「私は今の甘ったれた世の中が大嫌いだ」
始業式が終わったあとのホームルームで、早川(はやかわ)先生がそう告げて、教室はざわついた。私は周りを見渡してみたけど、すでに1軍に囲まれている中で、私のことを相手してくれそうな人なんて存在しなかった。
「静かにしなさい」
低く冷たい声が響く。早川先生は男だけど、どちらかというと、華奢で、グレーのスーツ姿が似合っている。メガネは四角で、細い銀色のフレームだ。始業式の前、このクラスには、新しく赴任する先生が就くと、副担任で音楽教師の長谷部が告げて、クラスはいきなり湧き立った。長谷部はおしゃべりだから、補足情報として、それにまだ20代だし、かっこいいよ。って言ってて、1軍たちがフー!とか言って、さらに謎に湧き立っていた。
「ちょっとでも嫌なことがあったら、ハラスメントだと騒ぎ立てて、善人を殺す悪人ばかりの世の中になってしまった。そんな甘ったれを撲滅したいと私は考えている」
早川先生がそう言い終わるとまた、教室はざわついた。
「マジでクラスガチャハズレだわ」
私の右隣の男子がぼそっとつぶやいた。右隣は一番廊下側の席で、私から見て、右側の列は、男子、私の列は女子、そして、左側はまた男子と、男女が交互になっていた。そして、それに呼応するように、その男子の前に座っている、去年も同じクラスだった一宮渉(いちのみやわたる)が振り向いた。
「いや、SSRかもしれねーよ。そう思わない? 石井ちゃん」
「えっ。ちょっと……」
わからない。って言おうと思ったけど、私の言葉は言っている途中で消えた。急に一宮から話しかけられると思わなかったから、結局、私の言葉は宙ぶらりんになってしまった。
「ワタ、無差別にふんなし。困ってるだろ。えーと、何さん?」
「石井乙葉(いしいおとは)ちゃん。15歳、趣味は読書と寝ること。ヨシキ、一発で覚えろよ」
「てか、個人情報ガバすぎでしょ。お前のコンプラ、マジで終わってるわ」
「前クラス一緒だったし、いいんじゃね?」
「いや、いいの意味がわかんな」
「それな」
私の目の前で比較的速いテンポで会話が進んでいく。それも囁く程度の小言で進んでいく。 気がつくと、ふたりは合わせたかのように小さく笑っていた。
私には、それのなにが面白いのかわからなかった。一宮は1年生のときも、クラスの中心で、サッカー部のエースらしい。1年生で唯一レギュラーになったくらい、エースで、しかも先輩より上手いらしい。でも私にはそんなこと、関係ないからふーんって思ってる。
そもそも、私にダル絡みし始めたのは、今年の1月からで、前のクラスのときの最後の席替えで今みたいな距離感に一宮がいた。
今日から学年が上がり、2年生になったから、ようやっとダル絡みから開放されると思ったら、春休み挟んで、すぐにまたダル絡みされることになったから、それこそ、私にとって、この席はSSRの確率って、よくわからないけど、0.0000000001%を無課金で引き当てて、無駄に運を使ったとさえ思った。
つまり、一言で説明すると、私からすると、一宮渉は関わりたない人物の一人だ。
「世の中はあまりにも腐りすぎだ。SNSで醜い足の引っ張り合いは毎日起きるし、毎日のように闇バイトが横行するし、殺人事件が起きる。これは極論過ぎた、失礼。もっと身近なことにフォーカスしようか。身近なところでは、毎日のようにSNSでは、荒んだ言葉で殴り合いはするし、なにか些細な行き違いがあったら、すぐにハラスメントとか言って、騒ぎ立てる。それはただの甘ったれだ」
早川先生が言い終わると、教室は静まり返った。たぶん、私がもし、クラスメイトのことを代弁するとしたなら、『この人は一体、何がしたいの?』って思っている人がほとんどだと思う。そんな早川先生のことを見て、私は行き過ぎた正義中毒者なのかなって思った。
「せんせー、質問でーす」
急に窓側の奥の方から、大きな声がしたから、その方を見ると、一番うしろの窓側の席に座っている男子が手を上げていた。
「横山(よこやま)。私はまだ話の途中だ」
「いや、知らんしです。てか、話聞いてたけど、そもそもこの話自体、ハラスメントじゃないですか。てか、ハラスメントがなんたらとか言ってて、パワハラ知らないんっすか?」
「それが甘ったれということだ。横山、これは警告だ。次、同じようなことをしたら、制裁する」
「は? フィジカル弱そうな癖に普通にやばくね? デスゲーム? これよりデスゲームを始めます」
横山がそう言うと、急に緊張の糸が切れたみたいに、クスクスと笑いだし、その笑いは次第に大きくなり、クラスが笑い始めた。
「横山、マジやばいんだけど」
「今のめっちゃ動画撮りたかった」とか、キャッキャしながら、教室の中央くらいにいる1軍の女子たちが笑いながら、大きな声で横山に返していた。
「笑っていられるのも、今のうちだ」
早川先生がそう言うと、クラスがまたゲラゲラ笑い始めた。
「先生、中二病ですか? こどおじ界隈じゃね?」
「なにその界隈」
「先生、体罰でもするんですか? てか、先生、ヒョロガリだから、余裕だわ」
「次から動画撮っちゃおうかな。これ、訴えたら余裕っしょ」
「うらでパパ活買ってそう」
バラバラといろんなことが教室中に響いている。こんなに面と向かって、適当なこと言えるんだって、私はそれが怖くなった。だけど、そもそも、それをいい始めたのは、早川先生の方だから、お互い様なのかなって感じもした。
だけど、サッカー部の二人はなぜか、それには参戦せず、私と同じようにただ、そんな言葉が飛び交う教室を見守っているだけだった。
☆
「自分のことなんてさ、自分でもわからないよね」
「自分でもわからないから楽しいんじゃない? 人生って」
二人きりの文芸部で紗耶香(さやか)は私にそう返して、ぱたんと古いノートPCのモニターを閉じた。5時すぎの教室には、夕日が射し込んでいて、教室の3分の1がオレンジ色に染まっていた。
私がそんな、鬱っぽいことを言ったのは、あまりにも高校生活が馴染めなくて、自分の青春なんて、もう粉々に消えてしまったなって、思ってて、夏休みまで頑張ってみて、それでダメだったら、もう通信制の高校に編入しようかな、なんて考えいるからだ。
もちろん、まだ紗耶香には、そのことを伝えていないし、きっとこの先も相談もしないし、ある程度、方向を決めてから、報告みたいな感じで伝えるだけだと思う。
紗耶香とは友達ではあるけど、学校を辞めたいって話を相談するのは、ダメなことのように感じる。
「なんかさ、新しい担任、ハズレなんだよね」
「え、5組ってあの若い男の先生でしょ。クールそうな」
「そうだけど」
「だけどなに? こっちは定年前のおじいさんだよ? 担任」
「クール超えて。……なんか痛いんだよね」
そう言うと、沙耶香はゲラゲラ笑い始めた。
「ちょっと、笑い事じゃないんだけど」
「ごめんごめん。痛いってどういうこと? 絶望系なの?」
「なんかね、最初に甘ったれは大嫌いですとか、言ってて。嫌なことがあるとなんでもハラスメントにするとか言い始めたの」
「確かに、痛いかも」
吹き出すように沙耶香が笑ったから、私も同じように笑った。ただ、この笑いは悪い笑い方だなって思った。馬鹿にする笑い方。でも、早川先生は馬鹿にされるような話し方をしていたと思う。
「あとさ、もう一つあって、当たり前だけど、クラスでも馬鹿にされて、先生、初日からすごい笑われたんだよね。それで、『笑っていられるのも今のうちだ』みたいなことも言ってて」と私が言っている途中で、沙耶香はまた、ゲラゲラ笑った。だよね、やっぱり笑えるよねって、思いながら、私も同じように笑った。
「いいなぁ。すごい面白そうな人じゃん」
「面白くないよ。その間、教室の空気、変な感じで嫌だった。それに不気味だし」
