私が憧れるのは、果てしなく広がる青空の世界。

 その下で、どこまでも自由に歩けたら――
 そんな思いを胸に抱き続けて、どれほどの時が経っただろう。

 ――鶯のさえずりが庭に響き、眠りの端が薄れていく。
 目を開けると、木目の細かな天井が視界に広がった。
 そこには青空の一片もなく、代わりに朝の淡い明るさがわずかに差し込むだけ。

「また、夢を……」

 青空の下で笑う自分。
 それは、毎夜のように見る幻であり、けれど決して手が届かない願いだった。
 
 私は、陽の下を満足に歩いたことがない。
 生まれつき皮膚が弱く、太陽の光に当たるとひどい火傷のようになってしまうからだ。
 そして、ここは街から離れた山奥にある三条寺(さんじょうじ)家の別荘。
 私は幼い頃から、家の使用人たちと共にこの地に籠もって暮らしている。
「療養」という名目のもとだが、実際は厄介払いなのだと気づいたのは、両親の冷たい目に気づいた十歳の頃だった。
 
 私の部屋は三方を壁に囲まれた八畳ほどの広さで、窓はない。壁には花模様の飾りや、箪笥が置かれている。唯一の出入り口である障子に貼られた厚手の和紙は外の光を一切通さない。それが、この部屋の「普通」だった。
 私はいつも、そんな部屋の中央に布団を敷いて寝ている。
 壁にかかった掛け時計が、朝の七時を告げる音を鳴らすと同時に、廊下から声をかけられる。

「美空様、起きておられますか」
「ええ、入っていいわ」
「失礼いたします」

 現れたのは、家令の藤兵衛だ。
 年老いても背筋を伸ばし、無駄のない動きで朝の薬湯を盆に載せて持ってくる。

「今朝は気分がよろしいようですね、美空様」
「ええ……今日は曇っているでしょう? 少し外に出てもいいかしら」
「それはいけません、美空様。曇りといえども、光はございます。症状が出てはなりませんゆえ……」
「……そう」

 私の短い願いすら叶わないのだと、わかっていたはずなのに。
 ため息を飲み込み、私は頷くだけに留めた。
 
 藤兵衛は、湯気の立つ薬湯の入った湯呑みを私の前に差し出す。
 薬草の香りと共に、その熱気が私の顔を包んだ。その香りは、毎朝繰り返されることにすっかり慣れてしまっていた。薬湯は私がこの病を治すための唯一の頼みの綱で、両親の「これで良くなるだろう」との言葉を信じて毎日飲んできた。

 薬湯の味は、毎度のように苦い。これで本当に治るのかどうかもわからない。
 けれども、何もしないよりはマシ、という思いだけが私を支えている。
 何もできない自分をただただ受け入れ、目を閉じながらその熱さを感じた。
 口に含んだ薬湯が喉を通り過ぎると、体の中に温かさが広がり、少しだけホッとする。

「今日もまた、診察ですね」

 藤兵衛が静かに言った。両親が来るときには必ず、医者も一緒だ。
 何度も何度も診察され、私の体の異常を見ても、何も治す方法を知らないその顔。
 これ以上、誰にも触れられたくないという気持ちが、また胸に押し寄せる。

 薬湯を飲み終え湯呑みを渡すと、藤兵衛は軽く頭を下げ部屋を出て行った。
 入れ替わるように侍女が着替えを持って入る。
 私は、また今日という日を耐える覚悟で着物の袖を通した。

 


 この別荘の食堂は、とても簡素だ。
 別荘全体に言えることだが、あまりお金をかけられていない。
 壁や柱は和風の木目が美しい作りだが、四人掛けのテーブルと椅子は洋風のデザイン。
 床には赤を基調とした柔らかな絨毯が敷かれている。
 私はここでも光の当たらない席に着いて食事を摂る。
 
 朝食を食べていると、車のエンジン音が聞こえた。
 窓の外をチラリと見ると別荘の玄関先に黒塗りの車が見える。
 運転席から白衣の男が降り、後部座席からは私の両親が姿を現す。

