「あれ、伽耶っちゃんじゃん」
翌水曜日の六時間目。LHRということで教室内の空気がどこか緩慢になっている中、教室の前扉を開けて入ってきた先生を見て、最前列かつクラスのお調子者・黒田が声をあげた。後ろや隣のクラスメイト同士で喋っていた人たちは、その声で今まさに教壇へと向かうその姿を確認する。ちょうど教室のど真ん中にあたる前から三番目に座るわたしも、机に突っ伏していたのをやめて顔をあげた。
「『倉永先生』でしょ」
教卓に立った我がクラスの副担任・倉永伽耶は、困ったように微笑んで首を傾げる。
「なんで伽耶っちゃん? 鈴中は?」
「もう。『鈴中先生』でしょう? 鈴中先生は午後出張です。朝のHRで言われてなかった?」
「聞いてねぇ〜」
「けどラッキー」
「つか朝の伝達事項自分も忘れてんじゃん! 俺らに注意できなくなってんのウケる」
伽耶っちゃん呼びを諦めたらしい倉永がクラスの誰もが初耳の担任出張を告げ、一気に教室が賑やかになった。勿論わたしもその輪に適当に入る。斜め後ろの彩春に肩を叩かれて軽く振り返り、「まじラッキーだね」と小さく笑い合ったあと、一緒に少し離れた窓際一番後ろのちーちゃんを向く。前も隣も男子に囲まれてるちーちゃんは、わたしたちに手を振られて嬉しそうに笑った。そのままちーちゃんがひらひらと手を振っていると、ちーちゃんの斜め前に座る遠藤がそれに気づいて彼女に何やら話しかけている。
わたしと彩春はちーちゃんに手を振るのをやめて、顔を見合わせて思わず頬を緩ませた。
アレはうまくいく未来しかないでしょ。なんてったってちーちゃんだもん。
「ほらほら静かに。鈴中先生がいらっしゃらなくてもLHRはあるんですよ? さあ、LHRをはじめましょう」
倉永の柔らかなソプラノが流れても、教室のざわつきはなかなか鎮まらない。困ったように微笑んだ表情は全く崩さないまま、教卓に両手をついて背筋を伸ばした倉永は、クラスメイトたちに視線を配っている。
そんなんじゃダメだって。もっと怒んなよ。
我ら二年A組は強面のアラフォー鈴中博と、見るからにゆるふわ女子の倉永という両極端な二人を筆頭として構成されている。鈴中は一見コワって感じなだけで話せばわかる当たり教師だ。見るからにゴリラみたいな怖そうな見た目を自覚しているだけ、パワハラとか言われないように気をつけてる印象がある。担当科目の英語も嘘みたいに綺麗に喋るからギャップがすごい。
対する倉永は、見ててイライラする。服装も話し方も表情も頭がゆるそうって意味のゆるふわ女子で、押しに弱いんだろうなぁっていうのもそうだけど、『女』を武器にして生きてきた感がする。体を使うとかバカな意味じゃなくて、可憐そう、優しそうっていう方向性のやつだ。今みたいな状況でも、強い態度に出た倉永を見たことがない。ちゃんと怒らなきゃいけない時って絶対あるのに。そういう意味でイライラする。こういう大人には絶対なりたくない。
「今回のテーマはぁ」
まだ静かになりきらない教室を無視して、そう言いながら倉永はわたしたちに背を向けた。チョークを手に取ると、いつも持っているチョークケースにそれをセットする。二年になって──この人が副担になって五ヶ月。行動パターンもほぼ読めるようになった。
カツカツと独特な音を響かせながら、深緑の黒板に古典の授業で見慣れている丸字が現れていく。
【自分にキャッチコピーをつけよう】
「……は?」
うっかり漏れ出そうになった声を、咄嗟に手で口を塞ぐことで防いだ。
自分に? キャッチコピー?
