかも含め、疑問は深まる一方だった。
私は震える手を押さえながら、千夏に向かって言う。
「職員室……見に行ってみよう」
千夏は無言で頷く。二人で屋上から駆け下りようとしたそのとき、私のスマートフォンが再び振動した。画面を確認すると、あの警告を送ってきたアカウントから、また新たなメッセージが届いていた。
迷わず開くと、そこには衝撃的な文言が並んでいた。いったい、この学校で何が……そして式澤直樹の周囲で、どんな事実が隠されているというのだろう。
思考の渦に呑み込まれかけた瞬間、廊下の向こうから再び悲鳴めいた叫び声が聞こえた。私と千夏は言葉を失いながら、ただ瞳を交わす。身動きできないまま、危険な予感だけが胸を締め付けていった。
*
警察が来るなんて……この学校は、もう普通じゃない。
屋上での式澤との対峙から一夜が明けた。けれど、まだ頭は混乱したままだ。昨日、千夏が飛び込んできて告げた「先生が警察に通報された」という衝撃的な情報。あれは誰が、いつ、どんな理由で通報したのか。まったく見当がつかない。式澤自身がやったとも思えないし、通報したのは生徒なのか、職員なのか、あるいは外部の人物なのか。何もわからないまま朝を迎えた。
一時間目の授業が始まっても、クラスには奇妙な空気が漂っている。生徒たちは皆、式澤が教壇に立つのを待つ気配すらない。友人の基井や千夏も落ち着かない表情をしている。気まずい沈黙に耐えきれず、私は千夏に小声で尋ねた。
「昨日の職員室、結局どうなったんだろう……基井くん、何か聞いてる?」
千夏は視線を伏せる。
「警察が来たらしいって噂は本当。でも詳しいことは誰も話してくれないんだ」
心臓が高鳴る。式澤は何を隠しているのか。誰かが彼を告発しようとしているのか。それとも、もっと別の陰謀が渦巻いているのか。私が考え込んでいるうちに、いつもなら既に姿を見せるはずの式澤が、授業開始のベルを過ぎても来ない。クラスの皆も不安げに顔を見合わせている。
二十分ほど経った頃、ようやく式澤が教室に入ってきた。苦しげな表情を見せることなく、冷静そうな瞳で私たちを見回す。
「遅れてすまない。……職員室が少し騒がしかった」
教室に張り詰めた沈黙が落ちる。式澤がちらりと私の方へ視線を投げた。ぐっと息を呑む。彼は何事もないかのように出席を取り始めたが、クラスメイトの誰もが先生の一挙一動を見逃すまいとしている。空気が重い。息が苦しい。
一時間目が終わり、休み時間になると、私と千夏は意を決して職員室へ向かうことにした。真相が知りたい。今、何が起きているのかを確かめないと、ずっとこの閉塞感から抜け出せない気がしたからだ。廊下を急ぎ足で進んでいくと、職員室の手前に人だかりができている。誰が集まっているのかと近づくと、そこにいたのは見慣れないスーツ姿の大人たちだった。
彼らは警察関係者だろうか。私は思わず立ち止まり、千夏と顔を見合わせる。どう動くべきか、足がすくんでしまう。けれど、そのとき後ろから私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「紀子」
振り向くと、基井が小走りでこちらへ来る。基井はいつもクラスで目立たないタイプだけれど、情報通として信用できる存在だ。
「噂だけど、式澤先生の前任校で起きた事件に関して、警察が事情を聞きに来たみたい。何か……暴力沙汰があったって話らしい」
基井の言葉に唖然とする。暴力事件……式澤が、前任校で? それが事実なら、あの狂気に満ちた教育方針も妙に納得できる部分はある。彼は「嘘を許さない」という正義の名の下、手段を選ばない人間なのかもしれない。
「それ、いつ……どこで……どうして事件が起きたのか、わかる?」
基井は首を横に振る。
「詳しいことまでは聞いてない。ただ、式澤先生が退職を余儀なくされた……って噂。今回の代理就任も、あくまで臨時の措置だったみたいだよ」
私は小さく息を吐く。前任校を辞めた理由、警察の捜査……そして今、ここでも何かを暴こうとしている式澤。彼の本当の目的は何なのか。次々と疑問が湧いては、私の不安を逆立てる。
昼休み、私は千夏と一緒に再び校舎裏へ向かった。誰にも聞かれない場所が必要だった。あのメッセージを送ってくる謎のアカウント。まだ新着があるかもしれない。私はスマートフォンを取り出し、恐る恐る画面を確認する。すると……やはり通知が増えていた。既に未読のメッセージが五通になっていた。震える指でアプリを開く。
最初の一通目には、こう書かれていた。
『式澤は真実を隠している。あの事件を調べろ』
あの事件……前の学校で起きた暴力問題を指すのだろうか。二通目、三通目も似たような文言だが、読んでいくうちに送り手が何者なのか、うっすらと意図を感じ始めた。どうやら私に式澤の過去を暴かせたいらしい。しかも、そのための資料らしきファイルをネット上にアップしているという情報まで書かれている。
四通目にはこうある。
『下手に動けば、君も危険に巻き込まれる。慎重に』
そして五通目──。
『今夜、校舎の地下倉庫へ行け。そこに答えがある』
地下倉庫……? 夜の学校に忍び込むなんて簡単ではない。もし見つかれば停学どころか退学の危険もある。それでも、このまま真実が見えないままでいるのは耐えられない。千夏に相談すれば止められるかもしれない。けど、私は思い切って心に決めた。夜になったら、何とか校内へ潜り込んで倉庫を探す。彼の過去を知るために。
