卒業式を終えてニ週間が経った。祝日を挟み、少し早めの終業式を終えて、直哉達在校生は春休みに入った。卒業式後、馨をどう呼び出そうか悩み、結局何も行動に移すことが出来ないままアルバイトに明け暮れていた。呼び出してもどう切り出して良いのかが全く検討つかなかったのだ。ただ、そのままにしているのも息苦しく、会えない日々を過ごすだけも辛い。痺れを切らしてメッセージを打つものの、送信は出来ないでいた。
「はぁ……」
 バイトのレジ対応が終わり、客を見送った直後は溜息を吐いた。今日こそは、と思っていながらメッセージの送信は出来ないままだ。このままではあっという間に入学式になってしまう。一度も顔を見ずにその日を迎えたくはないし、何より卒業式から気不味くて、会っていなかった。
 ただ誘うだけ、誘うだけだ。昼食だって良いし、服や学用品の買い物だって良い。あの人の好きなラーメン屋でも。そういえば、駅前のファミレスでいちごフェアが始まっていた。期間限定のスイーツには敏感だったし、これぐらいなら……。
 以前は適当な約束をして遊んでいたはずだ。だが、思い返せば自分から馨を誘った事は殆どない。というか、一度も無い気がした。そうなると一層こちらから声を掛けなければと思ってしまう。
 ふと、卒業式に見せた彼の顔を思い浮かべる。赤面している馨は珍しく、彼のあんな表情を見たのは衝撃的で、思い出すだけで心臓が高鳴った。
 決めた。とりあえずいちごフェアだな。
 何にせよ、とにかくこのままでは馨に会うことなく春休みをバイトで潰しかねない。
 シフトが終わったらメッセージ送って、それから……。
「もしもーし」
「え?」
 振り向くと、すぐ真横に同じアルバイトの綾瀬郁人が立っていた。甘ったるい香水が直哉の鼻を掠め、思わず眉を寄せる。大学三年の彼は授業の関係で去年は殆ど深夜帯シフトに入っていたのだが、就職活動を視野に入れ、最近では昼から夕方の時間帯のシフトにも入るようになった。しかし、その風貌は就職活動からかなりかけ離れている。金色に染めた肩まで伸びた長い髪は、ポニーテールや三つ編みにする事もあって、後ろ姿は女性に間違えられるほど。そして、軟骨まで連なって開いた耳のピアスホールとピアスの数は、特に目を引いた。
「朔間ちゃん、もう上がりだってー」
 加えてこのゆったりとした口調は面接で一発アウト間違いない。
「あ……はい、すみません」
 香水を避けるように直哉が顔を背けて言った。
「その百面相面白いねぇ、飲み会でウケそう」
「百面相なんか……」
 歯切れの悪い返事を返すと、郁人はニヤリと笑う。耳にいくつもぶら下がっているピアスの揺れる音が聞こえた。
「冗談だよ。溜息まで吐いちゃってさぁ。なんか悩みでもあるの?お兄さんが聞いてあげようかぁ?」
 そんな所から見られていたのか、と直哉は口をへの字に曲げて首を振る。
「大丈夫です。ていうか綾瀬さん、その香水どうにかしてください」
 接客業でしょ、と直哉が小さく付け加えると郁人はフフンと鼻を鳴らして笑った。
「だって店長が誕生日にくれたんだもん。使って良いってことでしょ」
 ったく、また店長かよ。
 直哉の眉間に再び皺が寄る。郁人は店長とプライベートでもよく連むらしく、シフトが被るとそんな話を一方的に聞かされていた。
「……都合良すぎっすよ、それ」
「えー。そーかなぁ」
 そうだろ。と頭の中で呟いて、直哉は郁人に引き継ぎを済ませると、事務室へ引っ込んだ。話題に出た店長の花田は、新しいシフトの作成中だったため、直哉は軽く挨拶をして着替えを済ませると、コンビニを後にした。


 家に帰って自室に篭ると、直哉は早速馨に連絡を入れた。最後に連絡してから随分と日が経っている。すぐには既読にならず、直哉はスマホをベッドに放って寝転がった。ふうっと、ゆっくり息を吐く。天井を見上げて、今頃馨は何をしているのだろうかと考えた時だった。直哉のスマホが鳴ったのだ。手を伸ばし、拳一つ分の距離にあるスマホを取る。何の気なしに確認すると、その着信画面には如月馨の名が表示されていて、思わず直哉は飛び起きた。瞬きをし、画面を見直す。表示された名前を再度馨のものだと確認し、通話ボタンを押すと、ゆっくりと息を吐いてから直哉は口を開いた。