「お医者様とご両親が到着なさいましたね」

 使用人が窓の外を確認する。私は浅く息を吐いた。
 
「……いつものように、応接室にお通ししておいて」
「かしこまりました」

 両親が応接室へ向かう際、必ず食堂の前を通る。
 でも、私が食事をしている最中にここへ来ることはない。
 代わりに、食堂を通り過ぎる足音と共に、両親の会話が静かに響いてくる。
 
「この別荘もそろそろ古くなったな。改修するべきだろうか」
「そうね。でもあの子のためにそこまでする必要があるのかしら」

 母は小声のつもりなのだろうが、はっきりと聞こえる。
 言葉の刃が胸に刺さるようだ。私は俯き、スプーンを手に取った。
 
 朝食を終えて侍女と共に部屋に戻ると、医者が待っていた。
 また新しい医者だ。
 こんな私を見捨てることもなく医者を呼ぶあたり、親心の一端は残っているのかもしれない。
 医者は四十代くらいの痩せた男で、眼鏡の奥の目がどこか落ち着かない光を放っている。

「では診察を始めます」
 
 そう言って医者は鞄から奇妙な器具を取り出すと、私に左腕を出すように言った。
 私は無言のまま、着物の袖をゆっくりとまくり上げる。
 医者は電球のようなものを手に取り、距離を保ったまま私の腕に光を当てた。

「また……それを使うのですね」

 侍女が、痛々しい声で呟く。
 この電球から太陽と同じくらいの紫外線が発せられ、当てた時に実際どのようになるのか診断するのだ。

「……っ!」
 
 肌が熱を帯び、じわじわと赤く腫れ始める。
 痛みが広がり思わず息を飲む。

「ふむ……予想通りですね」
 
 医者はそう言って、まるで実験対象を見るような目で私の腕を観察した。
 そして赤くなっていない私の手を、なぜか両手で撫で始める。
 ぞわり、と背筋が冷えた。

「それで治るのですか?」

 それは治療に必要な行為なのか、と問うと医者は慌てて手を離し、取り繕うようにぎこちない笑みを浮かべた。

「いえいえ……紫外線以外にも過剰反応があるかどうか試しただけですよ」

 蕁麻疹の一つでも出れば、過剰反応ということになるのだろうか。
 その後に、医者は軟膏を取り出して赤くなった腕に塗ってくれた。
 袖を下ろし、腕の火照りを感じながら頭を下げる。

「……ありがとうございました」
 
 侍女が医者を連れて部屋を後にする。
 私は残された部屋の中で、袖の上から自分の腕をそっと撫でた。


 診察が終わり、両親に挨拶をしておこうと応接室の前まで来ると、中から話し声が聞こえてきた。
 両親がこの別荘に来るたび、談笑するのはこの部屋だ。
 そのため、応接室だけは他の部屋より少しだけ華やかに整えられている。

「いやしかし、お嬢様はお年頃になられましたな」

 先ほどの医者の声が聞こえて、扉をノックする手を止めた。
 まだ帰っていなかったらしい。

「ええ、本当に。忌々しい病がなければ、いい縁談もあるのに」
「本当にどうにかなりませんか? 先生」
 
 両親の声が耳に届く。私は息を殺して応接室の前に立ち尽くした。

「善処はいたします。しかし……根本的な治療法を見つけるのは困難ですなぁ」
「もう、医者という医者を連れて診ていただきました。先生だけが頼りでして」
 
 父の声はそう言いつつも諦めを含んでいるように聞こえた。

「しかし、お嬢様は陽の光にさえ当たらなければいいのでしょう? どうでしょう、このままうちに嫁入りしては……。ずっと家にいればいいのです。不自由はさせませんよ」
 
 その言葉に耳を疑った。あの医者が……私に嫁げと言っているの?

