南正孝は絶望を背負って私立雨宮咲高等学校の門をくぐった。
「あああ、僕以外の全てが僕を蔑んでくる声が聞こえる気がする……」
ここ雨宮咲高校は偏差値六十五を記録する難関私立校である。ちなみに、正孝の偏差値は五十二だ。
そう、彼の偏差値は五十二、平均をぎりぎり超える位置。それが何故難関校に入学できたのか、それは入学試験が全教科マークシート方式だったからである。
二か月前の冬、正孝は無難な公立高校を受験することにした。試験とともに内申点が行くため、試験さえ受ければ受かる高校。そうなると私立を受ける程でもなく、どうせならとあり得ない高校を受験することにした。自身の偏差値より十三も上、担任教師は「記念受験か、まあ個人の自由だからな」と適当に流してくれた。
そうしてほとんど分からず勘に勘を重ねてマークした結果、無事合格してしまったのだ。大成功で大失敗だった。
受験期勉強を人並みにはしたにもかかわらず五十二だった人間が、六十五の群衆に混ざってどうにかなるはずがない。だから、入学を止めるべきだった。しかし、正孝は入学した。両親は両手を挙げて泣いて喜んだからだ。
『正孝が雨宮咲に合格するなんて! とっても勉強したのね、えらい! 今日はパーティーよ!』
『頑張ったな、合格祝いにお小遣いをあげよう』
まさかまぐれだとは言えず、しっかりお小遣いをもらい、パーティーもしてもらった。結果、あれよあれよという間に入学手続きは終了していた。正孝は己の浅はかさに絶望した。
いくら目の前の利益に目がくらんだとしても、自分の身の丈に合わない場所に飛び込もうとは。
しかし、逆に考えれば己を変えることができる良い機会かもしれない。今までは勉強の仕方が悪かったが、周りの優秀な生徒たちに感化されて自身の成長に繋がり、幻の偏差値を本当にすることができる可能性は十分にある。今まさに立ち上がる時だ。
「そう思っていた時もありました」
入学して二週間、正孝は早々に未来を手放そうとしていた。周りの優秀さがはるかに想像を超えていたのだ。まず、朝のクラスメイト同士の会話からよく分からない。難しいタイトルの本を読んでいる。すでに大学の進路の話をしている。もしかして異空間に放り出されたのだろうか。正孝は狼に囲まれた羊の如く震えた。
「おはよう、南」
「おはよう」
だが、持ち前の明るさにより相手のテンションに合わせて挨拶や上辺だけの相槌を打っていたら、何故か友人は出来た。しかも学年一位、二位の。正孝は断崖絶壁の崖に自らを立たせてしまった。
友人になるにしても、どうして上位中の上位にしてしまったのか。まさに天と地。世界中の全てを惜しみなく照らす太陽と地面をひたすら汚す泥。正孝は地面にめり込んでマントルで溶けて無くなりたくなった。
正孝に挨拶をしてくれたのが学年一位の男、世野倉海斗だ。ちなみに二位の西園明は世野倉の近くにある自分の席で本を読んでいる。西園は本の虫で、毎日一冊読まないと気が済まないらしい。夜まで読めない日は手が震えると言っていたので、何か病気的なものではないかと心の中で心配している。ちなみに正孝は読書を小学生以来していない。
このまま行くと学年ビリどころか留年の危機である。そして同時に友人も失うだろう。勢いで友人関係になったわけだが、彼らを失望させたくないくらいにはこちらも友人だと思っている。
「勉強……するか」
気乗りはしない、全く。しかし、入学したのだから同級生たちと卒業したい。定期テストは上位三十位までしか順位を貼りだされないと聞いているので、赤点を取らないよう努力すれば彼らも友人でいてくれるだろう。多分。赤点を取るとテスト返却で名指しされてしまうので、どうにかして回避したい。
正孝は放課後、高校から離れたファストフード店で勉強することにした。図書館では静けさに己が耐えきれず、高校から近い店だと同級生にバレてしまう。苦肉の策である。