放課後、私は手がかりを集めるべく学校内を歩き回った。教師の誰かが何か知っていれば、それだけでも心強い。けれど、職員室の空気は重く、誰も多くを語りたがらない。式澤もすでにどこかへ消えてしまった。私は薄暗くなりかけた校内を歩き回りながら焦燥感に駆られていた。
その夜、約束どおり私はこっそりと校舎へ忍び込んだ。人感センサーで点灯する廊下の蛍光灯が、不安定なまばたきを繰り返している。心臓の鼓動が耳に響き、足音をできるだけ抑えながら地下へ続く階段を下りていく。
鍵がかかっているのでは……という心配はなかった。夜間も清掃や備品の移動で使われることがあるらしく、倉庫には基本的に施錠されていないのだ。
冷たい空気が肌を刺すように感じる。倉庫の入り口を開けると、コンクリート打ちっぱなしの壁と古い棚が見えた。かなり荒れた印象で、埃っぽい匂いが鼻につく。
「何があるんだろう……」
私はスマートフォンのライトを照らしながら、倉庫内をゆっくりと進んでいく。そこら中に段ボールが積まれている。古い書類、壊れた備品、使われなくなった器具……。一見、何の手がかりもなさそうに見えた。
それでも奥へ進んでいくと、棚と棚の狭い隙間で、やけに新しいファイルが不自然に置かれていた。まるで私を誘導するように配置されている。緊張で手汗がにじむ。そのファイルをそっと開いた。
そこには古い新聞記事のコピーと、写真が挟まれていた。写真は暴力事件の現場を写したものらしい……血痕と乱れた教室の様子が記録されている。新聞記事の日付は二年前。事件を起こした教師の名前が……「式澤直樹」とは違う名前に見えた。でも、記事を読み進めると、その教師と密接に関わっていた人物が「式澤直樹」だとわかる。何が起きたのか……頭がぐらりとするような衝撃が走る。
背後で足音がした。私は悲鳴を飲み込んで振り向こうとする。暗闇の中で人影が揺れる。誰……? 怖さと疑問が入り混じったまま硬直してしまう。すると、その人影はゆっくりと近づいてきて、耳元で低く囁いた。
「こんな所で何をしている?」
その声を聞いた瞬間、私は息が止まる。間違いない。これは――。
「式澤……先生……」
声にならない声が唇からこぼれ落ちる。視線の先には確かに式澤直樹が立っていた。彼の表情は薄暗い光の中で読めない。狂気を孕んだ瞳がじっと私を見つめている。月明かりの差さない地下倉庫で、私の脳裏で赤の警告灯が回り始めた。
ファイルに書かれている事件の情報。誘導されるようにして辿り着いた真実。そして、こんな夜に現れた式澤直樹。本当の闇は、いったいどこまで続いているのか。
次の瞬間、倉庫の入口付近から何かが倒れる音が響いた。私と式澤が同時にそちらへ目を向ける。暗闇の中、もう一つの人影がうずくまっていた。私は息を呑んで、その姿を凝視する。誰がこんな時間に、何のために……?
倉庫には、ただ冷たい闇だけが広がっている。私の鼓動が激しくなる中、その人影はゆっくりと顔を上げ――。
私はその表情を見た瞬間、声にならない悲鳴を飲み込んだ。
スマートフォンの灯りに照らされて、その人物の顔が浮かび上がる。
「基井くん……」
普段は穏やかな彼の瞳が、不自然なほど見開かれている。声をかけても反応が薄い。呼吸はあるものの意識がはっきりしていない。何があったのか、私は混乱の渦に巻き込まれそうになる。
「何を見た?」
式澤の低い声が響いた。彼はファイルに視線を落とすと、押し殺したような笑みを浮かべる。光の少ない倉庫の中で、その表情を細かく読み取るのは難しい。けれど、熱を帯びた瞳が、この瞬間も「嘘を隠す人間」を暴こうとする執念を感じる。
「先生……ここにある記事は……全部、先生の過去と関係があるんですか」
私は意を決して問いかける。式澤は一瞬だけ黙り込んだ。基井はまだ意識が朦朧としている様子で、倒れ込んだまま動かない。冷たい空気の中で、私の鼓動だけがはっきりと聞こえていた。
「知りたいなら、知るがいい」
式澤の声は低く、妙な自信を感じる。彼がふたたびファイルを手に取ろうとしたそのとき、基井がかすかに身じろぎした。私は慌ててしゃがみ込み、彼の肩を支える。
「ねえ、大丈夫……? それに、どうしてここに……」
基井はうわ言のように何かをつぶやく。聞き取ろうと耳を近づけると、「SNS……メッセージ……」という言葉がかすかに聞こえた。もしかして基井も、私と同じように謎のアカウントから連絡を受け、ここへ来たのだろうか。
「式澤先生……何を隠してるんだ」
基井の言葉は震えている。彼の瞳には明らかな怯えが見えた。私もまた、同じ恐怖を感じている。式澤が生徒を操っているのか。嘘を暴くという動機の奥には、別の目的が隠されているのかもしれない。
「お前たちこそ、何を隠している?」
式澤の言葉に、私はぎくりとする。基井の唇からすがるような声が漏れた。
「隠してなんか、ない……ただ……このままだと……」
彼の声は途中で途切れた。私は立ち上がって式澤を見据える。彼に問いたださなければならないことは山ほどある。夜の学校で、何が起きているのか。警察が動いているのは何故か。どうして前任校での事件を封じ込めようとするのか。問いは次々に浮かんでくるけれど、式澤の表情は不気味なまでに落ち着いていた。
「俺は嘘を憎んでいる。それだけだ」
