***

海辺の道を走る自転車のタイヤが砂をふわりと巻き上げた。見渡せば、青い空と海が視界いっぱいに広がっていく。

「今日もいい天気……!」

目を細めると、柔らかな光が波に反射して、まるで宝石みたいにキラキラと輝いていた。

私、水瀬(みなせ)凪優(なゆ)は、色素の薄い髪色と白い肌が特徴的な女の子。
周りから時々「美少女」なんて言われるけれど、そんな言葉には、あまり実感が湧かない。
だって、私が生まれ育った人の少ないこの島では、若い女の子は誰だって美少女なのだ。

船着場に着くと、潮風になびく黒髪と鋭い目元が印象的な男の子がそこにいた。

ブレザーの袖が風に揺れ、その涼やかな横顔はどこか爽やかな印象を与えている。

「おはよう、湊斗」

私は、見慣れたその横顔に声をかける。
彼はゆっくりと振り返り、口元に微笑みを浮かべた。

「おはよう、凪優」

挨拶を交わした二人の間に穏やかな空気が流れた。

志水(しみず)湊斗(みなと)は生まれた時から島で一緒に育った幼なじみで数少ない同級生。
クールな見た目とは裏腹に、時折見せる優しい笑顔が印象的な男の子。

自転車を止めた私は、湊斗の隣に並んで船に乗り込んだ。

「凪優、湊斗。おはよう、今日もよく晴れて良かったなあ」

船を運転するおじさんも、家族同然の島の人。

「おはよー、今日もよろしくね」「安全運転で」
「あったりまえだろ、何年やってると思ってるんだよ」

軽快な笑い声とともにエンジン音が響き、船が動き出した。

私は窓際に座り、外の景色を眺める。

水面が揺れ、島がゆっくりと遠ざかっていくのが見えた。既に見慣れた風景だけど、何度見ても飽きることはない。

「涼しいね」

ぽつりとつぶやくと、湊斗が斜め後ろから小さく頷いた。

「そうだな、もう春なのにな」

私たちが生まれ育った島は小さな共同体で、人口は500人ほど。
中学校までは島内で通えるけれど、高校に進学するには本土まで渡らなければならない。

船の中は静かで、ただ波の音が耳に心地よく響いていた。

***

船から電車に乗り換えて、ほんの数分。
高校の最寄り駅で降り、丘の上に建つ校舎へと続く道を湊斗と一緒に歩く。

春の香りがふわりと漂い、桜の花びらが風に舞う中、私はふと足を止めてその景色を眺めた。

校舎に入ると、新しいクラスの掲示板の前にたくさんの生徒たちが集まっていた。私たちもその輪に加わり、自分たちの名前を探す。

私の名前を見つけたあと、すぐ隣のクラスに湊斗の名前があるのを確認した。

「別のクラスか……」
「隣だし、教室まで送るよ」

少しだけ不安に感じたけれど、湊斗の言葉に安心して私たちは足を進めた。

すれ違う生徒たちの視線が、ちらちらと私たちに向けられているのを感じる。
湊斗と一緒にいた1年間は、いつもこんな感じだった。

その理由は何となくわかっている。
普段は口数が少ない湊斗が、私といるときは少しだけ表情が柔らかくなるから、そんな姿に気づいた皆が彼に視線を奪われるのだ。

初めは気になって仕方がなかったそんな視線にも1年を通して少しずつ慣れてきた。

なんとなく視線が合って、二人で笑い合う。

言葉にはしなくても、お互いが特別な存在だってことは感じていた。
その静かなつながりが、私にはとても大切で温かく思えて、大好きだった。

私の教室の前で、湊斗が立ち止まる。

「帰りに迎えに来るよ」
「うん、ありがとう」

湊斗が自分のクラスに向かうのを笑顔で見送り、私は教室に入った。

***

席について窓の外を見ると、桜の花びらが風に舞っているのが見える。
その柔らかな光景に目を奪われていると、隣の席から声が聞こえた。

「おはよう!凪優ちゃんって呼んでもいい?」

声をかけてきたのは、小柄で明るそうな女の子。

昨年は隣のクラスで、移動教室で何度か顔を合わせたことがある。どこか見覚えのあるその子は、にこにこと笑顔を浮かべていた。

「うん……えっと、千尋ちゃんだよね?」

自然と微笑みがこぼれる。すると、彼女の目がぱっと輝いた。

「え!知っててくれたの!?私、凪優ちゃんと話してみたいってずっと思ってたから、一緒のクラスになれて本当に嬉しいんだ!」

その明るい笑顔に、私もつられて微笑んだ。
千尋ちゃんのように、積極的に話しかけてくれる人がいると、少しほっとする。

島の外に出ると、どこか緊張してどうしても控えめになってしまうから、こうして話しかけてもらえるとありがたい。

「こちらこそ、よろしくね」

そう言うと、彼女との会話が自然と弾んでいく。
話しているうちに、他の何人かの女の子も集まってきて、みんなで言葉を交わす。

新しいクラスに少しずつ馴染んでいく感覚が心地よく、湊斗がいない小さな不安が、温かい気持ちに包まれていくようだった。

***

放課後のチャイムが響くと、教室内はざわめき始めた。

私は教科書をカバンに片付けながら、夕日に染まる窓の外をぼんやりと眺める。
橙色の光が教室を温かく包む中、廊下からスタスタと落ち着いた足音が近づいてくるのが聞こえた。

「凪優」

冷たく感じるような低いトーンの声に振り向くと、教室の入り口には湊斗が立っていた。
一瞬視線が合い、私は小さく頷く。

それを確認した湊斗は無言のまま壁にもたれ、スマホをいじり始めた。その姿に、教室内の生徒たちの視線が自然と集まっていくのがわかる。

「湊斗くん、凪優ちゃんのこと迎えに来たの?」

千尋ちゃんが、嬉しそうに耳打ちしてくる。私は軽く苦笑いしながら、荷物をまとめて立ち上がった。

「うん、幼なじみなの。一緒に帰る約束してたから」

予想のできた浮ついた噂話を制するように微笑むと、彼女は何も言わず手を振って見送ってくれた。

「お待たせ」
「全然」

湊斗は私を見下ろすように視線を合わせたが、その目にはどこか優しさが宿っている。その短いやり取りの間にも、教室内の数人が私たちに注目しているのが感じられた。

「行くか」

湊斗は静かに言い、私に先を譲るように一歩引いた。そのさりげない仕草に、彼の自然な優しさを感じる。

こんなことを自然に出来てしまうんだから、モテるのも当然だよね。

隣を歩く湊斗の飄々とした横顔を盗み見ながら、私はそんなことをひそかに思っていた。

***

下駄箱に向かう途中、廊下は帰宅する生徒たちで賑わっていた。
私と湊斗が並んで歩いていると、先輩や後輩の視線が自然と集まる。

湊斗は黙ったまま前を見据えているけれど、慣れたとはいえ、私はやっぱりほんの少し居心地が悪い。

「あの、湊斗くん!」

少し離れたところから、見たことのない女の子が勇気を振り絞って声をかけてくるのが聞こえた。

湊斗は足を止め、無表情のまま振り返る。その冷静な瞳に、女の子は一瞬たじろぐけれど、すぐに小さな声で続けた。

「えっと……いつもカッコいいなって思ってて……その、良かったらこれ……」

彼女が差し出したのは、小さなメモが添えられたキャンディーの袋だった。私は隣でそのやり取りを見守りながら、湊斗がどうするのか少し気にしていた。

しかし、湊斗は淡々とした声で答えた。

「ありがとう。でも、受け取れない」

その短い言葉に、女の子の表情は一瞬で曇る。

湊斗はそのまま振り返り、何事もなかったかのように私に歩みを促す。
私は取り残された女の子の表情を遠目に窺い、少し心が痛んだ。

廊下を進みながら、私はそっと湊斗に話しかけた。

「さっきの子、ちょっとかわいそうだったよ……?」「なんで?」

湊斗は興味なさそうに言う。
その態度にため息をつきながら、私は続けた。

「湊斗って、優しいのにそういうところは冷たいよね。あの子、勇気を出して声をかけたんだと思うよ」
「知らない人と話すの、得意じゃない」

湊斗は少し視線を下げ、ぼそっと言った。その落ち込んだようにも見える表情は、湊斗の冷たい態度が作られたものではないことを伝えていた。

「それは、私も同じだけど……」

湊斗の冷たい態度が人見知りのせいだと分かっていても、時々もったいないと思うことがあった。
クールだとか、冷たいけどかっこいいだとか、周りから聞こえる湊斗への評価が私にとっては不服だったのだ。

