高校に入学してたった1ヶ月。

 進藤温大(しんどうはるた)は早くも先輩に目をつけられ、校舎裏でサンドバッグにされていた。

 ひと目見て不良とわかる、制服を着崩し茶髪に金髪にと髪色を色とりどりに染めた柄の悪い先輩と、不幸にも目が合ってしまったのだ。

 たったそれだけなのに、当然のように因縁をつけられ、定番の校舎裏に連れていかれ事件にならない程度の暴力を受けた。

 それでも、温大は笑っていた。

 へらへらと、緊張感のない笑みを絶やさなかった。

 小柄で細身、見るからに力が弱そうな温大は、不良の見立て通りやられっぱなしで反撃することはなかった。

「せんぱあい、痛いですよ、やめてくださいよう」

 間延びした声音で、温大がやはりへらへらしながらささやかな抵抗の意を示す。

「なんだこいつ、もっとやっちまえ」

 温大の態度が気に障ったのか、不良のうち1人が額に青筋を浮き上がらせ長い脚で温大を踏みつけようとする。

 と、そのときだった。

「うるせえなあ、ちょっと一服するからどいてくれねえか」

 低くよく通る声が、耳に届き、温大たちははっと顔を上げる。

 そこにいたのは、温大に因縁をつけている不良と、見た目には変わらない、だらしなく制服を崩して着て、耳にはピアスを無数に空けた男子生徒だった。

 茶色の髪は長めで、手には小さな箱を持っている。

 それが学生の身分では禁じられているタバコであることに気づき、温大は一瞬自分が置かれた状況を忘れるほど驚いた。

「なんだ、(ぜろ)かよ。
 いいところなんだから邪魔すんな」

 不良の先輩たちが、零と呼ばれた先輩にあからさまに敵意を剥き出しにして睨みつけた。

 どうやら不良グループと零先輩は仲間というわけでもなさそうだ。

「タバコ吸えるところ、ここしかねえんだよ。
 ニコチン中毒を舐めんな」

 とんとん、と慣れた手つきでタバコの箱を叩き一本取り出すと、100円ライターを無造作にポケットから引っ張り出し火を点ける。

 そのまま美味そうに煙をくゆらせると、不良グループを再び睨みつけた。

「ほれ、散った散った、俺の貴重な一服の時間を邪魔すんな。
 それとも、俺とやり合う度胸のあるやつでもいるのか?」

 不良グループは、悔しそうに唇を噛みしめるが、零に立ち向かう者はいなかった。

 零は、学校では一目置かれている存在なのかもしれない。

──かっこいい、ヒーローみたいだ。

 突然の零の登場に言葉にならない高揚感を覚えて、温大は密かに興奮していた。

 校舎に背中を預け、なにごともなかったかのようにタバコを吹かす零が、温大には輝いて見えた。

 彼を照らす夕日が、まるで後光のようですらあった。

 渋々校舎裏から撤退していく不良グループを眺めると、零へ振り返り、鼻血を出しながら温大は笑みを浮かべた。 

「あ、あの、また助けていただいてありがとうございます、先輩。
 僕、進藤温大っていいます。
 改めて、ありがとうございます!」

 あちこち痛むが、重傷は負っていない身体で立ち上がると、温大は頭ひとつ以上背の高い零に、ぴょこんと頭を下げた。

「助けてない。
 お前も邪魔だ、消えろ」

 面倒くさそうに手で温大を追い払う仕草をしながら零が冷たく告げる。

「零先輩って呼んでもいいですか?
 零先輩は僕の憧れなんです、仲良くなりたいんです!」