「そんな感じなのに不気味なんだ」
「本当にやばい人だから、本当は笑えなんだけどね」
私にとってみれば、担任も変な人でストレスかかるから、辞めることにしましたっていう理由ができたから、とか口をすべらせてしまいそうになったけど、私はそれを飲み込み、一台しかないノートPCの方へ手を伸ばし、自分のUSBスティックを抜き取った。
☆
昨日のことなんて、関係なく、今日も学校がある。
そんなことを考えながら、私は今日も街と反対に向かうガラガラの電車に乗り、ブレザーの囚人服をまとい、学校へ向かっている。ドアの近くに立ったまま、私は外の流れていく景色を眺めていた。
電車は住宅街を抜け、海が見えてきた。水面は朝日でキラキラと白く輝いて、春の海と思えないほど、海の藍色が際立っているように見えた。
昨日のホームルームは結局、あんな感じでグチャグチャのまま終わり、2年5組は速攻で学級崩壊状態になった。
1軍女子でギャルっぽい、榊原彩音(さかきばらあやね)が「てかさ、マジでうちらの青春返してほしいんだけど」って、けっこう、怒ってる感じだった。
たぶんだけど、1軍女子とかが、よく憧れてる体育祭でのクラスの団結や、男子頑張ってー! とか、文化祭の出し物楽しみすぎるとか、そういうキラキラした青春はこのクラスでは、もう4月の段階から保証されないように思えた。
榊原の取り巻きの4人組くらいのギャルは、たぶん、それを人生の一番の生きがいにしているような感じだ。自分のなかだけで、その青春を画像データに残すだけだったら、害がないけど、こういうタイプ大体、いろんなことを強要する。
ギャルノリを押し付けないでほしい。
だけど、世の中って、声が大きいほうが正論になるし、弱者は強者の強要に従うしか道がない。大体、これを拒否すると、裏で悪口を言われ、ものすごく叩かれ、クラスの女子のなかで軽い炎上状態になる。そして、その炎上は正義とされて、炎上させられた被害者の2軍は、性格に難ありと判断され、すべて自己責任で片付けられる。
1軍のギャルたちは、その自分たちが描いた青春が出来ないことに気がついて、もしかすると、そうやって嘆いているかもって思ったけど、いや、待てよ。って。そもそも1軍が早川先生のことをバカにしたから、こういうムーブメントになったんじゃんって思って、結局、初日からこのクラスは何がしたいのかわからないなって思った。
学校に着き、教室に入ると、何人かがざわついていた。
私は自分の席につき、バッグから今日のものを出しながら、聞き耳を立てた。
「とってみるわ」
「おはよ、なしたの?」
「横山、昨日の夜、襲われたって」
「え、なにそれ。大丈夫なの?」
「いや、普通に入院してるって」
「えっ、入院するレベルってやばくね?」
「ほら、見て。横山からの画像」
「やばっ。顔、紫じゃん」
「なんか、急に後ろから狙われて、ヤンキーにボコボコにされたって」
「それって、まさか」
ザワザワのなかでチャイムが鳴り、チャイムとほぼ同時に早川先生が入ってきて、何人かがヤバいって、と言いながら、慌てて自分の席にバタバタと座り始めた。そして、一気に教室が静まり返った。
「私は言っただろ。『笑っていられるのも、今のうちだ』と」
早川先生は静かにそう言った。一宮が声を出しながら、わざとらしくあくびをしたから、私は思わず、右側を見た。右前の一宮はそのまま、机に突っ伏し始めた。足元を見ると、一宮は足を組んでいて、右足の先が教壇側の通路に出ていた。
「早川先生、横山って入院したんですか」と教室の真ん中くらいにいる、1軍女子の高見芽郁(たかみめい)がわざとらしく聞いた。若干、声は震えていた。
「高見の言う通りだ。横山は昨日、何者かに傷害を与えられ、入院した」
クラスがまたざわついた。
「え、それって。先生が関与してるってことですよね?」
高見芽郁はそう話を続けた。
「どこにそんな証拠があるんだ?」
「――やっぱり、先生が指示したんだ」
高見芽郁がそう弱々しく言うと、早川先生は急に笑い始めた。その笑い声はわざとらしく、そして、人のことをバカにしているような、笑い方だった。
「無力だな。昨日まであんなに、私のことをバカにしていたのに、あなた達は、本当に無力だ」
「普通に警察に言いますよ」ともう一人の1軍の山崎遥香(やまざきはるか)がすかさず、続けて言ったけど、早川先生はそれを鼻で笑った。
「だから、証拠がないんだろ。いつ、どこでどうやって指示した? そこまで証拠が揃わないと警察は動かない」
「それは警察が調べてくれるんじゃないですか」
「おめでたい頭だな。なら、言ってみたらいい。受理はしてくれるだろう。動かないだろうけど」
「どうしてそんなことがわかるんですか!」
高見芽郁は教室に響くような大きな声で返したから、教室内の緊張度合いが、さらにもう一段階あがったように思えた。
「これ以上、言うと、高見さんも同じことにあうよ。あと、松本彩乃(まつもとあやの)。わかってるな。わかってたら、それを持って来い」
松本彩乃の方を見ると、松本はすぐに立ち上がり、スマホを持ったまま、教壇の方へ歩き出した。何歩か歩いて、教壇の前にたどり着くと、早川先生は松本のスマホを指差した。
「今、撮ってた動画を消しなさい。ホームルーム中だ」
☆
文芸部は基本週2日で、火曜日と金曜日にやっている。今日は水曜日だから、学校が終わり、私はいつものように街に向かう電車に乗り、5駅先の地元に帰っている。
結局、朝のホームルームのことがあったから、帰りのホームルームは変わったことはなかった。早川先生が連絡事項を読み上げて、はい、終わり。さようならだった。クラスでは『絶対、早川許さねぇ』『あいつ、確信犯だよね』『マジでデスゲームのゲームマスター気取りでうざいんだけど。何様なの?』とか、とにかく、悪口だらけだった。
いつもなら、クラスで私と同じような2軍女子を見つけて、気が合えば一対一で話して、1年生の時、沙耶香と知り合ったみたいに仲を深めたりする時期だけど、私はそんなクラスの異様な雰囲気が嫌すぎて、机に突っ伏したり、持ってきた文庫を読んだり、スマホでショート動画を観たりして、気を紛らわせた。
だけど、教室に居れば、嫌でも聞こえてきてしまう、そんな嫌なワードは、私の胸の中にそのたびにひどくぶっ刺さり、弱すぎる私のハートはもう、萎れてしまいそうだった。去年より、ハードモードに感じるし、これを言語化するなら、何ハラスメントになるんだろうとか、思ったり、早川先生はハラスメントを訴えることは甘えって初日に言ったけど、ハラスメントの種を蒔いて、派手な毒ひまわりを咲かせたのは、早川先生が発端じゃんって思った。
そもそも、横川って男子は、本当に先生の意図で、暴行被害に遭ったのだろうか。早川先生はたまたまその被害に遭った横川のことを、利用しただけなんじゃないって思っちゃう。
あーあ。ただでさえ学校なんて爆発してしまえばいいのにって思ってて、進路のために仕方なく行ってるのに。
そう思うと、解放されたはずの下校時間に、100%気のせいだって、わかる吐き気があるようなモヤモヤが胸辺りを締め付けてい流感覚がして、左瞼だけがピクピクし始めたから、私はもう、そんなくだらないことを考えるのをやめた。
☆
「早川! てめぇ、何考えてるんだよ」
男子の森岡が早川先生が教室に入ってきた瞬間に、早川先生の胸ぐらを掴んだ。教室は1軍女子の何人かが悲鳴をあげはじめていた。私の席は入り口から、3列後ろの場所で、森岡のすごい剣幕とか、早川先生が森岡に持ち上げる格好になっていて、少しだけ浮いている状態が結構、近くで見えてて、それだけでもう、朝から最悪だと思った。
「森岡、やめとこうぜ。先生やったところで何も変わらないだろ」と私の右前の席に座っている一宮がなだめるように言った。