「……どーも」
「あ、やっと出た。久しぶり。元気?」
「まぁ、一応」
 直哉はぼそりと返事をした。以前はもう少しテンポの良い会話が出来ていたはずだった。それもこれも全部自分の気持ちを理解したからであり、妙な歯痒さが残る。
「俺も気になっていたんだよね」
「え?」
 どきりとして直哉の背筋がしゃんとなる。すると、馨のくすくすと笑う声が直哉の耳を掠めた。
「いちごフェア。あのパフェ、SNSで話題になってたもん」
「あぁ……そうっすね」
 直哉の肩がゆっくりと落ちる。ファミレスのいちごフェアに誘ったのだから、返答は予想がついたはずだ。勝手に期待した自分が情けなくなり、直哉はまたベッドに倒れ込む。
「でも、まさかファミレスに誘われるとは」
 再び馨がくつくつと声を抑えて笑う。吹き出しそうなのを堪えている姿が直哉の脳裏に浮かび、複雑な気持ちになった。
「……近くて良いじゃないですか」
 センスが無いのは承知の上だと、直哉は不貞腐れた口調で言い返す。
「それに馨さん、いちご好きでしょ」
「うん。好き」
 ドクン、とまた直哉の胸が高鳴った。会話の流れ的におかしくはない返答だが、直哉の耳には別の意図を想像させ、身体中が一瞬にして熱を帯びる。
「えっと……それで日程なんですけど」
 上擦りかけた声を何とか誤魔化して、直哉は続けた。しかし、直ぐに馨が「あぁ、それなんだけど」と口話挟んだ。
「入学式前にオリエンテーションがいくつかあってね。まだ時間が作れそうにないんだ。だから、入学式後に連れてってほしいんだけど……ダメ?」
 直哉は一瞬黙り込む。そして、返事より先にわざと大きな溜息を吐いた。
「その聞き方のどこに拒否権が?」
「ふふふ。ないね」
「相変わらず狡いですね」
「悔しい?」
「まさか」
 鼻で笑い、直哉が答える。
「楽しみが増えただけなので」
「お前も大概だよ」
 また馨のくすくす笑いが耳に響く。電話口なのにそれがとても擽ったくて、心地良い。久々に聞いた馨の声にそんな思いを抱いた直哉は、入学式まで会えないという現実が堪らなく悔しくなった。



 晴朗大学の入学式は、都内のホールで行われた。直哉は中に入ることが出来ないため、ホールの外で待ち合わせをしていた。終了予定時刻の十分前に到着した直哉は、直ぐ近くの公園のベンチに腰掛けた。そして、手に持って来た紙袋の中を覗き込む。電車内でも何度も確認したそれは、馨に用意した入学祝いだった。中身はパスケース。最初に浮かんだのはシンプルに花だったが、そもそも後輩で同性からのプレゼントに花はハードルが高い。かといってアクセサリーは流石にやり過ぎな気がして、手が出せなかった。だが、何も持たずに入学式終わりに会うなんて考えられず、アルバイトの休憩中にスマホでそれとなく調べていたのを郁人に覗かれたのが決定打になった。彼女にプレゼントかと尋ねられ、面倒な方向へ話が飛びそうだったため、事情を話した。するとパスケースを提案されたのだ。実際、郁人が大学入学祝いで貰ったプレゼントにあったらしい。高校生の直哉でも金額的に手が出せるし、何より日頃から使えて、学生証を仕舞うのに便利だと言われ、それに決めたのだ。
 まあ、まずちゃんと渡せるかが問題だけど……。
 何と言って渡そうか、そんな事を考えていると「直哉!」と自分の名を呼ぶ声がし、勢いよく顔を上げた。公園の入り口付近に目を向けると、スーツ姿の馨が手を振りながら小走りでこちらへ向かっていた。
「ごめん、待った?」
「全然。今来た所です」
 直哉は小さな見栄を張った。
「そっか」
 くすりと笑い、馨は直哉の横に腰掛ける。
