草木の青々とした香りが通学路に広がり、蝉の声が遠くから聞こえるようになった。期末テストを終えた教室は妙に浮き足立ち、友人同士で夏休みのスケジュールを確認する声が飛び交っている。そんな中、ホームルームでは文化祭の出し物についての話し合いが行われた。直哉は窓際から二列目の一番後ろの席から、黒板に書き出された出し物案を順に眺めていた。候補案は模擬店にお化け屋敷、劇や脱出ゲームといった、お決まりとも言えるラインナップ。クラス代表が多数決を取ったところ、模擬店と劇が同列票だった。昨年模擬店をしたクラスが多い学年ということもあり、勝手が分かるため比較的に臨みやすいが、去年とは違うことをやりたいと言い出す者の意見もある。再び多数決になりそうなところを遠目に、直哉は昨年の文化祭を思い出していた。直哉の作ったお好み焼きを美味しいと言って頬張った馨の嬉しそうな顔。お化け屋敷で勝負をし、負けた直哉が顔出しパネルで写真を撮った事。
 あの写真、やめろって言ったのに数ヶ月はスマホのロック画面にしてたよな……。
 数ヶ月後には別の写真に変わったのを確認したが、思い出しただけなのに背中が一瞬ゾクリとする。自分のクラスが諦めたとはいえ、今年もお化け屋敷に関してはどこかのクラスがやりそうな出し物だ。
 また、馨さんが行こうって言い出したら……あ。
 直哉は黒板から視線を手元に戻す。音を立てずに椅子を引いて、スラックスのポケットからスマホを取り出すと、ロック画面を表示した。
 そう言えば俺は変えてなかったな……。
 去年、夏休みの図書室当番表決めの際に、当番の日をスケジュールアプリへ入れ込むのを面倒くさがってホワイトボードの写真を撮り、それをロック画面に設定したままだった。ホワイトボードには、馨が書いた「如月」と「朔間」の文字が隣り合わせで並んでいる。この時、初めて馨が丸っこい字を書くのだと知った。
 流石に変えないと、今年の日付とごっちゃになってわからなくなりそうだ。
 夏休みは目前で、これから図書委員会の当番決めもあれば文化祭の準備で顔を出す日も決まっていく。このロック画面は自分の混乱防止に変更した方が良いと、直哉はスマホのデータフォルダを開いた。
 何に変更するかな……。
 写真をスクロールしていくと、美味しそうにラーメンを頬張る馨の写真が出てきた。湯気の間から見える顔は、頬がリスのように膨らんでいる。直哉の手がその写真で止まり、小さな笑みを溢した。
 まだ、良いか……。
 設定したい写真は直ぐに見つかるが、恥ずかしいという感情とは別の独占欲が働いて、直哉の手を止めた。不意に誰かに見られる可能性を考えると仕方ないだろう。そう言い聞かせた直哉は、スマホの画面を閉じると、出し物決めの多数決で劇に一票入れた。



「それで、王子役にはならなかったんだ?」
「自分だってやらなかったくせに」
「直哉に見せるのには刺激が強いと思ってね」
「どんな刺激だっつーの。良いんですよ、俺は裏方で」
 直哉は悪態を吐くと、目の前のグラスに入っていたレモネードを一気に飲み干し、目の前に広げたテキストに向き直った。
 お互いが夏休みに入ったタイミングで、直哉と馨は最近馨がアルバイトを始めた近所の喫茶店で落ち合う約束をした。今回誘ったのは直哉からで、口実は夏休みの課題だ。実際、進級してから授業内容は難しくなり、数学と英語はしがみついてなんとかこなしている。ホームルームでは、この長期休み明けのテストから内申に響き始めると脅され、馨に助けを求めたのだ。
「直哉、ここ間違えてる。さっきの応用だからもう一度考えてみ?」
「げ……」
「これ分からないと裏方でもすごーく頑張らないといけなくなるよ」
 馨はくすくすと笑って静かに嫌味を言う。
「分かりましたよ……ったく」
 ぶつくさと文句を言いながら、直哉は再度その問題に取り掛かる。チラリと目だけで向かいに座る馨を見上げると「頑張れ」と小さな声で呟いて、読みかけの文庫本に視線を落とした。その姿に、直哉は図書室で初めて出会った馨を思い出してどきりとする。