「でも、湊斗ってもっと優しいから。それが伝わってないの、私なんか嫌だな」

湊斗は少しだけ歩みを緩めて、私の言葉に柔らかく口角を上げた。

「いいよ俺は。凪優が知っててくれたらそれで」

その笑顔は、私だけが知っている湊斗の素顔だった。
そして、その感情は、島の外に出たら緊張してしまう私も共感してしまう言葉。

大人しいだとか、高嶺の花だとか、何となく耳に届くことのある私のイメージにズレを感じているのも事実だった。

島が近づくにつれて表情が柔らかくなっていく湊斗。
私はその顔に安心して、一緒に船へと乗り込んだ。

***

夕方の柔らかな光が島を包み込む頃、私たちは船を降りた。潮の香りが心地よくて、足元に寄せる波の音が静かに耳に響く。

「凪優ちゃん、湊斗くん、おかえり」

いつもの帰り道、商店で出会ったおばさんが、笑顔で声をかけてくれる。その温かな言葉に、自然と微笑みがこぼれた。

「ただいま。今日は何作るの?」
「ただの煮物よ、聞かないでよ恥ずかしい! あはは」

明るい笑顔につられて、湊斗もほほえむ。
その小さなやり取りが、島での日常の温かさを感じさせる。

「おお!おかえり! 今日これ持って行けよ!」

スーパーのシャッターを下ろそうとしていたおじさんが、湊斗に向かって何かを投げた。

「うわっ」

驚いた声を出しつつも、湊斗は手のひらサイズのお饅頭をふたつ、見事にキャッチした。

「ありがと、おっちゃん」
「おお、仲良く食えよ」

そのまま少し歩いて、私たちは海辺に出た。
夕日に染まる水面がきらきらと輝いて、どこまでも続く景色に心が静かに包まれる。

湊斗と並んで砂浜に腰を下ろし、もらったお饅頭の包みを開けた。
甘いお饅頭をかじりながら、静かに海を見つめる。

幼い頃からよく来ていた砂浜の景色に、昔の自分たちの笑い声が聞こえるような気がして、私は思わず目を閉じた。

「あーー、やっぱ落ち着くね」

明るく装った声でそう言いながら、膝を抱えて少し前に体を傾けた。
湊斗は私の横顔をちらりと見て、そっと声をかけてくれた。

「凪優?」

その優しい問いかけに、ふと顔を上げて微笑み返した。

海を見つめながら、かつての思い出が頭をよぎる。
潮風が髪を揺らすたび、切ない記憶が心の中で静かに波立った。

「大丈夫」

湊斗の心配そうな視線に応えるように、いつもの笑顔を浮かべた。

「湊斗は本当に心配症だね」
「うるせえな」

湊斗は照れくさそうにそっぽを向いた。
その優しい横顔に、陰っていた心がほんの少し軽くなった気がした。

けれども、湊斗が立ち上がり、「じゃあ、また明日な」と言い残して歩き出すと、胸の奥に押し込めていた思いがまた顔を出す。

ーーお似合いで、羨ましい。

周りからそう言われる私たちには、忘れられない過去があった。

ただの噂話でささやかれる関係とは違う。
過去を乗り越えようと必死にもがいた日々と、その中で築いた大切な絆が確かにある。

一人になった帰り道、胸の奥で湧き上がる切ない気持ちを抑えながら、私は静かに歩き続けた。

***

新学期が始まって二週間ほどが過ぎた朝。
教室には、いつものように賑やかな声が響いていた。

窓から差し込む優しい朝日が床を照らし、生徒たちの楽しそうな談笑が教室中に広がる。
そんな日常のひとときを、担任の先生の声が切り替えた。

「はい、静かに。今日は転校生を紹介するぞ」

その言葉が発せられた途端、教室内のざわめきがピタリと静まり返った。
好奇心に満ちた視線が、一斉に前方の扉に向かう。私もその一人として、扉の方へと視線を送った。

扉がゆっくりと開く音がして、教室内が一瞬静寂に包まれる。静けさの中、転校生の彼が一歩前に出てきた。

白い肌は透き通るようで、柔らかく整った髪がふわりと揺れる。色素の薄い瞳はどこか遠くを見つめるように優しく揺らめいていた。

その姿を目にした瞬間、私は息を呑んだ。

――汐音(しおん)

目の前に立つ男の子が、あまりにも私の記憶の中にいる人に似ていたのだ。

心臓がドクドクと早鐘を打ち始める。
手元のノートが震えるほどの鼓動に、胸の中で押し殺していたはずの感情が一気に蘇ってくるのを感じた。

「自己紹介をお願いします」

先生の声に促されて、彼は控えめに口を開いた。

羽村(はむら)蒼空(そら)です。よろしくお願いします」

短い挨拶だったけれど、彼の声はしっかりと教室中に響いた。その落ち着いた声に、周囲の生徒たちが興味を引かれているのがわかる。

「……蒼空」

ーー名前が違う。汐音じゃない。

……汐音じゃない。

何度も心の中で繰り返しながら、私は浅くなった呼吸をなんとか整えようとした。

でも、心の中ではその声がかき消されるように別の何かが響いていた。
過去の記憶、あの頃の汐音の声が、現実と重なるように、聞こえていたのだ。

転校生の彼は、私の後ろの空席に向かって進む。そのとき、一瞬目が合い、彼が柔らかく微笑んだ。

その優しさと穏やかさ、周囲を癒すような空気感――すべてが懐かしくて、知っているもののように感じられた。

無理やり整えたはずの呼吸がまたすぐに乱れ、制服の胸もとを握り締める。
後ろに座った彼を感じる背中に神経が集まり、そのあとのホームルームは何も頭に入ってこなかった。