「は? ワタ、正気かよ。だって二日連続はおかしいだろ」
「松本のことは、私は何も知らない」
「シラきるんじゃねーよ! あ? 確信犯だろ。じゃあ、綾乃が動画撮って、楯突いたら、一発アウトってことか? なんで綾乃まで入院しなくちゃいけないんだよ。婦女暴行の方が、罪が重いだろ」
「なになにの方が、罪が重い」
「は?」
「だから、そっちの方が、罰せられるべきだと言いたいということだな。言っておくが、次に私になにかをしたら、森岡も同じようになるだろう」
「――このゴミが」
森岡はそう言って、雑に早川先生の胸ぐらから手を離した。森岡から手を離された早川先生は、にやっとした表情を浮かべたあと、またクールで冷たそうな表情に戻った。緩んだシルバーと白のストライプのネクタイをキュッと締め直した。そして、何事もなかったかのように、数歩歩き、教壇の前に立った。
「先生、綾乃が夜道で男に殴られましたよね。先生はそれ、知ってるってことですかね」と奈良原が真ん中の席くらいから、森岡を庇うようにそう言った。その声は冷静っぽさが出ていて、とりあえず、状況をまとめようとしているのかなって、私はその声色を聞いて思った。
「私が連絡受けたのは今朝だ。本人から学校に連絡があった。電話を受けたのは私で『殴られたくらいで甘えだな』と伝えた」
すると教室は一気にざわつき始めた。
「ワタ、やばくね?」と私の右隣の席に座る、江川良規(えがわよしき)がそう言うと、江川の前に座る一宮はすぐに振り返った。
「昨日からヤバいことばかりだから、飽きたよ」
「は? ワタ、すかすなよ」
「悪い。俺、朝、弱いからあんまシリアスなこと考えられないわ。石井ちゃんも朝、弱いほうだもんね」
一宮にまた、急に話を振られた。思わず、一宮と、江川のことを見ると、江川は少し私のことをバカにしたような感じで、ニヤニヤしていた。江川が私のことを完全に舐めきったように見ているその評定を見て、一気に江川のことが嫌いになった。
江川だって、所詮、このクラスのなかでは、雑魚で、モブで小心者なんだと思う。だから、自分より明らかに格下の私のことを見て、無意識に小馬鹿にしていい対象だと、判断して、そんな表情を浮かべているんだと思う。
だから、お前はモブなんだよ。江川。
「朝だから、機嫌悪いんだね。ごめんね」
「いいよ。私なんていつでも、機嫌悪いようなものだから」
「へえ、石井さんって、そんな鋭いことも言えるんだ。意外なんだけど」
江川の茶化したその言葉が、嫌で思わず私は江川を見て、目を細めた。
「ほら、機嫌悪いんだから、ダメだよ。石井さんの本当のピュアさを知らないから、そんなこと言えるんだよ」
私は一宮を睨んだあと、再び教壇の方に視線を戻した。
「こっわ」
そう小さく言った江川の声が耳にやけに残る。モブだから、きっと思考回路と、口が直通で後先なんて何も考えられないんだ。こういう人間がいるから、ナイフで刺す人間を生むし、無自覚の我慢を強要させるんだ。
「静かにしろ。ざわつく必要ないのに、ざわつくのは、お前らが甘ったれだという証拠そのものだな。森岡、どうした。さっさと座れよ。帰り道、気をつけろよ」
「――どうやってるのかわからないけど、確信犯だろ」
そう吐き捨てるように言いながら、森岡は自分の席の方に歩き出した。
「さて、奈良原。もうちょっと話を聞きたそうだな。聞きたいことあれば、聞いてもいいだろう」
「じゃあ、質問しますね。そもそもですが、知っているんですね?」
「何度も、同じ質問をするな」
「じゃあ、質問を変えますね。先生は加害者と繋がっていないと言ってましたが、昨日、今日と、報復のようなことを仄めかしていましたね。その理由を教えて下さい」
奈良原が言い終わると、教室のなかはしーんとした。クラスのみんなは、奈良原のこの質問に対して、一体、何を求めているんだろう――。
私はそんなことを考えながら、やっぱり、今日は頑張れないから、体調崩れたことにして早退してしまおう。保健室の三輪先生に、またお願いして、無理だったって、そっと教室から消えてしまおう。
「教えるわけないだろ」
「え、そしたら自分が質問した意味、ないじゃないですかね。これじゃあ」
「奈良原は『ね』がうざいな」
「え?」
「『え?』じゃねーよ。とぼけるな。無意識かもしれないけど、その語尾がムカつくんだよ。語尾は止めて使えよ」
「それ、初耳なんですけどー。てか、どこでも使ってるでしょ」と時が止まりそうな教室で榊原彩音がギャルっぽい感じで、ゆるく口を挟んだ。それが意外だったから、私は思わず、榊原の方を見てしまった。すると、それに気がついたのか、榊原といつも一緒にいる加藤梨里杏(かとうりりあ)に睨まれたから、私は視線を前に戻した。
「たしかに『ね』は終助詞で、どこでも使われている。ただ、多用するのは良くないと昔は言われていた。なのにこの数年は、『ね』を語尾に付けないと、冷たい印象があるとか、甘ったれた連中が騒ぎ立てて、多用するほうが、柔らかくて、抑圧的ではなくなると言われている」
「じゃあ、使ってもいいんじゃね?」
榊原がそう軽く返すと、何人かがくすっと笑った。
「違うんだよ。『ね』を多用するやつは、大体、関係性や相手の距離感を間違ってるんだよ。目上の人に使うと、相手を見下していることにもなるんだ。だから、普通の人は極力使わないものだった。だけど、最近は曖昧になっている。その理由は簡単だ。社会が抑圧を嫌う甘ったれが多数派になったからだと、私は考えている」
「それって、別に人それぞれじゃない? てかさ、それって、多用するほうが、印象いいんじゃん」
榊原がそう言うと、さっきよりも大きめな感じで教室中がクスクスしていた。私も確かになって思って、ニヤッとしそうになったから、思わず右手で口を覆った。
「私の中では、それが嫌いだと言う話だ。今の文化だ、傾向だと言われてもな」
「いやいや、説得力ないんだけど」
「少数派を笑うのが日本だ。出る杭は打たれる。私は私見を述べただけで悪いことは発言していないのにだ。そういう腐った集団意識がいけないと私は思っている。さて、私の目的を話そう。このクラスにいる以上は、私の倫理観に従ってもらう。それから逸れることは、出る杭になるということだ。つまり、この2日間で、起きたことが自分の身に起きると認識してくれ」
早川先生がそう言い終わると、またクラスは黙り込んでしまった。
☆
「来てみたけど、やっぱり無理かもです」
「2日間、ここに来なかっただけ、乙葉ちゃんは、頑張ってたと思うよ。これ飲んで」
「ありがとうございます」
私がそう返すと、三輪先生は白いマグカップをガラスのローテーブルに置いた。保健室はいつものように消毒液の香りがしていて、暖房が効いていて、暖かかい。
クタクタになった黒いベンチシートに座ったまま、両手で頭を覆い、数秒間、ぎゅっと目をつぶった。そして、すっと力を抜き、両手を頭から離し、右手で垂れた前髪をかき分けた。
三輪先生は私の向かいのベンチシートに座った。そして、目が合うと、優しく微笑んでくれた。白衣とチョコレートブラウンのロングが似合う、小柄の三輪先生は、本当に優しい人だと思う。去年、単位がギリギリになりながらも、なんとか、進級できたのは、保健室登校をしていたときに、三輪先生が私のことを守ってくれたり、サポートしてくれたからだと思っている。
だから、そうやって私のことを支えてくれた三輪先生に感謝している。
「――今年は、ここで白湯を飲まないって決めてたのにな」
「ふふ、決めて、また自分のことを追い込もうとしたんだね。乙葉ちゃんは真面目過ぎるんだよ」
「先生――。こんなんで、ごめんなさい」
「ちょっと、乙葉ちゃん。謝らないでよ。身体、壊したら、楽しいこともできなくなるんだから、自分のことはしっかり自分で守ってあげないと」
