「だから、英語はできない」

 翌日、英語の教科書を持参したらあっさり断られた。仕方なく数学を出す。

「数学か。一年のレベルならギリギリ教えられるかな」
「ちえ、英語も教えてください。主要教科全部ってお願いしたじゃないですか」
「英語はすっかり忘れてしまった。今は中学レベルくらいかと」

「それでも僕よりは絶対出来るんでお願いします」
「君ねぇ……」

 呆れられてしまったが仕方がない。本当に全教科平均なのだ。いっそ英語は平均以下である。受験の勉強分はだいぶ彼方に置いてきてしまった。

 黙々と教える多田野の顔を見遣る。この耳で聞いても、とても噂通りの人間には見えない。果たしてどこまで本当なのか。

「先生の家って学校から近いんですね」
「え?」

 しまったと口を押さえるが、多田野にしっかり伝わっている。こうなったら聞いた方がすっきりする。

「友だちが女の人とかと歩いているの見たって言ってたんで、家が近いんだなぁと」
「ああ、家族だよ」
「そうなんですね」

──ほらやっぱり、家族じゃん。不安になって損した。にしても、家族っているんだな、一人暮らしっぽいのに。

 独特の趣味を持っているのでてっきり一人暮らしと思っていたが、そうではないらしい。家族は趣味のことを知っているのだろうか。男の子と歩いていたこともあると言っていたので子どももいるのかもしれない。

「お子さんはおいくつですか?」
「いや、子どもはいないよ」
「そうですか」

 会話はそこで途切れ、授業の話題に戻った。数学は多田野の専門ではないため教科書に沿った基本問題をやっていったので、どうにかこうにか解くことができた。偏差値五十台の高校であればこれで問題はない。問題なのは、ここが進学校であるということだ。

「うん、定期テストでは応用問題もどんどん出てくるから、ページごとの端に書かれている応用問題を明日までに解いてみて。分からなかったら明日やろう」

「はい……」

 毎日こちらから押しかけている身ではあるが、すでに学校の授業を終わらせた状態なので、そこからの一時間半はかなり体に響く。疲れ果てたサラリーマンのような状態で正孝はお辞儀をして準備室を出た。

「うう、毎日やっても追いつける気がしない。みんなはどうやって勉強しているんだろう」

 とぼとぼ昇降口を目指していたところではたと気が付いた。正孝が鞄の中をあさる。

「そうだ、勉強見てくれるお礼にお菓子買ってたんだ。まだ先生いるかな」

 来た道を引き返し、準備室のドアを叩く。中から返答はない。試しにドアを引くと、鍵はかかっていなかった。

「失礼しまぁす」

 静まり返った薄暗い室内に入る。他人の部屋に侵入しているようで気まずい。また明日会うのだからと引き返そうとしたら、テーブルに小瓶があるのを見つけた。先ほどは無かったものだ。

「なんだろう……ひぃッ」

 中を覗くと、無数の爪が入っていた。恐怖で体が震えあがる。

「なにこれ、爪だよね……いや、ネイルチップか」

 本物の爪かと思い焦ったが、彼の趣味をよくよく思い返してみればネイルチップだと理解する。正孝はほっと胸を撫で下ろした。

「すごいなぁ。本物にしか見えない。ネイルも綺麗だ」

 どのチップにもネイルが塗られていて、興味のない正孝も思わず見つめてしまう。その時、下校時刻のチャイムが鳴った。

「いっけない。お菓子は明日でいいや」

 今日渡したかったが、勝手に準備室に入ったことを咎められるかもしれない。正孝は何もせず退室し、校門を目指した。