冬休みが終わり、三学期になった。三年生は受験へ向けての追い込みが始まり、毎週月曜の登校日以外に学校へ来る者は殆どいなくなる。いよいよ卒業式までのカウントダウンが始まった。この時期にはもう三年生は委員会も引退となり、当番もなくなるはずだったが、相変わらず、馨は直哉の居る木曜日に必ず図書室へ顔を出しに来た。最初のうちは「直哉がサボってないか見にきた」と理由を振り翳し、カウンターの椅子に座って直哉と芽衣が図書室内を掃除する様子を眺めていた。踏ん反りかえって偉そうにするものの、暫くするとそれに飽きて、窓辺の本棚に座り、窓を背もたれにして読書をしていた。そもそも、この当番が大して忙しくないのは分かっていたはず。直哉も芽衣も、顔を出してはすぐ飽きてしまう馨に呆れていた。


「今日はいつもより来るのが早かったんですね」
 ある時、掃除を終え、返却本を棚へ戻しに来たついでに直哉が馨に声をかけた。この日も登校日ではなかったが、馨は図書室にやって来ていた。いつもと違って昼過ぎから図書室に入りびったっていると、直哉は司書の星野から聞いていた。昼休みに顔を出し、鞄を置いて暫く出て行ったが、戻って来るなり窓辺の本棚に腰掛けて読書をし始めたという。
 何をしていたんだろう……。
 受験を終え、進路を決めた馨が木曜日にやってくるとしても、基本的に放課後からだ。わざわざ時間を合わせてやって来る程、自分達一年生だけに当番を任せるのは心配なのだろうか。当初はそう考えていたが、ただの暇潰しだと、少し前に本人から聞かされていた。図書室にどうしても読みたい本があったのだろうか。卒業間近の三年生には、もう貸出しが出来ない。だが、ここまで通って来るのだから、星野に言えば特別に貸出してもらえる可能性もあるはずだ。
「……まぁ、家にいても暇だから」
 馨はにこりと笑って答えた。一瞬間があったように思えたが、直哉はそのまま受け応える。
「それ、教室では言わない方が良いですよ……」
 まだ受験終わってない人もいるんだから、と直哉が付け加えた。
「そういえば、芽衣ちゃんは?」
「……暇だからって部活に行きました」
 直哉は眉を寄せて答えた。三年生が引退してからは、流石に直哉一人に仕事を押し付けるのは悪いと思ったのだろう、芽衣は最初だけ顔を出し、掃除が終わると部活へ行くようになった。
「相変わらずだねぇ。彼女も暇を持て余していたのか」
「勘弁してくださいよ。あいつ、今年に入って……いや、そもそもこの当番、最後までいた事ないですよ」
「あはは、確かに。まあ良いじゃん。どうせここも暇なんでしょ」
「まぁ……そうですけど」
 半ば諦め気味に直哉は言った。冬休みが明けてから図書室の利用者は大幅に減った。貸出し業務なんて十冊あれば多い方だ。三年生が利用をしなくなり始めたこともあり、自習に来る人も殆どいない。今も図書室に居るのは直哉と馨の二人だけだった。
「受験が早く終わるのも考えものだね」
「なんですか、急に」
「だって、全然遊び相手捕まらないんだもん。家にいても暇だし、直哉は毎日学校だし」
「当たり前でしょう。俺は一年ですよ」
「自分だって高校受験終わったら暇を弄んだくせに」
「だからって……」
