最後の授業が始まる前に、俺は三組に茉李の鞄を取りに行った。
保健室に向かう途中でスマホを拝借。ボタンを押したらすぐにホーム画面が出てきた。ロックがかかっていないおかげですんなりと電話帳を開いて検索。そのまま茉李のスマホから目当ての人物に電話をかけた。
「あ、もしもし。俺、茉李くんの友だちの七瀬湊斗っていいます。茉李くんのお母さんで間違いないです? 先生から聞いていると思うんですけど。はい、俺が途中まで送りますんでご心配なく。あ、なにかあると悪いので、俺の番号教えます。はい、じゃあこの番号に後でワン切りします。大丈夫です、俺に任せてください」
鏡花さんの番号をゲットした。
この後、保健室に鞄を届けに行く。様子を見るふりをして、スマホだけさっき脱がせてベッドの横に置いた茉李のブレザーのポケットにそっと入れた。
放課後、先生が出て行った後に長椅子に置いてあった茉李の鞄の横に自分の鞄を置いて。カーテンを開けて入りそのまま閉めると、まだ眠っているだろうベッドに近づく。
茉李の顔の横に上半身だけ乗り出して左右囲むように手をつくと、ギシとベッドの軋む音が響いた。狸寝入りしているのに途中で気付いたけど、目が合った時に思わずどきっとしてしまった。同時に視界に映ったあの痕に対して、もやもやが混ざる。
縋りつかれた時。
抱きしめたいと思った。
抱きしめたら、優しくしたいって思った。
もやもやは消えてなくなったけど、それ以上に、俺だけを見て欲しいと思った。
友だち、でもとりあえずいいや。
いつか俺のこと、好きになってくれるよね?
『たすけて』
家の前まで来た時、開いていたアプリに飛び込んできたメッセージ。電車の中で連絡先を交換した。わざと自分の鞄を渡して茉李の家を特定し、間違って渡したことを伝えようと、文字を打っていた途中で表示されたその文字がなにを意味するのか。
すぐに返信し、俺は鏡花さんに連絡をした。同時にチャイムを鳴らす。
「茉李くんが危険かもしれません。助けてってメッセージがきて。今、家の前まで来たんでチャイム鳴らしてるんですけど、誰も出てこなくて。鏡花さん······俺が今から言うこと、信じてくれますか?」
俺は鏡花さんから色々と情報を聞き出し、当たり障りがないように茉李のことを話した。いつも休み時間は教室で眠っていること、過呼吸で倒れたこと、キスマークのこととか。とにかくそれとなく、話した。仕事はまだ終わっていないけど、ぜんぶ放置してすぐに向かってくれるらしい。
チャイムを鳴らし続ける。何度も何度も何度も。相手が出るまで鳴らした。数分して出てきたのは鏡花さんから聞いていた通りの若い男で、見た目はまあまあだけどなんか感じの悪いやつだった。
あとは知っての通り。
あいつは駆けつけてくれた鏡花さんの部下? にどこかに連れて行かれ、俺は茉李が閉じこもっているトイレの扉に寄りかかる。こんなことで解決したとは思っていない。原因は取り除けても、茉李の心は傷ついたままだろう。俺はそれに塩を塗りたぐった張本人。絶対に嫌われた。ぶん殴って気が済むなら、そうして欲しい。
でも。
「·····顔見たら、また····七瀬くんに縋りついちゃいそうで······そんなの····迷惑、でしょ?」
迷惑だなんて思ってない。
寧ろ、俺がいないと駄目な茉李にしたい。
俺だけの茉李にしたい。
鞄の中から小銭入れを取り出し1円玉を手にした俺は、扉の外側にある『ある場所』に当ててくいっと回した。カチ、という音が小さく鳴ったのを確認。1円玉はポケットにしまい鞄を置いて、数秒足らずで開錠された扉の取っ手に手をかける。
茉李はものすごく驚いた、というかホラー映画でも見ているような顔で俺を見上げてきたけど、こんなの常識なんだからな?