「――すみません」
結局、口から出る言葉は謝る言葉だけど、三輪先生は、そんな情けない私にまた微笑んでくれた。
「――クラス、どうだった?」
「あの人と、合わない気がします」
「あの人って?」
「早川先生です」
「あ、早川先生のところなんだ……。どうして合わないと思ったの?」
「……高圧的」
「高圧的なんだ。どんな感じで高圧的なの?」
「なんか、2日連続で早川先生に逆らった人が帰り道、襲われて、殴られるんです」
「あー、それね。乙葉ちゃん、そこのクラスなんだ」
「やっぱり、職員室でも話題になってるんですか?」
そう聞き返すと、うーん。と言って、三輪先生は視線を上に逸らした。そして、数秒してから、話を続けた。
「これ、誰にも言わないでね。職員室でも問題になってるの。早川先生が高圧的なんじゃないかって。今日、電話かかってきた女の子、あの子も誰かに殴られたでしょ。その電話受けた他の長谷川先生が、教頭に相談してたんだよね」
「さすが、副担任ですね」
「それで職員室でも、ざわざわって広がった感じだったんだけど、あれが本当の話だってことなんだ」
「そうだと思います」
私がそう言うと、三輪先生は、何かを考えているように見えた。私は右手で白いマグカップを持ち、白湯を一口飲んだ。ちょうど飲みやすいくらいになっていて、飲み込むと、すっとした気持ちになった。
そして、マグカップをまたテーブルの上に戻した。
「あの――」
「ううん、なにも言わなくてもいいよ。思い出すのもつらいだろうから、乙葉ちゃんは無理しないで」
「いや、私は直接、嫌なことはされてません。どうせクラスでも、ぼっちですし」
「なら聞いてもいいの?」
「はい、大丈夫です」
そう返すと、わかった、ちょっと待っててと言って、三輪先生は席を立ち、そして、事務机の方へむかった。
私は、私なりにつらいし、いろんな嫌な言葉を聞くのは、もう無理なのかもって気持ちが強いのかもって、ふと冷静になり、自分の気持ちに気がついたようなに思えた。
三輪先生はバインダーとペンを持って、こっちへ戻って来る。
冬休み明けによぎったことを思い出した。そして、なんとか乗り越えたから、春休み明けても、頑張ろうと思った気持ちが、もう自分のなかにないことに気がついた。だから、私はこの3日間のことを伝える決意と、ずっと憂鬱だった選択肢について、三輪先生に相談することにした。
☆
3時間前に乗ったばかりの電車に再び乗って、惨めな気持ちのまま、地元に逃げ帰る。
午前中の電車の中で制服を着ているのは私くらいかもって思った。1年生のときから、もう何度も、この空気感を味わっているから、人の目すらあまり気にならなくなっている。
スマホで時間を見ると、まだ11時台だった。意外にも早退はあっさりできた。三輪先生に今の自分の気持ちを話すのに、多分、1時間くらいかかったと思う。クラスガチャで大外れだったこと、甘ったれは嫌いだって言う早川先生のこと、そして、常にクラスが緊張してるし、みんなのイライラとか、怒りとかが飛び交う教室の中がものすごくストレスになっているということも三輪先生に伝えた。
三輪先生は、しっかりと頷いてくれて「確かに」とか「そうだよね」とか、そう言う相槌をしっかり打ってくれた。これが本当に人と、人が会話するってことなんじゃないかなって思うくらい、私の話をしっかり受け止めてくれた。
そして、ここまで三輪先生に支えてもらって、申し訳ないけど、やっぱり通信高校に転校したいことも伝えた。親とは冬の段階で、ダメだったら、転校すること考えようって言われていたから、私はそうすることにした。
すると、「そうだね。無理しないのも一つの選択肢としていいと思うよ」と三輪先生は優しく、返してくれた。
保健室での話が終わると、私が早退することを三輪先生は手配してくれた。「早川先生が許可してくれなさそうな気がする」って三輪先生に言ったら、三輪先生は「こう見えても、一応、大人だから、私のこと信じてて」と笑って、職員室に行ってくれた。
少しして、三輪先生が保健室から戻ってくると「大丈夫だったよ」と言って、早川先生から渡されたというプリントが入ってる封筒をもらった。だから、帰るのは意外とあっさりできた。
この学校を辞めるということは、沙耶香を文芸部に一人きりで置いていくことになってしまって、ごめんだけど、今の私には、もう、沙耶香のことを思って、この学校に残るという選択ができる体力はない。
たぶん、学校を退学することってアプリをシャットダウンするのと似ているような気がする。人差し指で2年5組のアプリをすっと上にスライドさせて消す。文芸部のアプリも、スライドさせて消す。保健室のアプリも、スライドさせて消す。そしたら、立ち上がっているアプリはすべて消える。
だけど、アプリで得た情報や、思い出は私の頭の中で残ったままだし、使っていた記録は残る。
私がこの高校に所属して、早川先生のクラスの名簿に名前があることや、文芸部で去年、卒業した2つ上の先輩と、沙耶香と一緒に作品集を作ったこと、保健室で三輪先生と話したこと。そして、ほとんどの人は、教室で日常で繰り広げられている罵詈雑言は、覚えていないんだと思う。
だけど、私の脳内メモリーはポンコツだから、そんな私に言われていない日常の些細な、悪口も一緒に頭の中に残り続ける。
嫌なことばかりだったな――。
電車は大きな橋を渡り始めた。向かい側の窓から見える空は薄い雲がかかっていて、黄色い日差しがキラキラしていた。
今日がこのまま終わるかと思った。だけど、今日は終わらなかった。
電車を降り、いつもの改札を抜けて、家へ歩こうとしたら、早川先生がいた。私はその場で固まってしまった。
――逃げなきゃ。
だけど、私の身体は怖くて、どうやって逃げればいいのか急にわからなくなった。グレーのスーツ姿の早川先生が一歩ずつ近づいてくる。駅の出入り口で立ち止まったままの私は、固まったままで、多くの人たちはそんな私の異変なんて気にも止めず、いろんな人たちが私の横を通り過ぎていく。
そして、早川先生は私の前に辿り着き、銀縁のメガネ越しに目を細めて、私を見ていた。
「これから個人面談をします」
「――嫌ですって言ったらどうなりますか?」
「殴られるだろうね」
「わかりました、面談します」
「じゃあ、ついてこい」
麻薬密入でもしたような気分のまま、私は頷いたあと、歩き始めた早川先生の後ろにつくように歩き始めた。
☆
駅前のビルの2階にある喫茶店に入った。古臭い喫茶店で、昭和で時が止まっているみたいだった。早川先生は慣れたようにスタスタと、店内を歩き始めた。私はそのまま早川先生のあとをついて行った。お昼前だけど、ほとんどお客さんはいなかった。
タイルは濃い茶色をしていて、窓際のボックス席は色褪せた赤いソファが置いてあった。そして、テーブルの上には、裸電球が各席にぶら下がっていた。店員さんは、カウンター席の奥の厨房に、マスターと奥さんっぽい人がいた。
目が合っても、何も言われなかった。
早川先生は4つあるボックスシートのうち、一番入口と、カウンターから遠い席に座った。私はその場に立ったまま、それを見ていたら、早川先生は振り返って、壁側の席を指差した。だから、私は慌てて、「失礼します」と言って、壁側の席に座った。
向かい側に座る早川先生から、威圧感を感じたから、私はできるだけ、窓側の方まで寄って座った。そしてすぐに、奥さんらしき女の店員さんが来て「いらっしゃいませ」と小さな声で言って、お水が入ったグラスを2つ、茶色のテーブルの上にぼん、ぼんと乗せた。
「ナポリタンとコーヒー。君は?」
早川先生にそう聞かれたけど、私は首を振った。
「甘いものは大丈夫か?」
どうしようと思ったけど、甘いものは好きだから、小さく頷いた。
「この子には、いちごパフェを」