 温大は、人懐こい笑みを浮かべる。

「はあ?憧れ?
 今日会ったばかりだろうが」

 零が突き放すと、温大は途端にしゅんと肩を落とし、誰にも聞こえないような小声で呟く。

「やっぱり僕のこと、覚えてないんですね……」  

 しかし、温大はすぐに表情を切り替えていつもの笑顔に戻ると、零の手元で半分ほどの長さになったタバコを取り上げる。

「ちょ、おい、なにすんだよ」

 温大の予想外の行動に、零が動揺した声でタバコを取り返そうと手を伸ばす。

「せんぱあい、タバコはいけませんよお。
 小学校で習いませんでしたか?
 あれ、幼稚園で習うんだったかなあ」

「お前、ふざけやがって」

 揉み合いになる寸前、温大は零が握っていたタバコを箱ごと取り上げた。

「先生に見つかったら大変ですからね、これは僕が預からせていただきます」

 そう言うと、温大はタバコを制服のポケットにしまい、呆然と立ち尽くす零を置き去りに校舎裏をあとにした。 

  
 あれから不良の先輩には絡まれていない。

 零が現れたお陰で、不良グループは温大を標的にすることを諦めたらしい。

 温大は、登校するたび零の姿を探したが、零は滅多に学校へこないようだった。

 それからしばらくして、零は学校へこない日は、繁華街で過ごしていることが多いことを温大は調べ上げた。

 仲間とつるむことはあまりせず、一匹狼のような存在であることも温大は調べた。

 カラオケやゲームセンターなんかで、時間を潰していた零は、最近すこぶる機嫌が悪い。

「せんぱあい、サボりはいけませんよお」

 そう言って、行く先々で温大がつきまとってくるからだ。

 それはさながら、飼い主に尻尾を振りながらついて歩く犬のようだった。

 温大は小柄で童顔のため、じゃれつく仔犬にしか見えない。

「先輩、零先輩」

「……なんだよ」

 温大に邪魔をされ、ゲームセンターを出てきた零がタバコを咥えながら不機嫌にそう返すと、にこにこと笑いながら温大がタバコを取り上げる。

「せんぱあい、タバコは身体に悪いですよ。
 先輩が僕より先に死んじゃったら、僕悲しいです」

「そんなにすぐ死なねえよ」

 温大からタバコを取り返そうとするが、温大の鉄壁の笑顔を見て、やる気が失せた。

 まるで仔犬のように人懐こく愛想のいい温大だが、一度こうと決めたら頑として譲らないことを短期間に零は学習していた。

「先輩、零先輩、僕の名前、覚えてくれましたか?
 温大って、呼んでくれていいんですよ?」

 タバコを諦め、温大の言葉を無視しながら平日の人通りが少ない繁華街を歩き出す。

 零の広い歩幅に追いつくため、小走りになりながら温大がついて歩く。

「お前、サボるなって言いながら俺につきまとってていいのかよ。
 学校行けよ」

「先輩と一緒に学校へ行くのが夢なんです。
 ねえ先輩、学校行きましょうよ。
 先輩ったら!」

「うぜえ、失せろ」

 うんざりとした顔でコンビニへと入り、当たり前という顔をして陳列されている商品を手に取り、ポケットへ入れようとすると、寸前で温大に腕を掴まれた。

「先輩、万引きは犯罪です。
 もし先輩が捕まっちゃって、停学とかになったらどうするんですか、僕泣いちゃいますよ」

 零は舌打ちする。

──こいつは一体なんなんだ?