「それは、ありがたいお話ですが。あの子の病が治らないことには、私どもも本家に戻ることができませんもので」
 
 父が冷静に低い声で言った。すると、母が柔らかい声で続けた。

「じゃあ、こうしたらどうかしら? 先生があの子の病を治してくださったら、縁談をまとめるという方向で」
「これはこれは手厳しい……。しかし、治療にも身が入りそうですな」

 応接室の扉の向こうから漏れる笑い声が私の頭に響き、眩暈がする。
 どうして笑っていられるのだろう。私は絶望の中にいるというのに。
 青い空の下を歩きたい。ただそれだけなのに。
 病を治したら、あの医者に嫁がされる。そんなのは耐えられない。
 先ほど、診察の時に手を撫で回されたことを思い出して、全身に寒気が走る。
 あの冷たい手が肌に触れた感触が、今も消えない。

 私は所詮、両親が本家に戻るための道具なのだ。

 反抗したいけれど、もしそれで治療を中断されたら。
 それどころか、もっと酷いこと――今すぐに嫁げと命じられるかもしれない。
 そう思うと、私には何もできない。
 ただ息を殺して、ここに立ち尽くすだけだった。

 やがて、医者が部屋を出て行く気配がしたので、私はそそくさと身を隠す。
 医者は藤兵衛や侍女に見送られ、乗ってきた車で帰っていったようだった。
 両親に挨拶しに行かなければ。再び扉の前に立つが、先程のやりとりが頭をよぎりノックするのを躊躇った。
 扉の向こうから、再び母の声が聞こえてくる。

「……まあ、今度の医者もだめでしょうね」
「やる気を出してもらえばいいだろう。あの子が治れば、私たちも本家に戻れる」

 父の声には、重い疲労感が滲んでいた。

 私は、ぎゅっと手を握り、両親の言葉を飲み込んでいた。
 疎まれていることも、義務感でしかないことも、わかっている。
 でも、こうして医者を呼んでくれるのもまた事実だ。
 完全に見捨てられているわけではないのかもしれないと思いたかった。

 もし私がこんな体でなければ、両親も本家にいて、私を愛してくれていたのだろうか……?
 それは、ずっと考え続けていたことだった。

「……私のせいで、ごめんなさい」

 小さな声で呟いても、それは私の中で溶けていくだけだった。
 

 *
 

 今日も、いつもの退屈な一日が始まる。
 壁にかかった掛け時計が、朝の七時を告げる音を鳴らすと同時に、廊下から声をかけられる……はずだった。

 しかし、今日は様子が違った。
 玄関の方から、侍女たちの慌ただしい声が聞こえてきたのだ。

「困ります! お引き取りください!」

 こんな朝早くから、お客様でも来たのだろうか。
 しかも相当厄介な客人のようだ。
 関わりたくないと思っていたが、どすどすとした重い足音がこちらへ近づいてくる。

「おい、待て! 入ってはいかん!」

 藤兵衛の叱責の声と共に、障子がスパン!と勢いよく開け放たれた。

「っ、誰!?」

 目の前に立っていたのは、見知らぬ長身の男だった。
 私よりも少し年上だろうか。青みを帯びた銀髪を後ろで結い、白い着物を纏っている。
 琥珀色の瞳が印象的で、その姿には不思議な気配が漂っていた。

「君が美空お嬢様?」
「……え?」

 突然のことに、私は言葉を失った。

「藤兵衛、どういうこと?」
「こちら、突然押しかけてきた自称医師の若者でございます。山間を通る旅人を診るために訪れたとか……」
「医者……?」
「俺は清翔(せいしょう)。……勝手に入ってしまったのは申し訳ない」

 涼しげな目元で、軽く頭を下げる。
 目が合い、彼が柔らかく微笑んだ。

「君は、空を見たいんだろう?」
「……え?」
「俺なら、少しは力になれるかもしれない」

 この人は、なぜ私の名を知っているのだろう?
 なぜ、私の夢を知っているのだろう?

 本当に、この世界から一歩踏み出せる日が来るのだろうか――?

