羽田は必死だ。その目も真剣だ。
「教えて下さい。先生は、どうやって、山田さんの視力を回復させたのですか?」
すると、ミステリアスな微笑を口元に湛えながら、眼科医の村上流星が答えた。
「人魚の不老不死の力を使ったのですよ」
「……人魚?」
こちらは真剣なのだから、はぐらかさないで欲しいと、羽田は焦れる。
「どうか、隠さないで教えて下さい。沙織は、もうすぐ失明します。助けてやって下さい!」
「もちろん、僕は……」
何か言いかけた時、村上の白衣のポケットの中の携帯が鳴った。どうやら、急患が来たらしい。
病院は昼間と夜では雰囲気はガラリと変わる。深夜、誰もいない廊下は、壁も床も真っ白で、まるで宇宙ステーションのようだ。
看護師の羽田も、そろそろ五階のナースステーションに戻らなければならない。唇を噛み締めていると、白衣の裾を翻して立ち去る前に彼は告げた。
「安心して下さい。羽田さん、あなたの願いは、いずれ叶いますよ」
「えっ?」
どういうことなのか分からないが、一縷の望みを託すしかない。
☆
今から十年前の三月。
羽田健太郎の妹の沙織が網膜色素変性症と眼科で診断された。あの頃、羽田は高校でラグビーの練習に明け暮れており、沙織の診察に付き添ったのは母の知世である。
近所の眼科の老齢の医師は丁寧に説明してくれた。
「夜盲といいましてね、暗いところでは特に見えにくいという特徴があります。視野も欠損していきます。本人が自覚した頃には、かなり進行しているものなのですよ」
「早く気付いてあげていたら治せましたか?」
「いいえ。無理ですよ。この病気には治療薬もなくて、手術や移植という方法で治す事も出来ません。何かの弾みで自然に治るという事もありません」
「来年、娘は高校生になります。自宅からほんの十五分ほどなんですが、自転車で通えますか?」
「既に視野がかなり狭くなっていますね。自転車に乗るのは控えて下さい。今後、進行した場合に供えて、特別支援学校などに通う事をお勧めします」
中途失明者に特化した訓練施設があり、速記やピアノの調律や按摩やオペーレーターなどの仕事につけるらしい。当事者である沙織は何も言わずに自分の運命を受け入れていた。
病院からの帰り道、黄砂混じりの風か吹く中、沙織は自宅へと続く舗道を進みながらポツンと呟いた。
「あのね、母さん。実は、死んだママも、あたしと同じ病気だったの。あたしが三歳の時、雨の日に水路に転落して亡くなったの……」
実の母親については、あまり話そうとはしない沙織が、この時はツラツラと語り出した。
「ママとパパは幼馴染なの。ママ、ほとんど見えなくなってからも、頑張って料理をしていたみたい」
沙織の母親が事故で亡くなった事は聞いているが、目の病気の事は聞いていない。
「黙っていて、ごめんなさい」
「いいのよ。何も謝ることはないのよ……。あなたは自慢の娘よ」
沙織の病気を事前に知っていたとしても沙織の父との再婚を決意していただろう。
ちなみに、羽田の本当の父親は酒を飲むと母の顔を殴るような最低のクソ野郎だった。
母は逃げるようにしてクズ旦那と別れている。
それに引き換え、新しく父親となった人は申し分がなかった。ハンサムで真面目で誠実で高収入。当時七歳の羽田は綺麗な庭付きの一戸建ての家で暮らせる事が嬉しかった。
「こんにちは。沙織ちゃん、どうぞよろしくね。この子は、健太郎。今日から、沙織ちゃんのお兄ちゃんになるのよ」
出会った頃の沙織はまだ四歳でモジモジと恥しそうにしていた。
父親の背後からヒョコンと顔を出す様子が可愛かった。母が猫のぬいぐるみを与えるとパーッと嬉しそうに微笑んだ。あの瞬間、羽田の心に綺麗な春風が吹いたような気がした。
『お兄ちゃん、トラ猫ちゃんだよ。可愛いね』
地域猫を見かけると、愛しそうに猫の頭を撫でる横顔は天使のように澄んでいた。
羽田は責任をもって猫の世話すると言い母に頼んで保護猫を引き取る許可を得た。それ以後、沙織は、その猫と一緒に眠っている。
現在の沙織は二十四歳。弱視というカテゴリーに入っている。
盲学校を出た後、障害者を雇用をしてくれるコールセンターで働いている。
今のところは、何とか一人で通勤もしてるが、この先どんどん沙織の世界が黒で塗りつぶされていく。やがて光さえも感知できなくなる日が来る。
我慢強い沙織は不安や愚痴を口にしないけれど、通勤途中に転んで足を挫いたこともある。
羽田の職場の環境と給与はいいのだが、実家から通うとなると電車で一時間半以上かかるのが難点だ。
(それでも、そろそろ、オレも実家に戻って沙織と暮らした方がいいのかもしれないな)
そんな事を考えていたある日。
アパートの隣で暮らしている山田という男の異変に気付いた。
三十五歳で坊主頭の朴訥とした風貌の山田は、はちみつ色の大型犬と一緒に通勤している。二十歳の時に全盲になった山田は按摩師として生計を立てており、一人で暮らしている。そんな山田が、深夜、人通りの激しい繁華街をスイスイと歩いていた。
(なんで、犬を連れていないんだ? 白い杖もないぞ)
いつもはジャージ姿なのに、やけに、お洒落な装いをしている。ハットも今風だ。
尾行したところ、音楽がやかましい洒落たバーに入った。楽し気にダーツを始めている。スパッ。スパッ。何度も見事にダーツの的の中央付近に命中している。
(どういう事なんだ?)