 直哉は馨の言動に呆れながら少し前の自分を思い出す。怪我をして腐った時期はとっくに過ぎ去っていたし、リハビリもほぼ終わりに近かった。やる事と言ったら受験で手を出していなかったゲームや漫画に時間を費やすぐらい。卒業式を終えてからは、コンビニのアルバイトに勤しみ始めていたが。
「まぁ、この時期に一人暮らしの準備とか色々やったりするもんね。ギリギリまで合否分からない人とかは、物件探しや引越しの荷造りが大変らしいよ」
 だからしょうがないんだよねぇ、と呑気なことを言い、馨は伸びをした。
「馨さんは……一人暮らししないんですか?」
 直哉は恐る恐る尋ねた。ここ最近、一番気になっていた事だ。馨が進学を決めた晴朗大学は、馨の家から電車で一時間半はかかる場所に在る。一人暮らしを検討するには十分な距離だった。
「しないよ。前にも話したでしょ?俺、何も出来ないもん」
 馨は自信満々に答えた。そういえば花火をした際に一人では生活出来る気がしないと言っていたのを思い出す。
「でも、毎日直哉が家事手伝いしに来てくれるなら考えても良いよ」
「冗談やめてください」
「冗談じゃないよ。こっちにはとってもすごい券があるんだから」
 ふふんと鼻を鳴らし、馨は得意気に言った。直哉の脳裏に、ノートの切れ端で作った『なんでも言う事を聞く券』が浮かび上がった。
「あれは一度しか使えません」
「え、そんな事書いてあったかなぁ」
 とぼける馨に直哉は黙り込む。注意書きや期間なんて書き記した記憶はない。しまったと苦い顔をした直哉を見て、馨は吹き出す。
「安心してよ。まだ使わないから」
「……じゃあ、いつ使うんですか」
「内緒」
 馨はくすりと笑う。そのしたり顔が妙に鼻に付いて仕方なかったが、直哉はそれ以上話を掘り下げるのをやめた。
「それで?今日は何をしに来てたんですか」
 直哉は再び尋ねた。それに対して馨は眉を寄せると、一拍おいて口を開いた。
「……別に、いつも通りだよ。直哉達がちゃんと仕事出来るかの確認。あと……」
 馨が一瞬言い淀んだ。
「……ちょっと、忘れ物とか?」
「忘れ物、とか?」
 その言い方が妙に引っ掛かり、思わず復唱した。
 何かを誤魔化した……?
「えっと、うん、教室に……。ほら、誰もいない日の方が良いじゃん?俺みたいに受験終わった組は、後半戦を控えている人達から煙たがられるし……」
「え、でも登校日でもないんだから、何時に来ても同じですよね?」
 直哉の問いに馨は突然押し黙った。
 あぁ、これは。
 きっと、自分には触れて欲しくない何かだ……。
「……えっと」
 三年生のこの時期に、忘れ物という理由はいささか無理がある。多分本人もそれは感じていたのだろう。馨の表情が優れないように見えた。
「すみません、あの……なんでも、ないです」
「……そう」
 気不味い空気が二人の間に流れる。卒業前の相手と、ましてや馨相手にこんな空気を作るつもりは毛頭なかった。ただ、いつも以上に誤魔化し方が大雑把に見えて、詰め寄った言い方をしてしまった。
 どうしよう……。
「……これ、戻してきます」
 自分で作ってしまった空気に居た堪れず、直哉が返却本を戻しに行こうと踵を返した。
「直哉」
 心臓が一瞬凍りつく。冷たい空気が肺を通り過ぎて下っ腹で渦を巻いた。名前を呼ばれ振り返ると、馨の表情は相変わらず困った顔をしていた。
「ごめんね」
「……何がですか?」
 謝るなら俺の方じゃないのか……?