式澤の言葉に、私は息苦しくなる。その一点だけを掲げて、彼はどんな手段をも正当化するのだろうか。この倉庫に置かれた記事は、かつて式澤の周りで起きた悲惨な出来事を示しているのに、彼自身は微塵も後悔していないように見える。
「じゃあ……この事件で本当にあったことは……?」
私は震える声で問いかける。暗闇の中、ファイルを挟む式澤の腕が、獲物を押さえ込む捕食者のように見え、吐き気を覚えるほどの緊張が走る。
「詳しく知りたいのなら……自分で調べるといい。それが、真実を求める者の責任だ」
式澤はそう言い残すと、ドアのほうへ向かって歩き出した。その背中は冷徹で、人間味が感じられない。私は基井を助け起こそうとするも、彼は力が入らないのか立ち上がれない。スマートフォンを握りしめたまま、悔しそうに唇を噛んでいた。
「あのアカウントから……指示が……」
基井の言葉を聞き「やはり」と思いながら、私は再び頭を悩ませる。謎のメッセージを基井も受け取っていたのだとすれば、送り主はいったい誰なのか。そして、こんな危険な場所へ誘導して、私たちに何をさせたいのか。考えれば考えるほど、背筋が冷えていく。
「立てる? ここから出よう……」
私は基井の肩を支えながら、なんとか歩き出す。喉の奥が渇ききっていて声がうまく出ない。彼を連れて早くこの闇から抜け出さなければ。だが、出口へ向かおうとした瞬間、倉庫の照明が突然光を失った。バチンという音を立てて、真っ暗な闇が私たちを呑み込む。
「え……どうして……」
慌ててスマートフォンを取り出そうとするが、基井を支えているせいで手が足りない。視界はゼロに近く、廊下から差すはずの淡い光も途絶えている。誰かが意図的に電源を落とした。胸の鼓動は早鐘のように鳴り響き、息が乱れる。
そのとき、背後でドアが閉まる音がした。私は反射的に振り返る。暗闇の中では何も見えない。冷や汗がこめかみを伝い、頭がぐらりと揺れる。閉じ込められた? それとも誰かが鍵をかけたのか。あまりの恐怖に、基井の肩を支える手も震え始める。
「ねえ……誰か、いるの……?」
問いかけてみても応答はない。基井の苦しげな息遣いだけが耳を打つ。心臓は潰れそうなほど激しく脈打っている。こんなところでどうすればいいのか。助けを呼びたい。しかし、深夜の学校には誰もいないはず。
暗闇の中でスマートフォンを探り当て、ライトを点けようとする。しかし、バッテリー切れなのか、何度もエラーが出てシャットダウンしてしまう。思考は混乱し、呼吸が荒くなる。基井を安心させたいが、自分自身がこの状況に耐えられるかわからなかった。
「嘘をつく人間を許さない……って、式澤は言ってた」
基井がぽつりと呟く。その声はかすれている。私はごくりと唾を飲み込みながら答えた。
「もし私たちが……先生から見て嘘をついてる……と思われたら、どうなるんだろ」
返事はない。けれど、基井の肩に伝わる小さな震えが、彼の不安を物語っていた。どこかで遠い物音がして、私は思わず身を硬くする。もしや誰かが再びこの倉庫に……そんな想像が頭を支配する。真っ暗な世界で、出口の位置さえわからない。私たちが苦し紛れに進んでいる方向が合っているのかもわからない。
「落ち着いて……出口を探そう」
震える唇をなんとか動かして、基井に呼びかける。後退してしまいそうな足を踏みとどめながら、闇の中を手探りで進む。廊下へ出るまで、あと数歩のはず。祈るような気持ちで前に踏み出したその瞬間、私の足は段差に突っかかった。バランスを崩して倒れ込みそうになる。かろうじて基井を巻き添えにしないように身体を捻るが、肘を強く打ちつけて思わずうめき声を上げた。
激しい痛みが全身を駆け巡る。頭が朦朧としかけたそのとき、視界の片隅で微かな灯りが揺れた。誰かが懐中電灯か何かを点けたのかもしれない。その光は倉庫の奥へと向かっており、私たちとは反対側にある。そこにいるのは式澤なのか。それとも――。
痛みに耐えながら顔を上げた私は、光を持つ人影がファイルの置かれた棚の前に立っていた。服装は教師のものには見えない。生徒なのか、あるいは他の何者か。闇と光の境界線で、その影はゆっくり振り向いた。
思わず息を止める。そこには見覚えのある顔が……いや、何かが違う。頭が混乱して正体がはっきりしない。けれど、その人物は明らかに私と基井の動きを知っているのか、意味ありげに笑ったように見えた。私は思わず叫びそうになる声を必死でこらえる。
照明が落ちた密室の地下倉庫に、謎の影と私たち。そして、式澤がどこにいるのかもわからない。逃げ場のない闇に飲み込まれながら、私は確信する。これまで追ってきた嘘の正体は、私たちが思っているよりずっと深く、残酷なものなのだと。
光を手にした影が一歩近づくたび、私は恐怖に凍りつく。基井のかすれた声が耳元で微かに震える。
「紀子……逃げ……」
暗闇は私たちの声も意思も全てを封じ込める。逃げ道を探す余裕など、もうどこにもない。私は暗い天井を仰ぎながら、胸の奥にこみ上げる絶望を感じていた。
そのとき、廊下のほうから大きな音が響いた。何かが壁に衝突したような衝撃音。私と基井は思わず身を硬くする。光を持つ影が一瞬だけ姿勢を変えた。その一瞬が、私たちにとっては唯一の動けるタイミングだったかもしれない。
倉庫の入口が乱暴に開け放たれた。そこから飛び込んできたのは……。