「はーい。お待ちください」と女の店員さんは面倒そうにそう答えて、カウンターの方へ歩き始めた。
「さて、いきなりだけど本題だ」
「待ってください」
「なんだ」
「どうして、私より先にここに辿り着いたんですか」
「封筒の中にGPSタグを入れた」
「えっ」
思わず、右横に置いたバッグを見た。私はバッグを手繰り寄せ、ファスナーをあけ、そして封筒を机の上に置いた。
「私は甘くないってことだ」
私は何度か、瞬きをした。また、ピクピクと左瞼が軽く痙攣した。そして、封筒をあけ、中を見るとプリント数枚と、プリントとプリントの間に挟まっている黒いプラスチックのタグが見えた。封筒に右手を入れ、タグを取り出した。そして、封筒をバッグに戻した。
「タグは私物だ。返してもらおう」
早川先生は右手をこっちに差し出したから、私は黒いタグを早川先生の手のひらに乗せた。
「本当に甘くないですね」
「その『ね』の使い方が本来の正しい使い方だ」
「へえ。――先生にとって、正しさってなんだと思いますか?」
私は思ったことを思わず、口にしてしまって、言ったあとに後悔した。もし、早川先生のお気に召さなかったら、私も帰り道、ボコボコにされるかもしれないと思った。
「私見だが、自分の頭で考えて、物事を捉えることが正しさだと思う」
「意外です。ルール通りに生きることとか言うのかと思いました」
「君は学校を辞めるんだろ?」
「なんでそれ、知ってるんですか?」
「三輪先生から早退の話があった時、個人調査票を確認した。すると、記録に『退学し、通信制高校への編入を検討しているようだ』と書かれていた。これは、前の担任が書いたものだな」
「――お見通しってわけですね」
私は、すっと息を吐いたあと、グラスを手に取り、水を一口飲んだ。水を飲んでいる間に、女の店員さんが、ホットコーヒーを持ってきて、早川先生の前に置き、何も言わずに去っていった。
「じゃあ、君に一つ問題を与えよう。この店は私のお気に入りだ」
「私と生活圏、意外と近いんですね」
「さっき、あの店員は、何も言わずにこれを置いていった」
早川先生は、カップを手に取り、コーヒーを一口啜った。そして、ソーサーにカップを戻した。
「相変わらず、不味いコーヒーだ」
じゃあ、飲まなきゃいいじゃんって思ったけど、それを口に出す気にはなれなかった。
「この店の接客は無愛想だし、こだわったスペシャリティコーヒーでもない。大手の問屋から仕入れた安そうな豆で、雑味だらけ。しかも、カウンターの奥を見ても、エスプレッソマシンすら見当たらない。なのに、私はこの店がお気に入りな理由はなんだと思う?」
「……ナポリタンですか?」
「確かに、ここのナポリタンは好きだ。だが、それが決定打ではない」
早川先生はそう言い終わるとまたカップを手に取り、コーヒーを啜り、そして、ソーサーにカップを戻した。私はそれを黙ったまま、ぼんやりと見ていた。
「この店のあり方だよ」
「あり方――」
「そうだ、あり方だ。客のことを過度に神様扱いしない。なんなら無愛想だ。だけど、しゃべりたい常連が来ると、ずっとカウンターでおしゃべりをする。客と店員の立場なんて関係ない。そして、味はそこそこだし、一見客は、そんな態度を叱ったり、SNSや、WEBの評価で、そのことについて叩く。味は美味しいけど、態度が最悪だと。だけど、あの二人はそんなことなんてお構いなしだ。そのような姿勢を貫けるのは素晴らしい。嫌なら、来なきゃいい。本来、日本も70年代くらいまでそういう気質だったようだし、ある程度のいい加減さが許された穏やかな時代だったようだ。これが本来の国民性だと思っている」
思想が強くて、気色悪って思いながら、黙って早川先生の話を聞いていたら、女の店員さんがナポリタンを持ってきた。そして、カウンターに戻り、今度はいちごパフェを持ってきて、それを私の前に置いた。そのあと、伝票も一緒に置いた。
「食べなさい」
刺すような鋭い目つきで、いちごパフェを食べなさいって言われたのは、生まれて初めてだった。大体、いちごパフェを食べるのを促すのって、みんな優しい目つきで言うものじゃないの? てか、もし、これで話の途中で帰ったら、帰り道、誰かに殴られそうな気がするし、やっぱり食べるしか選択肢がないし、いちごパフェを食べるのに、恐怖を含ませる意味って一体、なんの意味があるんだろうと思いながら、
「……いただきます」
と言って、私は細長いスプーンを手に取り、いちごパフェにスプーンを刺した。いちごパフェの上部には、スライスされたいちごがたった6枚しか盛られていなかった。生クリームの上には、カラフルなチョコレートチップがまぶされていて、その中途半端なカラフルさが余計に安っぽくさせていた。
それでも、いちごのスライスと生クリームを一緒に掬い、それを口に含むと、やっぱりそれなりに幸せな感じがした。
だけど、いちごは酸っぱかった。
早川先生もナポリタンを食べ始めた。几帳面そうにフォークでケチャップ色のパスタを巻き付きて、それを口元に運び、食べていていた。
しばらくの間、私と早川先生は、何も話さずに、お互いにパフェとナポリタンを食べ続けた。早川先生はあっという間に、ナポリタンを食べ終えたけど、私は緊張したままで、スプーンは思ったように進まず、パフェはなかなか減らなかった。
「さて、君は食べながらでいい。個人面談をしよう。君は今の環境に強くストレスを感じているという認識だが合っているか」
「――ストレス」
私はためらってしまった。もし、この答えに対して、ストレスと答えたら、『それは甘えだ』とか、高圧的に言われてしまうのかなってふと、思ったからだ。
「君の場合、今日、学校を早退したのは、甘えではないと私は考えている」
「え、甘えだと思います」
「なぜ、甘えだと思う?」
「……みんなが当たり前に出来ている学校生活ができないからです」
きゅっと胸を締め付けるようなしんどさがした。胸の奥の感覚だから、色なんてないはずなのに、それは真っ黒で、これだからお前はダメなんだという呪いで私を締め付けているような気がする。
「それは甘えではないな。ストレス過多、情報過多なんだと私は思うな」
「――そうなんですね」
「そうだ。君はストレスに弱いだろ」
見透かされてたみたいで、嫌な感じがした。だけど、それは事実だと思うから、私はゆっくり頷いた。そして、スプーンでいちごのスライスを掬い、いちごを食べた。やっぱり、そのいちごも酸っぱい。
今の早川先生の質問は、三輪先生の共感とは、対極にある尋問のように思えた。
「――私、ストレスに弱すぎるんだと思うんです。たぶん、この時点で終わった人間です」
「やはりそうだろうと見当がついていた。君はストレスに弱いのではなく、それは君がまともな人間だからだ」
意外すぎて、咀嚼が一瞬止まった。そして、酸っぱさを飲み込み、私はそれを聞き返すことにした。
「まとも?」
「そうだ。君はまともな人間だ。この世の中は、ストレスだらけだ。だから、まともじゃない人間じゃないと生き残れないような仕組みになっている。つまり、ひとつひとつのことでクヨクヨするような人間は、自然に淘汰される仕組みになっているとも言える。私はこんな世の中、間違っていると思うんだ。違うか?」
促されても、素直に頷くことができず、そのまま、じっと早川先生のことを見つめた。
「だから、私は今、力を持って鈍感でふんぞり返る人間を淘汰しようとしている」
そう言ったあと、早川先生はスーツの胸ポケットから黒革の名刺入れを取り出した。そして、名刺入れを開き、一枚の名刺をいちごパフェの横に置いた。
「私の身分は教員じゃない」
名刺には『総務省 国家統制管理官』という肩書が書いてあった。
「こんなの私にバラしてもいいんですか?」