「あ、ちょっと。スーツ汚れますよ」
「良いの。どうせ当分使わないから。明日にでもクリーニングに出しちゃうし」
 だとしても、せめて砂埃ぐらい払ってから座って欲しいと、直哉は呆れ顔で馨の伸びを見る。見慣れた高校の制服から一変したその姿は、まだ幼さが残っていてホッとした。制服を着ていた頃の方が大人びて見えていた気がして、直哉の頬が自然と緩む。
「ね、早く行こ。俺、お腹ぺこぺこ。学長の話って校長先生より長くってさぁ。いつお腹が鳴るかって、もう気が気じゃなかったよ」
 胸ポケットからスマホを取り出すと、馨は以前直哉が行こうと誘ったファミレスのアプリを開いた。
「あの、本当に良いんですか?」
「んー、何が?」
「だって今日、入学式ですよ?もっと良いとことか……」
 今更何を、と思いながら直哉は言った。昨晩思い悩んで、ホール近辺の飲食店を調べてはいた。ただ、高校二年になる直哉には殆どが敷居が高く、連れて行くのには覚悟がいる。それでもアルバイトで貯めたお金はこういう時に使うべきだと思い、いつもより懐は厚めにしていた。
 だが、馨は「何言ってんの」と口をへの字に曲げた。
「もっと良いとこ行くなら、無理しないで行けるようになってからだろ。俺は直哉と行きたいだけだから、別にどこだって良いし。それに、直哉が俺と行こうと思って誘ってくれた場所なら、俺はそこが良い」
 言い始めてだんだんと恥ずかしくなっていったのか、馨の顔が後半は下を向いて聞き取りにくくなり、直哉がその声を拾おうと顔を近付けると「っていうか、俺あそこのいちごパフェめちゃくちゃ楽しみにしてたの!」と、大きな声で誤魔化した。
「……わかりました。なら、早めに行きましょう。俺も腹減ったんで」
「うん」
 同時に腰を上げる。直哉は手に持った紙袋を車道側に持ち、馨の視界から遠ざけて駅へ向かった。



「ねぇ、それなぁに?」
「えっ……」
 約束していたファミレスで昼食を食べ、デザートを追加注文した後、馨が頬杖をつきながら直哉の横に置いてある紙袋を指差して言った。
「来る前に買い物行ったんだ?」
「あ、いや、そうじゃなくて……」
 ずっと渡すタイミングを見計らっていた直哉は、なんと答えて良いか分からず目を泳がせる。しかし、目の前でニコニコと微笑む馨に根負けして、テーブルの上に紙袋を置くと、そのまま馨に差し出した。
「これ、俺に?」
 馨が尋ねると、直哉は首をゆっくり縦に振った。
「なんだろ。入学祝い?」
 馨は嬉しそうに笑いながら紙袋の中を覗く。直哉は頭の中でパスケースで良かったのだろうかと、また今更なことを考え始めていた。
「お、パスケースだ。丁度用意しようと思っていたんだよね。ありがと」
 中身を見た馨の声のトーンが一段階上がった気がし、直哉もホッとした。同時に意中の相手にプレゼントを渡すだけでこんなにも神経をすり減らすものかと、小さな溜息を吐く。
「でも、もう少し色気のある物でもよかったのに」
「へ?」
 思わず直哉の声が裏返る。
「ほら、ネクタイと張り合おうとは思わなかったの?」
 やっぱり、アクセサリーとかのが良かったってことか?
 直哉の頭上に疑問符が見えたのか、馨はテーブルに身を乗り出した。
「意味、調べたんでしょう?」
 そう言ってニヤリと笑う馨の悪戯な顔。
 意味は調べた。確か……。
 その意味を思い出すと同時に、直哉は自分の顔が熱くなるのを感じる。
「ふふふ。冗談だよ」
 何も言い返せない直哉は、隠しきれていない赤くなった顔を伏せながら「コーヒー、持って来ます」と悔しそうに呟くとドリンクバーへ逃げ込んだ。
 ったく、人の気も知らないであの人は……!
 直哉は苛立ちながらカップをコーヒーマシンに置いた。
 そりゃ、ネクタイに対抗したい気持ちは無かった訳じゃない。だが、馨さんが本気で俺に対して気持ちがあるのか分からないこの状況でそれをするのはリスクも大きな気がして……。あぁ、もう、本ッ当にイライラする……!