私は目を見開いた。真夜中の校舎で、絶対に見かけるはずのない人物だった。光のない世界で、その姿こそが最後の希望になるのか、それともさらなる絶望の入り口なのか。胸の奥に沸き立つ戦慄を抑えられないまま、私と基井は震える手を重ね合うしかなかった……。
*
「紀子……無事なの?」
クラスメイトの千夏だ。いつもは控えめな彼女が、こんな危険そうな場所へ乗り込んでくるとは思わなかった。震える手で懐中電灯を握ったまま、千夏は私と基井の姿を確認して安堵のため息をつく。
「ど、どうして千夏がここに……?」
私はひどく混乱していた。あまりに突然の登場に加えて、千夏自身も顔面蒼白で足元がおぼつかない。それでも強い意志を宿した瞳で奥に潜む人影を睨んでいる。照明が落ちた倉庫の中には、式澤の姿はもうない。彼がどこへ行ったのか検討がつかず、私の胸は不安で締め付けられる。
「紀子がここに来るって、誰かから連絡があったの。こんな時間に学校に侵入するなんておかしいって思ったから、急いで追いかけてきた」
千夏の声は震えている。誰かから連絡……またあのアカウントが動いたのか。基井も微かにうめき声を上げながら、私の腕につかまったまま千夏を見上げた。その瞳には混乱と安堵が入り混じっていた。
「助かった……けど、気をつけて。何者かが……奥に……」
基井は苦しそうに視線を動かす。すると、倉庫のずっと奥にいるはずの光の持ち主が、こちらへ一歩ずつ歩き始めた。廊下から差し込む千夏の灯りとは違う。やがて、その姿がぼんやりと浮かび上がった。
私は基井を抱えるようにして後ずさった。千夏も同じく身構える。懐中電灯の輪郭が人の足元を照らし、じわじわと姿が露わになる。その人物は微妙にフードを被り、顔を隠すようにして立っていた。
「……やっぱり、あなただったんだ」
千夏が低くつぶやく。私には、まだフードの下の顔がはっきりと見えない。だが、千夏の反応を見るかぎり、彼女はこの相手の正体を知っているのだろう。基井が縋るような目つきで訴えてくるが、私も言葉が出ない。ただ心臓が壊れそうなほど鳴り響くだけだ。
「これ以上、学校の秘密を暴かれたくない……そう思ったんでしょ?」
千夏の問いかけに、フードの下の人物は何も言わず首を傾げた。声どころか呼吸音すら感じられないほど静かだ。息苦しい沈黙が続き、底冷えする倉庫の暗闇が私たちを追いつめる。基井の痛々しい呼吸が耳に残り、私も恐怖で体が強張る。
私は思い切って尋ねた。
「あなたは誰……どうしてこんな場所に?」
しばらくの沈黙のあと、その人はフードをずらして顔を見せた。淡い光に照らされて浮かび上がる表情は……私が見知った生徒のものだった。名前は秋吉――三年生で生徒会役員の一人だ。いつも優等生然と振る舞い、教師受けも良かったはずの上級生。しかし、ここの空気に似つかわしくない怜悧な眼差しを私たちに向けている。
「千夏……下がって」
私が警戒心を滲ませながら言うと、千夏は首を振る。
「秋吉先輩……どうしてこんなことを。あのSNSのメッセージを送っていたのは先輩なんですか」
言葉をぶつけると、秋吉は口元に笑みを浮かべた。それは嘲るようでもあり、どこか達観したようでもある。彼は小さく息を吐くと、軽く肩をすくめた。
「メッセージを送っていたのは、たしかに俺だよ。でも、俺が何でも仕組んだわけじゃない。この学校にはもっと根深い問題がある。式澤先生だけがヤバいわけじゃない。嘘の上に成り立っている生徒も教師も……すべてが繋がっているんだ」
その言葉に、千夏が動揺を見せる。私も頭の中で警鐘が鳴る。秋吉先輩は何を知っているのか。前任校での暴力事件に式澤が関与していた事実も、この学校が抱える秘密に含まれるというのか。途方もない不安が私を襲う。
「じゃあ、基井くんや私をここへ誘導したのも……」
私は声を震わせながら問いかけると、秋吉はあっさりと頷いた。
「見てほしかった。知ってほしかったんだ。何が正しくて、何が偽りか……俺たち生徒自身が判断しないといけない。式澤先生は言うだろう、嘘は許さないって。でもさ、あれは正義なんかじゃない。ただの押し付けだ」
秋吉の言葉に、今までの違和感が少しずつ繋がっていく。式澤の正義は純粋に見えて、実は「嘘をつく生徒を引きずり出す」行為を正当化するための手段だったのかもしれない。彼のやり方は、暴力事件さえ引き起こすほどの危うさを孕んでいる。秋吉はそれを止めるために、私たちを使って何かをしようとしているのか……。
「先輩は……私たちを守るために?」
そう問いかけると、秋吉は小さく笑った。
「守る?そうでもあり、そうでもない。俺も式澤先生に個人的な恨みがある。あの人は、この学校の悪いところだけじゃなく、もっと深い場所を暴こうとしている。そのやり方を認めるわけにはいかない。でも……俺だけじゃどうにもならないから」
言い終わると、秋吉は手早くスマートフォンを取り出して画面を見せてきた。そこには学校の内部文書らしきデータが写っている。教師や生徒会が知り得ない裏情報が満載で、違法まがいの業務が行われていることを示すものもあった。何が本当で、どこからが嘘なのか判別しづらいほど複雑で、私の頭はクラクラする。
「式澤先生が前任校での事件を隠しているんじゃない。学校側が、そこに目をつぶって受け入れたんだ。優秀な教師という評判だけを鵜呑みにして、過去の問題を封じ込めた結果がこれ」