「ん?まだ分かんないの?」
 目が合って更に心臓が跳ねた。この声にも、目にも、笑った顔にも慣れたはずなのに、心臓の反応はいつだって冷静を保てない。
「今からやるんです」
「じゃあ、また分からなかったら言ってね」
 馨はまた、くすりと笑って文庫本に視線を落とす。伏せたまつ毛は相変わらず長くて綺麗だと感じ、直哉はもう一度レモネードを一口飲むと、奥歯を噛み締めながらテキストに向き直った。


「今日は助かりました」
 その後、直哉は何度か馨に間違いを指摘され、解き方や考え方を教えてもらったが、この後シフトが入っている馨に合わせて勉強会はお開きになった。
「ううん。バイトまで暇だったし、それに最近会えてなかったから嬉しかったよ」
 嬉しかったって……。
 さらりと恥ずかしいことを言われた直哉は、頬が緩みそうになり眉間に力を入れる。
「なに、その顔。変顔?」
「……違います」
 ふいっと顔を逸らした直哉に、馨はまた微笑んだ。
「あ、そうだ。文化祭さ、郁人さんと行ってもいい?」
「……は?」
「ダメ?」
 ダメって……。
「それ、俺がダメって言ったら来ないんですか?」
「ふふふ。それはどうかなぁ」
「……どうせ来るんだな。勝手にどうぞ」
 不貞腐れ気味に直哉が答える。正直、郁人とは何もないと分かっているが気分は良くない。だが、それを止める権利は自分にはなく、腹の底で苛立ちが渦を巻いた。
「じゃあ、勝手にしよーっと」
 馨は嬉しそうに微笑むと「それじゃあね」と言って、もう一度店内へ戻っていった。直哉はその後ろ姿を、静かに見送るしか出来なかった。



 八月に入り、直哉は文化祭の準備で学校へ登校する日が増えた。劇の出演を避けるために裏方を選んだが、実際は準備の方が大変で、まだ配役を貰った方がマシなのでは、と弱音を吐きかける始末。それに加えてこの夏の暑さだ。教室棟の冷房は効いていても、外でやらなければいけない作業は苦行のようだった。

 その日、直哉は技術室で加工したベニヤ板を中庭の木陰へ移動させ、ペンキ塗りの作業をしていた。熱中症の危険もあるため、小まめに校舎へ入り、身体を冷やして水分を摂りながら作業を行っていた。いくら体調のためとはいえ、時間がかかって仕方ない。次からは陽が少し落ち始めてからやろうと汗だくになりながら、クラスメイト達と言い合っていた。
 ペンキ作業がひと段落つき、板が乾くのを待っていた時だった。裏方の大道具班みんなで旧校舎に入り、人通りのない涼しい廊下に座り込んでると、通りすがりの芽衣に声をかけられた。
「こんな暑いのに外で作業?」
「……なんだ、神崎かよ」
「なんだってことはないでしょ」
 怪訝そうな顔で芽衣が言う。その手には自販機で買ったばかりのペットボトルを持っていた。
「そっちも休憩か?」
「うん。飲み物いくつあっても足りないわ。室内でも動くと暑いし」
 芽衣は片手で顔を仰ぎながら答えると、その場でペットボトルの封を切って喉を潤した。
「ねぇ、そう言えばなんだけど」
 芽衣はその場にしゃがみ込み、直哉の横に座った。
「最近、如月先輩と会ってる?」
 芽衣は声のトーンを落として尋ねる。
「……まあ、時々会ってる。それがどうした?」
 そう答えたが、ここ最近は誘っても馨のアルバイトや同好会の活動で予定が合わず、メッセージのやり取りが主だった。濁したような直哉の返答に、芽衣の表情が曇りだす。
「……あの、これはあくまでも噂なんだけど」
「噂?」
 直哉が聞き返すと、芽衣は躊躇いがちに口を開いた。
「如月先輩、男の人と付き合ってるって噂が流れてて……」
「……は?」
「いや、だからこれは噂なんだけどっ」
 直哉の表情を見て、芽衣が再度前置きを言い直す。
「……派手な髪の、悪そうな男の人に肩抱かれて歩いてるのを見たって言う人が何人もいてね?それに、どこなのかははっきりしないんだけど、男の人とホテル街から出てきたって話も……」
