ブゥンと低く響く音がして、これはなんだろうと考える。
 目を開けると──目を開けると? そう、わたしは目を開けた。ということは目を閉じていたわけで。
 え、朝? いや違う、さっきまでLHRの授業中で倉永の話を聞いていたはずで、あのわたしより小さな真っ白い手の甲をよく覚えている。左上から降り注いでくる柔らかなソプラノもはっきりと──

「気がついたみたいですね」

 さっきまで聞こえていた声がまたすぐそばから聞こえて、わたしはぐりんと首を動かした。
 手前に大きな何かがあったけど、目の焦点はまず仕切りのカーテンらしい布に合う。それが微かに揺れているのがわかった。エアコンの風で揺れるんだよと、去年怪我をして保健室に行った時に保健室の先生が話していたのを思い出し……あ、ここ保健室だ。
 それがわかると、わたしの目が意識的に見ようとしてなかったらしい手前の大きな何か──倉永の姿をはっきりと捉えた。ベッドの横に置かれた椅子に座った倉永は、いつものように背筋を伸ばした状態で少しだけわたしの方に屈みこむようにしている。

「あ、起き上がらなくていいですからね。山藤(さんどう)……保健室の先生が今体育館に駆り出されてしまったので、私が残ったんです。ご気分はいかがですか?」
「……えーと……」
「あぁ一気にごめんなさい。あのね、冬見さん倒れたんだよ」
「え」
「座っていたから正確には倒れたわけじゃないけど……机に突っ伏しちゃってね。山藤先生は貧血だと言ってました」
「……そうですか。すみません」

 シャーペンを強く強く握っていたことは覚えてるけど、まさかそんなことになったとは思わなかった。
 わたしはゆっくりと身体を起こす。寝ていていいとは言われても、寝転んだ状態なんてブスすぎるから誰かに見られるのはイヤすぎた。まぁもう見られたわけだけど、意識がない時はノーカンにしとく。

「大丈夫ですか?」
「はい。……あの」
「なんです?」

 わたしが起き上がるのと同時に、倉永の姿勢も元に戻った。両手を重ねて膝の上に置いて、スカートとベッドで見えにくいけど多分脚を斜めに揃えて綺麗に座っている。唇の薄いピンクはリップなのか地なのかまではさすがにわからない。そのくらい自然に発色してて、口角はきゅっと上がっていて、マスカラも多分育てる系とクリアなやつしか使ってないっぽかった。
 なかなか話し出さないわたしに小首を傾げる仕草は、男が弱そう。やっぱ嫌いだ、この人。

「さっきの……LHRの」
「ああ、キャッチコピーですね。大丈夫ですよ、まだ半数は提出できていません。締め切りは来週の金曜です。締め切り内が無理そうなら、前もって私のところに相談にきてください」
「いえそうじゃなくて」
「……?」
「倉永……先生が話してた、とある高校生のネタ……」
「ああ! 仮面(ペルソナ)とは違う仮面を被った子のお話ですか。ネタではありませんよ」
「……てことは、実在するんですか」
「さあどうでしょう? 冬見さんはどう思いましたか?」

 遊ばせていた指先に逃げていた視線を、倉永に戻す。
 倉永はさっきよりさらに優しそうに微笑んでいて、まるで小学一年生相手に「いちたすいちは?」とでも聞いているみたいな、明らかに『子ども』を相手にしている顔をしていた。わたしにはそう見えた。馬鹿にされたみたいでカッと顔が熱くなる。
 聞いてるのはわたしなのに、なんで追い詰められてるような気分にならなきゃいけないの。

「……質問に質問で返すのはちょっと」
「それもそうか。ごめんなさいね。……そうだなぁ、あの話はね──」

 その時、カーテンの向こうからガラリと大きな音がした。

「倉永先生、留守をありがとうございました。もう大丈夫です」
「山藤先生。こちらも冬見さんが起きました」
「あっほんとー?」

 わたしからぱっと視線を外して身体ごと後ろを向いた倉永は、仕切りカーテンを軽く開けて向こう側に話しかける。その隙間から明るい光が入ってきて、咄嗟に目を細めた。まだこんなに明るかったんだ。仕切られていたおかげで太陽の光が入ってこなかっただけで。そういえばこのベッドは窓際から一番遠い。保健室なんか年一にくるかどうかレベルだからわからなかった。
 すぱすぱとスリッパの足音が近づいてきたと思ったら、シャッと大きな音がして山藤が顔を出す。