 苛立ちとともに温大を見下ろすと、へら、とまたあの笑顔で笑いかけられてしまった。

 混じり気のない純度100%の邪気のない笑み。

──本当、犬みてえだな。

 温大が、ぶんぶんと尻尾を振るさまを想像して、零は温大に気づかれないように口角を上げた。


 他人事ながら、心配になるほど温大は毎日零について回る。

 今日なんか、他校の不良と喧嘩になりかけた際、どこからともなく現れて、気の抜けるような声で割り込んできた。

「せんぱあい、もう、どこほっつき歩いてたんですか、僕ずっと待ってたんですよお?」

 胸ぐらを掴み合っていた零と他校の不良は、間に割って入ってきた温大に戦闘意欲を失った。

 潤んできらきらとした大きな瞳で不良たちを見上げる温大を見て、他校の不良が「これ、お前のペットか?」と零に訊いたことですっかり喧嘩をする気力が削がれたのだ。

 ため息をつきつつ零が温大を見下ろすと、へら、と温大が笑う。

「なんだよ、かわいいじゃねえか。
 ペットじゃないならもらって行くとするか」

 他校の不良が面白そうに発案し、仲間が同調する。

 一際背の高い他校の不良が、温大の細い腕を掴んで引き寄せようとする。

「わっ」

 バランスを失った温大が転倒しかけると、零がもう片方の腕を掴み、温大を支えた。

「なんだよ、迷惑そうにしてたじゃねえか、別に連れて行ったっていいだろ」

 不良の言葉に、零は自分でも驚くような低い声で、ほとんど無意識に言っていた。

「……やらねえよ」 

 そのまま温大の腕を掴む不良を振り切って、温大の腕を掴んだまま歩き出す。

「悪い、ペットじゃなくて恋人だったか!」

 後ろ姿に、不良たちのからかいの声と爆笑が投げつけられる。

 それに構うことなく零は無言のまま、温大を引きずるようにアーケードを進んだ。

 しばらくすると立ち止まり、自分を見上げてくる温大を眺める。

「お前、どうして俺にここまでつきまとう?
 俺の邪魔ばかりして、なにがしたいんだ、お前は」

「……そんなの、先輩が好きだからに決まってるじゃないですか。
 気づいていなかったんですか?」

「知るか!
 なにが『好き』だ。
 そんな人間のあやふやな気持ち、信じられるか。
 愛だの恋だのと、実体のないものを信じるほど俺は純粋じゃない」

 叱られた仔犬が耳をぺたりと垂れる姿が温大の姿に重なり、零は内心焦った。

──傷つけた。 

「でも、それで僕は構わないんです。
 先輩に好きになってもらおうなんておこがましいこと、考えてないですから」

 そんなはずはない。

 好きということは、相手にも同じくらいの密度で自分に好意を持ってほしいと思うことではないのか。

 相手に期待しない恋愛などあるのだろうか。

 零は温大から視線を外すと再び歩き出した。

「先輩、どこへ行くんです?
 タバコも万引きも喧嘩も駄目ですよ」

 どこか楽しそうな声音で謳うように言うと、温大は零の制服の裾をつまんだ。

 それに気づき、零はその手を振り払った。

 カツアゲをすれば、代わりに温大が自分の財布から金を取り出そうとする。

 ビールを飲もうとすると中身ごとひっくり返され無駄にされる。

 温大は、零の非行という非行の数々をすんでのところで止め、その繰り返しの果てに、零は軽犯罪に手を出さなくなった。

 まさに温大の執念の粘り勝ち。

「先輩、先輩、どこ行くんですか?」

 零はため息をついた。

「帰るんだよ。
 やることなくてつまんねえからな」

 放課後になるとどこからともなく現れる温大は、夜まで零につきまとう。

 当然、温大の帰りも遅くなる。

 温大はまだ1年生だ。

 あまり帰宅が遅くなると両親が心配するのではないかと零は危惧したのだ。

 勝手に温大がつきまとっているだけなのだから、そんなこと考えてやる義理はないのかもしれないが、零は自然とそう考えてしまった。

 だから、温大を帰すために自分も帰ろうとしていた。

 帰る、と言ったにもかかわらず、いつまでも温大はついてくる。

 繁華街を抜け、人通りの少ない夕方の住宅地を通り、国内では最大級の規模の団地へと向かう。

 同じ造りの建物が何棟にも並び、一度迷ったら自分の部屋に帰り着けなくなりそうな団地が、零の暮らす家だった。

 ぴたりと足を止めると、零はうんざりした表情で振り返った。

「おい、いい加減帰れ。
 迷惑なんだよ」

 突き放しても、温大は零から離れようとしない。

「……おい?」

 若干苛立ちながらも温大を見ると、温大は困ったように笑った。

「僕も、ここが家なんです」

「……は?」

「僕、この団地に住んでるんです、生まれてからずっと」

 広大な団地だ。

 同じ敷地に建っているとはいえ、戸数は桁違いに多い。

 同じ団地に住みながら、顔を合わせない住民のほうが多いだろう。

「零先輩、僕のこと、覚えていませんか?」

 温大にしては珍しく、憂いを帯びた表情で零を見上げる。

 温大の潤んだ瞳が斜めに差す夕日で輝いて見える。

 一瞬泣いているのかと、零は肝を冷やした。

「団地に中庭がありますよね。
 よく団地の子どもたちが集まって遊んでいる」  

「ああ……あるな」

「僕、身体が小さいから、昔からよくいじめられていたんです。
 そのとき、『やめろよ』って言って救ってくれたのが零先輩だったんです」

「……そんなこと、あったか?」

 温大は寂しそうに笑う。

「覚えてませんよね、そんな些細なこと。
 でも、先輩にとっては気紛れとか、取るに足らないことだったんでしょうけど、僕には先輩がヒーローに見えたんです。
 誰かに守ってもらったのは初めてでした。
 校舎裏で先輩たちに囲まれていたときと全く同じ状況で、先輩は2度も僕を救ってくれたんですよ」

 温大は照れたように、顔を赤く染めた。

 夕日のせいなのか、恥ずかしさのせいなのかは、零には判断がつかなかった。

「僕、助けてくれた先輩のことが本当に好きで尊敬してたんです。
 強くてかっこよくて、憧れでした。
 子どものころは泣いているばかりだったから、一体誰が助けてくれたのかわからなくて、ただ、僕をいじめていた子どもが先輩のこと『零』って呼んでいた記憶だけは残ってました。
 でも、それだけでは先輩を探し出すことはできなくて、心残りだった。
 高校に入って再会したとき、奇跡だと思いました。
 ああ、あのときの『零』くんだって。
 ずっとお礼を言いたかったんです」