***

ホームルームが終わると同時に、私は教科書をまとめるのも忘れて、隣のクラスへと走り出した。

湊斗の教室の扉を迷うことなく開き、真っ直ぐに湊斗が座る窓際の席へと向かった。
私が近づくと、彼は顔を上げて、驚いたような目を向けてくる。

「どうした?」

そのいつも通りの言葉に、張り詰めていた心がほんの少し緩むのを感じる。
けれども、溢れそうな涙と震える心のせいで、言葉がうまく出てこなかった。

「湊斗……あの、転校生が、あのねっ……」

声が震え、うまく話せない私を見て、湊斗は教科書を閉じて私に向き直った。そのままそっと手を握り、安心させるように見つめてくれる。

その所作は当然周りの視線を集めるのだけど、今の私にはどうでもいいことだった。

「凪優、大丈夫だから、なにがあった?」
「あの……ね、汐音に……似てて」

その言葉を聞いた瞬間、湊斗はそれまでの優しい雰囲気を変えて、音を立てて席を立った。そして、私を置き去りにするように、勢いよく教室を出ていく。

「ま、待って、湊斗……」

そんな湊斗の姿を見るのはここ数年の間はなかった。
幼い頃を思い出させる湊斗の姿に私はまた涙を堪えるように唇を噛み締める。

クラス中の視線が集まる中、私は急いで湊斗の後を追った。
教室を出ると、彼が私のクラスの中を覗き込む姿が見える。

湊斗も、教室の中にいる転校生の姿を見て、驚いたように立ち尽くしていた。

「蒼空くんって言うの。名前は違うから、違うって分かってるんだけど……」

私がそう言うと、湊斗はハッとした様子で振り返り、私の両手をしっかりと握った。
焦りを隠すような湊斗の手は、いつもと違って、冷たく、少し震えているように感じた。

「全然似てない。大丈夫、気のせいだよ」

湊斗の声は穏やかで、私を安心させようとしているのが伝わってきた。けれども、その瞳の奥に潜む動揺を、幼なじみのいつもと違う姿を見逃せるはずが無かった。

「でも……」
「凪優。大丈夫」

湊斗の言葉に、私は静かに頷いた。

彼の言葉にすがりたい気持ちと、どうしても拭えない漠然とした不安が胸の中で交錯していた。

***

「もうすぐ暑くなりそうだな……」

次の日、朝のチャイムが鳴るまでのわずかな時間、湊斗は私の教室で話し続けていた。
いつもなら教室の前で分かれて、自分のクラスに入っていくのに、今日はなぜかぎりぎりまで私のそばにいた。

「なに、湊斗、そんなに心配?」

軽く冗談めかして言うと、湊斗は照れくさそうに目を逸らす。

「まぁ、ちょっとな」

その表情がなんだか愛おしくて、自然と笑みがこぼれる。

「ほらでも、もうチャイム鳴るから」
「はいはい。じゃあまた帰りな」

優しい手が、立ち上がるついでにポンっと私の頭に触れていく。その気遣いにもまた笑みが零れて、私は湊斗を見送った。

私たちの様子を隣でずっと見ていたクラスメイトの千尋が、ニヤニヤしながら近づいてきた。

「ねえ、もしかして、ついに付き合い始めた?」

小声で聞いてきたが、その言葉に周りの生徒たちも密かに耳を傾けているのが分かり、私は苦笑いをこぼす。

「え?なんで?」
「だって、こんなこと今まで無かったじゃん!笑顔も多いように見えるし、もう周りの湊斗くんファンも凪優ちゃんファンも二人の雰囲気に癒されまくりなんだから!」

千尋のその言葉に、私は少し困ったように笑った。

「そういうのじゃないの。湊斗は、優しすぎるだけなんだよね」

簡単には言えない色々な背景を思い浮かべながらそう答えると、千尋は目を細めて、意味ありげに首をかしげた。

「……凪優ちゃんは、湊斗くんのこと……?」

「好きなの?」と千尋が言いかけたその瞬間、教室にチャイムの音が響いた。

私は微笑みだけを返し、千尋の問いには答えなかった。
先生の声を聞きながら、片付け途中だった教科書に触れる。

湊斗に対する気持ちの正解は、ずっと見つからないままだった。

好きかどうかなんて聞かれたら、そんなの好きに決まっている。
大好きで、大切で。湊斗がいなくなったら、私はきっと生きていけない。そんな自信さえある。

だけど、その「好き」が、みんなの言う「恋愛」の好きとは違うことも、何となく分かっていた。

湊斗は、家族のように一緒に育ってきたかけがえのない存在。
だからと言って、この先、湊斗と何も起こらないと断言することもできない。もしも家族として一生を共にすることになっても、それはそれで私にとって違和感のない未来だった。

きっと、私たち本人には必要ない関係性の代名詞。だけど、周りから言われるたびに何となく考えてしまうのは仕方の無いことだった。

***

休み時間の教室は、いつものようににぎやかで、友達の笑い声や雑談が飛び交っていた。

私は教科書を開いたまま、なんとなく教卓に集まり笑い合っている蒼空くんの方をちらりと見てしまう。
転校してきた翌日から、既にクラスに馴染み楽しそうにしている彼の存在が気になって仕方がなかった。

どれだけ似ていても別人なんだ。
そう分かっていても無意識に重ねてしまう自分が怖くて、気になるけれど不自然に彼を避ける時間が続いていた。

前方から近づいてくる足音に気づき、顔を上げる。
視線の先では、蒼空くんがこちらに向かって歩いてきていた。

自分の席に向かう途中なのだろうと、私は合ってしまった視線を誤魔化すように、時計を見上げた。

けれど、彼は私の目の前で立ち止まった。
驚いて身構える私に、蒼空くんはにこっと明るい笑顔を見せた。

「凪優ちゃん」

その柔らかくも明るい声に、私は思わずびくっとしてしまった。

「え、あ、はい……?」

彼の突然の呼びかけに戸惑う私に、クラスメイトたちも注目していた。

蒼空くんは、そのまま私の席の前にしゃがみ込んだ。
目では追ってしまうものの、正面から直視するのはやっぱり苦手だった。

この独特な雰囲気まで似ているのだ。

俯きがちになる私と視線を合わせるように、机に両腕を置き、見上げられる。

「たまに、目合うよね。もしかして、俺のこと見てた?」

からかうように笑う彼に、私は一瞬息が詰まった。
ぶわっと顔に熱が集まる感覚がする。

「あはは、冗談。ごめんごめん!でも、話してみたいなって思ってたのは本当」

無邪気な笑顔の後に、柔らかく私の心の壁を崩すような微笑みが向けられる。

「えっと、あの……」

いつも以上に言葉が出てこなかった。頭の中には、幼い頃の懐かしい顔が反芻する。
そんな私に、蒼空くんは目を細めて笑った。

「蒼空です。昨日転校してきました!」

蒼空くんの柔らかなトーンに、私は次第に緊張が解けていくのを感じた。

「凪優です。よろしくお願いします?」
「あはは、よろしくお願いします」

差し出された手のひらに一瞬戸惑う。けれど、迷っていた手のひらを蒼空くんの方から迎えにきた。

一瞬軽く握られた手は、少し力が強くゴツゴツした男の子の手。
湊斗は線の細いタイプだから、また違う感触に落ち着かず、呆然としている間にその手は離れていった。

「本当は、ずっと話しかけようと思ってたんだけど、凪優ちゃん、いつも友達と楽しそうにしてるからさ。でも俺には話しかけてくれないし、嫌われてるかなーとか思ったりして」

