母が再婚した時、相手の連れ子の沙織はまだ四歳。ハンサムな父親の背後からヒョコンと顔を出しており、母が猫のぬいぐるみを与えるとパーッと嬉しそうに微笑んだ。あの瞬間、心に綺麗な春風が吹いたような気がした。
『お兄ちゃん』
  忙しい義父や母の代わりに沙織の面倒を見てきた。沙織は内気で物静かで手のかからない良い子だった。
『お兄ちゃん、トラ猫ちゃんだよ。可愛いね』
 地域猫を見かけると、愛しそうに猫の頭を撫でる横顔は天使のように澄んでおり、見る者を和ませる。
 羽田は責任をもって猫の世話すると言い母に頼んで保護猫を引き取る許可を得た。それ以後、沙織は、その猫と一緒に眠るようになっている。
 やがて、沙織は小学生になると一人で本を読むようになったのだが……。
 現在の沙織は二十四歳。弱視というカテゴリーに入っている。
 盲学校を出た後、障害者を雇用をしてくれるコールセンターで働いているのだ。
 今のところは、何とか一人で通勤もしてるが、この先も、どんどん沙織の世界が黒で塗りつぶされていき、光さえも感知できなくなる事に羽田は兄として焦りを感じていた。
 我慢強い沙織は不安や愚痴を口にしないけれど、通勤途中に転んで足を挫いたこともある。
 もしも、母が亡くなったなら、羽田は実家に戻ろうと想っている。
 そんなある日。
 アパートの隣で暮らしている山田という男の異変に気付いた。
 三十五歳の山田は、はちみつ色の大型犬と一緒に通勤している。聞いたところによると、山田は二十歳の時に全盲になったという。
 按摩師として生計を立てており、一人で暮らしている。そんな山田が、深夜、人通りの激しい繁華街をスイスイと歩いているのを見かけたものだから驚いた。
(なんで、犬を連れていないんだ? 白い杖もないぞ)