 言いながら直哉の顔を見た芽衣の声は、だんだんと尻窄みになっていく。直哉の真一文字に結ばれた唇の端がピクリと震え、眉間の皺は一層深く刻まれていた。
 冷房とは違う冷たい空気が、直哉と芽衣の間に流れ込む。
「……ごめん、朔間くんに言う話じゃなかったよね……。きっと見間違いだよね、如月先輩はそんな人相手にするわけないし……!」
 芽衣が捲し立てるように言うのを、直哉の低い声が制した。
「……出所は?」
「え」
「神崎は誰に聞いた?」
「……え、えっと……」
 芽衣の口から聞き出したその出所は、腹の中で想像した通りで、不愉快ながらも腑に落ちた。そして同時に、今日のシフトを思い出して直哉は盛大に深い溜息を吐いた。



 芽衣の話から推察するに、噂の出所は馨に告白をした女子生徒達だった。馨は卒業間近に多数の女の子に告白されておきながら、登校日には直哉と共に行動をしていたし、卒業してからも男の先輩達と行動をしている。自分に好意を寄せて貰えなかったと僻んだ女子生徒達は、共謀して在らぬ噂を流したのだろう。卑屈で嫌な作戦に直哉はゾッとしたが、彼女達の気持ちが少なからず分かってしまう。思いを寄せ、気持ちをぶつけたというのに、応えてもらえなかった時のショックはきっと大きい。諦めが悪いのは当の本人が一番分かっている。その傷が別の方向に向かって突っ走り、勢い余ってブレーキが踏めなくなったのだろう。面と向かって胸に秘めた自分の思いを、好きな人に勇気を振り絞って直接伝えたのだ。潔く諦めて次に切り替える、なんて直ぐには無理なことだろう。
 俺だったらきっと……。
 直接思いを伝えた訳でもないのに、直哉は想像して込み上げた胸の痛みに顔を歪ませた。しかし、だからといってこれを肯定するわけじゃない。よりによって、直哉の苦手なあの綾瀬郁人との噂なのだから余計である。
 だいたい、ホテル街から出てきたって……それを見たやつこそホテル街に何の用があったんだよ……!つーか、馨さんはなんであの人とホテル街に……。あぁ、クッソ。もっと無理矢理にでも馨さんとの時間、作れば良かった……!
 馨に迷惑をかけたくないと思って、強引に約束を取り付ける必要性はないと考えていたのが甘かった。もう少し積極的にいけば、そんな噂なんて立つ事は無かったかもしれない。
 つーか、どんだけ綾瀬さんと一緒に居るんだよ……!しかもホテル街って……。
 アルバイト先のコンビニが見えてきて、直哉は舌打ちをした。今日のシフトはタイミングが悪く、郁人と同じだ。勤務時間的に彼より先に上がることになるが、数時間は同じ空間にいることになる。更に、今日に限ってやたらと早く着いてしまった。シフト開始前に郁人とばったりロッカールームで鉢合わせする可能性を考えると、どこかで時間を潰してから来れば良かったと後悔した。
 裏口へ回ると、胃のあたりがむかつき始めた。仕事に支障が出ないことを祈りながら、ドアノブを回すと、気の緩んだ声が奥から聞こえてきた。
「花火やろーよ。ね、良いじゃん。今度の休みとかどう?人がやるって話聞いたらさ、やっぱやりたいなぁ〜って思っちゃったんだよね」
「えぇー……。綾瀬くんさ、去年花火持って僕のこと追いかけたの覚えてる?あれ凄く怖かったんだけど……?」
「あんなの愛情表現じゃん」
「いやいや、バイオレンスすぎるでしょ……あ、おはよう」
 呆れ気味の店長の声が切り替わる。彼に続いて、郁人も顔を出した。
「あ、噂をすれば」
 嬉々としたその声に、眉がピクリと反応する。嫌な予感が当たった直哉は軽く会釈をすると、小さな声で挨拶をしてロッカールームに引っ込んだ。呼び止めようと直哉の名前を呼ぶ郁人の声がしたが、振り返るのは癪だった。彼の髪色は派手な色をしていたし、どれだけ開ければ済むのか分からないピアスの数は、高校生から見れば悪い人扱いも納得がいく。更に加えて、馨と同じラーメン同好会に所属しているのだ、芽衣に聞いた噂の男は郁人で間違いない。
 でも今、噂っていったか……?