 困惑したまま、馨の顔をまじまじと見つめる。馨は小さく笑うと、本棚から飛び降りて手に持っていた文庫本を直哉の返却本の上に重ねた。
「ねぇ。帰り、ラーメン食べに行こう?バイトないでしょ?」
「…………は?」
 直哉は思わず間抜けな声を出した。さっきまでの変にピリついた空気が一瞬で消え去っている。
「あの……マジで意味分かりません」
「……あ、猫舌のくせにラーメンかよ的な?」
「いや、そうじゃなくて……。あぁ、もう良いです!」
 呆れ気味に返事をすると、馨はくすりと小さく笑った。
「ごめんな」
「……別に。なんかもう、本当にどうでも良いです」
「どうでも良くしないでよ」
「その我儘、大学でも通ると思っていたら大間違いですよ」
「……分かってるから」
 本当かよ、と溜息混じりに小さく独りごちると、直哉は本を本棚へ返しに行った。
 

 馨さんは一体、何を教室に忘れて来たのだろうか。
 授業中、窓から見えた曇った空を眺めながら直哉は考えた。木曜日の夜からずっとその事ばかりが気に掛かり、とうとうバイトでもミスをした。考え事をしながらレジに立ち、商品を二重打ちしていたのだ。幸い、金額がおかしい事に直ぐに気がついてクレームには発展しなかったが、花田には「金銭対応はどんな時でも慎重にね」と、やんわり注意を受けてしまった。結局、その日は気持ちが上手く切り替えられず、レジ対応は別の人に頼んで品出しと掃除をするよう言われた。
 こんなに引っ張るなんて、思ってもいなかった。考える度に直哉は溜息を吐く。この授業中にも何度吐いただろうか。ふと見上げた黒板の上に掛けられた時計は、もう授業が終わる十分前を指していた。数名の腹の虫が遠くで鳴る。購買部へスタートダッシュを試みる者が物音を立てないように机の上を片付け出した。そわそわと動き出す周りに感化され、直哉の腹の虫も小さく唸る。今朝は母親の仕事の都合で弁当は自分で詰めた。用意されていたおかずのほかに、冷凍庫に眠っていた鶏の唐揚げを二つほど無理矢理入れて来ていた。
 あの人の事だ、忘れた頃にケロッと話をしてくれるはず。気長に待とう。
 頭の中はもう弁当へシフトした。そう思い込んだのだが、ものの数分でまた「何だったのだろう」と繰り返し馨の忘れ物について考え始めていた。



「朔間くん、ごめん。今週、当番頭から行けそうにないの」
「……今更?」
「あー……うん、本当に。諸々、ごめん」
 罰の悪そうな顔をして芽衣が謝る。直哉の言い分は百も承知だと顔に書いてあった。
「今週から卒業式の演奏と、定期演奏会の練習が始まるの。もう三年生いないから休めなくて……」 
 苦笑いで芽衣が言う。毎年、卒業式の校歌や卒業生の最後の合唱曲の演奏は吹奏楽部が担当すると直哉の耳にも入っていたが、彼女の当番サボりは今に始まったものではない。
「休めない、はいつもだろ。来年は図書委員にならないようにしておくんだな」
「何よその言い方。仕方ないじゃない、今年は運が悪かったの」
 直哉が棘のある言い方になるのは彼女自身も分かっていた事だが、実際言われれば腹が立つ。
「あーあ、朔間くん、如月先輩いなくなってからずっと嫌味ばっかり。先輩は理解あったのになぁ」
 そう、彼女が今までずっと部活に専念出来ていたのは三年生の理解の賜物だ。主に馨が「暇だし良いよ」とさっさと追い払ってしまう。ついでに自分と同じクラスの女子生徒も帰してしまうため、基本的に木曜日は馨と直哉の二人体制だった。当初は困惑したが、だんだんと馨と二人でいることが当たり前になっていき、途中からは二人きりになれる時間として直哉も楽しみにしていた。だが、それは馨が現役だったからである。