その言葉に、私は少し驚きながらも慌てて首を振った。

そんなふうに感じさせてしまっていたのなら謝らなければいけない。きっと汐音と比べるあまり、蒼空くんのことを考えず、無理に避けていた。

「ううん、ごめんね。話しかけてくれて、嬉しい」

蒼空くんはにっこりと笑い、少し身を乗り出してきた。

「それなら、これからもよろしくね、凪優」

彼の明るい声に、私は自然と微笑み返した。初めて、蒼空くんを蒼空くんとして見た。

柔らかで癒し系の、汐音とそっくりな外見や所作とは裏腹に、話す姿は思ったより強引で、汐音とは違う人。

蒼空くんに失礼なことしちゃってたな、と心の中で謝る。

彼と話すのは思ったよりも楽しくて、これまでの重たかった気持ちがスーッと引いて、心が軽くなっていくのを感じた。

***

夕焼けに染まる廊下を抜け、校舎の外に出ると、涼やかな海風が心地よく頬を撫でた。
日差しは少しずつ和らぎ、空が橙色から濃い藍色へと移り変わっていく。

「で?」

いつも通り、隣を歩いていた湊斗がふいに切りだした。

優しい表情がずっと話したくてうずうずしていた私の背中を押す。

「あのね、今日ね、蒼空くんと話せたの」

その一言に、私の口元が自然と上がる。自分の中で温めていた嬉しさが本物になる瞬間だった。

湊斗は一瞬だけ足を止める。彼の表情には、珍しく驚きと困惑が交じっていた。

「蒼空って……あの転校生?」

その名前を口にする湊斗の声には、硬さが滲んでいる。

「うん。昨日は正直……見るのも怖かったの。でも、話してみたら全然違った」

蒼空くんを初めて見たときの動揺を思い返す。

「蒼空くんは蒼空くんで、汐音とは全然違うんだよ。ただ、私が勝手に怖がってただけだったんだなって……。だから今は、もう大丈夫」

その言葉を聞きながら湊斗は少し目を伏せた。何かを飲み込むような沈黙が流れる。

「……そっか。それなら良かった」

湊斗の低い声は静かで、落ち着いているように聞こえた。だけど、その表情はどこか陰を帯びていた。

「心配してくれて、ありがとうね」

湊斗は少し肩をすくめて笑うと、ポケットに手を突っ込んだ。

「いや、別に俺は何もしてないし」

そう言いながら、湊斗は苦笑いを浮かべる。

ただ、湊斗に安心して欲しかった。蒼空くんと仲良くなれたことが嬉しくて仕方なかった。
湊斗の違和感に気付けないほど、その日の私は浮かれていたのだ。

***

私が、湊斗の異変に気付いたのは、その日から2週間ほど経った頃だった。

その日の放課後、すっかり打ち解けた私は、蒼空くんと雑談を交わしていた。
彼の柔らかな声は、不安どころか安心感を与えるもので、穏やかな雰囲気の中で過ごす時間が心地よかった。

「凪優って頭もいいんだってね、さっき聞いた」

蒼空くんが揶揄うように言うから、私はため息をつきながら否定する。

「普通だよ、みんな大袈裟なの」
「そう?」

蒼空くんが優しくふんわりと微笑むから、私も思わず微笑み返した。

会話が止まり、何気なく視線を上げると、教室の前で湊斗が立ち止まっているのが見えた。

目が合った彼は少し複雑そうな表情をしていて、何か言いたげな目でこちらを見つめていた。普段のように教室に入ってきて声をかけるでもなく、ただその場で立ち尽くしている。

「……湊斗?」

その姿に、胸がざわつき、私は蒼空くんの話を遮り立ち上がった。

「凪優、帰るの?」

突然立ち上がった私に驚いた様子だった蒼空くんは、廊下へと目を向けて、納得したように背もたれにもたれかかる。

どこかいつもと違う様子の湊斗が心配だった。考えるよりも先に早く行かなきゃと体が動く。

私の声に反応して視線を合わせた湊斗は、いつものように微笑みながらこちらに歩いてきた。しかし、その微笑みは硬く、ぎこちないものだった。

「あ、湊斗くんだよね、俺、蒼空です!」

席の近くに来た湊斗に蒼空くんが明るく声をかける。彼の無邪気な笑顔は場を和ませるように感じられた。

「どうも」

けれど、湊斗は素っ気なく返事をし、すぐに視線を私に戻した。

湊斗と蒼空くんは、これまで接点はなかった。
それに、人見知りの彼が、初対面の人に対して冷たいのはいつものこと。

そうは思っていても、どうしてかその冷たさが意図的なものに思えて、私は少し戸惑う。いつもの湊斗とは違うと感じるその態度に不穏な違和感があった。

「湊斗、どうしたの……?」
「ん?準備できたなら帰ろ」

湊斗の声はいつも通りにも聞こえたけど、その奥に何かが隠されているような違和感は変わらない。

「あ、うん」

私は急いで返事をしながら、蒼空くんに向き直る。

「また明日ね、蒼空くん」
「うん、じゃあね」

蒼空くんはいつも通りの笑顔で手を振ってくれた。
その笑顔に、少し申し訳ない気持ちが湧いて、私は遠慮がちに手を振り返した。

***

教室を出た後、夕焼けに染まる通学路を歩きながら彼の横顔を窺う。

いつもなら穏やかに話しかけてくれる湊斗が、今日はどこか遠い。彼の沈黙が重く、私の胸を締め付けた。

「湊斗、大丈夫?」

タイミングをみて声をかけると、湊斗はほんの少しだけ視線をこちらに向けた。その目には、何かを隠そうとするような影が見えた。

「何が?大丈夫だけど」

どこかトゲを持った言葉に、胸が締め付けられる。

「なんか、怒って……」「怒ってないよ」

言いかけたところで、湊斗が私の言葉を遮った。その強さが湊斗の怒りを表しているようで私は口を紡ぐ。

「……怒ってないから。そんな顔するな」

沈黙のあと、ため息混じりに続けられたその声は冷たくもあり、どこか寂しげでもあった。

湊斗はそのまま一歩先を歩き、まっすぐに船に乗って、少し離れた席に腰を下ろした。

湊斗に声をかけたい。でも、私を拒絶するように一度もこちらを見ない湊斗に、私からは何も言えないまま船は動き出した。

港に着くまでの間、湊斗はほとんど言葉を発さなかった。
こんなにも静かな帰り道は、入学してから初めてだった。

徐々に大きくなる不安の中、私はただ彼が心の中に抱えているものを感じ取ろうと必死だった。

***

自宅に戻った私は自室の絨毯に寝転び、ぼんやりと天井を見つめていた。
その視線がふと、部屋の片隅に置かれた写真立てに向かう。

写真には、私と湊斗、そして汐音の三人が笑顔で並ぶ姿が収められていた。夏の日差しを浴びたその瞬間は、私にとって何よりも大切な思い出だった。

そっと写真立てを手に取り、指先で優しく撫でた。心の中に、汐音との楽しい日々が鮮やかに蘇ってくる。

夏の終わり、海辺で過ごした時間、響き渡る笑い声、無邪気に感じたあの幸福感――すべてが私の胸を満たす。

けれど、その記憶が鮮明になるほど、胸の奥には重く深い痛みが押し寄せてくるのだ。

「汐音……」

目を閉じ小さく呟いたその名前は、今も私の心の中で生きていた。

初めて蒼空くんを見たとき、反射的に苦手だと思った。
汐音に似ているその姿を見るたびに、過去を思い出し身近に感じてしまうのが怖かったのだ。

けれど、蒼空くんという人間を知り、彼と過ごす時間が増えるにつれて、その痛みが少しずつ和らいでいることにも気付いていた。

蒼空くんの優しい笑顔が、私の心の隙間を静かに埋め始めている。それが、自分でも不思議だった。

それでも、そんな感情が汐音や湊斗との三人の絆を引き裂くような裏切りに思える瞬間がある。
写真を胸に抱えながら、再び床に身を横たえる。

「帰ってきてよ……」

汐音が私たちの前からいなくなったあの日から、湊斗はずっと離れることなく私の隣にいてくれた。

そんな私たちの関係は、好きだなんて簡単な表現で表せるものではない。恋愛はもちろん、幼馴染でも家族のように育っていても、それだけではできなかった絆。

そして今、初めて。その湊斗の気持ちが分からない。

「汐音なら分かるんでしょ……?」

湊斗が離れていってしまうのではないかという漠然とした不安に襲われて、私はぎゅっとその写真立てを握りしめた。

確かに私の心を癒してくれる蒼空くんへの想いと、離れていく湊斗への想い。心の中で答えの見つからないそのふたつの想いは、その奥深くにある重く深い悲しみとともに、私を包み込んで離れなかった。