 どの道、どちらに転んでも揶揄われた訳だ。深く考えるだけ無駄だと分かっているのに、いちいち勘に触る。溜飲の下がらぬまま二人分のコーヒーカップを手にして席へ戻ると、直哉の足が止まった。
 その視線の先に、パスケースを嬉しそうに眺める馨が見えたのだ。お礼はすんなりと言えるくせに、内心を伝えるのは超が付くほど下手だとつくづく思う。
 本当に……あの人は……。
 ふぅ、と小さく息を吐き、直哉は馨の待つ席へと足を急がせた。
「あれ。まだ顔赤いよ?」
 パスケースをしまいながら馨がまた直哉を揶揄った。
「……今日は少し暑いだけです」
「えぇ、そうかなぁ」
「そうです」
 馨の前にコーヒーを押しやると、直哉は一口コーヒーを飲んだ。下手な誤魔化しがかえって不自然に見え、カップをテーブルに置くと二人して黙り込む。なんとなく気不味くて、直哉はもう一度コーヒーに口を付け、スマホを取り出した。猫舌の彼はまだそれを口に付けようとはしない。今まで馨との時間にスマホを弄るなど殆どしてきていなかった直哉は、何の画面を見ていれば良いのか分からずホーム画面を付けては決してを繰り返した。
「なぁ、直哉」
「……なんですか」
 直哉はスマホをテーブルに伏せ置いた。顔を上げると、目の前の馨は真剣な顔をしていた。そんな表情で改めて名前を呼ばれれば、両肩までビクンと跳ねる。しかし、ほんの数秒足らずでその顔はいつものように破顔した。
「んー、やっぱりなんでもない」
「いや、途中でやめられると気になるんですけど」
「そんなに気にしなくても……あっ」
 すると、タイミングを見計らったかのように、二人の前にいちごの乗った大きなパフェが届けられた。
「とりあえず、今日はパスケースとコレで十分だし」
「はあ」
「直哉の奢りだろ?」
「……まぁ、そのつもりでしたけど」
 面白くない。そんな顔を見せる直哉を他所に、馨は嬉しそうに期間限定特大いちごパフェに取り掛かった。



 春休みがおわり、新学期が始まった。馨は相変わらず忙しそうで、またメッセージの返事が遅くなった。一方直哉は今年も図書委員会に所属し、また毎週木曜日を担当日にした。その方がアルバイトの調整も楽だった。おかげで進級しても生活リズムはさほど変わりはしなかったが、体育祭の準備が早々に始まって、馨とはまた会えない日々が続いた。
 芽衣とはクラスも離れ、委員会も別になったが、つい先日渡しそびれたホワイトデーのお返しを手渡した。直哉が廊下から芽衣を呼び出して渡したのが悪かったのか、いつも以上に不機嫌になった挙句、「こういうの、困るの!」と怒られた。去年同じクラスだった芽衣のクラスメイトによれば、あの後他の女子生徒から色々と質問攻めにあっていたらしい。
 しかし、そんな話は俺には関係ない。今俺が気にするべきは馨さんが言いかけたことだ。あれはたぶん、いや絶対卒業式のことだ。俺の言いたい事は俺が誘った時に言えと、本人が言ったのだから間違いない。
 だけど、あの時はタイミングが……。
「はぁ……」
 直哉は大きな溜息を吐く。あの時言うべきだったのかと、ここ数日モヤモヤと頭を悩ませていた。
 いや、だとしても絶対あそこじゃないだろ……。
 レジ内でぼうっとしていた直哉は、額に手を乗せた。土曜日の午前中に入るシフトは、午後に近付くに連れて忙しくなるが、今日は違った。出入り口の自動ドアが開く気配がない。おかげで悩み事にも精が出た。
 例え求められていたとしても、自分の心の準備が出来ていない。卒業式に腕まで掴んで言い出そうとしたくせにと、笑われてもこればかりは仕方ないだろう。
 直哉は項垂れて、小さな呻き声を漏らした。すると、丁度後ろの事務室から出てきた店長の花田が「大丈夫?」と、体調を心配して顔を覗き込んできた。
「あー。すみません……大丈夫です」
「あと十分ちょっとで綾瀬くんが来るから。来たらすぐ上がって良いからね。春休み中は本当に助かったし」