 *

 その騒ぎに、何事かと両親がやってきた。
 診察を受けた日は、いつも別荘に泊まっていくので寝起きのガウン姿だ。
 清翔は藤兵衛が持ってきていた薬湯を見ると、すごい勢いで顔を近づけた。
 
「この薬湯は?」
「旦那様と奥様が、お嬢様のためにと取り寄せた薬湯でございます」

 藤兵衛が答えると、清翔はくん、とその匂いを嗅いだ。
 
「……なるほどな」

 そして、藤兵衛から盆を奪うように手に取ると、冷めたような目で中身を見下ろした。
 
「これでは治らないはずだ。これは薬湯などではない」
「なっ……!」

 その場にいた全員が驚いた。特に母は、肩をわなわなと震わせている。
 薬湯ではないなんて、じゃあ私が飲んでいたものは一体なんだというの?
 
「何を言うの、ヤブ医者が! これはちゃんと最初に診てもらった医者から頂いたものよ! 根気よく飲めば症状が改善されると……!」

 母が金切り声を上げる。
 
「最初に診てもらった医者……? それはいつのことですか?」
「美空が七歳の頃だ」

 父が面倒そうに説明する。
 その頃から病状が悪化し、医者に診てもらうことが多くなった。
 そのため私は本家にいられなくなり、この別荘に住むことになったのだ。

「根気よく飲めば……つまり、何の疑いも持たず自分の娘に十年間も意味のない……いや」
 
 清翔はそこで言葉を切り、冷めた目で両親を見つめる。

「むしろ本来の力を封じてしまう薬を飲ませていたというわけですね?」

「本来の……力?」

 父が眉をひそめる。
 清翔は肩をすくめ、わずかに口元を歪めて言った。
 
「おや、ご存知ありませんでしたか? 三条寺家は、代々巫女の家系と聞いておりますが」
「知っているが、それはもう大昔の話だ」

 私も幼い頃少しだけ聞いたことがある。
 三条寺家は、かつて山神に仕える巫女の家系だったということ。
 その昔、山を荒らし人々を脅かした禍神(まがつかみ)を封じたのも、先祖の巫女たちだったらしい。
 けれど、それは遥か昔の話。
 時を経るごとに巫女の力は衰え、いつしか誰も神託を受けなくなった。
 今となっては、ただの伝説にすぎない。
 父の言う通り、もう大昔の話だというのに、母はそのことを他所で自慢げに話していた。

 そこへ、清翔が言葉を切った。
 
「一年間」

 清翔は、顔の前で人差し指をピンと立てる。
 
「一年間、お嬢様を俺に預けてください。必ずや治してみせます」
「そんな大口を叩いて! 私たちが十年間努力してきたことを侮辱するつもりか!?」

 父が叫ぶと、清翔は冷静に答えた。
 
「そんなつもりはありませんが。もし治らなければ、診察代はすべてお返しいたしますよ」

 それを聞いた母は目を見開いて一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに声を絞り出した。
 
「言ったわね、後で破談になんてさせませんからね」
「その代わり、約束通り治せたら」

 清翔がふわりと跳んだかと思うと、音もなく私の後ろに着地した。
 そして私の長い黒髪にそっと触れると、低く真剣な声で言った。
 
「お嬢様を嫁にいただきます」
「なっ……!」

 突然の求婚に、私は目を丸くする。
 父は驚き、顔を真っ赤にして慌て始めた。
 
「なんだって!? そんな、どこの馬の骨かもわからないやつに……」
「おや、先日来ていた医者には、同じようなことを言っていた気がするのですが、彼はよくて俺はだめなのでしょうか?」
「な、なぜそれを!?」
「み、美空、違うのよ。それはあの医者のやる気を引き出すために……」

