人魚草子

 深夜のナースステーションから少し離れた廊下は、まるで無機質な宇宙ステーションのようだった。白すぎる壁と床が、逃げ場のない緊張感を際立たせる。
 羽田は、目の前の男に詰め寄っていた。呼吸は荒く、その瞳には切迫した光が宿っている。
「教えてください、村上先生。山田さんの視力は、どうやって回復したのですか」
 眼科医・村上流星は、唇の端を妖しく釣り上げた。その微笑みは、昼間の診察室で見せる仮面のような穏やかさとは異なり、底知れぬ深淵を覗かせる。
「人魚の不老不死の力を使ったのですよ」
「……人魚?」
 羽田は眉間にしわを寄せた。はぐらかされている。そう理解した瞬間、喉元まで出かかった怒りが焦燥感に変わる。
「真剣なんです。沙織は、もうすぐ失明する。助けてやってください。隠さないで教えてください!」
 村上が何かを言いかけた時、白衣のポケットから鋭い電子音が響いた。急患か。夜の病院特有の、唐突な現実への引き戻しに羽田が舌打ちをこらえた時、村上は翻った白衣の裾とともに背を向けた。
「安心していいですよ。羽田さん、あなたの願いは、いずれ叶いますよ」
 意味深な言葉を残し、村上は闇へ消えていく。その背中を見つめながら、羽田は微かな、しかし抗いがたい一縷の望みにすがるしかなかった。
        ☆


 今から十年前の三月。
 羽田健太郎の妹の沙織が網膜色素変性症と眼科で診断された。あの頃、羽田は高校でラグビーの練習に明け暮れており、沙織の診察に付き添ったのは母の知世である。
 近所の眼科の老齢の医師は丁寧に説明してくれた。 
「夜盲といいましてね、暗いところでは特に見えにくいという特徴があります。視野も欠損していきます。本人が自覚した頃には、かなり進行しているものなのですよ」
 母は張り詰めた顔で尋ねた。
「早く気付いてあげていたら治せましたか?」
「いいえ。無理ですよ。この病気には治療薬もなくて、手術や移植という方法で治す事も出来ません。何かの弾みで自然に治るという事もありません」
「来年、娘は高校生になります。自宅からほんの十五分ほどなんですが、自転車で通えますか?」
「既に視野がかなり狭くなっていますね。自転車に乗るのは控えて下さい。今後、進行した場合に供えて、特別支援学校などに通う事をお勧めします」 
 中途失明者に特化した訓練施設があり、速記やピアノの調律や按摩やオペーレーターなどの仕事につけるらしい。当事者である沙織は何も言わずに自分の運命を受け入れていた。
 病院からの帰り道、黄砂混じりの風が吹く中、沙織は自宅へと続く舗道を進みながらポツンと呟いた。
「あのね、母さん。実は、死んだママも、あたしと同じ病気だったの。あたしが三歳の時、雨の日に水路に転落して亡くなったの……」
 実の母親については、あまり話そうとはしない沙織が、この時はツラツラと語り出した。
「ママとパパは幼馴染なの。ママ、ほとんど見えなくなってからも、頑張って料理をしていたみたい」
 沙織の母親が事故で亡くなった事は聞いているが、目の病気の事は聞いていない。
「黙っていて、ごめんなさい」
「いいのよ。何も謝ることはないのよ……。あなたは自慢の娘よ」
 沙織の病気を事前に知っていたとしても、沙織の父との再婚を決意していただろう。
 ちなみに、羽田の本当の父親は酒を飲むと母の顔を殴るような最低のクソ野郎だったので、母は逃げるようにして家を出ている。弁護士を立ててクズ旦那と別れて清々したのだ。あれから、羽田は一度も実父と会っていない。
 それに引き換え、新しく父親となった人は申し分がなかった。ハンサムで真面目で誠実で高収入。当時七歳の羽田は綺麗な庭付きの一戸建ての家で暮らせる事が嬉しかった。
「こんにちは。沙織ちゃん、どうぞよろしくね。この子は健太郎。今日から、沙織ちゃんのお兄ちゃんになるのよ」
 出会った頃の沙織はまだ四歳でモジモジと恥しそうにしていた。
 父親の背後からヒョコンと顔を出す様子が可愛かった。母が猫のぬいぐるみを与えるとパーッと嬉しそうに微笑んだ。あの瞬間、羽田の心に綺麗な春風が吹いたような気がした。
『お兄ちゃん、トラ猫ちゃんだよ。可愛いね』
 地域猫を見かけると、愛しそうに猫の頭を撫でる横顔は天使のように澄んでおり、羽田は、そんな妹をいつも見守ってきた。
 妹が猫を飼いたいと願った時、羽田は責任をもって猫の世話をすると言い、母に頼んで保護猫を引き取る許可を得たのである。それ以後、沙織は、その老猫と一緒に眠っている。
 現在の沙織は二十四歳。弱視というカテゴリーに入っている。
 盲学校を出た後、障害者を雇用してくれるコールセンターで働いており、今のところは、何とか一人で通勤もしてるが、この先どんどん沙織の世界が黒で塗りつぶされていく。やがて光さえも感知できなくなる日が来る。
 我慢強い沙織は不安や愚痴を口にしないけれど、通勤途中に転んで足を挫いたこともある。
 ちなみに、羽田の職場の環境と給与はいいのだが、実家から通うとなると電車で一時間半以上かかるのが難点なので、今は実家を出てアパートで暮らしている。本当は実家に戻りたい。
(そろそろ、オレも実家に戻って沙織と暮らした方がいいのかもしれないな)
 そんな事を考えていたある日のことだった。
 山田という男の異変に気付いたのである。
 羽田は101号室、彼は102号室。
 三十五歳で坊主頭の朴訥とした風貌の山田は、はちみつ色の盲導犬を連れている。二十歳の時に全盲になった山田は按摩師として生計を立てており、盲導犬に助けられながら一人で暮らしている。そんな山田が、深夜、盲導犬を連れることなく、人通りの激しい繁華街をスイスイと歩いていたものだから、違和感を抱いた。
(なんで、犬を連れていないんだ? それに白い杖もないぞ)
 いつもはジャージ姿なのに、やけにお洒落な装いをしている。顔は地味だが、スタイルはいいので垢ぬけて見える。ハットも今風だ。
 尾行したところ、彼は、音楽がやかましい洒落たバーに入ったのだ。慣れた様子で楽し気にダーツを始めている。スパッ。スパッ。何度も見事にダーツの的の中央付近に命中している。羽田は唖然となった。
(どういう事なんだ?)