 温大は改まった口調になると、「あのときは助けてくれて、ありがとうございました」と深々と頭を下げた。

「あ、いや……」

 零は露骨にうろたえていた。

 記憶にない善行にここまで感謝されたことに、どうしていいかわからなかった。

「だから、好きです、先輩!
 子どものころから、今まで、ずっとずっと好きでした!」

 思い切った告白に零は動揺を隠せなかった。

 他人から寄せられる好意には慣れていない。

 自分が誰かに特別な感情を抱いたことも、自分以外の誰かから想いを寄せられたこともなく生きてきた零にとって、まぶしいばかりに気持ちをぶつけてくる温大という存在をどう扱うべきか、はかりかねていた。

 ここまで真っ直ぐに育つということは、温大は親に愛情を惜しみなく注がれ、愛に飢えた経験などないのだろう。

 愛情を注がれた人間だけが、他人に愛情を注ぐことができる。

 愛し方を、きちんとわかっているから。

 自分の本音の伝え方を知っているから。

 幸せだな、こいつは。

 温大は、自分の気持ちを零に伝えたことで満足したのか、零からの回答がないことを気にするでもなく、くるりと踵を返す。

「先輩、また明日、と言いたいところなんですが、ひとつ相談したいことがあって……」

「相談?」

 一度うつむいて、意を決したように顔を上げると一息に言った。

「明日、僕と一緒に学校へ行ってくれませんか?」

「……はあ?」

「夢だって、前に言いましたよね、先輩と一緒に学校行くの」

「あー、しょうがねえなあ。
 お前のせいで他に行くとこなくなったからな」

「え、一緒に学校、行ってくれるんですか?
 やったあ、約束ですよ、約束!」

 嬉しそうに温大がぴょんぴょんと零の周りで飛び跳ねながら感情を爆発させる。

「たかがこれくらいで……。
 単純だな、お前は」

 すると今度は温大はむう、と唇を尖らせる。

「『たかが』じゃありません。
 僕にとっては念願であって、夢でもあったんです。
 先輩、明日の朝、ここで待ってます。
 きてくださいね、絶対、絶対ですよ!
 遅刻は駄目ですからね!」

「わかった、わかった、しつこいな。
 ただし、約束はしねえぞ。
 守る気がない約束は残酷だからな」

「なんか、深いですね。
 さすが先輩です。
 でも、僕、先輩のこと信じてますから」

 なんの根拠もないのに、よくそこまで他人を信じられるな。

 誰のことも疑う必要のない環境で育ってきたのだろう。

 また明日、と手を振りながら、温大は夕闇迫る巨大団地の一角に消えていく。

 巨大な建物が温大を呑み込んでいくさまを想像して、なぜだか零の身体は震えた。


 翌朝、待ち合わせの場所に、待てど暮らせど零が姿を現すことはなかった。

 ワクワクと弾んでいた温大の心は落胆で空気が抜けた風船のように萎んだ。

 しょんぼりと肩を落としながら学校へ向かうと、昼過ぎになって温大のスマホがメッセージを受信した。

 渋る零に無理やり迫って連絡先を交換していたのだ。

『今日は悪かった。
 屋上にいる』

 メッセージを目にした瞬間、温大は教室を飛び出していた。

 階段を駆け上り屋上のドアを押し開ける。

 かつては施錠されていただろうドアの鍵は壊されたまま修理されずにいた。

 まぶしい太陽光に目を細めながら屋上のざらざらとした地面を上履きで蹴ってつんのめるように外へ出た。

「零先輩!」

 零は屋上をぐるりと囲むフェンスに背を預けて立っていた。

 零に向けて突き進んでいた温大は、次第に零の異変に気づいた。

「先輩!?
 どうしたんですか、その顔!」

 温大が零に至近距離まで近づいて悲鳴じみた声を上げる。

「……どうって、別に」

「別にじゃないですよ!
 怪我してるじゃないですか!
 まさか、また喧嘩ですか!?」

 顔を青あざだらけにした零は、面倒くさそうに顔を背けると、言い訳するようにぼそぼそと語り出した。

「昨日の夜、お前と別れてから、前に喧嘩して俺に負けたやつが家を特定してきてな。
 家だとまずいから場所を変えてやり合った。
 ……こんな情けない面になったのは、お前のせいなんだからな」

