翌日も正孝は準備室に通った。無事お菓子も渡すことができた。

「ありがとう。ところで、昨日準備室に戻ってきたかな?」
「ああ、はい。でも、先生がいないからすぐ帰りました」
「そうかい」

 毎日の居残り授業にも慣れ、スラスラ問題を解いていく。しかし、正解率はまだ上がってはいない。さすがに数日では無理らしい。

「熱意は買おう」
「ありがとうございます!」

 元気よく礼を言うと、多田野が額に手のひらを当てた。

「とりあえず、採点している間にこれを」
「はい」

 数学の問題集を渡される。高校一年生の応用問題と書かれていた。必死に解いていたら、机に置かれていた多田野のスマートフォンが鳴った。明るくなった画面には、女性の手と男性の手の写真が写されていた。多田野が少しずれていた眼鏡をくい、と戻しながらスマートフォンを手に取った。

「見た?」
「見てないです」
「そう」

──奥さんとの写真かな。仲良いんだ。

 ロマンチックなことをしない印象だったので少々意外だった。しかし、結婚しているのなら、相手からお願いされて写したとも考えられる。

「そうだ。来週からゴールデンウィークだろう。それが明けたら中間テストの問題を作るから、しばらく勉強は見られないよ」
「そこをなんとか!」
「いや、無理だ」

 正孝は机に額を付けて懇願したが、願いを聞き入れられることはなかった。奥の手を出す。

「僕、先生の秘密知ってるんですからね」
「脅す気かい」
「そこまでじゃないです。でも、なるべく見てほしいなって」

 脅しという言葉を聞いて、正孝はひるんでしまった。本気で脅す気なぞない。ただ、勉強を見てほしかっただけだ。しかし、多田野が脅されていると感じたのなら無理を言ってこれからの特別授業が消滅したら元も子もない。

「すみませんでした。そしたら、テスト期間中の課題出してください。絶対ビリになりたくないんです。せめて下から十番目くらいにはなりたい」

「低い目標だねぇ」

 地を這う笑いが準備室に響く。彼の声はとても低いので雰囲気がある。きっかけはどうあれ、こうして手伝ってくれている彼に悪い結果は見せられない。

 出来ないと言いつつも英語を含む教科の宿題を出してもらった正孝は意気揚々と帰路に就いた。

「おかえり」
「ただいま」

 母が出迎えてくれたが、少々浮かない顔をしている。正孝は尋ねた。

「何かあったの?」

 母が頬に手を添えながら答えた。

「いやね、さっきテレビで殺人事件が起きたって言っていて。市内だから怖いなって。ほら、最近部活やってないのに正孝遅いじゃない」
「市内って言ってもこの近所ではないんでしょ?」
「近所ではないけど、ほんと気を付けてね」
「うん」

 手を洗って自室に向かう。殺人事件は怖いことであるが、日本全国で毎日どこかしらで起きていることを心配していたら、外を一歩も歩けなくなる。

「さて、今日はもう勉強おしまいにしてゲームしよ。ゴールデンウィーク中も頑張ってどうにかみんなに置いていかれないようにするぞ」

 部屋着に着替えてベッドに寝転がる。母の言う通り、最近はずっと勉強ばかりでゲームからも遠のいていた。受験が終わって入学式まではひたすらやり続けていたので懐かしい重みだ。

「ほぼ三週間やってないからな。腕なまってそう」
「ご飯だよ~」
「あ、はい」

 やろうというところでリビングから声がかかり、夕食をかきこんで今度こそゲームを始めた。あっという間に時間は過ぎ、ゆっくり風呂に浸かり眠りにつく。

「今日も充実した一日だった。明日は図書館行ってみようかな。勉強に集中していれば、静かな空間も気にならないでしょ」