 オロオロする両親が、私の目には滑稽に映る。
 私は昨日、扉越しにその会話を聞いて知っているから。
 今さら言い訳なんてしても、無意味なのに。

 彼は一体何者なのだろう?
 私の名前や夢を言い当てただけでなく、両親の会話まで知っているなんて。
  
「美空お嬢様」

 清翔は私に向き直り、懐から茶色い小瓶を出す。

「選んでください。俺を信じて、今日からこれを飲むか。
 ご両親を信じて、今までの薬湯を飲むか」
 
「み、美空……! 私たちとその胡散臭い男と、どちらを信じるの!?」

 母は懇願するように私を見る。
 今まで滅多に私の名前も呼ばず、目を合わせることもなかった両親の顔が、急にこちらを求めてくるなんて。
 医者には一切の期待をしていないのにも関わらず、自分のやってきたことが正しいと……そう保身したいのか。
 その瞬間、私の心の中で何かが割れる音がした。
 私は、両親に向かって三つ指をつき、頭を下げる。

「お父様、お母様、今までたくさんのお医者様を呼んでくださり、感謝しています」

 これは本心だ。
 けれど、同時に胸の中にわだかまる感情もある。
 何年も前から、私は一人きりでこの別荘に閉じ込められたような生活を送ってきた。
 両親が悪いわけではない。病気の娘よりも華族としての立場や日々の忙しさを優先するものだと分かっている。
 それでも、いつも藤兵衛や侍女たちとしか顔を合わせない日々が寂しくなかったと言えば、嘘になる。
 
 確かに清翔が本当に医者である保証はどこにもない。
 でも、清翔は「選べ」と言った。
 私自身に、選択を与えてくれた。
 
 なぜか私は、確信のようなものがあった。
 私の中の何かが彼を信じてもいいと、そう告げていた。
 私は覚悟を決めて、清翔の持つビンを手に取る。
 そしてその中身を、一気に飲み干した。


 *



 薬の入った瓶を傾け、私は一気にその中身を飲み干した。
 ほんのり甘い、とろりとした液体が喉を通るが、体には何の変化も感じられない。

「お、お嬢様……。本当に大丈夫ですか?」

 藤兵衛と侍女が、心配そうに私の顔を覗き込む。
 私は軽く唇を拭いながら、小さく息をついた。

(――何も変わらない)

 私が十年間飲んできた薬湯は、「本来の力を封じている」と清翔は言った。
 ひと瓶飲んだだけでは、変化がないのも仕方ないのかもしれない。
 それでも私は清翔を信じると決めたのだから、これからも飲み続けるしかない。

「私たちより、そんな奴を信じるとは……!」
「信じられない!」

 両親の声は怒りと困惑に満ちていた。
 しかめ面を浮かべたまま、強い足音を響かせて部屋へ戻っていく。
 彼らはさっさと身支度を整え、玄関へ向かう。藤兵衛と侍女が、慌てて見送りに向かった。
 そして、用意していた馬車に無言で乗り込んで帰って行った。
 車輪の音が遠ざかっていく。
 
(娘に信じてもらえなかったことが、そんなにショックだったのだろうか)

 月に一度しか会えない両親に、私は自分の気持ちをこれ以上どう伝えるべきか、わからなかった。

 清翔と私は、別荘で一緒に暮らすことになった。
 聞くところによると、現在住む場所がないらしい。
 診察代はいらない。その代わりに、衣食住を保証する――それが彼の条件だった。
 彼の部屋は、私の部屋とは屋敷のちょうど反対側に用意された。
 互いの距離は遠く、顔を合わせる機会も限られそうだ。

 *

 夜になった。
 障子を開けて外を見ると、薄曇りの空に満月が浮かんでいる。
 夜空を堪能しながら、そっと袖をめくる。
 白い左腕に、昨日の診察の時の検証の跡が残っており、ピリピリと痛む。

(せっかくの満月の夜なのに)

 この別荘に来て、たった一つだけ良かったことがある。
 それは、満月の夜にだけ咲く銀燈花(ぎんとうか)が見られることだ。
 この花は、この辺りにしか自生しておらず、とても珍しい。
 書物でその存在を知っていた私は、実際に見つけた時、思わず胸が高鳴った。

