春。高校一年生になってひと月半。五月のよく晴れた朝。
俺、七瀬 湊斗は、出勤する会社員や学生でぎゅうぎゅうに詰められた満員電車の中であるハプニングに見舞われていた。最初に乗った駅はまだマシなのだが、ふた駅ほど過ぎるといつもの光景となるこのすし詰め状態の電車内で。見知らぬ学生に抱きつかれていた。
(いや、ちょっと····マジでどういう状況⁉)
それはひと駅前のこと。どっと入ってきた乗客の波に奥の方へと追いやられてしまうのは仕方ないのだが、押し込まれた先で正面を向いたまま俺の方に倒れこんできたその子は、そのまま制服越しに生白い指で胸元にしがみ付き、俯いたまま抱きついているのだ。
ん? 今、一瞬誰かと目が合ったような。
やっぱり気のせい?
だとしても、知り合いじゃないことを祈るしかない。
(ってか、同じ制服だし。それにこの子····めちゃくちゃ細いし、ちゃんと食べてるのかな? 色白で、まつ毛長い····可愛いし、白いし白い····)
いや、大丈夫かな? 白すぎだろ。
これって顔面蒼白ってやつじゃ····。
「もう少し我慢できる? 次で降りよう?」
ちょうどアナウンスも流れ、もうすぐ駅に到着するようだ。本来降りるはずの駅はふた駅先だったが、こんな状態の目の前の子を放っておけるわけがない。それに気付いて途中からその子の腰に右腕を回して支えていた。あと数十秒ほどで電車は止まるだろう。それまではなんとか我慢してもらうしかない。
「····ごめ、······めい、わく、」
迷惑?
迷惑なのでごめんなさい?
それとも迷惑かけてごめんなさい?
どっちでもいいや。
電車がブレーキ音を響かせゆっくりと速度を落としていく。停車した時に少しだけ揺れたが、俺はその子を離す気はなかった。隙間なくぴったりとくっついた状態のまま、後ろの扉が開いた。
「気を付けて? ゆっくり降りよう?」
さすがに抱き合ったままではまずいので、その子の右肩に腕を回して誘導するようにゆっくりと扉の方へと向かう。押されるような圧が背中にかかるが、それでも歩幅をあわせるようにゆっくり歩くことに専念する。左肩に自分の鞄の持ち手をかけ、その子の鞄も持ってあげた。
それからは多目的トイレでその子の介抱。まさかの初対面で他人のゲロ処理をするとは思っていなかったが、こればかりは仕方ないだろう。吐いて少し楽になったのか、顔色も少しずつだが良くなった気がする。
背中をそっと撫でながら、大丈夫大丈夫と何度も繰り返して言ってみたものの、本人からしたら相当ショックだったことだろう。同じ高校だし、また顔を合わせることだってあるはずだ。俺はぜんぜん平気だけど、この子は繊細そう。
ふたりでトイレから出た時、ふと気付く。事情の知らないひとが目にしたら変な想像されそう····だが運が良かったのか、無関心なひとの方が多いからか、俺たちに注目しているひとはいないみたいだ。
駅の構内に設置された一人掛け用の椅子に並んで座り、途中で買ったペットボトルの水を手渡すと、その子は俯いたまま小さな声で「ありがとう」と呟いた。
「俺は七瀬 湊斗。君も同じ学校だよね? 一年? 何組?」
俺たちが通っているのは、一応文武両道を謳う進学校である。この辺りでも三番目くらいには有名な私立の学園だ。紺色のブレザーの胸元に刺繍された校章。赤いネクタイ。グレーと黒のチェックのズボン。ブレザーの襟のあたりに付けられた小さなピンバッジが緑色だったことから、同じ学年だとわかる。
水をこくりと少しだけ飲み込み唇から離すと、その子は小さく頷いた。
お気付きだろうか? 彼は一度も俺の顔を見てくれないし目も合わせてくれない。完全に拒否られてる気がしてならない。
「··········三組」
名前は教えてくれなかったけど、クラスだけなぜか教えてくれた。
「俺は二組。そっか、じゃあ知らないわけだ」
一組と二組は体育が合同なのでなんとなくだがお互いに認識できるレベル。全員の苗字と名前までしっかり憶えているかといえば微妙なところだが。顔くらいは憶えている。でも横にちょこんと座っているこの子はまったく知らない子だった。
少し茶色がかった男子にしては長めの柔らかそうな短髪。ショートボブに近いのかな。寝ぐせなのか元々のくせ毛なのか、先の方が少しうねっている。顔色が戻っても色白。ぼんやりとした印象だがどこか儚さもあって、眠そうだが大きな瞳と長い睫毛が特徴的だ。
「····ごめん」
「別に謝らなくても。ほら、袖振り合うも他生の縁っていうじゃん? まあそれ以上のことしちゃってるけど」
「······ごめん。ホント、なんて言っていいか····、見知らぬ男に抱きつかれた挙句、ゲロの処理までさせて····しかも完全に遅刻······俺、どうしたら」
「ああ⁉ 違う違う、そういう意味じゃなくて!」
良い意味で言ったはずが、ますます落ち込んでしまった。でも俺にとってはそんなマイナスなことなんかじゃなくて。
「じゃあ、こうしよう。まずは名前を教えて? それから、俺と友だちになってよ」
「え······なんで?」
なんで? って逆になんで!?
ものすごく疑いの眼差しで視線だけこちらに向けてくる。まさかそんな反応が返ってくるとは思わなかった。
(つまりは見ず知らずの俺に名前も教えたくないし、友だちにすらなりたくないってこと⁉)
ショックすぎる····。
これでも友だちは多い方だし、誰かに嫌われる要素はないと思って生きてきた。両親も周りも俺のことを可愛がって甘やかしてくれていたし、困っているひとがいたら助ける、誰に対しても優しく接することを教え込まれてそれを実践してきた結果、男女問わず仲良くなれるスキルも自然と身についた。
いつも笑顔でいれば、相手だって笑ってくれる。そう思っていただけに、これは地味に辛い····。
「····俺のことなんて、憶えていなくていいよ」
は?
「俺も、君のことはもう忘れるから。君もどうか忘れて欲しい」
いやいや、無理だって。
すごいの見ちゃったし。
それに、電車内でのことだって。
(忘れろとか無理だし!)
だって、俺はとうとう出会ってしまったのだ。
これは運命の出会い。
決定! それ以外認めないし!
「じゃあ勝手に調べることにする。三組ね。それだけわかればじゅぶんでしょ」
言うまでもなく、その子は「信じられない」という顔で俺の方を見上げてきた。やっと、こっち向いてくれた。絶対に逃がさない。
「それに遅刻の理由、ちゃんと先生に説明しないといけないし。もちろん一緒に説明してくれるよね?」
後で気付くことなのだが····。
この"運命の恋"は、はじまりからどこか歪んでいたみたいだ。