「あの人は甘いんだよ。それにもう三年がいないのは部活だけじゃないんだぞ」
 学年が変わっていない今、木曜日の当番は直哉と芽衣だけだ。一人欠ければその分仕事量も増え、時間もかかる。それに、馨が毎週顔を出すからと言って、必ずしも手伝うとは限らなかった。
「それはそうなんだけど……あ、噂をすれば」
 芽衣が窓から中庭を眺めて言った。つられて直哉も中庭へ視線を移した。そこには馨と見知らぬ女子生徒が一人、旧校舎の裏へ向かうのが見えた。
「どこに行ったんだろう」
 直哉が首を傾げた。
 あの先は図書室のある旧校舎だ。彼ら三年生がこの時期に行くとすれば、それこそ自習や読書を理由に図書室だと考えられる。しかし、馨と一緒に居た女子生徒は、わざわざ中庭から旧校舎の裏へと向かって歩いていた。
「音楽室とか?ほら、卒業式の合唱練習かも」
 確かに、今日は月曜日で、三年生の登校日だ。だが、合唱練習のために音楽室へ行くとしても、わざわざ中庭など通らない。渡り廊下を渡って、三階へ上がるのが通常の導線だ。不思議に思って直哉は、旧校舎の音楽室の窓を見上げた。カーテンは開いているが、窓は閉め切っている。
「合唱練……?」
「これからするんじゃない?」
「誰かいるようには見えないし、そもそも全員入りきらないよな」
「えぇ。確かに。練習なら体育館だろうし……」
 芽衣が頷いた。
 だとしたら……。
 その瞬間、直哉の全身にぞわりと鳥肌が立った。飲み込む唾が重く、鼻から吸い込む息が苦しい。無意識に眉が眉間に寄った。嫌な焦燥感が駆け巡り、呼吸が上手く整わない。
「もしかして…………告白!」
 芽衣が目を輝かせた。
「旧校舎裏なんて今の時間誰もいないし!きっとそうだよ!」
「きっとって……。校舎裏の倉庫から何か運んでくるよう頼まれているだけかもだし」
「倉庫?そんなのあっちにあった?」
 直哉は芽衣のその声にハッとする。旧校舎裏には倉庫はない。あるのは屋外プールぐらいで、今の季節は水泳部が陸上トレーニングの際に更衣室を使うぐらいだ。
 ぞわりと、また鳥肌が立った。ただ、倉庫の有無を確認しただけなのに耳まで熱が上っていく。
「告白はきっと女子からね……」
「え、なんで」
 さっきまで普通に聞こえていた芽衣の声が、籠って聞こえ始める。
「うっそ、朔間くんあれだけ先輩と一緒にいて知らないの?如月先輩ってめちゃくちゃ人気あるんだから。それにほら、明日は……」
 好奇心に溢れた芽衣の声は、いつの間にか遠くで聞こえ、最後の方が上手く聞き取れなくなった。途端に心臓がざわつき始め、直哉は思わずワイシャツの第二ボタンを左手で握り潰した。


 明朝、学校最寄りの駅に降りると、直哉は大きな欠伸をした。昨晩は殆ど眠れなかった。試しに数えた羊は三百を超えたが、おかげで馨の事を深く考えずに夜を明かすことができた。いつだか馨にペラペラダウンと言われた上着のポケットに手を突っ込んで歩く。二月の朝は吐く息が白く、耳に当たる風は冷たくて痛い。初詣の日も寒く、今日と同じ気温だったような気がした。二人で出掛けるのが嬉しくて、天気予報を入念に確認していたからよく覚えている。
 違うのは、横に馨さんがいないという事だけだ。
 直哉にとって、馨が隣にいるのは当たり前なことだった。高校生活が始まってから今まで殆ど変わらなかった日常だ。それがもう直ぐ終わろうとしているのだと、昨日やっと気がついた。
 あんな事で気がつくなんて……。
 昨日、芽衣と見かけた馨と女子生徒を思い出して溜め息を吐く。その後、「あれはやっぱり告白だったって!もちろん、あの女の先輩からみたい」と、芽衣からメッセージが送られてきた。続けて送られてきた告白の結果には、馨が彼女を振ったと書いてあり、内心ホッとした。安堵した直哉は、その勢いで「一緒に帰りませんか」と馨に連絡を入れた。しかし、「今日は予定があるからごめん」と珍しく馨に断られてしまった。いつもなら二つ返事で承諾をしてくれるというに、あまりにもあっさりとしていて腹が立つ。
