あのひと(・・・・)四宮(しのみや) 和希(かずき)が家にやって来たのは一年前。母方の遠い親戚のひとり息子で、通う大学からうちが近いこともあり、卒業するまでの間だけ居候することになったのが、すべてのはじまり。

 母さんは知らない。知られたくもない。
 あんなこと、誰にも言えるわけがなかった。

 最初の印象は『優しいお兄さん』だった。勉強を教えてくれたり、受験勉強の息抜きに遊びに連れて行ってくれたり。けど中学三年の夏頃から、少しずつ疑問が生まれ始める。過度な接触。ふたりきりの時の距離の近さ。違和感を覚えつつも、季節は過ぎていき、高校受験を迎えた。

 なんとか希望の高校に受かった俺は、油断していたのかもしれない。

 四月。入学式も終わり、一週間ほど経った頃。

 土曜日の深夜。部屋の扉が開く音がして目が覚めた。うっすらと暗闇の中に浮かぶ人影と、こちらに近づいてくる足音に恐怖を覚えた。

 母さんじゃない。それだけはわかる。俺は寝返りを打つふりをして足音に背を向けた。きゅっと瞼を閉じる。

(なんで? こんな時間になにしに? 部屋を間違えてるとかじゃ、ないよね?)

 暗いといっても、自分にさえ近づいてくる人影は認識できた。部屋を間違えたとしても、すぐに気付くはず。それでもこちらにやって来るのはなぜなのか。ぎし、とベッドが軋む音と、自分以外の体温を感じた。怖い。ただ、怖かった。

 無言で触れてくる指先。息遣いだけはやけに鮮明で。見えていなくても相手が今どこにいて、なにをしているのかだけははっきりとわかった。

 俺が逃げられないように四つん這いになって身体を囲んで、身動きできないようにしているみたい。髪の毛に触れてくる指先。そのままそっと撫でるように首筋に這わせて。目を閉じているせいで余計にぞわぞわとするその感覚に、青ざめる。

(な····んで? なに、してる、の?)

 それから十分以上の間色んな場所を執拗に触られ、声を殺して俺はそれに耐えた。反応してしまったら、終わりだと思った。彼は満足したのか、ベッドの上から降り、何事もなかったかのように布団をそっと掛けて、来た時と同じように音を立てないように部屋から出て行った。

 遠くなっていく足音が完全に消えた後、俺は震える身体を抱きしめながら、ベッドの上で蹲るように丸くなる。

 もう解放されたのにまだその感覚が消えない。まるで蟲が身体を這っているかのような嫌な感覚が残っていた。怖い。怖くて、震えが止まらなかった。緊張が解けたからか涙が零れてくる。

 知らないうちに、なにか彼を怒らせるようなことをしたのだろうか? これはその報復? それともいつもの悪ふざけの延長?

 俺はその後、何時間経っても眠れなかった。

 それから、毎週土曜日の夜に彼は俺の部屋にやって来るようになった。家で眠るのが怖くなった。学校の休み時間になるべく眠って、勉強に支障がでないようにするしかなかった。そんな日々が続いていたせいもあって、あの失態。

 今日一日で、俺の人生は急展開を迎えてしまった気がする。七瀬湊斗に出会ってしまったせいで、起こった大きな変化。こんなことってある?

 それこそ彼が言うように、出会ってしまったことが『運命』なのだとしたら、今日という日は本当に特別な気がする。

 思い出すだけで、まるでドラマや映画のような奇跡だ。

 少しでも時間を潰すために駅前の本屋に立ち寄り、一時間くらいふらふらと歩きまわってから家に向かう。母さんから送られてきたメッセージ。少し遅くなるかも、というその文字でますます足が重くなる。

 鍵を持つ手が自然と震えている。

「大丈夫だよ。落ち着くまで俺がずっと一緒にいるから」

 ふと、頭の中で響いた声。

(····だいじょうぶ。俺は、大丈夫だ)

 あのぬくもりが俺に勇気をくれる。
 鍵を回して扉を開けた。

「······ただいま、」

 抱きしめられた時、全然怖くなんてなかった。
 だからきっと大丈夫なんだって、そう、思っていたのに。

「おかえり、遅かったね」

 目の前に立っている彼を視界に映した瞬間、すべてが無に帰す。

「····和希、くん?」

 ずっと玄関先で待っていたのか、笑顔で俺を迎えた和希くん。そこにはなにか含みがあって、俺はその場から動けなくなった。そんな俺に気付いたのか、和希くんは靴を脱がせ鞄を持ち、手を引いて歩きだす。二階にそのまま連れて行かれた。そこは俺の部屋じゃなく和希くんの部屋だった。

「今日、鏡花(きょうか)さん遅くなるんだって」

「······うん、知って····る」

「そう? あのさ、ずっと訊きたかったことがあるんだけど」

 和希くんは目を細めてふっと口元を緩めた。
 優しい優しい笑顔の仮面。その容姿は誰が見ても好感の持てる好青年。頭も良くて、格好良くて、きっと色んなひとが彼のことを好きだというだろう。

 俺も最初はそうだった。

「茉李くんは俺に触られるの好きでしょ?」

「··········は?」

「寝たふりなんかしちゃってさ。可愛いよね、」

 どん、と強く胸を押されて身体がよろめく。そのまま視界には天井が映り、身体が強張って上手く動けない。

(寝たふり、気付いて····つまり、全部知っててやってたってこと?)

 逃げなきゃ····!

「や····だ······っ」

 覆い被さるようにして俺を押さえつけ、制服を脱がせようとしてきたその身体を思い切り突き飛ばして、俺は勢いよく起き上がって部屋を飛び出した。

 乱れた制服なんて気にしている場合じゃない。

(どうしよう····外に出て誰かに助けを求める? でもなんて説明するの? 追い付かれて適当に誤魔化されて連れ戻されるに決まってる!)

 とにかく隠れないと!

 鍵がかけられる場所なんてトイレくらいしかない。俺は階段を駆け下りてトイレに閉じこもる。

(母さんに連絡····、)

 けど、話して信じてくれるのだろうか?
 彼は母さんに信頼されているのに?

 ポケットに入れていたスマホを手に、俺はスクロールしていた指を止める。震えて上手く動かないのに、そんなことを考えてしまったらますますどうすることもできなくなってしまった。そんな時、目に留まったその名前に俺は視界が滲む。

(無理、だよ····だめ、だ····甘えちゃ····)

 そう思いながらも、指先が文字を打っていく。

『たすけて』

 たった四文字。
 うまく文字が打てなくて、息もできなかった。

 コンコン。
 軽く弾ませるようにされたノックの音がトイレの中に響く。

「馬鹿だなぁ。茉李くん、トイレの鍵って外からも開けられるんだよ?」

 楽しそうなその声は、俺にとっては恐怖でしかなかった。気付いたら送信ボタンを押していた。こんなの送っても相手は意味がわからないだろう。けれども一瞬で既読マークが付き、その数秒後に送られてきた文字。

『わかった』

 え?
 なにが?

 そのすぐ後に"ピンポーン"と長いチャイムが鳴った。

 もしかして母さんが帰って来た?

 どちらにしてもこれは逃げるチャンスだ。
 そう思った矢先。

 ピポピポーン。ピポピポーン。ピポピポーン。

「うるさ····なに? 誰?」

 和希くんのわかりやすく苛立った声がドアの向こう側から聞こえる。

 ピポピポーン。ピポピポーン。ピポピポーン。
 ピポピポーン。ピポピポーン。ピポピポーン。

 突然玄関に響きわたったそのしつこいチャイム音は、色んな意味でホラーだった。