「君はもうこの学校を辞める人間だろ。それにこういう関係もほとんどないことはわかっている」
「この肩書を見ても、よくわからないです」
「確かに、そうだな。国家統制管理官とは、2年前に閣議決定された『SNSに関する治安維持と教育決議』によって策定された管理官のことだ。今、103名の総務省の人間が特例措置で教員免許を与えられ、全国の高校に派遣されている。私は元々、社会科の教員免許を持っているがな。つまり、身分を隠し、実地調査及び、効果測定を行っているところだ」
「文科省じゃないんですね」
「ヒエラルキーの問題だ。教育の実務と改革は違う。それに総務省が実質、この国を運営していると言っても過言ではないだろう」
「国も変わったことするんですね」
もちろん、これは皮肉のつもりだ。私の目の前に自分の素性を隠した上級国民がいるけど、実感がわかない。そもそも、早川先生――。いや、早川管理官は、正義なのか、悪なのかなんて、今の私には全くわからない。
「この国のモラルハザードは君が考えている以上に深刻な問題だということだ。本当はSNSなんて未成年に対し、禁止すればいい。ただ、この国は民主主義国だ。過度な経済活動の制限は、混乱を生むだけだ」
「それだったら、なんで、殴られた人がいるんですか? まさか、先生が一人ずつ殴ったんですか――」
「そんなことできるわけがないだろ。それは管理官の仕事ではない。それもまだ社会がなにであるかすら知らない、君が知ることではない。一つ言えるのは、正義、悪なんて表面的なもので、実は裏では連携しているということだ」
なんで、私にこんなことを、ベラベラとこの人は話すんだろう。早川先生が言う通り、もう、ただのJKの私が知ることでもない。そんなことを思いながら、スプーンで生クリームを掬い、それをまた口に含んだ。
イチゴシロップの甘さと、生クリームの甘さが、非現実を現実に戻してくれているように思えた。
「まあ、いいや。つまり、SNSの価値観化した社会の世直しをする仕事をしていると思ってくれていい。私が2週間前、この学校に赴任して、引き継ぎを受けたなかで、君のことは予測できていた。だから、この学校にある程度、話はつけてある」
そう言って、早川先生はバッグから、何かのパンフレットを取り出し、それをテーブルの上に置いた。そのパンフレットは通信制高校のパンフレットだった。
「この学校に私の大学の同期が働いててな。本来、新学期直後だと、編入はどの学校も難しいらしいが、特別に配慮してくれるとのことだ。親御さんに相談してみて、結論をだしてくれ。そうだな、学校を辞めて、転校するのであれば、来週の金曜日、13日の朝、保健室に私物取りに来てくれ」
「わかりました。あの……」
「なんだ? 不服か」
「――なんでここまでしてくれたんですか」
「このくらいの仕事なら、省庁では、常日頃している。国民の目には遅いように見える仕事も、実は想像より早く進めていて、それでも処理できない膨大な仕事量に忙殺されているだけだよ」
「――ありがとうございます」
「じゃあ、私はこれで失礼する。君はパフェを食べてなさい」
早川先生は表情を変えずに、さっと席を立ち、バッグと伝票を持ち、カウンターの方へ歩いていき「ごちそうさまでした」と言って、日に焼けて、白が黄色くなっている古そうなレジの前で会計をしていた。
私は、すっと息を吐き、左側の窓越しから、見慣れた駅前広場を見た。何人かの歩いている人が、駅の入口に吸い込まれるように入っていくのが見えた。視線をテーブルに戻し、パンフレットを手に取った。そして、今起きたことを頭のなかで整理しながら、数秒間、パンフレットを凝視した。
☆
間接照明で暖色の自分の部屋は、一番の安全基地に思えた。私は今、ベッドの上で、横になり、ぼんやりとスマホを眺めながら、いらない情報を流し見している。
共働きの両親はいつもバラバラに帰ってくる。まず先にお母さんが帰ってきたから、今日、午前中で帰ったこと、早川先生が通信の高校を紹介してくれたことを話した。そして、その2時間後のお父さんが帰ってきたから、そこで『やっぱり、学校無理でした。ごめんなさい』と伝えて、通信制高校に転校したいと伝えると、あっさりといいよって、2人は許してくれた。
『それに担任の先生がもう、話しつけてくれてるんでしょ。次の行き場所が決まっているなら、それなら安心だし、すぐに辞めてもいいと思うよ』って、お父さんがそんな感想を言っていた。
不意にザーッという音がし始めたから、私はベッドから起き上がり、窓へ向かった。そして、白いカーテンを開けると、3階の高さから見る、窓の外の住宅街は濡れていた。路地の白色LEDが雨を照らして、それがキラキラとした線になっていた。
黒くなった夜の底は瑞々しくて、数え切れない雨粒が水たまりに落ちると、そのたびに無数の飛沫が浮かれているみたいに見えた。
カーテンをさっと閉めて、再びベッドに戻り、ベッドの上に座った。そして、両足を床に残したままバタンとベッドに倒れ込んだ。
『それは甘えではないな。ストレス過多、情報過多なんだと私は思うな』
ふと、お昼に早川先生に言われた言葉が頭の中に響いた。そう言われたけど、やっぱりできるなら、普通に過ごしたかった。そもそも、早川先生が乱さなければ、悪口ばかり教室のなかに溢れなかっただろうし、もし、早川先生じゃなく、別な先生が担任だったら、私はこの3日間、余計にしんどい気持ちにならなかったと思う。
なのに、早川先生って、自分のことは置いておいて、それのことを『ストレス過多だから、甘えではない』と片付けたってことになるとも思う。
私は恵まれていると思う。
恵まれているけど、ギリギリのところで、なんとか耐えられるなら、耐えても良かった気がする。
でも、去年からずっと、そんなギリギリでなんとかやってきていたから、もう限界だったのかもしれない。
そもそも、三輪先生がいなかったら、1年生のうちにやめてしまっていたかもしれない。3月、春休みに入る前、三輪先生に『頑張ってみてもいいけど、無理しないでね』と言われた。
確かに、私は三輪先生の言葉で救われたと思う。だから、また学校に行こうと思えた。
何度か、紗耶香に相談しようと思ったけど、紗耶香は自分の話しばかりだし、できるだけ紗耶香との時間は楽しく過ごしたいと思ったから、結局、半年以上相談できなかった。
ということは、悔しいけど、たった3日で通信制高校の転校の下準備をしてくれて、実務的なことを一瞬で解決してくれた早川先生のそんな行動は、スマートで実務的なのかもって思った。
☆
画面の表示が、0:00になり、4月13日金曜日になった。
月曜日の午前中に学校から電話があり、受けると早川先生からだった。学校を辞めて、通信制の高校に編入したいことを伝えた。そしたら、明日、つまり13日の朝、1時間目の時間帯、保健室でいろんな書類と自分の私物を受け取ることになった。
結局、12日になるまで、それ以外の連絡があったのは紗耶香だけで、そのとき、紗耶香に学校辞めることを伝えたら『うすうす感づいてたよ 学校離れても、また会おうね いままでありがとう』ってメッセージを返してくれた。
うすうす感づいてたんだって、思いながらも、ありがとうって私もメッセージを送り返した。
朝になり、いつも通り、チェックの青スカートと、ブレザーの囚人服をまとった。そして、制服JKブランドの最終日を姿見に映し、別になんの思い入れもないのに、鏡に映るそんな私を自撮りしておいた。
いつものように歩いて、駅まで向かう。
一週間前の夜に降った雨なんて、もう、微塵も感じない世界は爽やかそのもので、それすら綺麗に見えて、憂鬱に見えた。朝、同じ時間に学校に向かうのは、できるだけ早く終わらせたかったからで、私にとっての地獄を早く終わらせたかった。