 噂って……いや、俺が聞いたのは馨さんの……。
「なぁに難しい顔してんの?」
「うわっ!」
 郁人に背後から話しかけられた直哉は着替えを床に落とした。
「考え事?それも朔間ちゃんの趣味ってやっぱ百面相?」
「……は?」
「あはは、うわぁ怖い顔。俺、何かしたかな?」
 郁人が直哉の制服を拾って手渡しながら尋ねた。
「……別に、何も」
「ふーん」
 直哉の口からそれ以上の言葉が出て来なかった。事実、彼は何もしていなのだ。ただ一人でヤキモキと腹を立てているのはわかっている。だが、直哉はどうしても目の前の男が許せなくて仕方なかった。
「ねぇ、もう一つ聞いても良い?」
 そう言って郁人は直哉の返事を待たずに口を開いた。
「朔間ちゃんて馨と付き合ってるの?」
「…………はい?」
 思わずワイシャツのボタンを開けている手が止まり、直哉が聞き返した。
「俺が……馨さんと?」
 そう言い直した直哉の胸がじん、と熱くなる。
「そっ。馨さぁ、大学で超モテるんだよね。誰にでも優しいし、その気にならない女の子いないっていうか……ほら、高校でもそうだったでしょ?」
 にんまりと笑い、誇らしげに話すのは釈然としないが、郁人の問いに直哉は渋々頷いた。
「聞いているとは思うけど、この前も二年生の女の子振ってたじゃん?結構可愛い子だったし、あの二人、だいぶ良い雰囲気だったから、美男美女カップル誕生かなぁってみんな盛り上がっていたんだけどねぇ。馨ってば、あっさり振ったんだわ。それで、流石に恋人いるんじゃないかって話になって、本人にも聞いたら、否定するどころか、はぐらかされたんだよねぇ」
「だからってなんで俺……」
 つーか、そんな話聞いてねぇし。
 当たり前に聞かされていると思っている郁人の発言に、直哉の苛立ちが増す。一言余計なことに気が付かないのかと文句を言おうとしたが、また先に口を開いたのは郁人だった。
「だから、周りに言えない恋人がいるのかなぁって思ったの」
 郁人はくすりと笑って続けた。
「それに、朔間ちゃんって、いーっつも馨のこと考えてるじゃん?馨も朔間ちゃんのことばっかだし」
「……え」
「この前さ、駅の反対側にあるラーメン屋行ったんだよ」
 また聞いてない話を喋り出し、直哉の鼻がぴくぴくと動く。郁人のゆったりとした口調は、聞くだけで苛立ちが増した。直哉は耳を塞ぎたいのを我慢して、目線だけを郁人へ向ける。
「その時にさ、ここ美味しかったから直哉に教えよーって。その前のお店も、別のお店の時も。毎回朔間ちゃんの話ばーっかり」
 本当かよ、と話半分に聞いて直哉は着替えを終わらせた。
「馨の中心って、だいたい朔間ちゃんで出来てるんだよ」
「その割には、全然会ってくれないですけどね」
 嫉妬心剥き出しの返答に、直哉自身嫌気がさす。馨の新生活を応援したい気持ちがあるから、無理矢理時間を合わそうとはしなかった。だが、この目の前に立つ男が、自分よりも馨と時間を共にしていると考えるだけで腹が立ち、冷静な返しが出来なくなっていく。
「あはは」
「……笑わないでくださいよ」
 笑われるような事をしたと、自覚はあった。直哉はロッカーをいつもより強く締め、郁人を見上げる。夏休みに入って身長は少しだけ伸びたのだが、それでも郁人の方が頭一つ分高い。こればかりはどうにもならない事なのだが、それにさえも苛立った。
「朔間ちゃんの可愛いとこ見れたから、特別に良い事教えてあげる」
 相変わらずのにんまり顔に直哉は怪訝な顔を向けた。
「駅の反対側にあるラーメン屋ってね、ちょっと立地がややこしいとこなの。だから、朔間ちゃんは高校卒業したら連れてってもらいなさい」
「……は?」
「まだ買えないでしょ、えっちな本」
 そう言われてようやく話の意味を理解した直哉は、顔を赤く染め上げた。
「あ、綾瀬さんっ!」
「あはは、朔間ちゃん本当可愛いなぁ。安心してよ、ラーメン食べに行っただけだから。あそこ本当に美味しいんだよ。あ、それからさ」
 郁人は事務室に続くドアを開けながら言った。
「今年も花火、楽しみにしてるっぽいよ」
 じゃ、先行くね〜。木の抜けるような声でそう加えると、郁人はロッカールームから出て行った。
 花火……って、なんで綾瀬さんがそんな事知って……。
「朔間くん、時間になるよー!」
 ドアを睨みつけると同時に店長の声が聞こえた。壁に掛けられた時計を見上げると、時刻はもう間も無くシフト開始の時間だった。