秋吉は唇を噛みながら、画面をスワイプして別の資料を見せる。そこにはこの学校名や理事長の署名も含まれている。式澤が赴任したのは、いわば「学校の体裁を保つ」ためだったのか。危険な人物だとわかっていても、問題を抱える学校の事情と結託すれば、すんなり職を得られる……そんな構図なのかもしれない。
「だから……俺たちを利用して式澤を追い出したいってこと?」
基井が苦しそうに顔を上げ、秋吉を見つめる。秋吉は否定も肯定もせず、冷たい沈黙を保ったまま少し目を伏せた。そっと息を吐き出すと、淡々と口を開く。
「式澤先生だけが問題じゃない。嘘で取り繕う学校のシステムそのものを壊す必要がある。けど、それを正面から訴えても、理事長や教師たちが動くはずもない。だから、まずは式澤先生の本性を皆に曝す必要があるんだ。『嘘を許さない』という教師が、実は何よりも嘘を利用してここにいる――それを周知できれば、学校は混乱する。そこからが勝負だ」
秋吉の声は低く、しかし決意がこもっていた。私の心は揺れ動く。式澤を追い詰める目的……確かにわかる。彼を危険と感じているのは私も同じだ。けれど、その手段として私や基井が巻き込まれたことが釈然としない。千夏もまた複雑な顔をして言葉を探している。
「私や基井、千夏をこんな夜中に倉庫へ誘い出す必要があったんですか」
問いかけると、秋吉は肩をすくめた。
「今夜証明できた。君たちに行動力があるってさ。それなら変えられるかもしれない。そう思った。動かないまま黙っているより、真実を目にした方が話が早い。危険だとわかっていたけど、こうするしかなかった」
心臓が痛いほど脈打つ。確かに私は何も知らないまま、この学校で漂っていただけかもしれない。SNSに投稿する日常の裏で、心の中にある澱の正体にも目を背けてきた。その結果が、今の事態を呼んでいるのかもしれない。けれど……。
「式澤は……消えたみたいだけど、先生の狙いは何なんでしょう。私たちに嘘を暴かせたいのか、自分自身が何か暴こうとしているのか」
千夏が不安そうに言葉を継ぐ。秋吉はゆっくりうなずいた。
「そこが一番の問題だ。次に式澤先生が何をしようとしているのか――わからない。だから急いで準備しなくちゃならない。俺は、理事長に直接この資料を突きつけるつもりだ。学校もろとも、嘘を覆い隠す仕組みを壊すために」
その決意表明の中には、明確な覚悟があった。私の背筋に緊張が走る。もしそんな事をすれば、秋吉先輩だけでなく、私たちもただでは済まないのではないか。退学に追い込まれるのはもちろん、警察沙汰になるかもしれない。もう後戻りはできないのか。
「……協力します。俺も、あの先生のやり方は許せない」
基井の決意に満ちた声が響き、私と千夏は驚いて顔を見合わせる。いつも大人しそうに見える基井が、こんなにも強い覚悟を示すなんて……。しかし、その瞳にははっきりと意思が宿っていた。
「私も一緒にやる。もう逃げたくない。嘘を見て見ぬふりしてきたのは、私自身だと思うから」
声を震わせながら私も続ける。秋吉は一瞬だけ微笑むと、無言で頷いた。その横で千夏は視線を落とし、何かを飲み込むように唇を噛む。彼女は必死で恐怖を抑えているのだろう。やがて、決意を固めた表情で顔を上げた。
「わかった。私も行く。何が起こっても、もう黙っていたくない」
四人の思いがひとつになったその瞬間、倉庫の出口から廊下へ続く電気が急に点滅を始めた。誰かがスイッチを操作したのか……明滅するライトに照らされて、廊下の奥に一つの人影がゆらりと浮かび上がる。生徒にしては背が高い。大人の男――間違いなく教師の姿だ。
そして、その人物こそが私たちが追い続ける存在。式澤直樹がゆっくりとこちらへ歩を進めてくる。薄暗い廊下で、その瞳は鋭く私たちを見据えていた。絶対的な支配欲と、狂気の正義。
「……まだ逃げないのか。君たちは何を見た?」
式澤の低い声が倉庫に反響する。私と千夏、基井、そして秋吉が黙り込む中、式澤は小さな笑みを浮かべた。無防備に見えるが、その体からははち切れんばかりの緊張が伝わってくる。
「嘘にまみれた学校の方が都合がいいのか……それとも、俺の正義を受け入れるか。それを決めるのは、君たちだ」
静寂の中で私たちの心は揺れる。式澤の正義……秋吉の抵抗……どちらも一筋縄ではいかない。基井や千夏と顔を見合わせながら、私は胸の内に渦巻く恐れと戦おうとした。学校の嘘、式澤のやり方、秋吉の計画……一度に抱えきれないほどの情報が脳を駆け巡る。だが、もう立ち止まれない。嘘を暴くか、嘘に溺れるか――そのどちらかしか道はないのだから。
数秒か、数分か。時間の感覚が失われるほどの沈黙の末、秋吉が一歩前へ出る。手の中のスマートフォンを握りしめたまま、式澤をまっすぐ見上げる。その決意が空気を張り詰めさせ、私も基井と千夏も声を出せないまま固唾を呑んで見守る。
「やるしかない……」
秋吉が呟いた瞬間、倉庫の奥から不意に電子音が鳴り響く。誰かのスマートフォンだ。私は自分のポケットを探る。違う。千夏でもなく基井でもない。式澤のものでもない。その音は倉庫の薄暗い一角から聞こえていた。私たちはぎょっとしてそちらを振り向く。しかし視線の先には何も見当たらない。
式澤が不審そうに眉をひそめた。秋吉も息を飲む。電波が入りづらいはずの地下倉庫に、警告のような着信音が響く違和感。もしや、ここには私たちが気づいていないもう一人――何者かが潜んでいる……?
