正孝のお願いに多田野が目を丸くさせる。そして、落ち着いた様子で言った。

「君に教えるというのは、理科でいいかな? それなら、分からないところがあったら、放課後聞きに来てくれればいつでも教えるけれど」

 多田野の担当は理科、とくに物理である。正孝は小さく首を振った。

「理科だけじゃなくて、できれば主要教科全部お願いしたいです」
「全部……!?」

 正孝の言葉に多田野がくらりとよろめいた。高校は専門教科で分かれているのを正孝だって知っている。専門以外の教科を進学校レベルで教えるのは教師といえども難しいはず。しかし、正孝にはもうこれしか思いつかないのだ。

「受験に向けてかな? まだ入学したばかりなのだから、そこまで真剣に行わなくても」
「いえ、かなり切実なんです。実は──」

 多田野の秘密を知ったのだから、こちらも教えたところで言いふらしたりはしないだろう。正孝はここに受かった理由を説明した。多田野は額に手のひらを当てて俯いた。

「そうか。では、君の言うことは本当ならば、ここには完全な運で合格し、実際の偏差値五十二ということだね」
「そうです。だから、このまま行くと留年まっしぐらで……しかも、友人は学年一位と二位とか地獄の環境だし」
「ああ、あの二人か。たしかに仲が良さそうだ」

 正孝が半笑いで頷く。

「何故だから仲良くしてくれて。釣り合わないのは分かってるんですけど」

「友人というものは釣り合うかどうかではなく、気が合うかどうかで付き合っているんだろう。損得勘定が生まれたらもうそれは友情ではない」

「先生……ッ」

 目の前にいるのは女性の恰好をするのが趣味なスコップを持ち歩く怪しい教師なはずなのに、まるで尊敬すべき存在に思えてきた。正孝は流されやすい性格なのである。

「なんで、とりあえず、勉強を教えてください」
「う~ん……まあ、まずは物理からで……」

 どうやら、多田野も多田野で押しに弱い性格らしい。こうして、正孝は半ば強引に味方を見つけることに成功した。



 さっそく、翌日の放課後、正孝は多田野の元に向かった。彼はもっぱら理科準備室にいるらしい。なんでも職員室にいると息が詰まるとか。多田野が他の教師と会話しているところをほとんど見たことがないので、コミュニケーションが重要な教師という職に何故就いたのか疑問が残る。しかし、そんなこと今の正孝には関係無い。

「たのもーう」

 準備室のドアを叩いてみれば、すぐに暗い顔をした多田野が開けてくれた。

「南君、本当に来たんだ」
「だって、勉強見てくれるって言ったじゃないですか」

 小さい息を吐いた多田野が顔を動かして中に入るよう促す。ドアが閉められると、中はコーヒーの匂いで充満していた。

「うわぁ、体に悪そう」
「よくもまあ、私と二人きりになろうと思うね」
「何故ですか?」
「何故って……」

 それ以上多田野は何か言うことなく、物理の居残り授業が始まった。この高校に居残り授業は存在しない。そんなことをしなくても皆自主的に勉強するからだ。正孝も自主的なものであるが、こうして他者の力を借りなければならない境地に陥っているので同級生たちとは意味合いが違う。

 ちらりと多田野を見遣る。目が合い、慌てて教科書に顔を戻した。

──女性の服やバッグが趣味ってことは、やっぱり身に着けるってことだよね。想像つかないな。

 教師は忙しいと聞くので、休日を趣味に費やしているのだろうか。正孝にとってどこまでいっても教師は教師でしかないので、教師ではない時間の姿は想像できなかった。

「先生ってメイクとかするんですか?」
「そういうのはノーコメントで」
「分かりました」

 プライベートなことを知っただけで距離を詰めすぎたと反省する。誰にだって秘密はある。それがたまたま一生徒に知られただけ。だからといって全部説明しなければならない義務は無い。