「教えて下さい。先生は、どうやって、山田さんの視力を回復させたのですか?」
すると、ミステリアスな微笑を口元に湛えながら、眼科医の村上流星が答えた。
「人魚の不老不死の力を使ったのですよ」
「……人魚?」
こちらは真剣なのだから、はぐらかさないで欲しいと、羽田は焦れる。
「どうか、隠さないで教えて下さい。沙織は、もうすぐ失明します。助けてやって下さい!」
「もちろん、僕は……」
何か言いかけた時、村上の白衣のポケットの中の携帯が鳴った。どうやら、急患が来たらしい。
病院は昼間と夜では雰囲気はガラリと変わる。深夜、誰もいない廊下は、壁も床も真っ白で、まるで宇宙ステーションのようだ。
看護師の羽田も、そろそろ五階のナースステーションに戻らなければならない。唇を噛み締めていると、白衣の裾を翻して立ち去る前に彼は告げた。
「安心して下さい。羽田さん、あなたの願いは、いずれ叶いますよ」
「えっ?」
どういうことなのか分からないが、一縷の望みを託すしかない。
☆
今から十年前の三月。
羽田健太郎の妹の沙織が網膜色素変性症と眼科で診断された。あの頃、羽田は高校でラグビーの練習に明け暮れており、沙織の診察に付き添ったのは母の知世である。
近所の眼科の老齢の医師は丁寧に説明してくれた。
「夜盲といいましてね、暗いところでは特に見えにくいという特徴があります。視野も欠損していきます。本人が自覚した頃には、かなり進行しているものなのですよ」
「早く気付いてあげていたら治せましたか?」
「いいえ。無理ですよ。この病気には治療薬もなくて、手術や移植という方法で治す事も出来ません。何かの弾みで自然に治るという事もありません」
「来年、娘は高校生になります。自宅からほんの十五分ほどなんですが、自転車で通えますか?」
「既に視野がかなり狭くなっていますね。自転車に乗るのは控えて下さい。今後、進行した場合に供えて、特別支援学校などに通う事をお勧めします」
中途失明者に特化した訓練施設があり、速記やピアノの調律や按摩やオペーレーターなどの仕事につけるらしい。当事者である沙織は何も言わずに自分の運命を受け入れていた。
病院からの帰り道、黄砂混じりの風か吹く中、沙織は自宅へと続く舗道を進みながらポツンと呟いた。
「あのね、母さん。実は、死んだママも、あたしと同じ病気だったの。あたしが三歳の時、雨の日に水路に転落して亡くなったの……」
実の母親については、あまり話そうとはしない沙織が、この時はツラツラと語り出した。
「ママとパパは幼馴染なの。ママ、ほとんど見えなくなってからも、頑張って料理をしていたみたい」
沙織の母親が事故で亡くなった事は聞いているが、目の病気の事は聞いていない。
「黙っていて、ごめんなさい」
「いいのよ。何も謝ることはないのよ……。あなたは自慢の娘よ」
沙織の病気を事前に知っていたとしても沙織の父との再婚を決意していただろう。
ちなみに、羽田の本当の父親は酒を飲むと母の顔を殴るような最低のクソ野郎だった。
母は逃げるようにしてクズ旦那と別れている。
それに引き換え、新しく父親となった人は申し分がなかった。ハンサムで真面目で誠実で高収入。当時七歳の羽田は綺麗な庭付きの一戸建ての家で暮らせる事が嬉しかった。
「こんにちは。沙織ちゃん、どうぞよろしくね。この子は、健太郎。今日から、沙織ちゃんのお兄ちゃんになるのよ」
出会った頃の沙織はまだ四歳でモジモジと恥しそうにしていた。
父親の背後からヒョコンと顔を出す様子が可愛かった。母が猫のぬいぐるみを与えるとパーッと嬉しそうに微笑んだ。あの瞬間、羽田の心に綺麗な春風が吹いたような気がした。
『お兄ちゃん、トラ猫ちゃんだよ。可愛いね』
地域猫を見かけると、愛しそうに猫の頭を撫でる横顔は天使のように澄んでいた。
羽田は責任をもって猫の世話すると言い母に頼んで保護猫を引き取る許可を得た。それ以後、沙織は、その猫と一緒に眠っている。
現在の沙織は二十四歳。弱視というカテゴリーに入っている。
盲学校を出た後、障害者を雇用をしてくれるコールセンターで働いている。
今のところは、何とか一人で通勤もしてるが、この先どんどん沙織の世界が黒で塗りつぶされていく。やがて光さえも感知できなくなる日が来る。
我慢強い沙織は不安や愚痴を口にしないけれど、通勤途中に転んで足を挫いたこともある。
羽田の職場の環境と給与はいいのだが、実家から通うとなると電車で一時間半以上かかるのが難点だ。
(それでも、そろそろ、オレも実家に戻って沙織と暮らした方がいいのかもしれないな)
そんな事を考えていたある日。
アパートの隣で暮らしている山田という男の異変に気付いた。
三十五歳で坊主頭の朴訥とした風貌の山田は、はちみつ色の大型犬と一緒に通勤している。二十歳の時に全盲になった山田は按摩師として生計を立てており、一人で暮らしている。そんな山田が、深夜、人通りの激しい繁華街をスイスイと歩いていた。
(なんで、犬を連れていないんだ? 白い杖もないぞ)
いつもはジャージ姿なのに、やけに、お洒落な装いをしている。ハットも今風だ。
尾行したところ、音楽がやかましい洒落たバーに入った。楽し気にダーツを始めている。スパッ。スパッ。何度も見事にダーツの的の中央付近に命中している。
(どういう事なんだ?)