いつものように20分くらい歩いて、駅が見えてきた。先週、早川先生と話した喫茶店が入っている茶色い雑居ビルの前を通り過ぎる。2階の隅を見ると、ビルの窓が朝日で反射していて、眩しかった。
電車に乗り、学校の最寄り駅を降り、多くの同じブレザーを着る集団の中に入り、同じ方向へ歩いていった。
玄関で、同じクラスのギャル、加藤梨里杏と一緒になった。お互いに無言で、靴を脱ぎ、上靴に履き替えた。私はそそくさと、その場を離れようとしたとき、小さい声で、
「ずっとサボりかよ。ずるいね。私たちは早川の恐怖に耐えてるのに」って加藤梨里杏に言われた。
失敗したと思った。どうせ荷物を受け取り、引き上げるなら、もう少し遅い時間に学校に来て、受け取ればよかったと思った。
階段を登り、違う学年の教室が並ぶ廊下を抜け、保健室へむかった。
保健室のドアを開けると、暖かい空気を一気に受ける感覚がした。保健室を見渡すとまだ誰もいなかった。だから、私はいつものように、クタクタになった黒いベンチシートに座った。
ガラスのテーブルに、紙袋が置いてあって『石井さん』と書かれた付箋が貼ってあった。紙袋を手に取り、中を確認すると、一通り、私の荷物が入っていた。だけど、始業式初日に、持ってきていた使っていないジャージが入ったトートバッグがないことに気がついた。
紙袋を一旦、テーブルに戻して、バッグからスマホを取り出した。そして、フォトから時間割の画像を確認した。金曜日は、現代文、古典、数学Ⅱ、生物基礎、世界史A、LHRだった。
スマホをバッグに戻し、すっと息を吐いた。
本当はあんな空間、もう二度と入りたくもない。だけど、今、入らないと、本格的にタイミングがなくなってしまう。
これで最後だから、最後だから、最後だから。
ずっと教室授業なら、今のうちに行ったほうがいいじゃんって、思い、保健室の時計をみると、ホームルームまであと10分くらいあるから、私はさっと教室に行って、トートバッグだけ取りに行くことにした。
後ろのドアから、教室に入ると、いつもの嫌な感じが広がっていた。みんなそれぞれ、自分のグループに固まって、いろんなことを話している感じだった。
「あの動画、ヤバいね」
「え、観てないんだけど。動画ってなに?」
「早川の動画、横山が入院した次の日のっぽい」
「あれ、画角的に一宮か、なんだっけ、学校に来てないあいつ」
「石井乙葉?」
「そうそう、それか、江川っぽいよね」
「てかさ、江川もやられたらしいよ」
「マジで、じゃあ、犯人江川じゃん。鬼バズリしてるから、ヤバいよね。だけど、昨日の夜中の投稿みたいだから、まだ、学校特定とかされてないっぽいけど」
「やるなら、もっと早い時間にやってくれたらよかったのにね」
「てか、江川やられたってマジ?」
「ガチっぽいよ。だから一宮、朝から黙って、殺気立ってるんだ」
「これで被害者6人目でしょ」
「彩乃なんか、PTSDなんじゃないかって、言われたらしいよ。だから、当分、学校休むって」
「え、松本って、そんなに重症なんだ。ヤバいじゃん」
「マジ、終わってるわ。てか、調べてるんでしょ」
「全然、足つかない。早川のこと、一昨日、尾行したけど、全然手がかりなし」
「じゃあ、どうやって、江川がやられたんだよ」
「え、やっぱり、偶然?」
「遥香、さすがに偶然ではないでしょ。絶対、あいつが雇ってるんだよ」
「退院した横山の話だと、ヤクザっぽかったって言ってたよ」
「じゃあ、あいつもヤクザなの?」
「ヤクザが教師できるわけないだろ」
みんなそんな話ばかりしているからか、私が教室に入ったことに気がついていないみたいだった。私はさっさと、自分のコート掛けに向かい、トートバッグを手にした。そして、そのまま教室を出ようとしたら、目の前に加藤梨里杏と、高見芽郁が私の前に立ちはだかった。
「おはよう。どこ行くの? 保健室?」
二人はわかってるんだよと言いたげに、ニヤニヤとした表情を浮かべていた。
「もう辞めるの」
「なに? 退学するんだ。ニート気質だし、お似合いじゃない? あんた、一年のときから、保健室でサボってるって有名だったもんね。私たちより甘ったれじゃん」と高見芽郁がそう言って、また笑った。
「てっきり、甘ったれだから、襲われてたのかと思ってた」
「梨里杏、ウケるんだけど」
「だって、そう思うじゃん。森岡は早川にケンカ吹っかけた次の日、リンチに遭って、肋骨折ったしさ。てか、あんたよりずっと、甘ったれてない森岡とか、横山とか、彩乃とかが殴られて、あんたが殴られない理由ってなに?」
加藤梨里杏が話している途中で、なぜかチャイムが鳴って、私は驚いて、教室の時計を見た。すると、保健室では10分あったはずの時間が、なぜか始業の時間を示してた。
――もしかして、保健室の時計、遅れてたのかな。
チャイムと同時に皆がバタバタとし始め、それぞれの席へむかった。そして、前のドアが強くガラガラと開く音がして、早川先生が入ってきた。
私はこのまま、教室を出ようとした。だけど、加藤梨里杏に右手首をがっちり掴まれた。
「逃がすわけないじゃん。このクズ」
加藤梨里杏が私に聞こえるくらいの小声でそう言った。
「ふふ、可哀想」と言って、高見芽郁は自分の席の方へ歩き始めながら、笑った。
「せんせーい! 今日、お友達が帰ってきましたー!」と大声で加藤梨里杏が言って、私の右手を掴んだまま、手を上げた。だから、結局、私の右手も無理やり上がる格好になった。
そして、クラスにいるほぼ全員が、私と加藤梨里杏をギョロッと見始めた。
「欠席者が多くて、心配してたので、嬉しいでーす」と続けて、加藤梨里杏はそう言うと、1軍男子の何人かが、おー! とか、おかえりー! とか言って、場違いに無理やり盛り上げていた。そして、そのあとすぐ、教室は一気にざわざわとし始めた。
「加藤は今日も甘ったれているな。まずは石井の手を離せ」
一週間ぶりに聞いた早川先生の声は相変わらず、冷たく、低い声だった。
「へえ、動画、鬼バズリしてるのに、まだそんなこと言えるんだ」
「やめなよ、梨里杏。先生の言うこと聞いたほうがいいって」
まるで私を助けるかのように、クラスの中心人物の榊原彩音が、加藤梨里杏を諭すようにそう言ったから、クラスの半分くらいの視線は自然と、榊原彩音の方に向いた。
「こうやって吊し上げるの、私、ガチで嫌い。てか、そんなの楽しくないから」
「なんだ、彩音もギャルだから、こういうの好きだと思ってたのに。意外に芯がしっかりしちゃって、いい子ぶるタイプなんだ。つまんないの」
そう言ったあとも、加藤梨里杏は私の手を掴んだまま離してくれなかった。
「加藤は自分の席に戻れ、石井は教室を出ろ」
「えー、友達と離れるのつらいなぁ。それに石井ちゃんも参加したがってまーす」
加藤梨里杏に私は引っ張られる形で、私は自分の席の方へ連れて行かれた。そして、加藤梨里杏が椅子を引いた。
「さ、座って。座るまで離さないから」
左の瞼がまたピクピクとし始めた。あー、もう、これは私の小さなストレスタンクの許容を超えてるんだって思った。私が何もしない間に、また教室がザワザワとし始めた。視線を感じ、右側を見ると、一宮が私のことをじっと見つめていた。そして、なぜか笑みを浮かべた。
「おかえりー! 石井ちゃん来たんだ!」
「え、なに? ウケるんだけど。一宮、急にテンション上がる感じ?」
「バイブスやばいわ。今週一、テンション上がるわ」と一宮がおどけたようにそう言うと、教室は急に笑いに包まれた。
「ワタのポイントわかんねー」
「メンヘラ好きとか、マジやべぇって」
「ふーふー! このまま告っちゃえよー!」
「いやー、マジ、テンション上がるわ。石井ちゃん、マジ最高。どうせ、江川いないし、こっち座っちゃいなよ」
私が小刻みに首を振ると、教室はまた笑いに包まれた。
「秒で振られてるんじゃん」