──反省反省。

 正孝はおとなしく、与えられた課題を黙々とこなした。

 そして三十分後、多田野はさらに暗い顔をして正孝を見つめていた。

「聞いてはいたが、これほどとは……定期テストがまだ先でよかった」
「面目ありません」

 多田野がチェックしたところ、最初の基本問題こそ合ってはいたものの、他はほぼ間違っていた。試しで行ったテストは二十五点、完全な赤点である。

「私の授業、聞いてる?」
「聞いてます」
「そうか、なら仕方がない。基礎から始めるよ」
「よろしくお願いします!」

 やる気だけはある。しかし、やる気だけしかない。一時間みっちり教えてもらったが、荷物を鞄に詰めているあたりですでにポロポロと覚えたものが抜け落ちていった。正孝は己に恐怖した。

「有難う御座います。明日もお願いします」
「毎日来るのかい?」
「できれば」
「…………私が空いている時だけだよ」

 沈黙の後、薄暗い顔で多田野が答えた。正孝は元気よく返事をして理科準備室を後にした。

「勉強初日、だいぶ先生とも打ち解けられた気がする」

 前向きな正孝は意気揚々と廊下を歩く。そこに世野倉が通った。

「南だ。珍しいな、こんな時間に」
「世野倉」

 部活がちょうど終わったところらしい。世野倉はサッカー部に所属している。そう、部活をしているのだ。学年一位なのに。部活をしているのに一位をキープできているのだ。これだけ必死に勉強してもビリを行く自分と違い、天は二物を与えすぎていると思う。ちなみにイケメンでもある。性格まで良いので、憎むこともできない。世野倉が小声で問いかけてくる。

「今、理科準備室から出てこなかったか? もしかして、多田野先生に用事とか?」
「うん、そんなとこ」

 ここで多田野の秘密と引き換えに特別授業を行ってもらっているとはとても言えず、適当に返事をしておく。世野倉の顔色が変わった。

「多田野先生って変わってるらしいからさ、気を付けなよ」
「え? うん。分かった」

 変わっているのは知っている、十分に。しかし、それを知らない世野倉まで多田野を悪く言うとは思ってもみなかった。

「噂があるとか?」
「噂もあるけど、噂だけで人を判断するのはよくないだろ。というか、見たんだよ、俺」
「な、何を……?」

 正孝の喉が鳴る。まさか、世野倉も同じものを見たのではないか。世野倉が神妙な面持ちで答えた。

「女の人といるところ」
「え、女の人? 別によくない?」

 なんてことはない答えに肩の力が抜ける。しかし、世野倉が首を振って続けた。

「ううん、一人じゃない。他の人といる時もあったし、男の子と歩いている時もあった。俺の家、先生の家から近いみたいでたまに見かけるんだ」
「へ、へえ……」

 たしかに、一人だけなら恋人だろうと何も思わない。それが複数、さらには男の子まで。いったいどのような関係の相手なのかさっぱり分からず、正孝も初日の不安が蘇ってきた。

「でも、家族ってこともあるじゃん。親戚とか」
「まあ、そうだけどさ。夜な夜なおかしな実験をしているとか誰もいなくなった校内を徘徊しているとか変な噂もあるから」
「そんな噂あるの!? 知らなかった」
「だからさ、ほどほどにしておいた方がいいよ」

 忠告してくれる世野倉にこくこくと頷いておいた。

 これは参った。女装趣味だと思っていたが、他にも秘密があったりするのかもしれない。ただ、変な趣味を持っていたとしても、もう正孝には多田野にすがる道しか残されていないのも事実。

──塾は土曜日行ってるけど、それだけじゃ全然足りないし。

 授業で分からないことを聞く程度ならば、他の教師でも対応してくれる。しかし、それが毎日、しかも全教科ともなると話は別だ。しかも、この行為を目の前の世野倉を始め同級生たちに知られるわけにはいかない。つまり、多田野との関係を断ち切ることはすでに不可能ということだ。

 頷いた手前気まずい気持ちを残しながら世野倉と校門で別れた。彼は自転車通学で、駅二つ分のところに住んでいると言っていた。そこへ行けば、教師ではない多田野をまた見られるだろうか。正孝は首を振る。

「いやいや、せっかく多田野先生に教えてもらえて、秘密もたいしたことなかったんだ。これ以上近づく必要は無い」

 自分に言い聞かせ、電車に乗り帰宅する。自宅で出迎えた母は二日連続遅くなったことを心配していたが、勉強と伝えれば笑顔で励ましの言葉をくれた。彼らは一人息子の正孝をとても可愛がっている。がっかりさせないためにも、明日からも頑張ろうと決意した。