「い、今行きます」
 直哉はスマホだけポケットに忍ばせ、ロッカーの鍵を閉めると、ロッカールームを後にした。



「やっほー」
 呑気な挨拶をして現れたのは、最近殆どメッセージでしかやり取りをしていない、直哉の想い人だった。特にあの噂を聞いてからは、先輩達と居る方が楽しいのかもしれないと、変な嫉妬心で連絡をおざなりにしてきた。会いたいくせに見栄を張り、馨から連絡があっても、バイトや学校を理由に忙しいと断った。その相手が今、自分の目の前に立っている。
 今日も午前中は学校で作業をし、一度帰宅して昼寝をし、夕方からシフトに入るというハードなスケジュールだった。既に夕飯時のピークも超え、利用客も疎になった時間を見越して来たのだろう、馨以外の客は居なかった。
「馨さん……。お久しぶりです」
「郁人さんにシフト聞いて来ちゃった。直哉、全然連絡くれないしさぁ。ていうか焼けたねぇ、一瞬誰だか分からなかった」
 レジのカウンターを挟んでまじまじと顔を見つめられて、直哉は顔を背けた。気恥ずかしいのもあったが、郁人の名前が出た事の方が、何より気に食わなかった。
「まぁ、炎天下で作業してるので」
 あからさまに不機嫌になり、自己嫌悪になる。馨の前でこの態度は、子供っぽいを通り越して情けないと思った。
「そういえば夏休み明けってすぐ文化祭だったね。準備大変?俺、行くから案内してよ」
「はい?馨さん案内要らないでしょ、数ヶ月前まで通っていたんだから」
「えーいいじゃん」
「……だいたい、綾瀬さんにシフト聞くんじゃなくて、俺に聞いてくださいよ」
「サプライズだったんだけど」
 全然サプライズになってねぇよ、と喉元まで出掛けたが、それを堪えた直哉は代わりに溜息を吐いた。
「ねぇ花火しない?」
「は?」
 突然の提案に直哉の声が裏返る。馨以外に客がいなかったのが幸いだが、馨は直哉の分かりやすく不機嫌な対応にケラケラと笑っていた。
「あはは、ごめんごめん。ね、またうちでやろうよ」
「良いですけど、いつですか?」
「今日!」
 サプライズだもん、と一人で馨は楽しそうに笑う。
「……いや、急すぎ。家の人に迷惑ですよ」
「大丈夫だよ、今年もいないから」
「えっ」
 直哉の目が思わず見開いた。昨年も馨の家族の留守中に泊まりに行き、花火をした。しかし、あの時と今では、馨に対する想いが違う。胸の奥で熱を帯びた心臓が、ばくんと跳ねた。
「俺が一人暮らし出来るって証明するために、出てもらってるの。そのためにバイトして、旅行プレゼントしたんだ」
「……洗濯と掃除、出来るんですか?」
 心臓の音が煩くて、馨の声がほんの少し遠くで聞こえる。揶揄うのがやっとの事になるとは、思ってもみなかった。
「ふふふ、なんとかね。ね、だから良いでしょ?明日、バイトないって聞いたし」
「文化祭の準備はあるかもしれませんよ?」
「え、あるの?」
 馨の眉がハの字になった。無意識なその表情を見た瞬間、直哉の胸がグシャっと締め付けられる。
「……ないですけど」
「じゃあいいじゃん!終わったら俺の家集合。もちろん、泊まりね」
 馨の表情が明るく変わり、揶揄った事に少しの罪悪感を持った。しかし、行きたい気持ちはあれど、そこにこの馨への気持ちを持ち込んでも大丈夫なのか、直哉は不安だった。
 それに……。
 先日、郁人の口から「今年も花火、楽しみにしているっぽいよ」と聞かされたことを思い出し、また嫌な反抗心がじわじわと湧いてくる。
「……俺の意見は無視ですか」
 溜息混じりで直哉が溢す。しかし、馨はくすりと笑って答えた。
「だって直哉、絶対来てくれるだろ?」
 馨の言葉に直哉の心臓がまた強く脈を打った。想い人にそう言われて、行かないという選択肢を誰が選ぶのだろうか。直哉は奥歯を強く噛み締めた。
「……じゃあ、条件つけます」
 咳払いをして、直哉は言った。そうでないと、口角が上がってどうしようもなくなりそうだった。
「条件?」
「……今後、俺のシフトは俺に聞いてください。その約束してくれるなら行きます」
 馨はたったそれだけ?と言いそうな顔だったが、それだけの事でムキになってしまう。またこんな情けない気持ちになるのならば、事前に潔くお願いした方がマシだと、直哉は思った。
「うん、分かった。約束する」