「これだけ離れてれば、さすがに大丈夫でしょ」
一番安いハンバーガーと飲み物を購入し、奥の席に座る。栄えた駅ではないからか、店内はさほど混んでいなかった。家には十九時に帰ると言っているので、一時間半は勉強できる。
「さて」
飲み物を一口飲んでから意気揚々と教科書を開く。まずは今日やったところの復習だ。正孝の手はすぐに止まった。手にはしっとりと汗が滲む。
「……全ッ然分からん」
おかしい。今日やったところなのだから一番記憶に新しいところだというのに、全く記憶に無い。どこかで頭でもぶつけて記憶を落としてきたのだろうか。いや、違う。難しさのあまり授業中に意識を飛ばしてしまったのだ。正孝は焦った。
「これ、一人じゃ限界ある」
いくら勉強の機会を設けようとも、導く人がいなければ先には進めないらしい。己の情けなさにうなだれた。開始十分で飽き、仕方なく残しておいたハンバーガーをもそもそ食べる。そこへふと、窓の外をスコップの刺さったリュックを背負った男が通りかかった。
「多田野先生?」
思わず正孝は立ち上がった。多田野は正孝の担任教師。学校から離れたこんなところにいるとは不思議だ。しかも、あんな怪しい荷物を背負って。
何故だか関わってはいけない気がする。でも、ここで無視したらずっと気になるだろう。それならば後を追うのみ。正孝は急ぎ足でお盆を片づけて店を出た。
それから数分、正孝はそろそろと多田野の後をついて歩き続けた。多田野は気が付かない。いつも通りの猫背な背中が哀愁を漂わせている。
──先生ってまだ三十そこそこだよね。意外と若い。いや、意外って失礼だ、ごめんなさい先生。十分若く見えます。
ところで、多田野はどこへ向かっているのだろうか。荷物を見る限り買い物ではなさそうだ。スコップ持参で買い物は店員さんさすがに困惑する。そんなことを考えていたら、林が見えてきた。
──へえ、住宅街抜けたらこんなところあったんだ。自然公園かなぁ、それにしても木が多すぎて先生見失っちゃいそう。
林の前には膝下程度の柵があったが、多田野は当たり前のように跨いで入ったので正孝もそれに倣った。教師がしていいことは生徒もしていいだろうという適当な考えである。
──あ、リュック下した。何するんだろう、ピクニック? もう陽も暮れそうな林の中で一人? スコップ片手に?
そう思ったところで、正孝はここに来たことを後悔した。人気のない林で大きな荷物とスコップ。犯罪的な匂いしかしない。正孝は首を振る。まさか、生徒のお手本となる教師が危ないことをするはずがない。しかし、正孝の祈りは天に届かなかった。
多田野はリュックから黒いビニール袋を取り出して地面に置き、その横をスコップで掘り出した。正孝の心拍数は百五十を記録した。
すぐさま後ろを向き、一歩足を前に出す。その時、運悪く、足元の小枝を踏んで折ってしまった。静かな林に音が響く。正孝にはそれが地獄の扉が開く音に聞こえた。今日は厄日に違いない。
恐る恐る振り向くと、多田野がこちらを振り向いていた。ばっちり目も合った。正孝は走馬灯が存在するものだとたった今知った。
「……南君、だね」
「…………ひゃい」
低い低い、地を這うような重低音が耳に届く。正孝は情けない声で返事をした。きっと自分に明日は来ない、正孝は心の中で涙した。
多田野がスコップを地面に刺し、右手を挙げる。思わず両腕で顔を隠した。しかし、それはこちらへ向かってくることなく、彼の後頭部に収まった。
「いやぁ、こんなところを見られてお恥ずかしい」
頭を掻く彼に、正孝が混乱の極みで倒れそうだった。彼が照れた笑顔なところもこのような状況で出てくる感想が「お恥ずかしい」なところも恐怖でしかない。
「あの、その、さようならッ」
うまく動かない足を必死に上げようとしたところで、背中にポンと優しく手を置かれた。