 けれども、藤兵衛や侍女は心配性すぎて、私が夜出歩くのも良しとしない。
 
「お嬢様、夜は冷えますし、暗闇では何があるかわかりません」
「せめて、屋敷の廊下を歩くのではだめですか?」

 お決まりの二人の言葉を思い出し、もやもやとして頭を抱える。
 
(清翔なら、どうだろう)

 彼なら、私の散歩に付き合ってくれるかもしれない。
 私はそっと屋敷の奥――清翔の部屋がある方角へと足を向けた。

 清翔の部屋の前まで来ると、私は静かに立ち止まった。
 障子越しに、部屋の明かりがほのかに漏れている。
 戸惑いながらも、膝をつき意を決して声をかけた。

「清翔、少し宜しいですか」

 声をかけた瞬間、障子に大きな影が映る。
 鋭く尖った耳、しなやかに伸びる尾。まるで狐のようだった。

「……え?」

 思わず息を呑んだ。
 影はゆっくりと揺れ、私の気配に気づいたように動いた。
 驚きに体がこわばる。

(今の……何?)

 確認しなければ、と反射的に障子に手をかける。
 しかし、私が開けるよりも早く向こうから障子がすっと開いた。

「お嬢様?」

 着流し姿の清翔が姿を現し、きょとんとした顔で私を見下ろした。

「せ、清翔……!」

 私は思わず彼の腕を掴む。

「今、あなたの部屋に狐のような影が……!」
「……えっ?」

 清翔の眉がわずかに動く。
 私は身を乗り出して部屋の中を覗き込んだが、何もいなかった。
 静まり返った室内には、掛け軸と低い卓、座布団。寝るところだったのだろうか、布団も敷いてある。

「……おかしいわね。今、たしかに狐が……」

 首を傾げてぽつりと呟くと、清翔が微かに目を伏せた。

「……狐じゃなくて、――なんだけどな」
「え?」

 彼の小さな呟きを捉え、私は顔を上げた。

「今、何と?」
「いえ、なんでもありません」

 清翔はすぐに表情を整え、澄ました顔で答えた。
 それから、ふっと軽く笑い、少し意地悪そうに言う。

「それよりもお嬢様。こんな時間に男の部屋を訪ねるなど、淑女のすることではありませんよ」
「ご、ごめんなさい……」

 私は恥ずかしくなって、少し俯く。
 けれど、ここで引き下がるわけにはいかない。
 もう一度彼を見上げる。

「でも、どうしても散歩がしたくて」
「……散歩?」

 清翔が怪訝そうに片眉を上げる。

「私は、夜しか外に出られないから。でも、藤兵衛や侍女には止められるの」
「それで俺に?」
「清翔なら、付き合ってくれますよね?」

 私はほんの少し唇を尖らせながら、彼の目をじっと見つめた。
 月明かりに照らされた清翔の琥珀色の瞳が、微かに揺れる。
 彼は困ったように肩をすくめ、わざとらしく大きなため息をついた。

「ああ、でも今日は俺も疲れて……」

「――銀燈花を見たいのです」

 私の言葉に、清翔の動きが止まった。

「銀燈花?」
「満月の夜にしか咲かない、特別な花なの」

 私は少し身を乗り出し、清翔の袖をそっと引く。

「お願い。ほんの少しだけ……一緒に」

 しばしの沈黙。
 やがて、観念したように清翔が小さく苦笑した。

「仕方ありませんね」

 そう言って、彼は私の手を引いた。
 男の人の手に触れるなんて――。
 鼓動がわずかに速まるのを感じた。その体温に、不思議と落ち着かない気持ちになる。
 けれど不快ではなく、どこかくすぐったいような感覚だった。

