倉永と目が合ってしまった。
 まずいと思いつつも、ここで急に逸らしたりしたあからさますぎて今の話に動揺したみたいに思われるかもしれない。0.5秒くらいで考えた末「やば、目が合っちゃった」という表情をしてみせてから、視線をプリントに戻した。
 偶然だ、偶然。考えすぎ。えーと? わたしはどういう人間か……『平凡』とかじゃ他人に興味を持たせることなんかできるわけない。得意なこと、苦手なこと。そういうのを全部考えた上で──
 がたん。がたん。
 頭の上あたりから響く足音は倉永だ。うちのクラスの教壇は妙に古くて、スリッパで歩いたってうるさく響く。

「──すみません、少し止まっちゃいましたね。続きです。その子は、自分は周りの同年代の誰よりもうまく世の中を渡っていると思っていました。『朱に交われば赤くなる』を皆さんはご存知ですか? まあ言葉のままです。正式な意味はわからなくても、『朱色』も『赤』も知っている皆さんならわかりますよね」

 がたん、ごつ、こつ。こつん。こつん。
 教壇から床におりてゆっくりとした足取りの音に変わった。習ってる科目の担当教師の中で、倉永だけは低いヒールみたいな高さのある室内履きをはいている。その音がゆっくりと、右斜め上あたりから下へ動いている。授業中にありがちな教師の様子なのに、なんでかわたしは胸がざわついて落ち着かない。
 すうはぁと静かに息を吸って吐いて、シャーペンを握り直した。まずは『女』『17歳』『高校二年生』と書き入れる。そんなのわたしだけじゃない、なんの特別感もない事実ってことくらいはわかってるけど、とりあえず何か書かないと。わたしのところまで回ってきた時に何も書けてない状態なのはなんかイヤすぎる。

「その子の場合、『朱に合わせておけば赤く見せられる』という感じですね。周りに合わせてみせて、自分も同じ色であることをアピールしておく。保護色のようなものなんでしょう。下に見て馬鹿にしている周囲と同じレベルに合わせてあげている、という自覚があって、そんな自分に酔っています」
「性格ドブスじゃないっすか」

 男子の声が飛ぶ。あれは多分、陸部の高木。
 柔らかなソプラノは小さく「ふふっ」と笑った。嘲笑(ばかにしてる)とかではなくて、いつもの倉永の、楽しそうで小さな笑い声だった。こつん。足音は止まる。おそらく高木に答えるために、ちょうどわたしの斜め後ろくらいで止まったのがわかった。

「高木くんはそう思うんですね。まぁ確かに、周囲を見下しているという点からも『性格が良い』とは言えないかもしれない。……でも、どうかな。聞いたことはありませんか? 『人間は社会的動物だ』と」
「あー……まあ」

 絶対ないだろ。とツッコミながらも、わたしは倉永の声に耳を傾けずにはいられない。

「簡単に言えば、人間は決して独りではなく、絶えず他者との関係において生活をしているということです。程度の差はありながらも、誰しもが仮面をかぶって生活をしてる。例えば、家での自分、学校での自分。学校の中でもクラスでの自分と部活での自分。友達といる時の自分。高木くんは、それらすべてが同じ自分だと言いきれますか?」
「……んー……厳しいとこっすね」
「うん。そうね。それが自然です。ちなみに、心理学用語で仮面(ペルソナ)といいますよ。そう思えば、仮面(ペルソナ)を被ることはむしろ当たり前だと思うでしょう?」
「なるほど。それならわかります」
「よかった。キャッチコピーを考える時にも、多角的に自分を見つめることが大事ですからね。色んな自分を思い出して、どこをアピールできるのか。どんな自分でいたいのか。そういったことを考えてみてください」
「うい」

 ……こつ。こつん。こつん。こつん。
 ゆったりとした足音が復活し、後ろの方へ遠ざかっていく。

「とても有意義なお話でしたねぇ。……ただ、そうね。高木くんが『性格ドブス』と評したその子か被る仮面を仮面(ペルソナ)と呼ぶことはできません。その子の世界は『自分とそれ以外』というはっきりとした線が引かれていて、自分以外はすべて愚かで自分より下の存在だと思い込んでいました」

 こつん。こつん。こつ。こつん。こつん。
 右後ろから真後ろへ移動した足音は、止まることなく左後ろに位置が変わる──と思ったら、止まった。

「こうして聞いていると、皆さんはその子こそ愚かだと思うかもしれません。でも、考えてみてください。『私にも、僕にも……そういった考えがなくはないのではないか』と」
「いやないって」
「さすがにそこまで落ちぶれてないよ」

 倉永の言葉を最後まで聞かないうちに、クラスメイトたちの声が方々から飛ぶ。
 落ちぶれてないってなんだよ。みんなだって多少はあるでしょ。「こいつ馬鹿だな」とか「合わせといてやるか」的なやつ。あるでしょ絶対。いい子ぶんなよ。なんなのまじで。
 反吐が出そうなくらい気分が悪い。意識的に倉永のソプラノをシャットアウトするように、頬杖ついていた手を耳に当てる。
 シャーペンを握る手に力が入り、シャー芯が軽く折れた。カチカチカチカチ。出しすぎたシャー芯をそっとプリントで引っ込ませてから、『周囲に合わせられる』と書き込んだ。これは別に悪いことじゃないはず。協調性があるって書けばよかったかもしれないけど、多分他にも同じように書く人がいるはずだから、もっとキャッチーなワードを使いたい。
 なんだろう。『周囲に合わせられる→』まで書いてから、ちょっと考える。合わせられる……自分を変えられる。変える。うーん……『器用』だと普通すぎるからもっと……そうだ、『カメレオン』とかどうだろう? それっぽいしカッコよさげ──

「自意識過剰でプライドばかり高く、周囲を見下して、そんな自分に気づかずにいる。なぜなら、自分は特別で、世の中をわかった気でいるからです。そういう年頃だからで済ませてしまったら、確実にその子の気に障るでしょう。そこがまた可愛らしいんですよね」

 ──ポキッ。
 間近に聞こえたソプラノに、シャー芯がまた折れた。
 いつの間にこんな近くに……倉永が、すぐ隣に立っている。足音は聞こえない。立ち止まってる、わたしの隣に立ち止まってて、わたしのプリントをじっと見ている。シャーペンを持つわたしの手に倉永の目が貼り付いている感覚がした。

「特別な存在でありたいというのは、人間が抱きがちな想いです。そうでなければ生きる意味がないともね、時々SNSでも散見される意見です。そういう気持ちは決して特別なことでも、悪いことでもありません。ですが同時に、私のように何者にもなれずとも楽しく幸せで暮らせますということもお伝えしておきますね。そうしないと、生きている人間のほとんどが生きる価値がないことになってしまいますから」
伽耶(かや)っちゃん今幸せなんだ?」
「はい。教師になって良かったと思っていますよ」

 合間に挟まった女子の質問に穏やかに答えた倉永は、手のひらでそっとわたしの机を撫でた。
 古典の授業の時だって時々やる仕草で、べつに特別なことじゃない。今の話がわたしのことなんて倉永は言ってないし、わたしが考えすぎてるのは頭ではわかってる。でもさ、今これやられたら今の話がわたしのことみたいじゃん。
 さらさらと揺れる倉永の真っ白な手の甲を視界の左上に捉えながら、わたしは必死に絶えていた。