ぼろぼろな姿。顔も制服も。
「迷惑なんかじゃないよ。言ったでしょ? 絶対に逃がさないし、どこまでもつきまとうから覚悟してて。茉李は俺の運命のひとなんだから」
自分でも引くくらい茉李に執着している。
今朝出会ったばかりで、まだ一日も経っていないのに。
そっと涙の痕を袖で拭ってやり、乱れているシャツのボタンを留めようとしたんだけど、気が変わった。ぼんやりと俺を見上げてくる茉李は、なにか言いたげで。でもそれを聞くより先に手を引いて廊下に出た。いつまでもトイレの中っていうのもあれじゃん? 伝えたいこともあった俺は、茉李に訊ねる。
「茉李の部屋に行こ? とりあえず着替えた方がいいよ。ボタン、取れかかってるし。二階ってさっき言ってたけど、合ってる?」
茉李の家は俺の家より広くて綺麗だった。うちもそれなりに広いと思ってたけど、まるでショールームのお手本みたいな家。お金持ちの家って感じ。白を基調として統一された内装と、あえて余計なものは置かないというシンプルさも。
茉李の部屋は奥の部屋で、几帳面に整頓されていた。俺の部屋とは大違い。俺に促されてのそのそと着替え始めた茉李は、見慣れた制服から袖の長い白いトップスに黒いスウェット姿に変わった。
微妙に隠れていないあのキスマークはわざとなのか? いや、間違いなく天然だろう。
部屋の真ん中に置かれた足の低い丸いテーブル。窓の横にあるベッド。壁側の黒のシックなディスクは勉強用だろうか。俺の背より高い本棚がふたつ並んでいて、ハードカバーな本と単行本サイズの小説や参考書がぎっしり並べられていた。どうやら漫画は読まないらしい。
「お、お腹空いてない? 冷蔵庫になにかあるか····も、適当に取ってくる····ね」
落ち着かないのか、なんとか部屋を出て行こうとしている茉李を捕まえて、俺は後ろからぎゅっと抱きすくめた。冷たいと思っていた身体は思いの外あつくて。俺はそのぬくもりを放したくはなかった。
「茉李、意識してる? 別に何もしないよ? 俺たち友だちなんだし」
「と、友だちは、そんな風に後ろから抱きついたりなんてしないよっ」
そっか?
俺はたまにするけどなぁ。
「俺のこと嫌い? うざい?」
「き、嫌いじゃない、けど····こんなの、変だよ」
変?
変かな?
「俺たち、まだ友だちになって数時間しか経ってないのに·····それに······和希くんが、言ってたでしょ? 俺があんなことされて喜んでたって····違うのに······嫌だったのに、俺、」
でもこうやって抱きしめたりするのは嫌じゃないんだよね? それって、つまり。俺のこと好きってことじゃないの? あれ? 違う? 間違ってる?
今だって逃げようと思えば逃げられるだろうし、俺を拒否することだってできる。それなのに身じろぎもしないのは、少なくとも嫌じゃないってことで合ってるんだよね?
「なんで····七瀬くんは、俺のこと放っておいてくれない、の?」
自分から『たすけて』って縋りついてきたのに、またそうやって『なんで?』って訊いてくる。そんなに不安なのかな? わからないのかな? 俺が茉李に対してどんな感情を持っているのか。ずっと一緒にいたいって言ったの、冗談なんかじゃないし。朝も昼も放課後も。俺の目の届くところにいて欲しいんだってこと。
「茉李が好きだから。それだけじゃ足りない?」
出会ったのは今日で。
言葉を交わしたのも今日で。
でも運命だって思えたんだから。
放したくないし、放ってなんておけない。
「君が好き。それだけじゃだめ?」
あんな痕が視界に映らないくらい、俺の印を付けて。茉李は俺のものだってこと、思い出して欲しい。その生白い左の首筋に嚙みついて。
俺だけの印で君を飾りたい。
「い、痛いよ······なんで噛む、の?」
「これ見る度に、俺のこと思い出すでしょ?」
顔を覗き込んで問いかける。
みるみる真っ赤に染まっていく顔が愛おしい。
「友だちごっこは、もう終わりでいい?」
明日から俺たちは····。