 
 満月は、雲の向こうに隠れてしまっていた。
 薄い雲が月光を覆い隠し、森は闇に包まれている。
 三条寺家の別荘は深い森に囲まれた静かな場所にあり、昼間は鳥のさえずりが響くが、夜はまた別の顔を見せる。
 虫の声が遠くから微かに聞こえ、時折、枝葉がざわりと揺れる音がする。
 清翔を連れ、洋燈(ランプ)を持ちゆっくりと歩く。
 足元の草がしっとりと湿っていて、歩くたびに靴が少し沈み込む感触がした。
 けれど、そんな暗闇の中、ぽっと淡く光る花がいくつか咲いていた。

「……見て、清翔!」

 思わず清翔の袖を引き、声を上げて駆け寄った。
 銀燈花。
 満月の夜にだけ開く、儚くも美しい花。
 白銀の花弁が月光を受けて淡く輝き、まるで夜空に浮かぶ星のようだった。

「今日は曇っていたから、どうかと思ったけど……」

 彼もゆっくりと視線を落とし、静かに頷いた。

「良かったですね、お嬢様」
「もっと明るければ写生もできるのに」

 昼間外に出ることができない私には、それは夢のまた夢だ。
 私はそっと膝をつき、銀燈花の一輪に指を伸ばす。
 花弁に触れた指先に、ひんやりとした感触が伝わる。

「この花は、満月の夜にしか咲かないんでしょう?」

 清翔が私を見下ろしながら訊ねた。

「そうね……」

 私は静かに頷く。
 夜にしか咲けない花、それはまるで――

「夜にしか咲けないなんて、まるで私みたい」

 太陽の光は私には強すぎて、肌を焼く。
 長く浴びれば、ひりつく痛みが全身に広がり、ただの眩しさでは済まされない。
 けれど、夜なら――こうして自由に歩ける。

 銀燈花の花弁をそっとなぞりながら、小さく息を吐く。
 すると、清翔が穏やかな声で言った。

「でも、美しいですよ」
(……え?)

 私は驚いて、清翔を見上げた。

 彼は優しい表情で微笑んでいる。
 ゆるく腕を組み風になびく髪の隙間から、琥珀色の瞳を覗かせていた。
 夜風がさっと吹き抜け葉が擦れ合い、微かな音を奏でる。

「銀燈花が、です」

 その優しい笑みの裏に意地悪さが見えて、私は一瞬、言葉を失った。

「わ、わかってます!」

 私は慌てて顔を背け、誤魔化すように銀燈花に視線を戻した。
 一瞬でも期待してしまった自分が恥ずかしい。
 だけど、もしそうだったら……と思うと頬が熱くなる。
 耳の奥まで、じんわりとしてきた。

 しばらく、沈黙が二人の間に流れる。
 夜風はさらに強くなり、木々の葉がざわざわと音を立てて揺れ、草の香りが漂ってくる。
 白銀の光が森を照らし、まるで昼間のように明るくなった。
 先ほど吹いた風が雲を押し流し、満月が姿を現したのだろう。
 
 私の影と後ろに立っていた清翔の影が重なり、銀燈花を覆う。
 静かな空気の中で、私は違和感を覚えた。

 清翔の影が、揺らぐように変わる。

「――え?」

 振り返り見上げると、彼の身体が不自然に歪んだ。
 足元から銀色の毛が広がるように生え、腕が伸び、背がぐんと高くなる。
 衣服が音を立てて緩み、彼の体から滑り落ちた。
 気づけば、そこに立っていたのは――

 体長六尺を超えるほどの、大型の獣。
 月光を受けて輝く、見事な銀色の毛並み。
 しなやかな四肢、鋭く光る琥珀色の瞳。
 まるで物語の中から抜け出してきたような、美しくも畏怖を感じさせる存在だった。

「清、翔……?」

 ――嘘でしょう……!? 
 その風貌に、ごくりと唾を飲む。
 あまりの驚きに、洋燈を落としそうになる。
 
「はっ……しまった……!」

 獣姿の清翔が、ごぅ、と低く唸るような声を上げる。
 次の瞬間、彼はさっと身を翻し木の向こうへと素早く身を隠した。

「あっ……!」

 追おうとしたが、足がすくんで動けなかった。
 彼のいた場所には、脱げてしまった衣服だけが残っている。
 驚きと混乱が入り混じる中、闇の奥から低く落ち着いた声が聞こえた。