 もう学校も授業始まったでしょ、と花田は眉を寄せて申し訳なさそうに言う。無理をさせてしまったのではないかと心配そうなその表情に、直哉は苦笑いを返した。
 とりあえず、バイト終わったらまたどっかで会えないか聞いて……。
 自動ドアが開き、花田の「いらっしゃいませ」という明るい声が聞こえた。慌てて顔を上げて続けて声を出そうと、直哉が自動ドアの方へ顔を向けた。
「えっ……」
 思わず直哉の目が大きく見開いた。
「お疲れ〜」
 金色の髪を一つに束ねた郁人が、呑気な声で店に入って来た。従業員は裏口から入る決まりだが、そんなことは直哉にとってたった今から至極どうでも良くなった。その郁人の横に立っていたのが、馨だったからだ。
「ふふ、驚いた?」
 目を見張ったまま呆然と立っている直哉に馨が声をかけ、レジの方へと歩いてくる。
「えっと、なんで……?」
「あはは、朔間ちゃん超びっくりしてる。馨の言う通りだったね」
 郁人が馨の肩に腕を回し、にこりと笑う。その距離感に直哉の眉がピクリと動いた。
「郁人さんは俺達の先輩なんだよ」
「は、俺達の?」
「そうそう。俺ね、弄月高校の卒業生。そんでもって、図書委員だったんだー。今日サークル勧誘してたらさ、中庭で偶然馨のこと見つけちゃって!それで途中まで一緒に帰ろってなって、朔間ちゃんの話になったんだよ」
 ねーっ。と、郁人は馨に笑顔を向けた。郁人の話には驚いたが、その狭すぎる世間に苛立って、直哉の表情は徐々に仏頂面に変わっていく。
「ね、朔間ちゃんも運命的だと思わないー?」
 にっこりと笑って郁人が首を傾げる。長い金髪が揺れ、一層鬱陶しい。
「楽しそうですけど、もう直ぐ出勤時間ですよ」
 視線は馨の肩に触る郁人の腕を捉えたまま、直哉が静かに言った。距離感の近い郁人の行動には何の意味もないと自分に言い聞かせる。
「あ、朔間ちゃんジェラシー?」
 ニヤリと笑ったその顔に、図星の直哉は小さな舌打ちをした。
 前言撤回……。
 面白がって笑う郁人に、直哉は目を細めた。言い返そうとしたが、馨に「まだバイト中だろ」と釘を刺され、その場はなんとか気持ちを抑えた。
「あはは、ごめんね。揶揄いすぎた」
 馨に諌められた直哉に悪びれもなさそうに謝ると、郁人は馨から手を離し、スマホを取り出して時刻を確認した。
「あ、やっべぇ」
「いや、遅すぎ」
 黙って直哉の横から様子を伺っていた花田が溜息を吐きながら「今ここに居ようがタイムカードを切った時刻が絶対だからねー」と郁人を急かした。
「店長いけず〜」
 郁人は文字通り唇を尖らせ、小走りで裏口へ回って行く。
「ねぇ、終わるの待ってても良い?話があるんだ」
「あ、はい。もうあがるので」
 直哉が事務室へ戻ろうとすると、ふふ、と馨が嬉しそうに微笑んだ。
「まぁ、大した話じゃないんだけど、直哉には言っておきたくて」



「お待たせしました」
 退勤して郁人と入れ替わりで出て来た直哉は、ブレザーを片手に持ち、ワイシャツにネクタイの姿で現れた。そのネクタイをほんの数秒見つめると、馨はハッとして「お疲れ様」と直哉に微笑んだ。
「退勤間際に妬かせてごめんね」
「別に、妬いてないです」
 直哉は馨に仏頂面のまま答えた。ロッカールームで郁人とすれ違った時に無言でニヤリと笑われたのも腹立たしく、眉間に寄った皺が全く元に戻らない。
「怒っているってことは、やっぱ妬いてるんだ?」
「そんな訳ないでしょう」
 そう答える口とは裏腹に、直哉の顔は赤くなる。夜の暗がりでもはっきりと分かるほどの赤面に、馨は小さく吹き出した。
「こんな夜遅くに、わざわざ揶揄いに来たんですか?」
「別に遅くないでしょ、高校生が働ける時間帯なんだから」
「そうですけどっ」
 つーか揶揄いにきたのは否定しないのかよ。こっちは心配で言っただけなのに……!