今にも時間が止まりそうなほどの静寂と緊張。それを破ったのは、再び倉庫を照らす白い閃光だった。何が起きたのかわからない。突然あたりが眩しく染まり、私たちは一斉に目を覆う。視界が真っ白に染まる中で、式澤の叫び声とも苦しげな声ともつかない音が耳を裂いた。
「くっ……やめろ……」
どこから来た閃光なのか、何が起こったのか。私たちには判断できない。基井が悲鳴を上げ、千夏が叫ぶ。秋吉が必死にスマートフォンの明かりをかざすが、光の渦に飲み込まれて何も見えない。私は顔を伏せたまま、早鐘のように打ち続ける心臓を抑えることしかできなかった。
一瞬の閃光が収まった後、辺りは再び暗闇に落ちる。そこには倒れ込んだ式澤の姿があった。薄れゆく廊下の照明の下で、式澤は床に手をついて苦しげに何かを訴えようとしている。言葉にならない声が消えていく中、私たちはただ呆然と立ち尽くした。
いったい誰が、何の目的でこの強烈な光を放ったのか。倉庫に隠れていた人物は誰なのか。式澤を倒すための手段だとしたら……その先にあるのは救いなのか破滅なのか。答えは見えないまま、私たちは闇と混乱の中で息を呑み続けるしかない。
そして――絶望に染まる沈黙を引き裂くように、式澤が微かに口を動かした。
「嘘……を……許さ……ない……」
その掠れた声は、もはや執念。死神の宣告のように聞こえた。今にも途切れそうな息の合間に、彼の狂気は確かに燃え続けていた。
私と秋吉、そして千夏と基井は動けない。視線の先で式澤が手を伸ばし、なにかを掴み取ろうとしている。その光景だけが目に焼きついて離れない。
私たちは、どうすることもできないまま立ち尽くしていた。嘘を暴こうとする狂気の教師と、嘘を隠蔽する学校の闇……どちらが正しいかを考える余裕など、もはやない。ただ一つだけ確実なのは、この事態が平穏に終わるはずがないということ。
手の震えが止まらない私たちを嘲笑うかのように、倉庫の天井から一筋の冷たい雫が落ちてくる。時間すら凍りついたかのように感じる闇の底で、私の鼓動は限界を超えそうだった……。
*
あの地下倉庫での閃光と悲鳴……倒れ込んだ式澤直樹の姿が、まだ頭から離れない。事件の翌朝、校内には混乱が広がった。あちこちの教室で囁かれる噂は、式澤が警察に逮捕されるというもの。
私や基井、千夏、そして秋吉は、未明までに教頭たちへ倉庫で起きた一部始終を報告した。式澤が負傷した状態で倒れ、正体不明の第三者も絡んでいた事。危ういところで夜間の警備員が来たため、すぐに救急車を呼んで式澤は一命を取り留めた。
入院先の病院でも、彼は相変わらず「嘘を許さない」と呟き続けているらしい。真夜中に照らされたあの閃光が何だったのか――私たちにも分からない。
二日後の放課後、職員室へ呼び出された私たちは、この学校の理事長と対峙していた。基井は資料を握りしめて固い表情を崩さない。秋吉は腕を組んだまま沈黙している。千夏も視線を落としながら、一言も口を開かない。私は心臓が潰れそうなほどに鼓動しながら、理事長の言葉を待った。
「君たちは、式澤直樹が前の学校で起こした事件を知ってしまった……そうだね」
理事長の声は低く、明確な敵意を含んでいた。私は唇を噛みながら頷いた。
「はい……先生の前任校の暴力問題、それを隠蔽しようとした経緯も……全てファイルで確認しました」
言葉が震えてしまう。理事長は険しい表情で眉を寄せる。
「この学校は長い間、生徒の問題行動や教師の過剰指導を、双方うまく取り繕ってきた。成績や進学実績を守るには、そうするしかなかったんだ。式澤くんの以前の件も、表沙汰にしない代わりに有能な彼を教師として迎えた」
秋吉が強い視線を向ける。
「結局は嘘を重ねただけです。その犠牲になったのは……式澤先生自身と、他の生徒だった。だからこそ、彼は歪んだ正義を抱え込んでしまったんじゃないですか」
理事長は目を伏せ、反論する気配はない。代わりに、警備担当者が前に出て声を張り上げた。
「しかし、だからといって夜の校舎へ侵入するなど言語道断だ。今回の件で、君たちには相応の処分が下るかもしれない」
反論したい気持ちはあるのに、言葉が出ない。私も千夏も基井も、あの夜、確かに校則を破ってまで地下倉庫へ潜り込んだ。結果として式澤が倒れ、不審者まで現れたのだから、責任を問われても仕方がない状況だ。
「理事長……私たちは、ただ真実を知りたかっただけです」
千夏が震える声で言う。理事長は硬い表情のまま、秋吉へ目をやった。
「秋吉くん。君は生徒会の立場を利用して不正に資料を入手した。黙っておけば見過ごしてやれたが、もう遅い。今さら学校を糾弾したところで、全てが丸く収まるわけではないんだよ」