 馨はあっさりとその条件を飲んだ。さほど気に留めない事なのだろう。直哉の心情的には複雑だが、そもそも、卒業式に言いかけた言葉すらまだ伝えきれていないのは自分だ。自分が誘った時に言う約束をしたくせに、誘う事すら殆ど出来ていない。もしかしたら、痺れを切らした馨が、気を遣ってチャンスをくれているのかも。それともやはり、彼にとって直哉の言いかけた言葉も、さほど気に留めないことなのかもしれない。
 そろそろ本気でぶつかるべきだよな……。
 直哉は拳をぎゅっと握りしめる。
「じゃあ、一度帰って準備してから行きます」
「うん。迎えはいる?」
 嬉しそうに返事をした馨に、直哉は首を横に振った。
「遅いと危ないから」
「生意気」
 ふふふっと、馨は微笑むと、レジの横にあった花火セットを指差した。
「なら、これもお願いね」
「買ってってくれるんですか?」
「まさか」
顔はにやりと笑った。
「直哉の奢りだろ?」
「はぁ?やりたいって言ったのは」
「じゃ、待ってる」
 馨は小さく微笑み、「またあとで」と手を振ると、くるりと踵を返して自動ドアへと向かって行った。
「ちょっ……あぁ、もぅっ」
 足速に出て行った馨を見送った直哉は、その背中を見て面倒くさそうな顔をした。
いい加減、遠慮っていうのを覚えろっつーの。
直哉の眉間に皺が寄ったのも束の間、すぐさま嬉しそうな表情に変わって、やれやれと小さな溜息が漏れた。


 シフト終了の十分前から、直哉はソワソワと落ち着かない様子で仕事をしていた。つい三十分前に出勤した郁人は、その様子をにんまりと眺め、わざと直哉と目を合わせる。
「……なんですか」
「ううん、別に〜ぃ。朔間ちゃんて、本当に分かりやすいっていうかさぁ」
 じとっとした郁人の目に、直哉はあからさまに嫌そうな顔をした。
「……単純って言いたいんでしょ、別に良いですよ。単純な男で」
「そんな言い方してないじゃん。それで、何かあったの?あ、もしかしてフライングであのラーメン屋に」
「行ってません。ていうか、聞かなくてもどうせ知っているんでしょう?」
 先日、花火がどうのと言っていた所を見れば、去年の話をしているはずだ。そうなると、今日の花火の話だって既に耳に入っているだろう。
「あ、バレた?」
「俺には黙ってろって言われなかったんですか?」
「へぇ、朔間ちゃんって馨のことはなんでもお見通しなんだぁ。言われたよ。でも、朔間ちゃんがそーんな顔してると、揶揄いたくなるでしょ」
 ふふん、とにやけ顔を近付けながら郁人は言った。
 ったく。この人の、こういうところが嫌だから言わないで欲しかったのに……っ!
「まぁでも、良かったじゃん。全然会えてなかったんでしょ、相思相愛なのに」
「別にそんな関係じゃ……」
「朔間ちゃん」
 郁人がまた直哉に顔を近付けた。
「逃げ腰のままでいると痛い目見るんじゃない?馨のことを好きになる人が女の子だけじゃないって、自分が一番分かっていると思うけど」
「それは……」
 言い返す言葉が見当たらず、目が泳ぐ。自分のように惹かれていく者が現れるのは、時間の問題なのも頭の隅では分かっていた。
 険しい顔で直哉が黙り込んでいると、裏の事務室から花田が顔を出し、直哉に上がるよう声を掛けた。
「じゃ、朔間ちゃんお疲れ〜」
「……お疲れ様です」
 微妙な空気のまま、直哉が花田と入れ替わりに事務室へ引っ込もうと踵を返すと「あ、そうだ」と郁人が直哉を呼び止めた。
「揶揄ったお詫び、ちゃんと持って帰ってね」
「……はい?」
「お疲れ様」
 郁人はにんまりと笑いながら直哉を見送る。彼の言った「お詫び」というのが何なのか分からず、聞き返そうとしたのだが、丁度レジにやって来た客の対応に入ってしまったため、直哉はそのままタイムカードを切りに事務室へ引っ込んだ。



「ねぇ、二人でこんなにできると思う?」
「……知りませんよ。綾瀬さんが押し付けたんだから」
 溜息混じりに直哉が答えた。タイムカードを切って、私服に着替えようとロッカールームへ行くと、直哉のロッカーの前に大容量の手持ち花火が置かれていたのだ。それもご丁寧に、ポストイットで「返品不可」と郁人の手書きメッセージ付きだ。買う手間が省けたのは有難いが、この量は流石に多すぎる。帰りにコンビニの入り口からレジに立つ郁人を睨んでみたが、いつものニヤニヤ顔を返されただけだった。
