どうしたって、もう、取り返しがつかない。

 暗闇の中で触れられる怖さ。大人になんて勝てるわけがない。抵抗したらもっと酷いことをされるかもしれない。

 だから我慢する。
 我慢して我慢して。
 声を殺して。
 自分を殺して。
 息を殺して。
 されるがままに。

 今はまだ、この程度で済んでいるのだと諦めるしかない。

 あの時、彼の手を拒否してしまったのは、別に彼が怖かったからではなくて。彼と知っていながらも、暗闇の中で伸ばされた手に恐怖を覚えてあんな態度をとってしまったんだって。

 けれどもそれを言ってしまえば、そうなってしまう理由を話さなくてはならなくなる。

 そんなの、無理だ。

 夕暮れに染まった保健室で、君にまた縋りついてしまったこと。後悔なんてしていない。

 大丈夫、といってくれたこと。
 抱きしめられたぬくもりも。
 ぜんぶ。

 君にだけ。
 君だけが。

 光と闇が混じり合うことはない。いつだって、相反している属性。でも、どうやら君は違ったみたい。君もまた、同じなのだと。

「俺に触れられるの、怖い?」

 壊れ物にでも触れるように包み込むように抱きしめられているのに、どうして怖いだなんて思うのか。ただ、心臓はばくばくしていて、これは怖いからなんかじゃなくて、緊張しているからだ。

 今朝、はじめて言葉を交わした。今まで認識すらされていなかった自分。入学当初から有名だった七瀬湊斗。同じ電車でずっと見ていたなんて、言えるわけがない。今朝のは本当に偶然で、俺にとっても事故だった。

「ね、俺と友だちになって? 朝は一緒に登校して、帰りも一緒に帰ろ?」

 彼がどういうひとなのか、なんとなく察してしまった。

「昼も一緒にご飯食べて、なんなら放課後も。今からでも入部届だす?」

「いや····ちょっとそれは、無理。七瀬くん、弓道部でしょ?」

 というか、部活。今って放課後だよね?
 俺なんかにかまってないで、部活に行った方がいいんじゃ····。

「ふーん。部活以外のはOKってこと? 決定?」

 耳元で明るい声で言われ、なんだかくすぐったい····って、絆されたら駄目だってば!

「友だちは、だめ?」

 なんだろう。大型犬に抱きつかれている気分。飼ったことないけど、なんとなくそんな気持ちになる。見えないけど、感情と一体化した耳と尻尾が上がったり下がったりしてそうで、なんだか可愛いなって思った。

 って、だからそうじゃないんだってば!

「····と、友だちは、こんなこと、しない」

 抱きついたのは俺の方だけど、ぎゅっとしてきたのは予想外だったのだ。絶対に嫌われると思った。引かれるって。こんなの、普通なら気持ち悪いに決まってるのに。

 なのに、予想に反してこんなにも執着されているのはなぜなのか。

 朦朧としていた意識の中、名前を呼ぶ声が聞こえた。いろんな声がノイズ()じりで聞こえる中、彼の声だけははっきりと聞こえていた。茉李、と。誰かが教えたのだろう、俺の名前を。

 彼の声で紡がれるその名は、まるで自分の名前じゃないみたいだった。

「じゃあ、恋人になる?」

「は····? なんで?」

「また、なんで? 茉李はなんにでも理由が欲しいんだ? じゃあ、なにか理由があればいいの?」

 離れていくぬくもり。

 じっと見つめてくるその瞳はどこまでも優しげで、俺はやっぱりその光の部分に縋りつきたくなってしまう。こんなの、間違っているのに。好き、とはきっと違うのに。ましてや同性同士で恋人だなんて、考えられない。ふざけて言っているわけではないとわかる。それでも、どうして俺なのか。