秋吉は唇を固く結ぶ。
「丸く収めるためだけに嘘を重ねるのは、もう終わりにしませんか。こんな形で明るみに出た以上、これからは本当の意味で再生する道を探すべきでしょう。私たちは……そのために動いたんです」
その言葉を聞き、理事長は大きく息を吐き出した。沈黙が落ちて、時計の秒針だけがやけに響く。やがて、理事長は教頭と顔を見合わせ、渋々何かを決断したように頷いた。
「わかった……とりあえず、式澤直樹の処遇を正式に検討する。君たちが巻き込まれた一連の騒ぎについても、警察の捜査結果次第だ。厳しい処分が下る可能性は高い。それでもいいのかね」
私たちは互いに視線を交わし、最後にはしっかりと頷いた。もう逃げない。嘘を蔓延らせてきた責任は、誰か一人ではなく全員にあるのだから。理事長が微かに顔をしかめたところで、職員室の扉が乱暴に開け放たれた。そこに現れたのは――。
式澤直樹だった。包帯こそ巻いているが、目の奥に宿る狂気の正義は薄れていない。彼は私たちを一瞥すると、理事長の机に手をついて低く唸る。
「話を聞かせてもらう。俺を排除したところで、君たちの嘘が清算されるわけじゃない」
理事長が動揺しながら席を立つ。式澤の頬には痛々しい痣が残っているが、その瞳の光は失われていない。私も基井も思わず息を呑んだ。秋吉は一歩退き、千夏は身を固くしている。
「先生……どうしてまだ」
私が問いかけると、式澤は首を振った。
「前任校で起きたことも含め、俺は自分の責任からは逃げない。ただし、この学校が嘘を隠そうとする限り、俺はそれを暴く。たとえどんな代償を払っても」
教員と生徒の立場など関係ない。一人の人間として、式澤は自分の信念を貫き続けるというのだろうか。理事長が険しい表情で口を開く。
「式澤くん。もう充分だ。これ以上事を荒立てたくない。我々は君を暫定的に解雇する。捜査が進めば刑事責任に問われる可能性だってあるんだぞ」
式澤はまるで聞く耳を持たず、私たちを見つめる。滲んだ血のような赤い光が、その瞳に宿っている気がした。ゾクリとする寒気が背中を駆け上がる。
「嘘をつく連中が裁かれない現実を、俺は許すわけにはいかない。たとえこの場所を追われても、真実を追い続ける」
式澤の言葉は重くて鋭い刃物のようだ。教頭や他の教師たちが制止に入ろうとするが、彼はかすかに笑みを浮かべただけで微動だにしない。混乱の真っただ中にある職員室の空気が、一気に張り詰める。
そのときだった。扉の外から警察官らしき制服姿の男たちが慌ただしく入ってきた。式澤の姿を見つけるや否や、一人がきっぱりとした声で言う。
「式澤直樹さん。事情聴取にご協力いただきます。前任校の事件にも新しい証言が出ていまして……署までご同行願います」
式澤は足を止め、警察官を睨んだ。次の瞬間、その視線が私たちに移る。私と基井、千夏、そして秋吉。彼は唇を震わせ、最後の言葉を吐き出した。
「俺がいなくなっても、嘘は嘘だ。真実を暴く覚悟がないなら、全員が闇に沈むだけだ」
その言葉を残して、警察官たちに腕を取られながら式澤は連行されていく。その背中には狂気だけでなく、ある種の悲壮感も滲んでいるように見えた。彼の正義は歪んでいる……でも、それが生まれた背景もまた、この学校の嘘にあったのだと私は気づいてしまった。
職員室には沈黙が残された。理事長が暗い顔で頭を抱えている。教頭は溜息をつき、教師たちは呆然としたまま立ち尽くす。秋吉はスマートフォンを握りしめたまま拳を震わせ、基井と千夏は私の隣で戸惑いの表情を浮かべていた。
「これから、どうなるんだろう」
千夏が小さく呟いた。その問いに答えられる者は誰一人いない。式澤が去っても、嘘と歪みはまだ学校に根を張り続けている。私も視線を床に落とした。これから先、私たちができるのは何だろう。誰に責められたとしても、真実を見極める勇気を失ってはいけないのではないか……そう思いながら、ぎゅっと拳を握る。
やがて、警察官の足音と式澤の姿が完全に消える。冷えた沈黙の中、理事長が口を開きかけた瞬間、私のスマートフォンが震えた。画面を確認すると、あのアカウントからのメッセージが届いている。嫌な予感に胸が騒ぎながら、私は震える指で画面を開いた。
そこに表示された言葉は――
『終わったと思うな。真実はまだ眠っている。もし本気で闇を暴きたいなら、夜の三号棟へ』
思わず秋吉を見る。彼じゃない。ではこのDMは誰が。……三号棟は使われなくなって久しい旧校舎。何が隠されているのか。このタイミングでメッセージが届いたのは偶然ではない。私は千夏や基井、秋吉と視線を交わす。
