人魚草子

 江戸時代、村から村を渡り歩いて舞台を作り上げた興奮と煌めきは一生忘れられへんわ。
 いや、もっと忘れられへんのは、わしが初めて岡山に渡った時に出会った山の民のオナゴの笑顔やなぁ。
 ほんまは、あの子と夫婦になりたかった。川で漁をしながら野宿をする生活は色々と大変やったけど、今、思うと幸せやった。
 あの子は、わしが忽然と消えた後は泣いたやろうな。すまんことしたわ。
 ほんまに、こんだけ生きるとると色々な事があったわ。
 まさか、令和という時代まで生き続けるなんて思いもせんかった。
 わし、平成になる頃には金持ちになっとったんや。
 ほんでな、昔のわしみたいに行き場のない人に居場所を作ろうと思って教祖の真似事みたいなことを始めた。税金対策で宗教団体にしといたんや。
 わし、四十過ぎてから結婚して美波が生まれた。わしの人生の晩年は特に忙しかった。
 流星、おまえみたいなイケメンの孫にも恵まれて幸せな人生やったと言い切れるぞ。
 そやけど、わし、人殺しやねん。あの日の出来事が消えへんのじゃ。
 わしのせいで亡くなった帰還兵の為にも、わしの死後、目玉を役立てられるように研究してくれ。おまえに目医者になれって言うたのはそういうこっちゃ。
 目が見えへん人を救ってくれ。
 アホみたいに長く生きたわしからの最後の願いを叶えてくれや。
 ええかぁ。くれぐれも言うとくぞ。浜に落ちとる人魚を拾い食いしたらアカンぞ。死なれへんようになるからな。
 ほな、さいなら。

          ☆

「まさか、それを信じろと言うんですか?」
 余りにも突拍子も無い告白に呆れ果てたように見つめ返す。
「ここに祖父の脳みそと眼球を保存しているんですよ」
 そう言いながら、村上が羽田をキッチンへと導いた。羽田は訝しげに眉をピリつかせるようにして冷蔵庫を注視する。
 村上は、アメリカ人が使いそうな大きな冷蔵庫の扉を開いたのだが、冷気が頬をなぶった瞬間、羽田はギョッとして青褪めた。シュールな光景に喉が詰まるような驚きに凌駕されて絶句する。
 脳みその入った大きなボウルと、目玉の入った小瓶が置かれていて、その脇にピクルスや煮物などのタッパが整然と並んでいたのだ。
(おいおい、何なんだよ……)
 体の血がサーッと凍るような感覚になりながらも怒りを感じ、声が荒くなる。
「もしかして、先生は、オレの事をからかっていますか? それ、熊か猪のものですよね?」
「いいえ。僕は、何も嘘はついていませんよ。この目玉と脳は祖父のものですよ」
「……」
 羽田は、一気に押し寄せる息苦しさを感じてグッと喉を鳴らす。
 冷蔵庫を閉じて振り向いた村上が、どこか遠くを見るような目で懐かしそうに言った。
「僕の祖父は素敵な人でした」
 それは、羽田も理解している。
 しかし、村上の祖父への思いは常軌を逸脱してるように見える。
「戦後、アメリカ兵に写楽の絵を売って儲けたそうです。江戸時代の祖父こそが写楽だったのです。写楽が忽然と描かなくなったのは、つまり、歳をとらない事がバレる前に引っ越したせいです」
「はぁ……」
 狂気じみた告白をどう受け止めたらいいのか。
 しかも、彼の手には目玉の入った小瓶が握られていて、テーブルの上に置いている。
「これは海水ですよ。こうやって瀬戸内海の海水に浸けていたらフレッシュに保てるんです」
 どう見ても、銭湯の風呂上りに飲むフルーツ牛乳の瓶のように見えるのだが……。
 海水に浸された二個の目玉に呆然となる。
 けれども、村上は楽しそうに目を細めながら言う。
「僕は、祖父と一緒にキャンプに行くのが大好きでした。祖父は、もしも、震災が起きても生きていけるように、火の起こし方や魚の採り方を教えてくれました」
 キャンプファイヤーの火を囲む少年のようなキラキラとした顔をしている。
 波立つ気持ちを押さえ込みながらも、村上の顔を見つめ続けるしかなかった。
「祖父は色んな体験をしてきました。塩の道には狼が出ます。獣も塩を狼が欲しがるんですね。塩を運ぶのは牛です。細い道は牛の方が歩きやすいそうです。祖父は生きた百科事典です。まだまだ聞きたい事があるのに逝ってしまった。僕の両親は高校生の時に亡くなっています。僕にとって祖父が唯一の肉親なんです。もう一度、祖父に会いたいのです」
「……」
 だからって、後生大事に脳みそを保存してどうするんだ?
 いや、そもそも、この脳みそは教祖のものなのか? この人は狂っているのだろうか……。いや、他にも胸をザラつかせるものがある。
(なぜ、眼球が二つあるんだ?)
 もしも、山田に目玉を嵌めた事が真実ならば、ここに二個あるのは、どう考えてもおかしいではないか。
 目玉や脳みそも精巧な目玉のレプリカなのかもしれない。
 食品サンプルがあれ程までにリアルに作れるのなら、目玉も作れるだろう。
(気味悪がって、オレが逃げ出すのを期待しているのか?)
 羽田が顔を引き攣らせているというのに、村上はくだげような微笑をこぼしている。
「僕は、あなたの妹さんのことは昔から知っています。あの子は優しくて賢い人ですね。羽田さん。あなたも患者さんからの慕われていますね。あなたさえ良ければと思って招待したんですよ」
 こちらを見据える村上の瞳の奥が怪しく蠢いたような気がする。羽田の襟足が毛羽立ってきた。
 午後三時になろうとしている。
「祖父を生き返らせるの手伝って下さるのなら、沙織さんに視力をさし上げますよ」