***

そんな思いを抱えたまま、私達はいつも通りのようで少し違う毎日を繰り返していた。

そして、静けさに甘えて何も行動を起こさなかった私は、その日後悔することになる。

「凪優ちゃんたち、そろそろ移動する?」

次の移動教室に備えて、千尋に声をかけられて、私と蒼空くんは同時に立ち上がった。

「てかさ、凪優の住んでる島ってどんな感じなの?」

移動中も、三人で楽しく会話を続ける。

「島?んー……田舎。だけど、海がとっても綺麗で、人も温かくて、私はすごく大好き」
「「行ってみたい!!」」

思いの外目を輝かせた二人に、私は瞬きを繰り返した。
驚いたけど、私の大好きな場所に興味を持ってくれるのは嬉しくて笑顔で頷く。

その時、廊下の正面から歩いて来る湊斗の姿が見えた。
湊斗の方もクラスの男友達と横並びで楽しそうに話しているようだった。

「あ、湊斗くん、今度俺らで島行きたいってなっててさ、良かったら案内してよ!」

誰にでも、明るく優しい蒼空くんらしい動きだった。
けれど、話しかけられた湊斗は、それまでの笑顔を一瞬にして消して、眉を顰める。

「……来なくていい」

耳に刺さるような声が響いた。私は、その声のトーンに身体を固くする。
眉をひそめてこちらを見るその目にはどこか刺々しいものが宿っていた。

「……湊斗?」

私の呼びかけには答えず、彼は蒼空の方に歩み寄った。廊下のざわめきが一瞬静まり、周囲の視線が集まるのを感じた。

「悪いけど、お前には来てほしくない」

湊斗の言葉は、まるで棘のようだった。緊張が走り、誰もが息を呑む音さえ聞こえそうだった。

「湊斗、なんでそんなこと言うの!?」

私の声が廊下に響いたが、湊斗は蒼空くんから視線を逸らさない。その視線は、蒼空くんに対する敵意が剥き出しだった。

蒼空くんは短く息を吐くと、穏やかな声で言った。

「何か気に障ったのならごめん。俺はただ凪優や湊斗くんと仲良くなりたかっただけだったんだけど」

その冷静さが、湊斗には耐えられなかったのかもしれない。彼は鋭い目つきのまま、吐き捨てるように言った。

「そんなの……俺は求めてない」

言い終えると、湊斗はそのまま歩いていった。急な静けさが周りの緊張感をさらに高めた。

私は振り返り、湊斗の背中を見つめた。彼の肩は小刻みに震えているように見えた。
廊下のざわつきが戻り始める中、蒼空くんがいつも通りの様子で言った。

「ごめん、なんか俺間違えちゃったみたい。移動教室行こう?」

その言葉に、私は胸が痛くなった。
教室に入ることなく真っ直ぐに廊下を進んでいく湊斗を目で追いかける。

蒼空くんの優しさも、湊斗の怒りも、どちらも私の心を揺さぶっていた。

「ごめん、蒼空くん、千尋ちゃん。先行ってて」

気付けば私は湊斗の後を追っていた。

今まで、私が不安定だった時、支えてくれたのはいつも湊斗だった。

そんな湊斗が明らかに苦しそうな感情を露わにしている。何かを背負った後ろ姿を放っておくことなんて出来なかった。

***

私は、なかなか縮まらない湊斗との距離に、呼吸を荒くしながら足を動かす。

「湊斗、待って……!」

振り向いた湊斗の顔は、どこか険しく、いつもの彼らしさが感じられなかった。
傷付いたのを隠すような蒼空くんの表情がチラついた私は、無意識のうちに責めるような口調になっていた。

「どうして蒼空くんにあんなこと言ったの?」

湊斗は一瞬、眉をひそめた。そして面倒くさそうに目を逸らすと、壁にもたれかかる。

「別に、思ったこと言って、何が悪いんだよ」
「それじゃ納得できない。いつもの湊斗ならあんなこと言わない」

私の言葉に、湊斗は短く息を吐いた。

「……本気で言ってんの?」

その一言に胸がきゅっと締め付けられた。

湊斗の言葉に明確な敵意を感じるのは初めてのことだった。私を突き放すような鋭い視線が、その奥に隠された苦しさを映す。

何も言えずに黙り込んだ私に、話を切り上げるように湊斗は背を向ける。
私の瞳は揺れ、何かを言わなければと口を開くけれど、言葉が見つからずに唇を噛んだ。

「湊斗、なんで……っ」

どこかへ行ってしまいそうな湊斗を呼び止めたくて、中身のない言葉を口にする。

「凪優こそ、いい加減にしろよ……」

その声には、彼の内側で渦巻く感情の全てが詰まっているようだった。
湊斗は耐え切れないように顔を背けた。そして、小さな声で呟く。

「凪優が、あいつといるのは自由だよ。けど、俺を巻き込むな」

湊斗はそれだけ言って今度こそ背を向けた。
声をかけることすら出来ないような、遠く冷たい後ろ姿だった。

私の世界に光をさしてくれた蒼空くんと、湊斗も仲良くしてほしいと思うのに。
どうしてそんなに嫌がるのか、どうしても理解できなくて、心には陰が残っていた。

***

数日後、私は日直の仕事で、教室に残ってノートを集めていた。

「湊斗、今日日直だから先帰ってて」
「ああ」

ついさっきの素っ気ない会話を思い返し、ため息をつく。

船の本数が少ないから、1本逃すと帰りが遅くなってしまうのは分かっていたけれど、今日は頼まれごとが多かった。
それに、先日の揉め事以来湊斗はなんとなく話しづらい空気が続いていたから、登下校の時間もなんとなく心が重たい。

だから、私を待つように残ろうとしていた湊斗を無理やり送り出したのだけれど、どこか冷たくなってしまった自分の態度を反省する。

集めたノートを職員室に提出するため、机の上から持ち上げようとしたその時、後ろから柔らかな声が聞こえた。

「手伝う?」

振り返ると、蒼空くんが立っていた。彼の穏やかな笑顔に戸惑いながらも「ありがとう」と返事をする。

蒼空くんは、私が抱えようとしていたノートを軽々と持ち上げ、廊下に出た。
私はその後を追うように歩きながら、彼の優しさに胸が少し温かくなるのを感じていた。

歩きながら、蒼空くんがふと私の横顔を見つめる。

「凪優ってさ、髪のアレンジ上手いよね。今日のポニーテール、可愛いと思った」
「え? あ、ありがとう」

突然の褒め言葉に、私は頬が少し熱くなった。
蒼空くんは照れることもなく、柔らかい目で私を見つめていた。

湊斗とのいざこざがあってからも、蒼空くんは変わらず優しいままだった。それどころか話すことが増え、さりげない優しさに気遣いすら感じる。

彼と話していると、心がそわそわして、でも楽しいような不思議な感覚になる。
湊斗に対する不安な気持ちを支えてくれるような安心感が、彼にはあった。

「あのさ……今日このあと時間ある?」

その言葉に、私は驚いて反応が少し遅れた。

そんな風に聞かれるなんて、思ってもみなかったからだ。彼の表情には少しの緊張が見えて、私まで落ち着かなくなってしまう。

「え、うん……船が来るまで、2時間くらいある」
「本当?妹がさ、もうすぐ誕生日で。髪飾りとか選ぶの手伝ってもらえたら嬉しいんだけど」

その自然な誘いに、私は胸が高鳴るのを抑えきれなかった。彼と一緒に過ごす時間が、特別なものになっていることに、私は薄らと気付き始めていた。

***

日直の仕事を終えた私たちは学校を出て、近くのショッピングモールへ向かった。
賑わう店内の中、私たちはいくつかの雑貨屋を巡りながら、妹さんにぴったりの髪飾りを探した。