「茉李のこと、きっと好きになると思うから」

 好きだから、じゃなくて、予定なんだ。

 彼は思ったままのことを口にしているだけで、なにか考えているわけではないみたい。

 もしかして、ずっとそうだったの? 無意識で言ってた? 逃がさない、とか。諦めないとか。どこまでもつきまとう、とか。

 いや、それはそれで怖いけど。

「····友だち、でお願いします」

 彼の言う友だちの定義も、ちょっと無理かもだけど。授業以外、四六時中ずっと一緒とか。その発想もなんかズレてる気が····。

 けれども選択肢は友だちか恋人。ただの同級生や、赤の他人じゃ駄目ってことだ。そうなったらもう、友だち一択しかない。

「やった~。じゃあ、今から俺たちは友だち! ってことで、一緒に帰ろ?」

 言いながら、今度は俺に抱きついてくる七瀬湊斗。俺はされるがまま、彼の肩越しにカーテンを見つめるしかない。やった~で抱きしめられ、一緒に帰ろ? で離された俺の顔は、きっと真っ赤になっていたことだろう。今が夕方でよかった。

(やっぱり耳と尻尾が見える····)

 そして笑顔が眩しすぎる。夕焼けよりも眩しいその笑顔は、俺には直視できそうもない。遠い目をしている俺のことなど気にも留めず、すぐ横に座っていた七瀬湊斗はベッドから立ち上がり、近くに置いてあったブレザーを取って肩にかけてくれた。

「あ、ありがと····」

「鞄も持ってきたから、すぐに帰れるよ」

「····なにからなにまで、ごめんなさい。あ、部活は? 顔出さなくて大丈夫?」

「今日は月曜日だから、自主練組だけやってるんじゃない?」

 そうなんだ。

 弓道部って休みなく活動しているイメージだけど、月曜日は個人の判断でってことなんだろうか。俺に気を遣ってるわけじゃなさそうだし、それならいいんだけど。

「立てる? またお姫様抱っこしてあげようか?」

「え?」

 ナニソレ。

「ん? 教室からここまでお姫様抱っこで運んだんだけど、憶えてない?」

「お、憶えてるわけないよっ····俺、明日どんな顔して教室に入れば····」

 そもそもあんな態度を取った挙句、ぶっ倒れて迷惑をかけた時点で終わってる。
 
 その上、明日も一緒に登校なんてしたら、女子たちにどんな陰口を叩かれるか想像しただけでも逃げ出したくなる。

「ああ、そうそう。クラスのみんなにちゃんとお礼を言わないとね。茉李のこと、みんなで協力して介抱してくれたんだ。俺も一緒にいってあげるから安心して?」

「え····そうだったの?」

「そうだよ。みんな、茉李が過呼吸で倒れた時、助けてくれたんだよ。だから、明日ふたりで一緒にお礼しような?」

 あのひとたちが俺なんかを?
 いや、たぶん、彼がなにか言ってくれたのかもしれない。

 ブレザーに袖を通して、ボタンを留める。その時はじめてシャツのボタンが外されていることに気付き、一気に血の気が引いた。

「どうしたの? まだ立てない?」

「あ、あのさ····ボタン、君が外した、の?」

「そうだよ。苦しそうだったから」

「見た、の?」

 見られた?
 あんなものを見られたら、俺は。

「なにを?」

「あ······ううん、なんでも、ない」

 首を傾げて不思議そうに訊ねてくる七瀬湊斗。

 良かった、見られてない? 一瞬、身体が強張り、氷にでも覆われたかのように冷たくなった気がした。そうだよね、彼ならもし"あれ"を見たとしたら、黙っているわけがなかった。きっと、彼の方から訊いてくるはずだ。

「はい、ネクタイ。自分でできる? 俺がしてあげよっか?」

「い、いい····自分でできる」

 本当は苦手だけど。

 もたもたと指先を動かしながら、俺はネクタイを締める。その間、彼は急かすこともなくただじっと俺のことを見つめていた。それはそれで焦るから止めて欲しい。どこまで本気でどこまでふざけているのか、本当にわからない。

 それから途中の駅まで一緒に乗って、俺の方が先に降りた。閉まる扉の向こう側で七瀬湊斗が笑顔でこちらに手を振っていた。俺は恥ずかしくてそれに応えることはできなかったけど、電車が動き出して見えなくなるまでその場で見送った。

 あんなに真っすぐなのに、どこか歪んでいる。

 その歪さが彼の光に闇を落とす。だから俺は惹かれたのかもしれない。眩しいヒカリに。歪んだ闇に。手を伸ばしてみたかったのかもしれない。

(助けて、なんて····いえない)

 ゆっくりと、重たい足を動かして。
 今日も俺は、あのひと(・・・・)が待っているかもしれない家に帰るしかないのだ。