「まぁ、いっか。郁人さんに後でお礼しとこ」
「……ありがた迷惑でしたって伝えてください」
 直哉の溜息が再び漏れた。
「ありがたいことには変わりないだろ」
 馨に嗜められ、直哉が唇を尖らせた。馨はそんな直哉の顔を見て静かに笑う。直哉は不貞腐れたまま花火の袋を開け、適当にウッドデッキに並べ始めた。
「で、どれからやる?」
「どれでも良いですよ」
「んじゃ俺が決めよーっと。はい、直哉はこれね」
 そう言って馨が直哉に渡した花火の持ち手には、可愛らしいペンギンのイラストが描いてあった。
「花火とペンギンって何がどう繋がるんです……?」
「そんなの、俺だって分かんないよ」
 ケラケラと笑って順番に火を着けた。二人の持つ花火が赤や緑の閃光を放ち、その火が消える前にもう一本、もう一本と、どんどん花火を消費していく。赤と緑、黄色やピンクの光が混ざり合い、真っ暗な庭先が明るく照らされた。
「見てよ、オレンジ色って珍しくない?」
「ちょ、危なっ!」
 はしゃいで花火を振り回す馨に、慌てて直哉がその身をかわす。
「あはは、セーフ!」
「セーフって、あのですね……」
 次に行くペースが早いだの、こっちに向けるなと言い合いながら、真夏の湿った夜風も気にならないほど、二人は夢中になって花火を楽しんだ。


「じゃあ、はい。これ」
 ウッドデッキに並んでいた花火が半分ほど消えた頃。馨が線香花火を直哉に手渡した。
「……もうやります?」
「だって疲れちゃった。続きはまたやれば良いしさ」
 ね?と言ってしゃがみ込む。それもそうだと、直哉もそれに倣って馨の横にしゃがみ込んだ。
「そうだ、今年も勝負する?」
 手に持ったライターのレバーをカチカチと鳴らしながら馨が言った。
「また朝食当番賭けますか?」
「んー、今年は別のにしよ」
「別のって?」
「そうだなぁ……」
 馨が空を見上げながら考え込む。所々に小さな星々が顔を出していた。
「俺が勝ったら……直哉は卒業式に言いかけたことを言う。逆に俺が負けたら、直哉のお願いを聞いてあげる……。これでどう?」
 馨の提案に直哉は息を呑んだ。
「え……あの」
 心臓がどくどくと音を立て、身体中が熱くなる。自分がここまで何も出来ず、ぐずぐずとしていたのは分かっていた。だが、こんな直球を投げられるとは思ってもおらず、返事をするにも上手く声が出ない。
「良いよね?」
 膝を抱え、上目遣いの馨が言った。暗がりでよく見えないその表情にさえ、直哉の胸は締め付けられそうになった。
「……わ、わかりました」
 ゴクリと唾を飲み込んで直哉は答えた。
「それで、良いです」
 心臓の音は更に大きくなった気がした。自分の声もぼんやりと聞こえ始めていた。すぐ真横にいる馨の耳にも届いてしまいそうな心音は、深呼吸をしたところで全く落ち着く様子がない。
「ん。じゃあ、着けるよ」
 火を着けるため、馨は直哉の方へにじり寄った。それぞれの持つ線香花火をぴたりとくっつけて、ライターで火を着ける。馨の肘が膝に当たって、直哉の背中は思わず跳ねた。小さな面積でも肌が当たっているという事実に、奥歯を噛み締め、静かに堪える。たったの数秒足らずだというのに、やけに長く感じた。どこからか聞こえる虫の音や、近所を走る車の音は、煩過ぎる心音に消されて、だいぶ遠くに感じていた。
 ライターを離して数秒後。二人の持つ線香花火の先端に、橙色の球体がぽかんと浮かんだ。次第に球体からパチパチと小さな火花が咲き始め、二人の視線は自分の手元に集中した。
「俺さ」
 線香花火が激しく火花を飛ばし始めると、馨が口を開いた。
「会える日が減って、ちょっと、寂しかった」
「……えっ」
 直哉の心臓が更に大きな音でばくんと跳ねる。
「ふふふ。あれ、落ちない?」
「なっ……!揶揄ったんですか」
「半分だけね」
 にこにこと笑って直哉を見つめる馨に、直哉は眉を寄せた。心臓はまだバクバクと煩く脈を打つ。
「半分って……」
 複雑な返答に揺さぶられ、文句の一つでも言ってやろうと直哉が口を開きかけた時だった。真夏の夜にしては珍しく、涼しくて心地良い風が吹いた。風は馨の頬を撫で、直哉へと滑るように吹く。
「あ……」
 直哉の視線は、馨の持つ線香花火の灯を捉えた。小さな橙が震え、その先端から滑り落ちた。二人は同時に息を呑み、消えた馨の線香花火を見つめた。