 人の予定はお構いなしのくせに……。
 何で今更。どうしてこの人は……。と、馨に対する文句は羊と同じ数は呟いた。幸い、今日は三年生の登校は無いはずだ。いつも通りに馨が顔を出すとして、木曜日まであと三日はある。
 一旦、落ち着こう。
 直哉はゆっくりと息を吐いた。
 俺があの人に伝えられる気持ちは、卒業を祝う事だけなのだから……。



「また告白みたいよ」
 次の日、教室に入るなり、挨拶もそこそこに芽衣が直哉へ言った。
「……その話ならメッセ読んだ」
「それは昨日の話でしょ。やっぱ如月先輩ってモテるのね」
 芽衣が眉をハの字に寄せ、やれやれと言ったような口振りをした。
「……え、また?」
 ようやく彼女の言っている意味がわかった。直哉はリュックから乱暴にペンケースを取り出し、芽衣に詰め寄る。
「だからそう言ったじゃない」
 芽衣が分かりやすく大袈裟な溜息を吐いた。
「昨日のは三年の人みたいだけど、今日は二年の図書委員。桐島さんだって。さっき、吹部の先輩が教えてくれたの」
 得意気に芽衣が言った。直哉の記憶に二年の桐島ははっきりと残っていないが、名前には聞き覚えがあった。昨日同様に、全身にぞわりと鳥肌が立つ。
「でも、今日登校日じゃ……」
「あんたね……今日何の日か分かってる?」
「え?」
 何の日、と言われてもピンと来ない。
「バレンタインでしょ。昨日言ったじゃない」
「は……」
 そう言われ、彼女とのやり取りを思い出す。あの時聞き逃したのはバレンタインという単語だったようだ。
「え、じゃあ、昨日のも……」
「昨日は三年生、今日は一、二年からの呼び出しでしょうね」
 だからか……。
 直哉は昨日、馨に断られた事を思い出した。登校日中にチョコレートを渡そうと行動を起こす女生徒がいてもなんらおかしくはない。実際に旧校舎裏へ向かう姿も目にしているのだ。昨日はきっと、そんな女の子達からから告白を受けていたのだろう。
 そんで、捌き切れないからって後輩は今日に回したってか……?
 思わず直哉から舌打ちが漏れる。同時にこの前の「忘れ物」の話を思い出して苛立ちが増した。
 忘れ物って……。
 それが咄嗟に出た言い訳なのは分かっていた。馨の性格的に、他人の事を誰彼構わずべらべら喋る事はないのは分かるのだが、別に隠す事なんてなかったのではないか。納得がいかない。彼の他人への優しさが気に食わない訳じゃないのに、それを理由に一枚壁を隔てられた事に腹が立った。
「おーい」
 黙り込む直哉の顔を芽衣が覗き込む。
「顔、険しいけど?」
 芽衣が自分の眉間を擦りながら言った。
「……なに」
「何って……だから、今日が何の日か分かってるんでしょ?」
 まったくもう、と言いながら芽衣は直哉に小さなピンク色の箱を手渡した。
「はい、チョコレート。木曜日は本当に、ごめん。ていうか、来週も休む気がする……。でも、来月の卒業式までだから……!」
 申し訳なさそうに芽衣が言った。卒業式は三月一日で、もう再来週に迫っていた。
「いいよ。時間がないのはお互い様だし」
 直哉は溜息を吐きながら答えた。芽衣は直哉の返答に不思議そうな顔をしたが「あとそれ」と、すぐに切り替えてチョコレートを指差した。
「ちゃんとお返ししてよね」
「……義理ってお返し要らないんじゃないのか?」
「私は!いるのっ!」
 ムキになる芽衣に、直哉はふっと頬を緩ませる。少しだけ全身にかかっていた力が緩んだ気がした。