「南君、ちょっと時間あるかな」
「あああ、僕以外の全てが僕を蔑んでくる声が聞こえる気がする……」
ここ雨宮咲高校は偏差値六十五を記録する難関私立校である。ちなみに、正孝の偏差値は五十二だ。
そう、彼の偏差値は五十二、平均をぎりぎり超える位置。それが何故難関校に入学できたのか、それは入学試験が全教科マークシート方式だったからである。
二か月前の冬、正孝は無難な公立高校を受験することにした。試験とともに内申点が行くため、試験さえ受ければ受かる高校。そうなると私立を受ける程でもなく、どうせならとあり得ない高校を受験することにした。自身の偏差値より十三も上、担任教師は「記念受験か、まあ個人の自由だからな」と適当に流してくれた。
そうしてほとんど分からず勘に勘を重ねてマークした結果、無事合格してしまったのだ。大成功で大失敗だった。
受験期勉強を人並みにはしたにもかかわらず五十二だった人間が、六十五の群衆に混ざってどうにかなるはずがない。だから、入学を止めるべきだった。しかし、正孝は入学した。両親は両手を挙げて泣いて喜んだからだ。
『正孝が雨宮咲に合格するなんて! とっても勉強したのね、えらい! 今日はパーティーよ!』
『頑張ったな、合格祝いにお小遣いをあげよう』
まさかまぐれだとは言えず、しっかりお小遣いをもらい、パーティーもしてもらった。結果、あれよあれよという間に入学手続きは終了していた。正孝は己の浅はかさに絶望した。
いくら目の前の利益に目がくらんだとしても、自分の身の丈に合わない場所に飛び込もうとは。
しかし、逆に考えれば己を変えることができる良い機会かもしれない。今までは勉強の仕方が悪かったが、周りの優秀な生徒たちに感化されて自身の成長に繋がり、幻の偏差値を本当にすることができる可能性は十分にある。今まさに立ち上がる時だ。
「そう思っていた時もありました」
入学して二週間、正孝は早々に未来を手放そうとしていた。周りの優秀さがはるかに想像を超えていたのだ。まず、朝のクラスメイト同士の会話からよく分からない。難しいタイトルの本を読んでいる。すでに大学の進路の話をしている。もしかして異空間に放り出されたのだろうか。正孝は狼に囲まれた羊の如く震えた。
「おはよう、南」
「おはよう」
だが、持ち前の明るさにより相手のテンションに合わせて挨拶や上辺だけの相槌を打っていたら、何故か友人は出来た。しかも学年一位、二位の。正孝は断崖絶壁の崖に自らを立たせてしまった。
友人になるにしても、どうして上位中の上位にしてしまったのか。まさに天と地。世界中の全てを惜しみなく照らす太陽と地面をひたすら汚す泥。正孝は地面にめり込んでマントルで溶けて無くなりたくなった。
正孝に挨拶をしてくれたのが学年一位の男、世野倉海斗だ。ちなみに二位の西園明は世野倉の近くにある自分の席で本を読んでいる。西園は本の虫で、毎日一冊読まないと気が済まないらしい。夜まで読めない日は手が震えると言っていたので、何か病気的なものではないかと心の中で心配している。ちなみに正孝は読書を小学生以来していない。
このまま行くと学年ビリどころか留年の危機である。そして同時に友人も失うだろう。勢いで友人関係になったわけだが、彼らを失望させたくないくらいにはこちらも友人だと思っている。
「勉強……するか」
気乗りはしない、全く。しかし、入学したのだから同級生たちと卒業したい。定期テストは上位三十位までしか順位を貼りだされないと聞いているので、赤点を取らないよう努力すれば彼らも友人でいてくれるだろう。多分。赤点を取るとテスト返却で名指しされてしまうので、どうにかして回避したい。
正孝は放課後、高校から離れたファストフード店で勉強することにした。図書館では静けさに己が耐えきれず、高校から近い店だと同級生にバレてしまう。苦肉の策である。