 早くも涙目になりながら温大が首を傾げる。

「僕の……?」

「そうだ、お前のせいだ。
 お前が喧嘩はするなと言うから、俺は一切手は出さなかった。
 一方的にやられ放題だ。
 これなら、喧嘩じゃないだろう」

 温大は涙も流すことを忘れ零を瞳をぱちくりとさせる。

「……僕が、喧嘩は駄目だって言ったから、やり返さなかったんですか……?」

「そうだ。
 身体中痛えよ、お前のせいだ。
 どうしてくれる?」

「どうするって……僕はどうしたらいいんですか?」

 零は切れた唇で不器用に笑うと、どこか自慢げに胸を反らし言った。

「笑え。それから褒めろ」

「え……?」

「いつもの犬っころみたいな顔で笑え。
 手を出さなかった俺を褒め称えろ」

「……わかりました」

 温大は、泣き笑いのような笑顔を作ると、ぶんぶんと尻尾を振る仔犬のように零に抱きついて声高らかに叫んだ。

「すごいです!
 やっぱり零先輩は、僕が思った通りのヒーローです!
 ヒーローは、強いだけじゃない、大切ななにかを守るためなら犠牲にだってなれる人です!
 かっこいいです、尊敬します、思いを貫く姿、すっごく誇らしいです、零先輩、最高!」
 
 夏のはじまりのぬるい風が屋上に吹きつけてくる。

 汗を誘うその飽和した空気の中、零は確かに笑っていた。

「零先輩、やっぱり僕、先輩が大好きです!
 好きになってもらうのはおこがましいって言いましたけど、やっぱり無理みたいです。
 僕のこと、先輩にもっと知ってもらいたいし、僕のこと好きになってもらいたい……。
 生意気ですよね、身分違いですよね、すみません、わかってるんです。
 わかってるんですけど、その、なんていうか、けじめがつけられなくて……」

「別につけなくていいだろ、けじめなんて。
 俺は、お前のこと生意気だなんて思っていないし、なんならつきまとわれて迷惑だなんて、今はもう思っていない。
 なんつーかさ、物足りないんだよ、お前がそばにいないと」

 温大が零の顔を覗き込む。

「先輩……?」

 温大が身体を離すと、フェンスにもたれかかった零が皮肉混じりに話しだした。

「慣れてねえんだよ、他人に好かれんの。
 お前みたいに真っ直ぐ気持ちをぶつけてくるやつなんて初めてだったし、正直戸惑った。
 親にだって可愛がられた記憶がないんだ。
 突然現れたお前に、いくら好きだと言われても、信じられないの、わかるだろ」

「親、ですか」

「うちの両親、関係がとっくの昔に破綻していてな。
 ガキのころから親らしいことはしねえし、外に愛人作って家に誰も帰ってこないのもざらだった。
 俺がどんなに学校サボっても、なにも言わねえし、関心がないんだろうな。
 だから不良になってやった。
 それでも、親はなにも言わなかったけどな」