「これとかどう?」

蒼空くんが手に取ったのは、小さな花のモチーフがついた淡いピンクの髪飾りだった。
光を受けてほのかに輝くその髪飾りを見て、私は自然と微笑む。

「可愛いと思う。ピンク好き?」
「うん、好きだと思う。凪優も似合いそうだけどね」

その言葉に胸が少し高鳴るのを感じた。蒼空くんが私の方に近づいてきて、髪飾りをそっと手に取った。

そのまま私の目の前に立ち、優しく私の髪に合わせる。

彼の指が私の横髪に触れ、軽く流れるように撫でる。彼の指先の温もりが髪に伝わり、くすぐったさと緊張が一気に押し寄せた。

「……うん、可愛い。妹も喜びそう」

蒼空くんが一歩引いて、優しく微笑む。その一言に、私の心臓は更に早鐘を打った。

妹さんを思い浮かべた言葉だとわかっていても、至近距離での「可愛い」という言葉は、胸に響いて苦しくなるほどだった。

顔が熱くなるのを感じ、私は思わず視線を逸らす。
彼の柔らかな笑顔が目に焼き付いて離れない。

蒼空くんはそのまま髪飾りを棚に戻しながら、軽く頭を掻く。

「ありがとう。妹にぴったりな気がする」
「うん、きっと似合うよ」

私の声は震えていたかもしれない。
蒼空くんの優しさに触れるたび、心が揺れ動くのを抑えきれなかった。

「蒼空くん、本当に優しいんだね」

私の声は自然と柔らかくなり、心の中に湧き上がる新しい気持ちを隠せなかった。

彼の横顔を見つめると、彼もまた穏やかな微笑みを浮かべている。
その笑顔は、まるで私の心の中を見透かしているかのようで、ますますドキドキが止まらなかった。

湊斗と冷戦のような時間が続き、憂鬱な気持ちが抜けなかった。仲直りをしたいのに、湊斗の考えに寄り添いきれない自分にも嫌気がさして、自然とため息が増えていた。

そんな憂鬱を忘れさせてくれるような蒼空くんとの時間は、穏やかな安心感とともに、心が高鳴るような気持ちを私に抱かせていた。

***

買い物を終え、夕陽に染まる海辺の道を歩いて船着場に向かう。
風は心地よく、穏やかな波の音が耳に届くたびに、今日一日がいかに楽しかったかを実感させてくれた。

「凪優、今日はありがとね。すごく助かったし、楽しかったよ」

蒼空くんが柔らかい笑顔でそう言うと、私の心臓が軽く跳ねる。

「私も、その、楽しかったよ」

ドキドキしながら素直な気持ちを伝えると、彼は嬉しそうに微笑んでくれた。

船着場に近づくと、ベンチに座る湊斗の姿が目に入った。その瞬間に、今の状況を客観的に見た私の心は大きく嫌な音を立てる。

止まった足音に気付き、湊斗が顔を上げる。
開かれたノートを膝に置いている姿から、私の日直の仕事を待っていてくれたことが分かり、申し訳ない気持ちが胸に広がった。

「湊斗、嘘、待っててくれたの……?」

私が声をかけると、湊斗は無言で立ち上がり、静かにこちらに歩み寄ってきた。
その目は鋭く、蒼空くんを貫くような視線を送っていた。

「凪優を送ってくれてありがとう。もう大丈夫だから」

湊斗が私の手を掴み、彼の後ろへと引き寄せる。その手の強さに驚きながらも、湊斗の態度に困惑する。

「あの……今日は蒼空くんが日直の仕事を手伝ってくれて……」

思わず言い訳のような言葉が出る。

別にやましい理由はないのだけれど、湊斗が苦手だと感じている人と一緒にいて、結果、待たせてしまった事実が私の心に妙な罪悪感を植え付けていた。

湊斗は何も言わず、じっと蒼空くんを睨むように見つめ続けた。その視線には、明らかに敵意が込められていて、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

蒼空くんもまた、湊斗の視線を受け止めつつも、冷静な態度を崩さなかった。

「湊斗くんは……余程凪優が大切なんだね」

蒼空くんの言葉に、湊斗の表情はさらに険しくなり、唇を硬く結ぶ。

「お前には関係ない」

二人の間に漂う緊張感に、私はどうすることもできず、ただその場に立ち尽くしていた。

「……あ、船が来たね。じゃあね、凪優。今日はありがとう」

蒼空くんが普段と変わらない笑顔で手を振る姿が、湊斗への挑発のようにも見え、私は焦りながらぎこちなく手を振り返す。

湊斗は無言のまま、蒼空くんに背を向け船に乗り込んでいった。
私はその姿を追いかけるようにして、湊斗の隣に並ぶ。

「湊斗……、最近変だよ」

私の言葉に、湊斗は一瞬だけ動きを止めたが、振り返ることなく再び歩き始めた。

***

一言の会話もないまま家に帰り、私はしばらく考えていた。

数日間、湊斗との気まずい時間が続いていた。
湊斗が、理由なく人に当たるような人じゃないことは、私自身がよく知っていることだった。

だからこそ、蒼空くんに冷たく当たる姿に違和感があって。このままだと湊斗のことを信じていたいのに分からなくなってしまいそうだった。

私は覚悟を決めた。このままじゃダメだ。
ちゃんと話さなきゃ、きっと何も変わらない。
時刻は20時過ぎ。もう真っ暗になった外へと出る。

「湊斗ママ、湊斗いるー!?」

すぐ隣の家の裏庭のドアを開けて、キッチンにいる湊斗のお母さんに尋ねた。

「それがまだ帰って来てないの。凪優ちゃんに聞きに行こうと思ってたとこなんだけど」
「え?船では一緒だったけど……。ちょっと私探してくるね!」

不安そうな表情を隠す湊斗ママを安心させるように明るくいって、私は走り出した。

行く宛てはあった。
……こんな時間にいるわけない。
だけど、何となくそこにいる気がした。

迷うことなく一直線に走り続ける。

波の音が近くなり少しざわつく胸の中、砂浜へ降りると暗闇の中にしゃがみ込んでいる人影が見えた。
遠くの街灯と星の光だけで見えるのはただのシルエット。

それでもそれが湊斗だとすぐにわかって私は呼びかける。

「湊斗……!?」

そのシルエットはほんの少しだけ顔をあげ、苦しそうに再び俯いた。
その姿に私は確信し、足場の悪い砂浜へと勢いよく降りていく。

夜の海は、私たち2人なんて簡単に飲み込んでしまいそうなほど、深く恐ろしいものだった。

***

船を下り、凪優と別れた俺は一人で海を見つめていた。
穏やかな波が岸辺を静かに洗う音が、心に染み渡るように響いてくる。

帰るその瞬間まで気を遣って何度も振り返ってくれていた凪優を思い返し、肩を落とした。

蒼空のことがどうしても苦手だった。
どれだけ凪優が彼と親しくなっても。彼を見つめる視線に、ほんの少し熱いものを感じても。

凪優の幸せは、心の底から願っている。
それは昔から、今も変わらない。

だけど、その凪優自身が言っても、蒼空に抱く苦手意識はどうにもならなかった。

だったらせめて、凪優は好きにしたらいい。
そう思うようにしていたのに、凪優と蒼空が二人で並ぶ姿を見ていられなくて、気付いたらその距離を引き離すように彼女の手を引いていた。