「これだけ離れてれば、さすがに大丈夫でしょ」
一番安いハンバーガーと飲み物を購入し、奥の席に座る。栄えた駅ではないからか、店内はさほど混んでいなかった。家には十九時に帰ると言っているので、一時間半は勉強できる。
「さて」
飲み物を一口飲んでから意気揚々と教科書を開く。まずは今日やったところの復習だ。正孝の手はすぐに止まった。手にはしっとりと汗が滲む。
「……全ッ然分からん」
おかしい。今日やったところなのだから一番記憶に新しいところだというのに、全く記憶に無い。どこかで頭でもぶつけて記憶を落としてきたのだろうか。いや、違う。難しさのあまり授業中に意識を飛ばしてしまったのだ。正孝は焦った。
「これ、一人じゃ限界ある」
いくら勉強の機会を設けようとも、導く人がいなければ先には進めないらしい。己の情けなさにうなだれた。開始十分で飽き、仕方なく残しておいたハンバーガーをもそもそ食べる。そこへふと、窓の外をスコップの刺さったリュックを背負った男が通りかかった。
「多田野先生?」
思わず正孝は立ち上がった。多田野は正孝の担任教師。学校から離れたこんなところにいるとは不思議だ。しかも、あんな怪しい荷物を背負って。
何故だか関わってはいけない気がする。でも、ここで無視したらずっと気になるだろう。それならば後を追うのみ。正孝は急ぎ足でお盆を片づけて店を出た。
それから数分、正孝はそろそろと多田野の後をついて歩き続けた。多田野は気が付かない。いつも通りの猫背な背中が哀愁を漂わせている。
──先生ってまだ三十そこそこだよね。意外と若い。いや、意外って失礼だ、ごめんなさい先生。十分若く見えます。
ところで、多田野はどこへ向かっているのだろうか。荷物を見る限り買い物ではなさそうだ。スコップ持参で買い物は店員さんさすがに困惑する。そんなことを考えていたら、林が見えてきた。
──へえ、住宅街抜けたらこんなところあったんだ。自然公園かなぁ、それにしても木が多すぎて先生見失っちゃいそう。
林の前には膝下程度の柵があったが、多田野は当たり前のように跨いで入ったので正孝もそれに倣った。教師がしていいことは生徒もしていいだろうという適当な考えである。
──あ、リュック下した。何するんだろう、ピクニック? もう陽も暮れそうな林の中で一人? スコップ片手に?
そう思ったところで、正孝はここに来たことを後悔した。人気のない林で大きな荷物とスコップ。犯罪的な匂いしかしない。正孝は首を振る。まさか、生徒のお手本となる教師が危ないことをするはずがない。しかし、正孝の祈りは天に届かなかった。
多田野はリュックから黒いビニール袋を取り出して地面に置き、その横をスコップで掘り出した。正孝の心拍数は百五十を記録した。
すぐさま後ろを向き、一歩足を前に出す。その時、運悪く、足元の小枝を踏んで折ってしまった。静かな林に音が響く。正孝にはそれが地獄の扉が開く音に聞こえた。今日は厄日に違いない。
恐る恐る振り向くと、多田野がこちらを振り向いていた。ばっちり目も合った。正孝は走馬灯が存在するものだとたった今知った。
「……南君、だね」
「…………ひゃい」
低い低い、地を這うような重低音が耳に届く。正孝は情けない声で返事をした。きっと自分に明日は来ない、正孝は心の中で涙した。
多田野がスコップを地面に刺し、右手を挙げる。思わず両腕で顔を隠した。しかし、それはこちらへ向かってくることなく、彼の後頭部に収まった。
「いやぁ、こんなところを見られてお恥ずかしい」
頭を掻く彼に、正孝が混乱の極みで倒れそうだった。彼が照れた笑顔なところもこのような状況で出てくる感想が「お恥ずかしい」なところも恐怖でしかない。
「あの、その、さようならッ」
うまく動かない足を必死に上げようとしたところで、背中にポンと優しく手を置かれた。
「南君、ちょっと時間あるかな」