 頬を膨らませる直哉に、馨は眉をハの字に寄せた。
「良いじゃん、ほら途中まで一緒だし」
「途中まででしょ。いつも家までは送らせないくせに」
「そりゃ、俺のが年上だからね。久しぶりなんだから怒らないの」
 こういう時ばっか、年上振りやがって……。
 直哉は喉元まで出かけた悪態を飲み込む。その様子を見た馨は笑いながら「今度勉強見てあげるから。ほら、体育祭終わったらすぐ中間でしょ?」と直哉を宥める。その時、入学祝いに直哉が贈ったブルーのパスケースが馨の鞄からぶら下がっているのが目に入った。思わず緩みかける口元を片手で覆う。
「……それで、話ってなんですか?」
 口元を隠したのを不思議に思った馨が顔を覗き込んできたため、直哉は慌てて話題を振った。
「俺、サークル入ろうって思って」
「へぇ。出来そうなスポーツでも見つけたんですか」
 馨の趣味が読書以外に浮かばない直哉が聞き返す。すると、ふふんと鼻を鳴らして得意気に馨は答えた。
「俺が入るのはラーメン同好会だよ」
「……サークルじゃねぇじゃん」
「ま、同じようなものでしょ」
 呆れ気味に直哉が「そーですか」と答える。正直、サークルと同好会の違いなんてどうでも良い。確かに猫舌のくせにラーメンを食べたがるほど好物なのは知っていたが、同好会に入るほどとは思っていなかった。
「通りすがりに説明聞いてさ、好きなラーメン屋通ったり、開拓したりも楽しそうだなぁって思ったんだ。文化祭では自分達で考案したラーメン作って売るんだって。面白そうじゃない?」
「えぇ……」
「ちょっと。もっと興味持ってよ」
「いや……だって馨さんがラーメン作るって……本気ですか?」
 直哉は去年の夏に馨の家に泊まりに行ったことを思い出しながら言った。線香花火勝負で、負けた直哉が朝食を作ることになったのだが、やっぱり手伝うと言って目の前で包丁を握った馨はどう見たっていつ指を切ってもおかしくない持ち方をしていた。
「大丈夫だって。ラーメン作りから料理を学ぶんだから。作れるようになったら、一番に直哉に食べさせてあげるし」
「馨さんは皿洗いだけにしてもらってください」
 心配なので、と直哉が付け加えて言うと馨はムッとした顔で答える。
「郁人さんだって、料理下手だけど簡単なラーメンならスープから作れるようになったって言ってたもん」
「……え」
 馨の口から郁人の名が聞こえ、直哉は次に控えていた軽口を飲み込んだ。
「……綾瀬さんも居るんですか?」
「うん。だって俺のこと勧誘したのあの人だし」
 馨が楽しそうに答える。
 なるほど、通りで。そりゃ、サークル勧誘日に一緒に帰宅して、バイト先にまで連れて……。
「いや、だからってバイト先まで来る必要はないでしょ」
「なにさ、直哉は俺に会いたくなかったってわけ?」
「なっ……!そんな事言ってないです」
 慌てて否定したが、久々に会えたと思えば郁人に肩は抱かれているし、馨の口からは郁人の話が出てくるばかりで内心面白くはない。人の気も知らないで、と馨を睨むが、馨も馨で直哉にジト目を向ける。
「ふーん。で、直哉」
 馨が立ち止まる。
「はい?」
 直哉は苛立ちが隠しきれないまま、不貞腐れた返事を返した。子供っぽくて情けないと思うが、そんなにすぐには態度を改められない。
「ラーメン同好会の活動始まったら、会えなくなる日増えるけど良いの?」
 直哉の足もピタリと止まる。
「え……。良いの、って……」
 街頭の明かりに照らされた馨の表情は、少しだけ寂しそうに見え、直哉はごくりと唾を飲む。
「そりゃ、会えないのは……つまらないですけど」
「つまらないだけ?」
 馨が直哉の顔をじっと見つめる。いつもより険しい表情に、直哉は目を逸らした。
「俺は真面目に聞いているんですけど?」
「……今日は質問ばっかりですね」
「良いから、答えてよ」