感情が思い通りにならない。蒼空だけじゃなく、凪優に対してまで冷たく当たってしまう自分が情けない。

ーーやっぱり、俺一人じゃ、だめだ。

そんな思考が頭を埋め尽くす。

手の中には、小さな貝殻が握られていた。これは、凪優と3人で幼い頃を一緒に過ごしたもうひとりの幼なじみと一緒に拾ったものだった。

「汐音……」

俺の心に、幼なじみだった彼の姿が浮かぶ。

汐音は、素直になることが苦手な俺をいつも笑って受け止めてくれていた。
凪優と汐音がいる毎日が大好きだった。あの二人のためなら何だってできる、そう思うほどに。

けれど、その楽しい記憶の最後には、いつもあの瞬間が重なる。

「湊斗、こっちおいでよ。一緒に遊ぼ!」

幼なじみの彼の声は風に乗って耳元に届き、湊斗の胸の奥をえぐるように締めつけた。楽しかったはずの記憶が、今では痛みを伴うものに変わってしまっている。

日が暮れ、暗くなった海は、さらに当時のことを思い出させるようで、俺は目を背けるように立ち上がり海から離れようと砂浜を歩いた。

それでも、その記憶は止まってくれない。
気付かない間に、脳裏にはその映像が流れ始め、俺はその場にしゃがみ込んでいた。

嵐のような台風が押し寄せたあの夜を、俺は忘れることが出来ない。
その瞬間から、俺の心のどこかで時間が止まってしまっているんだ。いまも、ずっと。

「……っ、は……最悪……」

フラッシュバックのように映像が細切れで浮かび、その速度と合わせるように呼吸が荒くなっていく。
服の袖を口元に当て、呼吸に意識を集中させる。

初めてのことではない、それでも、徐々に苦しくなり手足が痺れていく感覚は怖くて仕方がなかった。

「湊斗!?」

そのとき、少し遠くから聞き慣れた澄んだ声が聞こえた。その声に悔しいけれど、安心してしまう自分がいる。

「……なんで、っはぁ……こういう時に限って……っ」

笑ってしまうほど自分が情けなくて、小さく笑うと、慌てた様子で駆け寄ってきた凪優はしゃがみ込んだ俺の背中を優しく撫でる。

「大丈夫!?なんでこんな時間に海にいるの……?」
「気付いたら暗かったんだよ……多分もう落ち着くから……」

しゃがみ込んだ状態で頭を下げる。

その隣に腰を下ろした凪優は俺が落ち着くのを待つように、ずっと優しく一定の速度で背中をさすってくれていた。

***

「悪い、もう大丈夫だから」

深く息を吐き切り、そう呟いた湊斗に安心する。

夜の砂浜に2人きり。その空間は私たちの空気を重くさせていた。

「こんな時間まで、何してたの?」

湊斗はしばらく黙っていた。どんな言葉を選ぶべきか迷っているようだった。

待つように黙っている私に、ほんの少し口が開く。

「言っただろ、気付いたらこんな時間だった」

核心に触れない湊斗に、私は黙ってしまう。

覚悟を決めてきたものの、今日ではないのかもしれない。そんな考えが頭をよぎり、私は黙り込んでいた。

「……嘘。最近、感じ悪くてごめん。反省してた」

黙り込んでいた私の考えを見抜くようにそんな言葉が投げられて、私は目を丸くする。

「反省……?」
「自分でも分からないんだ。感情がいうことを聞かない。こんなの初めてで、戸惑ってる」

嘘を言っているようには思えないその表情に、私は恐る恐る口を開いた。

「湊斗、蒼空くんのこと、嫌い?」
「嫌いじゃない。……でも、凪優と蒼空が並んでいる姿は、どうしたって……思い出す」

声が少し震えていた。
彼の言葉は、蒼空くんと仲良くなってからこれまで以上に固く蓋をしてきた感情を引きずり出した。

「汐音……?」

湊斗は小さく頷いた。その瞳には後悔と怒り、そして言葉にできない感情が浮かんでいた。

「似てるよ。どれだけ似てないって自分を騙そうとしても、そっくりなんだ。見れば見るほど、話し方や雰囲気まで」

その言葉が胸に突き刺さった。
湊斗の中にある葛藤が痛いほど伝わる。

「湊斗、ごめん、私……。ごめんね」

私は湊斗に寄り添い、その両手を掴んだ。
力なく落とされた手は酷く冷たい指先をしていて、私はその手をぎゅっと握りしめる。

ぽとりと、その手にひとつの雫が落ちる。
その温かい感覚が、私の心をギュッと締め付けた。

***

中学三年生の夏。
台風が島に上陸したその日、私たちは避難所へ向かっていた。

外は激しい風と雨が吹き荒れ、家の外に出るのも命がけの状況だった。島の中央にある避難所に着くと、既に多くの人たちが避難していた。

台風による避難は、島で暮らす私たちにとって特別なことではなかった。私たちよりも幼い小学生の子供たちも慣れたもので、輪になってトランプをして過ごしていた。

しばらくして、避難所の入口が勢いよく開かれ、ずぶ濡れの湊斗が駆け込んできた。

「湊斗!」

彼の母親がすぐに駆け寄り、持っていたタオルで体を拭こうとする。しかし、湊斗はそのタオルを振り払って、玄関に座り込んだ。

その異様な雰囲気に、私はトランプをやめて玄関へと出ていった。

「湊斗、何かあったの?」

私の声が震えていた。なんとなく、嫌な予感がしていたのだ。
湊斗は苦しそうに顔を上げ、何かを言おうとするけれど、なかなか言葉にならない。

結局、一緒に来た島のお兄さんが代わりに口を開いた。

「こいつ、海に向かおうとしてたんだ。気付いて引き止めたんだけど、ずっと『汐音が海に行った』って言い張って……」
「汐音が?」

その言葉に、私の心は一気にかき乱された。
湊斗は俯いたまま、力なく呟いた。

「俺……止められなかった……」

その瞬間、私の頭の中で様々な思いが駆け巡った。
胸が締め付けられるような感覚に襲われる中、きっと想像してしまうような最悪な事態にはならないと、急いで自分に言い聞かせるように首を振った。

私は湊斗の隣に座り込むと、震える声で「大丈夫だよ、きっと帰ってくるよ」と呟いた。

それから、何時間も汐音の帰りを待ち続けた。台風が過ぎ去り、雨が弱まっても汐音は帰ってこなかった。

避難所は騒然となり、島の人々が捜索に乗り出した。私たちもまだ雨の残る夜の中、懐中電灯の光を頼りに島を探し回った。

「汐音、汐音……!!」

悲鳴にも似た島民の叫び声は今も私の耳に残り続けている。

声が枯れるほど探し回って、森の中も島の至る所を駆け回って……。
足も腕も、顔にまで傷がついても、ずっと探し続けていた。

「汐音……」

その声が出なくなってからも、一緒に探していた湊斗は私の手をしっかりと握って、ずっとずっと叫び続けていた。

それでも、朝になっても汐音は見つからなかった。

「湊斗、凪優。お前らはもう帰れ」
「嫌だ……。すぐ見つけなきゃ、もしかしたら動けないのかもしれないじゃん。台風で木倒れたりしてるじゃん!」
「俺はもう少し探す。最後に汐音を見たのは俺なんだ、俺が……」

「いいから帰れ!!」

そんな風に怒鳴られたのは初めてのことだった。
その大声に私の目からは涙が溢れ出る。

「……あとは、大人に任せなさい。もうすぐ、本島から捜索隊が来る。もうこれ以上、お前らにできることはないんだ」
「……っ、うわあああん、汐音、嫌だあああ」

私の記憶の中で、あの日ほど人前で声をあげて泣いた日はない。
座り込んで泣き続ける私に、湊斗もどっと何か力が抜けたようにその場に崩れ落ちていた。

そして、数ヶ月後、汐音は台風による事故とみなされ、島でお葬式が行われた。
何も見つからないまま、私たちはその現実を受け入れなければいけなくなった。

それ以来、夏の雨の夜になると、私は震えが止まらなくなる。怖くて、涙が溢れ出す。その恐怖と悲しみは、今でも変わらない。

***

湊斗は唇を噛み締めたまま目を伏せていた。

汐音が居なくなったあの日から、私はずっと湊斗に支えられてきた。
そして自然と、湊斗を強い人だと思い込んでしまっていた。

ーー湊斗だって、辛いに決まってる。

私が夏の雨が苦手なように、湊斗は、夜の海が苦手だった。今日のように、うまく息ができなくなる様子を何度か見てきていた。

知っていたはずなのに。
そんなの分かっていたはずなのに。

私は、自分だけ蒼空くんと仲良くなって、汐音に似ている彼と打ち解けたことで自分だけ前に進めたような気になって。

湊斗の気持ちなんて置き去りにして、蒼空くんを受け入れようとしていた。
それは、考えれば考えるほど最低で、私は唇を噛み締める。

「……分かってるんだ。俺は、ずっと逃げてるだけだから。ちゃんと現実と向き合って前に進もうとしてる凪優に、置いていかれるのが怖いんだよ」
「そんなことない、私だってずっと辛かった。湊斗がいたから、私は進もうと思えてるんだよ」