 痛々しい傷をその顔に刻みながら、それでも零は笑い続けていた。

「……笑うと痛えな。
 この顔じゃ情けなくて校内歩けねえし、知り合いに遭ったら余計笑われるからゲーセンにも行けねえ」

 ため息混じりにぼやくと、温大がなにかを決意したような瞳で零を見上げる。 
 
「先輩、いくところがなければ……僕の家にきませんか?」

 予想外の提案と、温大の緊張に張りつめた顔に、零の口から空気が漏れたような吐息がこぼれる。

「……は、お前んち?」

 温大はきっぱりとうなずく。

「お前んちって、団地の、ってことか?」

「そうです。
 家に帰るの、嫌なら、と思ったんですけど」

 零は温大のつむじを見下ろしながら、熟考した。

 本音を言えば温大の提案の意図が掴めず困惑していた。

「お前、自分の授業はどうする?」

「勉強は頑張れば追いつけます。
 でも、怪我をしている先輩を放っておくことは僕にはできません。
 勉強より、今は零先輩の方が大事です」

 迷いのない温大の瞳を見つめて、零は自分が温大には抗えないのだと知った。


 平日の昼間に訪れては温大の親が驚くのではないかと零は危惧していたのだが、たどり着いた団地の温大の家で零は違和感を抱いた。

 零と温大の家の間取りは同じだ。

 質素で狭くて古ぼけている。

「散らかってますけど、どうぞ」

「あ、ああ……」

 温大に促されて玄関に入ると、そこに靴は温大が脱いだ一足きりだった。

 家に人はいないようだった。

 両親は共働きなのだろうか。
 
 だから、親に隠れて零を家に上げたのだろう。

 狭い廊下の突き当りのドアを温大が開ける。

 静まり返った室内は、必要最低限の家具しかなく、生活感がなかった。

 人のぬくもりが感じられない部屋で、六畳ほどのリビングのソファを零に勧め、隣のキッチンで温大がなにやら食器を扱っているかちゃかちゃという音が聞こえる。

 落ち着かない心地で何度も座り直していると、温大がマグカップと紙コップのふたつをお盆に載せて運んできた。

「ちゃんと洗ってますから安心してください。
 僕、コーヒー飲まないので、紅茶しかないんですけど」

 温大が湯気を立てるマグカップを零の前のローテーブルに置く。

 自分の前には紙コップを置いてラグの上に直接座る。

 ソファはふたり座ると身体が密着してしまうため、温大が遠慮した形だ。

 零は不躾にきょろきょろと部屋を見回す。

 どこの量販店にも売っていそうな家具で統一された部屋。

 個性も使い勝手も考えられていない味気のないレイアウト。

 ただ必要だから揃えた、それだけに見える。

 ちらりと見えるもうひと部屋は寝室なのだろう、シングルのベッドが見える。

 まるで大学生か、新米サラリーマンみたいな部屋だな。

 零のそんな思いが伝わったのか、温大がへらりと笑ってなんでもないことのように言った。

「うち、親いないんです」

「いない?
 仕事かなにかで、か?」

 片親なのだろうか。

 無神経なことを言わせてしまったか。

 しかし、あくまで笑顔を浮かべたまま、温大は首を左右に振る。

「捨てられたんです、僕」

「捨て、られた……?」

 温大の言葉をどう受け止めるべきかわからず、零はオウム返しするしかない。

「中学のときから、ここにひとりで住んでます。
 学校とかには、親が同居していることになってるんですけど、それは形だけで。
 意外とバレないものなんですよ。
 出て行った親から、もう何年も連絡はありません。
 僕、いらなかったみたいなんです、両親に」
 
 予想の斜め上を行く温大の言葉に、零は声を失った。

「……じゃあ、お前はなにで食ってるんだ?」

 相変わらずのへらりとした笑顔を浮かべながら、表情とは真逆の残酷な話を温大は続ける。

「そこは一応、両親も子どもがいることは忘れていないみたいで、生活費は振り込まれます。
 ただそれだけで親としての責務を果たせたと思ってるみたいですけど」

 温大が、これまで見せたことのない自嘲するような歪んだ笑顔になる。

 温大には、自分がまだ知らない1面がありそうだと零は俄然温大に興味を引かれた。

「じゃあ、ずっとひとりで暮らしてきたのか、今まで」

「そうです。
 だから、先輩、行くところがなければ、いくらでもうちにきてくれて大丈夫ですよ」

「いや……そういう話じゃないだろ。
 中学生を置いて家を空ける親ってなんだよ……」

「仕方ないですよ、僕がいらなかったんでしょうから。
 両親にはそれぞれ別のパートナーがすでにいて、僕を家族に迎え入れる余裕がないんだそうです。
 あちらにも連れ子とかいますからね」

「連れ子は家族にするのに、なんでお前は引き取られないんだ?」

「……それは、どうしてでしょうね。
 昔から、僕は親になにを考えているかわからないと言われてきました。
 なんか笑っちゃうんですよね、昔から。
 だから、不気味だったんじゃないですか?」

 やはり今も笑い顔の温大を見下ろして、零は無意識に呟いていた。

「……仮面なんじゃないのか?」

「え?仮面?」 

「自己防衛本能だよ。
 つらいことがあっても、笑顔の仮面を着けて自分を守って傷つかないようにする。
 誰にも本心はみせない、そういう意味」

 ラグの上に正座した温大が、うーんと唸る。

「……そういうものなんでしょうか。
 でも、僕、本心は見せてますよ、先輩のこと好きだっていうのは、本心以外のなにものでもありません」

「それがわからないんだよ。
 お前は親の愛ってやつを知らない。
 教わってもいない愛情を、どうしてお前は疑わずに俺に向けることができる?
 お前の言う『好き』は、世間一般のやつが言う『好き』と同じなのか?」