「ボールだけ蹴ってろー」
「マジ、キモなんだけど」
「うるせーな。俺の青春、邪魔すんな」
そんな一宮と元クラスメイトの戯れを無視して、結局、私はその場を収めるために自分の席に座った。
「あと、先生に鬼バズしてる動画、観せたいと思いまーす」
「梨里杏、暴走しすぎなんだけど」
「彩音、さっきから、ゴタゴタうるさいんだよ。私は私の手で青春を取り戻してるだけだよ」
加藤梨里杏は私の手を離したあと、教壇の前に行った。そして、ブレザーのポケットから半分くらい出ていたスマホを取り出し、スマホを操作した。
「――どんな動画だ」
「うちらが先生にいじめられている動画、鬼バズしてて、投稿から、たった8時間で20万回も再生されてるの知らないんですかー?」
そのあとすぐ、大音量で動画の音声が教室に響き渡った。
『早川先生、横山って入院したんですか』
『高見の言う通りだ。横山は昨日、何者かに傷害を与えられ、入院した』
『え、それって。先生が関与してるってことですよね?』
『どこにそんな証拠があるんだ?』
『――やっぱり、先生が指示したんだ』
『無力ですね。昨日まであんなに、私のことをバカにしていたのに、あなた達は、本当に無力だ』
『普通に警察に言いますよ』
『だから、証拠がないんだって。いつ、どこでどうやって指示した? そこまで証拠が揃わないと警察は動かない』
『それは警察が調べてくれるんじゃないですか』
『おめでたい頭だね。なら、言ってみたらいい。受理はしてくれるだろう。動かないだろうけど』
『どうしてそんなことがわかるんですか!』
『これ以上、言うと、高見さんも同じことにあうよ。あと、松本彩乃(まつもとあやの)。わかってるな。わかってたら、それを持って来い』
『今、撮ってた動画を消しなさい。ホームルーム中だ』
「先生、今、日本中から叩かれています。どんな気分ですか?」
加藤梨里杏の声は得意げで、弾んでいるように聞こえた。
「そうか。ここまでやれるバカだとは思ってもみなかったな。コメントは何件来ている?」
「へえ、気になるんだ。589だって。20万人に叩かれるんだよ。早川先生は。ということで、たくさんのコメント読み上げまーす。『こういう高圧的な教師は◯ね』『ゴミすぎ』『この人、なんで警察のことまでわかるの?』『てか、状況がいまいち掴めんからわからん』『入院と何が関係あるのこと?』『先生が加害したって疑われてるってことか それだったら可哀想じゃん』『あー、なるほど 切り取りってこと? 動画の意図がわからない。だけど、高圧的な教師はさっさとやめろ』『こいつ以外に隠し撮りしてるやついて草』って、あれ……」
加藤梨里杏は急に焦り始めたように見えた。気がつくと、クラス中がザワザワとし始めていて、みんなスマホを操作していた。
「てか、うちらのほうがやばくない……?」と高見芽郁が震えるような声で、そう言った。
「え、どうして? だって、批判だって早川の方が多い気もするけど……」
続けて、山崎遥香がそう言ったけど、みんなはなにかに気がついているようだ。
「『先生が指示したって推論で話してるよね』『てか、冤罪を擦り付けようとしてるんじゃ』『え、やば。この制服、めっちゃ近所じゃん』『教師いじめじゃん』とか書いてるんだけど。なんで、どうしてこうなってるんだ……」
奈良原の声は完全に怯えきっているように感じた。先週、早川先生に意気揚々と『ね』ばっかりつけて、質問していたあの感じは微塵もなかった。
結局、みんなが期待したことなんて、世の中起こらないんだって思った。そして、知らず知らずのうちに、バカ高校生が官僚相手にしてるとも知らずに。
もしかしたら、コメント操作とかも、早川先生が喫茶店で言っていた『正義、悪なんて表面的なもので、実は裏では連携している』ということをしているのかもと、ふと私は思った。
「どうした? さっきまでの威勢は」
元クラスメイトが怯えきっている沈黙を鋭く切り裂くように、早川先生は冷たい声でそう言った。
「動画は、2日目に一宮が撮っていたんだろう。足の組み方がおかしかったから、そうだと思ったよ。これは私の推測だが、靴にスポーツとかで使う小型カメラ仕込んでいたんだろ。バレバレだったぞ。上靴の上部が不自然に四角かったからな」
「――バレてたら、なんで俺は制裁されなかったんだよ」
一宮は静かにそう早川先生に返した。
「やり方が巧妙だったし、確信が持てなかったからだ。もし、それを指摘して間違いだったらどうする? それこそ冤罪だ。それも靴に細工されていて、カメラがあるだろって騒いで、それがなかったらそのあとどうする? そうしたリスクの観点から、私は指摘できなかった」
「じゃあ、松本はどうして確信が持てたんだよ」
「だって、教壇からだと、明らかに見える位置で隠し撮り風なことをしていた。しかし、私からはスマホが見えていたから、隠し撮りではなかったけどな」
一宮はそのあとの言葉が見つからなかったのか、そのまま黙ってしまった。そして、数秒してから、早川先生は話を続けた。
「お前らは正義が勝つとでも信じているのか。そうだとしたら、本当に愚かで甘ったれているな。愚痴を言えば世界が変わるし、不正を暴けば、正義が必ず勝つと思っているんだろ。その癖に、他人の不幸や失敗は大喜びして、バカにする。今の国民はシャーデンフロイデに溺れている」
「……は? シャーデンフロイデとか、意味わからないし」
加藤梨里杏は口ではそう言っているけど、声色は怯えきっているように思えた。
「他人の欠点を指摘し、引きずり下ろしたり、実際に引きずり下ろすと、ざまあみろと、人間は快感を覚えるそうだ。つまり他人の不幸は蜜の味ってやつだ。快感を得るために正義、正論を振りかざし、それがルールだと執拗に迫る。そして、ルールに従わない者は徹底的に叩かれ、そして笑われる。このクラスは社会の縮図みたいだな。ものすごく惨めだ」
「は? うるせぇんだよ! さっきから。あんたのほうが、初日から『甘ったれは嫌いだ』とか言って、きついルール作って、モラハラしてるでしょ! しかも、影で他人使って、襲ってくるとか、やってることマジで最低なんだけど」
「毎日言っているが、その証拠はあるのか?」
「……ないけど、絶対、あんたでしょ」
「根拠がない癖に、相変わらず騒いでいるのか。本当に君たちは愚かだ。この一年、無事に過ごせることを願っているよ」
そう言っている途中で、朝のホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「石井、一緒についてこい」
私は頷いたあと、立ち上がり、教室を出ていく早川先生のあとに続いて、ジャージが入ったトートバッグを持ち、教室を出た。
「先生、待ってください」
私は思わず、早川先生に声をかけながら、廊下をスタスタと歩く早川先生に駆け寄った。
「なんだ? 不服か」
「違います。――力を正しく使うって、こういうことなんだって思いました」
「どういうことだ?」
「クラスの人達は、外側の力を借りようとしました。だけど、それが上手くいかなそうです。でも、早川先生は、内側の力で問題に対処しているってことですよね?」
「私からは、なにも言えない。善を貫くには、悪が必要であると私は認識しているだけだ。ただ、君に一つ言えるとしたら、表面の力だけで問題を解決しようとしないことだ」
「表面の力――」
「そうだ。つまり、自分で問題を認識させ、自分で考えさせるのが教育だ」
そう言われて、私はもう少し学校にいたら、この一年もしかしたら、面白いのかなって思った。だけど、もう、私はこんな腐った世界に身を置かないって決めたんだった。
だから、私もメンタルが弱くても、甘さに負けないように適切な力をつけよう。
そう決めた高校2年生の春のことを私は一生忘れない。