「お嬢様を……怖がらせてしまうかと……」

 獣の姿になった自分を、私が恐れると思って距離を取ってくれた。
 それは清翔の優しさなのかもしれない。
 確かに大きい。二本足で立てば見上げるほどの体躯だろう。鋭い牙もある。
 もし噛みつかれでもしたら、大怪我では済まないかもしれない。

 でも――

 私は清翔を信じると決めたのだ。今さら恐れる理由なんてない。
 ゆっくりと、彼が身を潜める影へと歩み寄る。

「清翔」

 彼の名を呼ぶと、琥珀色の瞳が私をじっと見つめる。
 慎重に様子を窺うような視線。
 だけど私は、そっと手を伸ばした。

 さらり、と指先が銀色の毛に触れる。

 想像していたよりもずっと柔らかく滑らかで、指の間をするりと抜けていく。
 夜の冷たい空気とは対照的に、温かい。

「……綺麗」

 思わず、そう呟いていた。

 銀の毛並みは、満月の光を浴びて淡く輝いている。
 それはまるで、銀燈花のように――。
 
「先ほどの狐の影は、清翔だったのね……」

 少し震えながら言うと、清翔はすかさず訂正してきた。
 
「狐ではなく、狼です」
「……え?」
 
 清翔の顔を見ると、彼は少しだけ横を向いて、ゆっくりと繰り返した。
 
「狼です」

 その一言に、私は目を瞬いた。
 狼も狐も、同じイヌ科だと書物で見たことがあるけれど。
 きっとこだわりがあるんだろうなぁ、とクスリと笑った。
 それにしても、絶滅したと思っていた狼を今、目の前で見ているなんて。

 視線を落とした私の目に、清翔の左の前足が映る。
 そこには、銀の毛に隠れてはいるが不自然に白く見える古傷があった。
 
「怪我をしているのですか!?」
 
 私は思わずその足に手を伸ばし、近くでよく見ようとする。
 
「ああ、これは古傷です。もう痛みはありませんよ」

 その言葉を聞いて、私はホッと胸を撫で下ろす。
 でも傷跡が深いだけに、何があったのだろうかと想像してしまう。

 その瞬間、十年ほど前の記憶がふと浮かび上がった。
 私は六、七歳の頃、両親と共に本家に住んでいた。
 皮膚病の症状が強く出始めた頃で、昼間出歩けなくなった私は、夜明け前に近くの森を散歩していた。
 その時、私は罠にかかった小さな銀色の狐を助けたことがある。
 罠の刃が食い込んでいたのは、たしか前足だった……気がする。

「清翔……もしかして、以前に一度会ったことがありますか……?」
 
 私は戸惑いと期待が入り混じった気持ちで彼を見つめた。
 清翔はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと頷いた。
 
「……はい。探し出すのに、苦労しましたよ。お嬢様」

 その言葉に、私の心は花が咲くようにふわりとほどけた。
 孤独だった心が、ゆっくりと色づいていく。
 まるで、長い冬を超えて春を迎えたように——。

「清翔、一つ、約束してください」
「なんですか?」
「次の満月も、銀燈花を一緒に見てほしいのです」
「ええ。次と言わず、その次も、そのまた次も、何度でも」

 夜風がそっと銀燈花の花弁を揺らし、月明かりが二人をやわらかく包み込んでいた。
 清翔は、狼の姿のまま柔らかな毛並みの頬を、私の頬にそっと擦り寄せる。
 驚きに息をのんだものの、不思議と怖くはなかった。
 むしろ、その温もりに安心している自分がいる。

「決して、お嬢様を一人にはしません」

 低く響くその声は、どこか懐かしく、優しい。
 私はそっと目を閉じ、その誓いを胸に刻んだ。