「それは……」

 温大が顎に手を添えて考え込む。

「わかりません。
 他人の『好き』と自分の『好き』を比べたことはないですし、確かに正しい『愛情』を僕は知りません。
 でも、零先輩は特別だってことは確かです。
 先輩のこと、大好きだって思うし、先輩と恋人になれたら嬉しいって思う。
 あっ、すみません、つい心の声を口走ってしまいました、気にしないでください」

 温大は焦って両手を振ると、前言撤回する。

 こほんとわざとらしい咳払いをしてから、改めて温大は言葉を続ける。

「どういう愛情表現のやり方が正解なのかもわかりませんけど、僕は僕なりに、先輩を大切に思っています。
 たとえそれがおかしいことだと言われたって、僕は僕の気持ちを貫き通したいと思ってます」

「目にも見えない、形すらない愛情(モノ)を、か?」

「はい。
 僕の心には、確かに先輩への愛情がありますから」

「あるって信じていいのか、そんな曖昧な概念を」

「明確に、僕の中にはあります。
 先輩、信じることを、怖がらないでください」

 はっと、零は目を見開いた。

 頬を張られたような思いがしたからだ。

 目の前でにこにこと自分を見ている温大に動揺を悟られないように目を逸らす。

──怖がっている。

 自分は、他人から向けられる好意にも、誰かを強く想う行為をも怖がっている。

 裏切られたときに、傷つくのが怖いから。

 自分ですら自覚していなかったことを、この仔犬から教えられる羽目になるとは……。

 温大に視線をやると、にへらと笑われた。

 それきり、ふたりの間には沈黙が降りた。

 気まずいとは思わなかった。

 もともと会話を楽しむ性格のふたりではない。

 零はソファに寝転がり、スマホを弄りはじめ、温大は教科書を開いて勉強をはじめた。

 かちかちという時計の秒針が時を正確に刻む。

 昼食をデリバリーで済ませ、夕方になると、「帰るわ」と零が立ち上がった。

 玄関まで零を見送ると、温大は、「またいつでもきてください」と頭を下げた。



「引っ越すことになるかもしれない」

 先日負った零の怪我が癒えたころ、昼休みの高校の屋上で、唐突に零が言った。

「……え」

 昼食の惣菜パンを食べていた温大は呆然と口を開けたまま固まっていた。

「親の離婚が決まってな。
 まあ、遅いくらいだ。
 ふたりとも引っ越すみたいだから、収入がなくて家賃を払えない俺も残ることはできない」

 自販機で買った牛乳を飲みながら淡々と零は語った。

「……先輩も、いなくなるんですか?」

「まあ、そうなるな」

「そんな……」

 この世の終わりのような顔で悲嘆に暮れる温大に、零は疑問をぶつけた。

「お前は親に愛されたいと思ったことはないのか?」  

 温大が、どこかが痛むように表情を歪ませる。

「先輩、いつもへらへらしてるけど、僕だって人間なんですよ。
 親に当たり前の愛情を注がれたいと思いますし、冷たくされたら傷つくし、温かい家庭ってのに憧れてもいます。
 でもそれが叶わないなら、僕は僕なりの愛情を育てて自分以外の誰かを愛したいと思ってるんです。
 僕は、『好き』も『愛』もあるって信じています」

 きっぱりと告げる温大に、零は阿呆みたいにあんぐりと口を開けたまま固まってしまった。

 温大がこんなに堅い意志や持論を持っていることに心底驚いたからだ。

──俺よりしっかりしてる。

 温大の姿が少し遠くに見えた。 

「まったく情けない話だけどな」

 屋上のフェンスにもたれかかりながら、零が話しはじめる。

「お前の境遇を知って、気付かされた。
 親の不仲で不良になっただの、愛情を信じられないだのと言っていたけどな。
 結局、俺は自分に興味を持ってくれない両親を振り向かせたくて、気を引きたかったんだ。
 ……甘えてたんだな。
 お前に会って、自分がガキだってことに今更気づいたんだよ」

「……先輩」

 温大が近づいてきて、零の制服の裾を掴む。

「僕でよければ、先輩が寂しくならないよういつもそばにいます。
 孤独を埋めるためになんでもします。
 先輩が嫌でなければ、なんですけど」

 温大の手に零が自分の手を重ねた。

「悪いけどなあ、俺ほどお前と一緒にいたいって思ってるやつは、そうそういないぞ」

 温大の腰に手を回し、ぐっと抱き寄せる。

「先輩!?」

「つかまえた」

 零が温大の耳元で柔らかい声でささやく。

「せ、先輩、暑くないですか!?
 僕、汗臭くないですよね!?」

 温大が腕の中で慌てている様が容易にうかがえて、零は人知れず笑みを浮かべていた。

「先輩っ」

 顔だけ腕の中から覗かせると、温大は頬を朱色に染めて零の目を見据えた。

「僕の家にきませんか?」

「はあ?」

 零が腕の中でもがく温大を見下ろす。

「僕は先輩と離れたくありません。
 先輩が良いなら、の話です。
 ご両親と一緒に引っ越すというのなら諦めますけど、もし、先輩が引っ越す気がないのなら、僕の部屋で、一緒に暮らせないかなって」