チョークの粉を払い落とすため両手を軽くパンパンと擦り合わせた倉永が回れ右をし、わたしたちに向き直る。その頃には、教室内にさっきまでとは違う賑やかさが巻き起こっていた。
「キャッチコピーってなんだっけ」
「売り出し文句みたいな?」
「あれじゃね? 『全米が泣いた!』的なやつ」
「あー! 『あなたは絶対騙される』系?」
「え、それを自分につけんの? どういうこと?」
飛び交うクラスメイトたちの声に、内心全力で同意する。ていうか、なんのためにやんのそんなこと。
倉永は相変わらずミリ単位も表情を変えないまま──優しく微笑んだまま、騒ぎ立てる教室を見つめている。サイドに後れ毛を残したローポニーの髪を少しだけ揺らしながら、クラスメイトひとりひとりの顔をじっくりと眺めていた。戸惑いつつもキャッキャしてるみんなを、あらあらまぁまぁ困ったわねって見つめてる。そんな顔。
そんなのんびりしてる場合じゃないでしょとしか思えないわたしは、ハーイと挙手をしながら声を上げた。
「倉永せんせー、それって自己分析系ですか?」
「あら冬見さん。さすが鋭いですね。その通りです。皆さんには、自己分析をした上でご自分にキャッチコピーをつけてもらいますよぉ〜」
「マジかよぉぉぉぉ」
「めんどくせー!」
「伽耶ちゃ〜ん、席替えしよ席替え!」
「はいはい皆、落ち着いてくださいねえ?」
なにもおさまらない教室を横目に、倉永は教壇から降りるとプリントを配り始める。LHRや自習で生徒たちが騒ぐと、他教室にいる教師たちから怒られるっぽいのに倉永は騒いでいる奴ら、特に男子たちを嗜めることなく最前列に配り終えていた。「足りない人いませんかー?」と言いながら教壇に戻り、教卓に両手をついていつもみたいに微笑む。
クラス全員にプリントが渡ったことを確認した倉永は、「じゃあねぇ」とまるで世間話を始めるように切り出した。
「自分はこんな人間ですってことを一言で表してほしいわけだけど……難しいだろうから、ちょっと例え話をします。皆さんはそれを聞き流していてもいいので、とにかくそのプリント、そして自分自身と向き合ってみてね」
いつの間にか静まっていた教室のあちこちからは、小さなうめき声くらいしか聞こえなくなっている。みんな自分のキャッチコピーを考えるのに必死なんだろう。わたしは何にしようかな。適当に、高校生らしい謙虚さとプライドが高いっぽい感じをうまく混ぜ込んで、教師受けのいいワードってなんかあったっけ……
わたしは頬杖をついて、改めてプリントを眺めた。九割空白状態のプリントの一番上には、『キャッチコピーをつくろう』とだけ印字されている。ここに辿り着くまでのメモっぽいことも書いた方がいいのかな。
「皆さんは今高校二年生ですよね。そのくらいの年頃についての例え話です。その子は皆さんと同じように毎日学校へ通い、部活動に勤しんで、放課後は仲の良い友達と過ごす。そういった、ごくごく普通の高校生です。自分のキャッチコピーはと問われても、きっと迷った挙句に友達に聞くでしょうね」
右手でシャーペンを回しつつ考えていると、右耳から左耳へ流れていく柔らかなソプラノがちょっと邪魔をする。黙っててくんねぇかなマジで。
「でもね、本当は違うんです。その子は自分を特別だと思っている。友達やクラスメイトや学校の教師……そうね。自分の周囲にいる人間は全員自分より下だと、みんなみんなくだらないと思っているんです」
適当に書こうとプリントに沿わせたシャー芯がポキリと折れた。
「友達もレベルで判断しているし、私のような教師のことはおそらく『こんな大人には絶対なりたくない』と舌打ちをしてる。それは自分が特別だと信じているからに他ならない証拠です。思春期にはよくあることですね」
頬杖をついていた右手が顎から微かに離れ、顔が浮く。自然に──自然に見えるように、ゆっくりとした動きで倉永を見た。
倉永はいつものようにクラスメイトひとりひとりを見て──いない。見ていたのは、わたしだけ。のんびりと子守唄を歌うかのように優しい声で、いつもの微笑みを浮かべたままで、他の誰でもなくわたしだけを見ていた。