結局、式澤が追い続けていた嘘は、本当の核心に迫っていなかったのかもしれない。連れ去られる瞬間、彼が私たちに残した言葉……それを無視してしまえば、同じ嘘の泥沼に沈むだけ。そんな不安と決意が胸を揺らす。
「三号棟……夜」
私が小声で呟くと、秋吉はすぐにスマートフォンを取り出して地図を確認した。基井は痛む身体を支えながら顔をしかめ、千夏は青ざめた表情で震えている。それでも……私たちの目に宿ったものは、怯えだけではない。もう一歩踏み込まなければ、大切なものを失う気がする。
学校の嘘はこれで終わりではない、という事実が背筋を冷やす。式澤がいなくなった今、私たちはどう動くべきなのか。理事長が持っていた闇、前任校の事件をかき消した闇――その全てに向き合う覚悟があるのか。
私は思いきり唇を噛み締めた。式澤の残響と、アカウントの警告が重なり合いながら、胸の中でくすぶり続けている。これから先に待ち受けるのが希望なのか、さらなる絶望なのか……もう誰にも分からない。
ただ一つはっきりしているのは、私たちが嘘を受け入れて生き続けるか、真実のために立ち上がるか――その二択しか残されていないという事。
廊下に響くチャイムの音が空々しく耳を打つ。私は肺の奥から息を吐き、意を決してスマートフォンを握り締めた。夜が来るまでに準備を整えなければならない。怖い。それでも、もう逃げたくない。私も千夏も基井も秋吉も、式澤と出会ってしまった以上、かつての退屈な日常へは戻れないのだ。
*
夕刻。校舎の窓には赤い光が射し込み、褪せかけた青春の残照を映している。静まり返った廊下を歩きながら、私は決意を胸に刻んだ。新たな一歩を踏み出すためには、嘘を見破るしかない。――たとえ、その先にどんな闇が広がっていても。
そう考えた瞬間、私のスマートフォンが再び震えた。表示されたアカウント名を見たとき、全身の血の気が引く。あのメッセージを送ってきたのは、ずっと正体不明だと思っていた相手。それが画面に明確に表示されている。見覚えのある名前……私が絶対に疑わないと思っていた、あの人のものだった。
頭の中で警鐘が鳴り響く。目を逸らしたい衝動と、真実を突き止めたい欲求がせめぎ合う。どちらを選んでも、平凡には戻れない。廊下には夕闇が忍び寄り、世界を不吉な深紅で染めはじめている。
私は震える唇を噛み締め、スマートフォンの画面を凝視した。そこにはたった一言だけ――。
『三号棟で待ってる』
再び危険な夜がやってくる気配がした。私は拳を固く握り、廊下の先にある扉を睨みつける。誰を信じ、何を疑えばいいのかは分からない。けれど、この夜を越えなければ、式澤の言葉も自分の弱さも乗り越えられない。
廊下の先にある闇へ足を踏み出したとき、私のスマートフォンが一際大きな音を立てて振動した。その一瞬が、運命の扉をこじ開けてしまう予感を運んでくる。私の心臓は高鳴り、どうしようもなく息が詰まる。
そして、そのメッセージを開く前に私は立ち止まった――そこに書かれた言葉が、これまでの嘘と真実を一瞬で覆すものだと、はっきり悟ったから。
『急げ』
恐怖に駆られ、全力で走り出す。三号棟につくまでさほどかからなかった。百年前の建物は、朽ちて今にも崩れそうになっている。安全のため柵が置かれ、容易に入ることはできない。しかし私は知っている。誰かが作った入り口の場所を。
三号棟の敷地内に入り周囲を見渡す。日は沈み、あと数分で帳が下りるだろう。気温は低い。しかし背中には冷や汗が流れた。
私は建物の裏手へ回り込んだ。そこには塀がなく、学校との境目がない。森になっているのだ。スマホのライトをつけ、夜の森へ入ってゆく。
――確かめなければならない。
その一心で奥へと進む。程なくして到着した。目印のスコップもある。再びスマートフォンが震えた。
『そこか?』
どこからか私を見ているようなメッセージ。あり得ない。周りは鬱そうな森で、人の気配はない。
「そこにクラスメイト三人の死体があるのか?」
飛び上がって驚いた。誰にもつけられていないはずなのに……しかもこの声は式澤。
「な、なんのこと?」
式澤が木の陰から出てきた。
「曝すと言ったはずだ。おっと、動くな。スコップにも触るな。お前が埋めた三人の遺体に傷が入ったら困る。やっと場所が特定できたんだし」
その声と同時に、大勢の警察官が現れた。木の陰に隠れていたのだろう。
「……」
「観念しろ。俺が教師に変わりない。しかし、前の学校で暴力沙汰を起こしたのも、学校の不正も、全部嘘。ついでに言えば、基井、千夏、秋吉、理事長、全員捜査に協力してもらった。なあ、お前はなんで三人も殺した。同じクラスの学友を。無視されたという理由でなんで殺した!」
式澤の怒号がこだました。私の嘘は初めから疑われていた。