「おう本当だ。どう? 気分は」
「平気です」

 山藤が声をかけてきたと同時に、倉永が立ち上がって後ろに下がった。代わりに山藤が近づいてきて、さっきまで倉永が座っていた丸いパイプ椅子に座ってわたしをじっと見る。全体的に化粧っ気があまりないものの、丸眼鏡をして少し目が小さくなってるのにそれなりに整ってる山藤は勝ち組の顔だ。休みの日に外で会っても気づかなそう。
 そんなことを考えているわたしの首に手を伸ばした山藤は、「ちょっとさわるよ」と顎ラインに触れる。リンパ腺のとこらへんとかを触ってから、間近で見つめ合う状態にされた。なんかやだな。

「ちょっと顔あげて……ここね。で、目だけで上を向く。……次は舌の色を見るからべーして」
「山藤先生。私は失礼しますね」
「あーありがとう、助かりましたよ倉永せんせ」
「いえ。じゃあ冬見さん、また明日」

 こつん。こつん。
 山藤と言葉を交わした倉永は、わたしに向かってにこやかに軽く手を振るとドアに向かう。いや待てって、まだ話は途中じゃんと言いたくても、出した舌の色を診られている状態では変な声しか出ない。待てって、「あの話はね」の続きは何なんだよ。
 顎をはくはく動かしてる間にもがらりとドアは開けられて、「失礼しました」という小さなソプラノが消えていった。

「どうした? 何か倉永先生に用事でもあった? あ、もういいよしまって」
「あーまあ……ちょっと聞きたいことがあっただけです」
「ならまた聞きに行けばいいよ。倉永先生の副担のクラスの子だよね」
「はい。冬見です」
「冬見さんね。ちょっと貧血気味だから、鉄分とってよく寝るんだよ」
「はい」
「もう今は部活時間だけど、休んだ方がいいかも」
「あ、今日はないです」
「それならよかった。なら好きな時間に帰りなさい」

 立ち上がりながらそう言った山藤は、羽織った白衣のポケットに両手を入れる。なんだこいつ、かっこつけてんのかな。たしかに整った顔してるしスタイルも……パンツスタイルでこの程度なら悪くなさそうだけど。
 近づいてきた時と同じすぱすぱという音を立てながら、山藤はデスクっぽいところまで歩いて椅子に座る。わたしはその間にベッドから降りて、少しよれていた制服を整えた。

「……ねえ、冬見さんだっけ」
「はい」
「二のAで、LHRの授業中に倒れた。……であってる?」
「はい」
「LHRって基本担任が担当だよね。てことは鈴中先生?」
「いえ、午後出張で副担が担当でした」
「てことは倉永先生?」
「はい」
「そう……」

 山藤は指輪の嵌まった人差し指を口元に当てながら、何やらファイルをぺらぺら捲り出す。
 え、なに。なんか問題あった?

「──あ。帰る?」
「はい。けどあの、倉永先生がなんですか」

 倉永はわたしが入学する前からこの学校にいるらしくて、去年は一年の担任だったと聞いた。その前は三年で、その前は別の高校だったとも言ってたような気がする。そう考えると予想よりババァかもしれない。まあ、二十代前半に見えることだけは羨ましいけど、思ってる以上に美容頑張ってんのかな。アカウントとか探してみるか。見つけたら笑ってやる。
 ベッド横に置かれていたカバンを持って山藤の近くまで歩いて答えを待つと、それに気づいた山藤が「あぁごめん」と手を左右に振った。

「倉永先生は生徒のことをよく見てるから、気分が悪くなる生徒にすぐ気づくんだよね。いい先生だよ」
「そうっすか……」
「冬見さんは早く帰って身体を休めな」
「はい。ありがとうございました」

 軽く頭を下げて、保健室を出る。
 倉永の姿はとっくになくて、グラウンドから聞こえてくる野球部の声が廊下まで響いていた。