そう言った私の声は震えていた。

苦しそうな彼が前を向けるように、今度は私が背中を押してあげたいと思う。
だけど、何を伝えれば、湊斗の苦しみを和らげられるのか、私には分からなかった。

「……蒼空って、どんなやつ?」

沈黙を破るように、その名前を口にしたのは湊斗の方だった。

「え……そう、だなぁ……。やっぱり顔と雰囲気と、ちょっと大人びててよく気付くところは、汐音に似てるなって思う」

迷いながら、私は蒼空くんを思い浮かべて、少しずつ思いを口にする。湊斗の手が硬く握られるのを見て、私はその上に自分の手を置いた。

「けどね、湊斗も感じたと思うけど、ちょっと汐音より感情的だと思う。だってほら、汐音だったら、湊斗がどんな嫌味言っても言い返したりしないでしょ?」
「……はは、確かに」

湊斗の口角が柔らかく上がり、私は少し安心した。
湊斗が変わろうとしている瞬間を目にしたような気持ちになる。

「私もね……蒼空くんといると、汐音のことを思い出す。でも、なんでかな、同時に少し楽になることもあるの。汐音もこんな感じだったなぁって、良い部分だけ思い出せるみたいな。不思議なんだけど……」

湊斗は、少しの間を置いて静かに口を開いた。

「凪優、ごめん。嫌な思いをさせた。俺、ちゃんと向き合ってみるよ。蒼空にも、汐音にも」

その言葉の真意は、私には分からなかった。
だけど、確かに決意のようなものを感じとり、私はその横顔を見つめる。
湊斗も合わせるようにこちらを見て、真っ直ぐな視線が交わった。

ここ数日、こんな風に湊斗と目が合うことはなかったような気がして、喉の奥が詰まる感覚がする。

「うん、できるか分かんないけど努力する。ずっと逃げてたんだ、思い出すことが怖かった」

私は、何も言えなかった。

その辛さをもちろん知っているから。私だって今も、思い出すことに怯えるときもあるのだから。
ただ、その辛さに寄り添いたくて、いつも湊斗がしてくれるように手のひらをぎゅっと包み込んだ。

湊斗は、驚いたように目を丸くし、そのあと眉を下げて笑った。
優しい笑顔はいつも通りだけど、そんな困ったような笑顔を見るのはあまり無いことで、私は泣きそうになってしまった。

「……ありがとう、凪優」

その言葉と共に、そっと手のひらが離される。

「だから凪優は、凪優の気持ちに正直に進んだらいいよ」

再び歩き始めた湊斗から不意に落とされた言葉に驚く。湊斗の横顔は、何かが吹っ切れた表情に見えた。

「どういう意味?」
「自覚してないならいいけど?」

その意地悪な微笑みに、私は唇を尖らせた。

私自身でさえ、ほんの最近気がついた蒼空くんへの特別かもしれない感情を、彼はいつから察知していたのだろう。

「やっぱ、湊斗にはなんでもお見通しなんだなぁ……」
「何年の付き合いだと思ってんだよ」

彼の言葉に思わず笑みがこぼれる。数日間のわだかまりが溶けて、いつもの私たちに戻っていく感じがした。

***

「凪優、今日放課後みんなでカラオケ行こうって言ってるんだけどどう?」
「あ、うん、ぜひ!」

それから数日。私は相変わらず蒼空くんを中心にしたクラスメイトと楽しい生活を送っていた。

「凪優も来てくれるの嬉しい」
「うん、楽しみだね」

蒼空くんとのやりとりが増えるたび、胸の内は温かく満たされていく。

初めての感覚だった。
蒼空くんの優しい声や、何気ない笑顔に触れるたび、そわそわする感情を抱きながら毎日を過ごしていた。

「凪優、今日の帰りだけど、こいつらと約束あって」

お昼休みに、湊斗が私の教室へと立ち寄った。

「あ、うん!私も今日誘ってもらってるから、最終の船だと思う」
「じゃあ一緒だな。船着場で」

教室の入り口でそんな会話を交わしているところに、他のクラスへ行っていた蒼空くんが帰ってくる。
あの一件から、少し不穏な空気が流れがちな2人に、私は思わず肩を硬くした。

「帰り、暗いだろうから送ってもらえば?優しい蒼空くんに」
「……な、何言ってんの湊斗」
「ほんっと、鼻につく言い方が得意なんだね」

嫌味を言っているようで、どこか楽しそうな二人の表情に私は呆然としていた。

どこかのタイミングで話す機会でもあったのだろうか。
そう思ってしまうほど、以前とは違う空気に私は驚きながらもホッとする。

「ちゃーんと大切にお届けしますよ」
「それはそれはありがとうございます」

睨み合うように分かれる二人は仲がいいのか悪いのかいまいち分からなかったけれど、前よりはいいかと笑みをこぼす。

***

その日、みんなと遊んだ帰りは、ほんの少し風が少し冷たかった。
湊斗の冗談を鵜呑みにした蒼空くんに声をかけられて、ふたりで港までの道を歩いていく。

「送らなくていいのに。湊斗ふざけて言っただけだし」
「なんでよ、俺は凪優と話せる時間が増えるのは嬉しいけど?それに、湊斗に言われなくても送ってたし」

私が驚いて横を見上げると、蒼空くんは柔らかく笑った。

「そういうこと言うの、ずるいよ……」

小さく呟いた声は届いていたか分からないけれど、蒼空くんはおかしそうに笑っていた。

「あ、こっち通りな?」

不意に蒼空くんが私の後ろに周り、そっと肩を押して斜めに場所をずらした。

「え……?」

少し歩いて、ガードレール側は草むらが近く虫が多く飛んでいたことに気付く。
そのさりげない優しさと思いやりは、私の心に温かい気持ちを落とした。

蒼空くんの横顔は、柔らかい夕焼けに染まっていた。その光景を目にしたとき、不意に胸がざわついた。

「……汐音」

思わずその名前が口を突いて出た。私は驚いて立ち止まる。
隣を見ると、蒼空くんも同時に足を止めていた。

「うん?」
「……あっ、ごめん!なんでもない!」

慌てて誤魔化そうとしたけれど、彼の視線があまりにもまっすぐで逃げ場を失ってしまう。

「汐音って?」

表情は穏やかなままだったけど、どこか探るような空気が漂っていた。

「島の、知り合い。ちょっと蒼空くんに似てるなって」

当たり障りのない返事を探して、私は曖昧に微笑んだ。

「へぇ……?汐音、はどんな人?」

蒼空くんの問いには返事を詰まらせる。どう言えばいいのか、自分でもわからない。

「どんな人、そうだなぁ……」

以前は思い出すのも辛かった。そんな彼の姿が、蒼空くんのおかげで少しずつ鮮明に思い出せるようになっていた。
気付かないうちに私の口角は、柔らかく上がっていた。

「優しくて、穏やかで。いつも私たちの中心だった人、かな」

記憶の中の汐音の笑顔は、今でも時折蒼空くんと重なって見える。

「そう……。もしかして凪優は、その汐音のことが好き?」

蒼空くんの声は穏やかだが、どこか寂しげだった。その言葉が私の胸を抉るように響く。

「え?」

私は自分自身でも考えたことのなかったその問いに驚いていた。
彼は微笑んだが、その微笑みの奥には複雑な感情が見え隠れしていた。

蒼空くんと分かれ、湊斗を待っている間、私は自分の中の違和感が拭えないまま、胸を押さえた。

――私、私が惹かれているのは、蒼空くん、だよね……?

心の中に生まれた小さな違和感。
それは、穏やかに進んでいたふたりの未来に、亀裂をもたらそうとしていた。