人魚草子

 不意に、どうぞと言いながら村上がチョコレートムースを差し出してきた。
 理解が追いつかなくて混乱していた。
 先刻の人魚の話とムースの組み合わせは余りにもチグハグである。しかし、御手製だと思われるムースの甘い香りに誘われて喉を鳴らす。
 バームクーヘンも美味しかったが、このムースも美味そうだ。
 村上は、違法な手術をした事を誤魔化そうとして壮大なホラ話をふっかけているだけなのかもしれない。
 とにかく、村上を怒らせるのも何なので、少し考える時間が欲しい。
「美味しいでしょう。僕の恋人が作ってくれたんですよ」 
「はぁ、そうですか」
 村上のルックスならば彼女がいて当然だ。
「先生の恋人って素敵な人なんでしょうね」
「ええ。フェルメールが描く女性のように儚げで、いつも哀しそうな顔をしてます。でも、笑うとコスモスの花のように可憐なんです」
 なるほど……。青いターバンの少女だな。清楚なのに色っぽい。つまり、そういう事だな。
 大いに納得しなから、羽田はムースを一気に食べ尽くす。そして、お茶のおかわりをしようかと考えていると、ふと、壁の一角に血痕のようなものが飛び散っている事に気付いたのだ。
「この血は?」
「山田さんですよ」
 キョトンとしていると補足するように言った。
「僕と一緒にここに来ました。もう片方も移植すると言ったら喜んでやってきました」
 そういえば、山田は羽田に挨拶する事もなく三日前に引っ越している。
 どこに行ったのか、少し気になっていたのだが……。
「まさか、ここて右目をえぐりとったのですか?」
「はい、そうです。彼は、被験者に過ぎません。実験は成功したんです。祖父の話した事が真実だと立証されたんです。山田さんには用はありません。あの人の体は野犬が食いつくしていて、もう跡形もありません」
 もう少し分かるように言ってくれないか。いや、真実など分かりたくないような気する。
 ザワザワというどよめきと共に、口の中が苦くなるような思いに囚われて唇が乾いてきた。
「まさか、オレも殺すつもりなのか?」
「いいえ。まさか」
 村上の穏やかな微笑にホッとする。
「いや、そんな事よりも沙織を助けてやってくれ」
 以前、通学中の目の見えない妹を拉致して乱暴しようとした奴がいた。
 幸い、近くにいたおばさんが気付いて注意してくれたから良かったのだが、この先も色々な危険が付きまとう。子供の頃、お化け屋敷で泣いていた。あんなにも暗闇を恐れていた沙織を救い出してやりたい。
「オレは沙織を救いたい。オレはどうなってもいい。だから、頼むよ」
 村上が、スッと立ち上がると、台所の引き出しから写真立てを差し出してきたのである。
「これを見てもらえますか。実は、僕と沙織は半年前から真剣に付き合っているんです」
 写真の中の二人はピッタリと寄り添ったまま、広々とした紫色のラベンダー畑を背にして微笑んでいる。
(えっ、沙織が、こんなにも幸せそうに笑っている……)
 チクリと刺すような痛みを感じながらも、これでいいのだと感じた。きっと、村上は沙織の目を治してくれる。
「あの子は移植手術を了承しました。成功しても見えないフリをしてくれると約束してくれました。でも、人魚のことは沙織には秘密にしなければなりません」
 違法な手術。それが人魚の力なのか、それとも最先端の科学によるものなのか予測もつかないが、見えるようになるなら何でもいい。
 去年、沙織の父は交通事故で亡くなっている。
 いつも穏やかに沙織を見守っていたのに、突然、いなくなり、葬儀の夜、ひどく落ち込む沙織を見て胸が痛んだのだが、村上がいたから沙織は早く立ち直れたのかもしれない。
 ふと、気付くと羽田は脚をふらつかせて前屈みになっていたのである。急激に視界が霞んでいる。
 身体が痺れてしまい両手を床につきながらも、かろうじて顎を上げると村上と目が合った。
「どうか、あなたの妹のことは任せて下さい」
 先刻、飲んだ紅茶に睡眠薬が入っていたらしい。
 羽田は、恐ろしい渦に落とし込まれたかのように戦慄する。
(こいつはサイコパスなのかもしれない。でも、妹を救ってくれるならそれでいい)
 やるせないような諦めに似た物悲しさが羽田の心を覆い尽くしていく。
 急かすように鼓動が激しくなる。そして、泥の底に引きずり込まれるように意識を失っていたのだ。

   ☆

『太郎、太郎ーー』
 穏やかな磯溜まりに横たわり身を浸していたというのに、やかましい。苛立ちを覚えながら、呻き声を漏らす。
『太郎……』
 逆光の中、こちらを見下ろす女は粗末な膝丈のボロボロの小袖を着ている。その腰紐は解けている。だらしなく胸元がはだけておっぱいが丸見えになっている。
 女が魚の干物でパンッと羽田の頭を叩きながら喚いている。
『太郎、はよ起きんかい。弟の守りもせんと、何を呑気に寝とんのじゃ』
 目覚めさせようとしているけれど、どうか、起こさないでくれと願わずにはいられない。
 なぜだろう。身体の節々がだるくて頭が痛い。
 次の瞬間、羽田の意識は海の底へと落とされていた。プクプクッ。細かい泡が羽田を包み込んでいる。
『わし、信長は嫌いじゃ』
 誰かが子供みたいに地団駄を踏んでいる。
 胸の奥底がジンワリと熱くなり、先刻まで海にいたというのに、いきなり、ポーンと川辺に飛んでいた。自分は夏祭りの花火を見上げているようだ。
 お兄ちゃんと心許ない声で呼ばれてハッとなる。遠い場所から幼い少女が優しく手を振っている。
『沙織……』