「……今年は、馨さんの負けですね」
 風のせいで殆ど微弱になっていたが、直哉の持つ線香花火は、まだ小さな火花を懸命に飛ばしている。
「……うん。残念、だったな」
 本気で悔しがっているのか、珍しく馨は黙り込んだ。
「じゃあ俺、何してもらお…………んんっ」
 突然の唇に落ちた柔らかい感触と、暗くなった視界に驚き、直哉は瞬きを忘れた。手に持っていた線香花火は指からすり抜け、代わりにその手は覆いかぶさってきた馨の身体を支えていた。
「……ごめ、ん」
 ゆっくりと唇を離した馨が、下を向いたまま言った。その身体が小さく震えているのが、支えている直哉の手に伝わる。
「馨さ……」
「負けたらまた、直哉の気持ちを聞くタイミング逃しちゃうって思ったら、身体が動いて……」
「俺の、気持ち?」
 直哉が聞き返すと、馨は躊躇いがちに頷いた。
「俺、やっぱり待つのはもう無理だよ。本当はさ、もっと余裕ある年上でいようって思っていたんだけどね。卒業したら全然会えないし、すごく苦しくて……。お互いの生活だって尊重しなきゃって我慢したけど、もう限界だよ」
 馨の泣きそうな目が夜の暗がりにキラキラと光る。その表情は、図書室で見かけたあの寝顔と同じぐらい綺麗に見え、直哉はゴクリと喉を鳴らした。
「馨さん、俺……」
 心臓が締め付けられる。あの噂を聞いて、勝手に苛立って、適当な事を言って会わないようにしていた自分が情けない。嫉妬するほど想っているくせに、その想い人をこんなにも苦しめていたなんて……。
 喉の奥が熱い。もうすぐそこまで、あの二文字は登り詰めているというのに……。
「ねぇ、直哉。俺のこと好きなら……好きって言ってよ……」
 馨の震えるその声に、直哉の視界が歪みかけた。気が付いたら直哉の方から手を伸ばして、馨の唇を塞いでいた。重ねた唇の隙間から互いの吐息が漏れる。心臓の音が耳奥からドクドクと聞こえて、虫の音や遠くで聞こえる車の音なんて今度はなに一つ聞こえない。勢い任せのキスに、理性まで張り裂けてしまいそうだった。唇を離した直哉は馨を抱き寄せ、その耳朶に触れるだけのキスをした。
「……好きです、馨さん」
 直哉の背中に回された馨の腕に力が入る。
「……うん。俺も」
 いつもより近い馨の香水の匂いに、目がチカチカする。身体は火照っていて、互いの耳元で吐く息にも熱が籠っていた。
「……馨さんの忘れ物、届けるの遅くなってごめんなさい」
「どこで道草食ってたんだよ」
 そう言って馨は直哉の肩に頭を擦り寄せた。
「だいぶ、見つかりにくいとこにあったので」
 くすぐったくて、直哉がその頭を軽く撫でてやると、今度は首に腕を回した。
「嘘つけ、こーんなに分かりやすく落としてあげたのにっ」
 不貞腐れた声がやけに明るくて、直哉は馨の背中に腕を回すと、にやけてしまいそうな顔を隠しながらもう一度強く抱きしめた。
「もう落とさせないので良いでしょう?」
「……生意気だ。絶対落としてやる」
「あはは。万が一落としても追いかけて押し付けますよ」
 線香花火の勝負はすっかり頭の中からすっぽ抜け、二人は抱き合ったままくすくすと笑い合った。


「あ、そういえば……」
 馨は直哉から身体を離し、ポケットから以前直哉から貰ったパスケースを取り出すと、本来ならば定期券を入れるポケットに差し込んでいた「なんでも言うことを聞く券」を直哉に渡した。
「これで俺、お願い聞いてあげるよ」
「え?」
「線香花火、直哉が勝ったじゃん」
 拗ねたような言い方に、直哉は思わず吹き出した。
「これは馨さんにあげたやつだから。好きな時に使ってください」
「でも……」
「じゃあ、俺が高校卒業したら駅の反対側にあるラーメン屋に連れてってくださいよ。それで良いので」
 直哉がジト目でそう答えると、馨の顔がだんだんと赤く染まっていった。
「べ、別の場所にしようよ!大学の近所にもたくさん美味しいところがあってね?」
「なんで。ただのラーメン屋でしょう?」
「そうなんだけどっ!あの場所がちょっと……」
「なら」
 直哉は馨に顔を近付ける。
「そのラーメン屋は、もう他の人とは絶対に行かないようにしてください」
「……わ、分かった」
「あと、綾瀬さんと二人で出かけるのも色んな事喋るのも程々にしてください。あの人、超絶面倒なので」
「……ふふっ、はぁい」


「わかってます?」
「わかってまーす」