 零は仏頂面になる。

「……お前、それじゃ同棲じゃねえか。
 俺は今プロポーズされてんのか?」 

「ああ、いや、そういうつもりは……」

 温大はますます顔を赤らめ腕の中に沈んでいく。

「でも、そうですね、プロポーズかもしれません。
 僕と恋人になってもらえたら、嬉しいなって、思ったって、言うか……」

 くぐもった声で、ごにょごにょと温大が呟くが、最後は風にかき消されていくほどか細くなっていく。

 上方から、呆れ混じりの零の声が降り注いだ。

「まさか俺がお前を好きになるなんてな……。
 誰が予想したよ、こんな結末」

 ぴょこん、と温大が顔を上げて潤んだ瞳で見つめてくる。

「……え?
 先輩、今、僕のこと好きって、言いました?」

 零はぐしゃぐしゃと温大の頭を撫でながら言う。

「何回も言わせるな。
 もう言わない」

「ええっ、もう1回言ってくださいよ、せっかくの先輩の告白、もう一度聞きたいです!」

「だから、言わねえって!」

「せんぱあい、恥ずかしかってないで、もっと僕に甘えてくださいよお」

「うるせえ!」

 抱きしめる手に力を込めて温大の言葉を封じる。

「く、苦しいです、先輩」

 空気を求めるようにぱくぱくと金魚のように口を開閉しながらも、それでも温大は言葉を続ける。

「零先輩、僕の気持ち、信じてくれるんですか?」

「……ああ、信じてやるよ、『好き』だの『愛』だの、な。
 お前が勘違いだったと気づくまで、一緒にいてやる」

「勘違いなんかじゃありません、僕のこの気持ちは!」

「どうだか」

 零が鼻で笑う。

「変わりません、僕の気持ちは!」

 負けてなるものかと温大は声を張り上げる。

「俺はソファで寝ればいいのか?」

「……は?」

 零がなにを言っているのかわからず、温大は聞き返す。

「まさか、シングルベッドでふたり仲良く寝るわけにもいかないだろ」

 零の言葉の意味に気づいた温大は零の腕の中でぴょんぴょんと小さく跳ねた。

「僕の部屋で、一緒に暮らしてくれるんですか?
 プロポーズ、成功ですね!」

「プロポーズなんか知るか!
 恋人まではいいが、結婚する気はないからな!」
 
「楽しみだなあ、先輩と一緒に……くふふ。
 先輩のための食器とか必需品とか揃えないといけませんね。
 放課後、買い出しに行きませんか?
 先輩、僕、料理頑張って作りますね、胃袋を掴むってやつです。
 毎日登下校は一緒にしましょうね!
 寝坊しないよう毎朝僕が起こしますから!」

 零の言葉など聞こえていない様子で興奮した温大が喋り続けるので、零は自分が言い出したことに後悔を感じはじめていた。

「誰にもバレないようにしないと、俺の将来に響く」

「わかりました、でも、意外とバレないものですよ。
 学校ではべたべたしませんから安心してください」

「今の状況がすでにべたべたしてるけどな」

 ようやく零の腕から解放された温大は泣いていた。

 零はぎょっとして温大を2度見する。

「な、なに泣いてんだよ」

 鼻をすすりながら、温大は「だって」と言う。

「僕、嬉しくって。
 好きな人に好きって言われることがこんなに嬉しいだなんて思いませんでした」

「そうかよ」

 温大は袖で涙を拭うと、人懐こい笑みで「そうです」と返した。

「一緒に暮らすなら、僕たち家族になるんですよね?
 これからは僕が先輩の両親の代わりに非行の芽を潰します!
 昔、先輩が助けてくれたように、今度は僕が先輩を守る番です!」

「生意気、何様だ、お前」

 こつん、と零が温大の頭を優しく小突いた。

 えへへ、と温大がはにかむ。

 つられて零も笑った。

 孤独な少年がふたり、手に手を取り合う。

 愛を知らないふたりは、本物の愛を探すべく歩幅を合わせて歩きはじめた。