 そう言われた直哉は数秒ほど黙り込むと、ゆっくり口を開いた。
「馨さんのやりたい事が優先でしょ。環境が変わったんですから。別に俺といなきゃいけないって訳じゃないし……」
 そもそもそんな約束もしていなければ、想いだってまだ伝えていない。縛る理由も縛られる理由もない。だったら好きにしたって構わないだろうと直哉は思っていた。
 しかし、その答えに痺れを切らした馨は溜息を吐いた。
「嘘。言いたいこと、はぐらかしてる。直哉にしては真面目すぎるし」
「そんなこと」
「そんなこと、ある」
 きっぱりと言い切る馨の圧に負け、直哉は言い返す言葉が見つからず、黙り込む。真面目に答えて何が悪かったのだと、直哉も眉間に眉を寄せた。
「お前が連絡くれないから、俺の方が退屈すぎて死にそうだったのに……」
「え……」
 タイミングが悪く、二人の横を自動車が通りすぎた。エンジン音に邪魔された馨の声は、直哉の耳にはっきりと届かずに消えた。
「あの、馨さん、今なんて」
「なんでもないよ」
 馨が食い気味に言うと、直哉は小さく溜息を吐いて黙り込む。何となく馨の顔が寂しそうに見えて、直哉の胸がチクリと疼いた。
「……あの、さ」
「はい」
 急にかしこまった馨は、ゆっくり深呼吸をすると顔を逸らしたまま口を開いた。
「……もっと連絡してきて良いんですけど。大学生って、割と暇なんだから。直哉なんてバイトしかしてないくせに」
「はい?」
 また何を言い出すのかと思えば……。
 直哉は胸の奥がじわりと熱く熱を帯びるのを感じた。
「……馨さんって、大学に勉強しに行ったんですよね?」
「うるさいな」
 いつの間にか顔を赤く染めた馨が小さな声で反論した。
「……わかりました、早めに連絡します。俺も、二年になってから英語がやばそうなので」
「数学も、だろ」
「全教科かも」
「ったく、仕方ないなぁ」
 ふわりと柔らかくなる馨の表情に、直哉は思わず見惚れた。わざとヤキモチを妬かせるようなことをし、もっと連絡を寄越せとわざわざ直接言いに来る目の前の先輩が愛おしくて堪らない。素直になれないのは自分もそうだが、この人以上に不器用すぎる人はいるのだろうかと、不安と心配と嬉しさが交差して、直哉の頬はまた自然と緩む。そして同時に直哉の中である決心がついた。
「馨さん」
「ん?」
「俺、卒業式の時に馨さんの忘れ物拾ったんですよ」
 そう言った直哉の手は、馨の頬に向かって伸びていた。しかし、その手が頬に触れる前に、馨のスマホから着信音が流れた。 
「わっ、ごめん」
 直哉は咄嗟に伸ばした腕を引っ込めた。
「で、出てくださいっ」
 慌ててジェスチャーを交えて伝えると、馨に背を向けて深呼吸をする。心臓が脳まで昇る勢いでばくばくと音を鳴らしていた。
「……同好会の先輩からだった。えっと、ごめん……何だっけ?」
 通話を終えた馨がスマホをしまいながら言った。既に同好会の先輩と連絡を交換していることに驚いたが、水を刺された後にもう一度手を伸ばそうとは出来ず、直哉は首を振った。
「……もう良いです」
「そっ……か、ごめんね」
「いえ……でもっ」
 そのまま終わらせるのはあまりにも悔しくて、直哉は口をへの字に曲げて言った。
「馨さんのラーメンは、まず俺が食べるまで世に出さないって約束だけしてください」
「……あれ、そんな話だっけ」
「馨さんがラーメン同好会に入ったら会える日減るとか泣くからでしょ。せめて会えない時に美味しく作る練習ぐらい……」
「いや泣いてないっ!」
「あははっ」
 直ぐそこまで出かけた気持ちをもう一度仕舞い込み、直哉は馨の家の方へ先に歩き出した。


「こら。遅くなるから送るな」
「近いんだから送らせてください」
「俺のが大人だから言うこと聞けし」
「じゃあ、あの券使って言うこと聞かせれば良いんじゃないですか」
「あれはまだ使わないのっ」
「なら大人しく送られて下さい」