「同意? 俺が触っているの知ってて抵抗してない時点で同意だろ。それに茉李くんは俺に気があるみたいだったし、内心は喜んでたんじゃない?」

 なんで····?

「暗がりでも見えてたあのなんといえない表情、君にも見せてあげたかったな」

 気持ち悪くて必死に耐えてただけなのに、和希くんには喜んでるように見えた?

「というか、さ。君、関係ないよね? それとも一緒にあの子で遊ぶ?」

 最低だ。本当に、嫌だ。
 
 七瀬くんの表情が見えないのが唯一の救い。俺はトイレの中でじっとしているだけで、ふたりの間に入っていく勇気もなかった。違うって否定することもできない。

「ふーん。で、いつもどんなことしてたわけ? 興味あるかも?」

 七瀬くん····なんで?

「はは! 君さ、ホントにあの子の友だち? さっきまでの正義の味方っぷりはどこにいったのさ。最初の印象通り、君もやっぱり"こっち側"じゃん。いいよ、特別に教えてやる」

 和希くんはあのことを話すつもりなの?
 七瀬くんはそれを聞いてどうするつもり?
 あんなこと、知られたくないのに。

 俺はスマホを持ったまま両耳を塞ぐ。聞きたくないし、聞かれたくもないのに、どうしても扉の向こう側へ出て行くことができなかった。耳を塞いだところでふたりの声が聞こえなくなるわけじゃないのに。

(俺····もう、無理かも······、)

 光に縋って。
 結局は、闇に呑まれる。

「触るだけっていうのも意外と楽しいんだよ。髪の毛とか耳たぶとか。柔らかい頬とか。慣れてきたら首筋に平らな胸に細い腰に、太もも。指もいいよね。左の鎖骨のキスマークはこの前の土曜日にはじめて付けたんだけど、なんかいいよね。所有物って感じが増してさ。今日はその先を試してみようって思ったんだけど。君が邪魔するから台無しだよ」

 つらつらと。
 和希くんは楽しそうに話している。
 触られているだけ、なのに。
 思い出すだけでも震える。

「そっか。あんたってホント、救いようがないっていうか。残念なひとだな」

「は····?」

「黙ってればイケメンって言われない?」

「君が興味あるって言うから、トクベツに教えてあげただけだろ?」

「ああ言えばおんなじ趣味の変態仲間ができたって、あんたが喜んでべらべらしゃべってくれるかも? って思ったからな」

 どういう、こと?

 俺は今の状況に混乱する。閉じていた瞼を開き、塞いでいた耳を解放する。ちょうどその時。勢いよく玄関の扉が開く音と同時に、

「話はぜんぶ聞かせてもらったわ!」

 なぜか女性の甲高い声が響いた。

「お嬢、どうします?」

「上条、お嬢はやめてっていってるでしょ!」

 お嬢ってなに? 母さんだよね、この声。もうひとりは部下の上条さん?

 母さんのお父さん、つまりおじいちゃんは十数年前からこの近くで不動産会社を経営していて、今は母さんが社長代理をしている。

 元々は違う家業? をしていたみたいだけど、俺が生まれる少し前に今の会社に変わったらしい。前の家業がなんだったのかは、みんな目を逸らして教えてくれないのだった。

 ちなみに上条さんは背が高くて声が低い四十代くらいのおじさんで、いつもサングラスに黒いスーツを着ている。ちょっと強面なんだけど、なぜか母さんに対してものすごく腰が低い。社長代理と部下の関係だからだろうけど。

「言い訳は無用よ。和希くん、君にはとりあえず別の部屋を用意しているわ。彼が連れて行ってくれるから、今日からそこで生活しなさい。荷物は後で送ってあげる。あなたのご両親に言うかどうかは茉李の話を聞いてからにするけど、ただで済むだなんて思わないことね。あなたも知ってるでしょ? うちの昔からのルール」

「きょ、鏡花さん、誤解です! 俺はなにも」

「なにもしてないなんて言わせないよ。ちゃ~んと証拠も残ってるしね」

 証拠ってなに?
 七瀬くんがどこか楽し気にそんなことを言う。

「まさか、さっきの会話····っ」

「ぜんぶ録音してるに決まってるでしょ」

 録音····って、和希くんにあのことを語らせたのは、そのためだったの?

 でもなんでそれで母さんがタイミングよくやって来たのかはまったくの謎だった。それよりも、七瀬くんにだけじゃなく母さんにも知られてしまったことに頭が真っ白になりそうで。指先が、身体中が、ひんやりと冷たくなった。

「さっさと連れて行って。二度とここに近寄らないようにしっかり監視しなさい」

「もちろんです。ほら、行くぞ」

「ひぃっ⁉ い、いやだっ! 俺は悪くないのにっ」

「俺はこう見えてものすごく気が短いんだ。すぐに手が出るから気を付けるんだな、」

 上条さんのひと言で和希くんは一瞬にして無言になった。玄関の扉が閉まる音がし、あんなに騒がしかった外が急に静まった。

「君のおかげで色々と間に合って良かったわ。七瀬くん、だったかしら?」

「いえいえ。俺の話を信じてくれてありがとうございました。でも、結果的に茉李を傷つけたことに変わりはありません。きっと知られたくなかったでしょうし。もう俺の顔も見たくないかも」

「それは本人に訊いてみてからじゃない? 君は茉李の友だちなんでしょ?」

 友だち。
 そんな資格、俺にあるのかな。

「私はあの子が落ち着いた頃に話を聞くから、ここは君に任せてもいいかしら? まだ仕事が残っているから、一度会社に戻らなきゃならないの。八時くらいには帰って来られると思う。あの子も考える時間が必要でしょうし、」

 扉を背にしたまま、俺は膝に顔を埋める。もう、どうしたらいいのかわからない。ぜんぶ話すなんて無理だよ。あんなこと、話したくない。

 母さんはそのまま出て行ってしまったようで、少しして足音がこちらに近づいてくるのがわかった。それは俺が背にしている扉の前で止まり、小さなため息が聞こえてきた。

「····ごめん。任せろとか言っておいて。茉李のこと、傷つけた」

 気のせいかもしれないけど、七瀬くんが扉に寄りかかっているような気がした。声がこちら側ではなく廊下側に響いていたから。

「な、······なん、で?」

 声を振り絞って、なんとか呟いたけど。
 俺はまた「なんで?」しか言えなくて。

「嫌な思いさせた」

 でも、七瀬くんが来てくれなかったらもっと酷い目に遭っていた気がする。乱れたシャツを握りしめて、唇を噛みしめる。あの時、応えてくれたこと。それだけで本当は、救われたんだって。

「俺、友だち失格? 一日で絶交? もう、顔も見たくない?」

「そ、そんなこと、ない·····」

 でも、どんな顔をしてここから出て行けばいいかわからない。

「······顔見たら、また····七瀬くんに縋りついちゃいそうで······そんなの····迷惑、でしょ?」

 無言。
 無音。
 そうだよね。やっぱり、迷惑だよね。

 カチ。

「え?」

 すぐ耳元で鳴った音に、俺はびくりと大きく肩を揺らした。

(え? え? な、なんで⁉)

 同時に、鍵がかかっていれば動くはずのない上下で開くレバーのような取っ手が下がったことに対して、俺は思わず立ち上がってしまった。そして開いた扉の隙間から満面の笑みでこちらを覗き込んでいたのは、もちろん····。

「知らなかった? この手のトイレの鍵って、外から開けられるんだよ? 隠れ場所には適さないから、今後は気を付けるように」

 さっき和希くんも同じこと言ってた気が。
 いや、怖いって······。