「火曜日、来てたんですね」
 返却本を片し終えた直哉が、箒を片手に馨に言った。いつもの窓辺で読書をしていた馨は、眉をぴくりと動かして本から視線を直哉へ向けた。
「なに、もしかして直哉って俺のストーカー?」
「人聞きが悪いですよ」
 否定せずに惚けられ、直哉の方が怪訝な顔に変わっていく。
「ごめんて。声かけてくれれば良かったのに。メッセージくれた?」
「いいえ」
 直哉は首を横に振った。メッセージなど送ったところで、どうせはぐらかしただろう。あの日はバレンタイン。芽衣の話では馨に好意を寄せている下級生は沢山いるらしい。彼女の吹奏楽部にも数人、チョコレートを渡しにいくのだと張り切っている子がいたようだった。
「少しずつ荷物を持ち帰ってるんだよ、卒業式に大荷物とか嫌だし」
 馨はにこりと笑って答えた。その清々しさにまた苛立ちが増す。直哉は出しかけた舌打ちを堪えた。
「ま、いざとなったら直哉に手伝ってもらえば良いかなぁって思ったんだけど」
「……いやですよ。自分でどうにかしてください」
 どういうつもりで言っているんだ、この人は……。
「えー。けちー」
 苛立つ直哉を他所に、馨はいつも通りケラケラと笑った。
「馨さんが全部に責任持つって決めて持ち帰ったんでしょ」
「え?」
 あ、しまった…………。
 直哉は言わんとしていた嫌味を、つい溢してしまった。慌てて口に手を持っていくが、はっきりと馨の耳に聞こえている。
「……もしかして、なんで来てたか知ってたの?」
 馨が直哉の顔を覗き込む。直哉は咄嗟に顔を背けた。心臓が強く脈を打ち、同時に背中が粟立った。
「……直哉?」
「…………馨さんは随分とモテるらしいので……」
 物凄くか細い声で直哉が渋々と答える姿を見て、馨は勢いよく吹き出した。
「あはは、何それ!」
「べ、別に、なんでもないですけど!でも、ああいう特別な日のプレゼントって、本気の人もいる訳で」
「うん。知ってる」
 馨がまたにこりと微笑む。
「知ってるし、分かってる。だから、ちゃんと直接断って、受け取ってない」
「……えっ…………は?」
 今、なんて……?
 余程の顔をしていたのか、直哉の顔を見るなり馨はクツクツと喉を鳴らし、笑いを堪えている。
「あ、クラスの女の子達がスーパーの徳用チョコを配っていたのは一つ貰ったけどね。流石にゼロはカッコつかないかなぁって」
「はあ……」
 拍子抜けした直哉は気の抜けた声で返事をする。まだ状況がよく理解できていない。だが、ずっと胸のところでつっかえていた物が消え、嫌な鳥肌がすうっと引っ込んでいくのが分かった。
「なに、俺が誰かの彼氏になると思った?」
 くすくすと笑いながら馨は冗談を言ったが、直哉にとっては図星以外の何物でもない。直哉は返事をする代わりにゴクンと強い音を立てて唾を飲み込んだ。すると、馨はくすりと笑ってわしゃわしゃと直哉の頭を撫で回した。
「ちょ、なんですか!」
「あはは。直哉、身長伸びたなぁって」
 撫でる手を避けると、上目遣いな馨と目が合った。数ヶ月前までは目線が同じはずだった。
「俺のこと思ってくれる人がいるのは心の底から嬉しいよ。人に好かれるって凄いことだし、恋人が居たらなあとか、俺だって考えることもある。だけど、そんな『居たらなぁ』程度の気持ちのまま本気の気持ちを受け取っちゃうのは相手に対してフェアじゃないでしょ」
 馨は静かに直哉の頭から手を離す。
「それに……俺、忘れ物あるから」
「忘れ物……」
 また、言った。
 直哉の眉がぴくんと動く。
どうしてこの人は、いちいち訳の分からない言い方をしたがるのだろうか。
晴れ始めた胸の中に、また霧がかかったような気がした。
「……持ち帰るんですよね、それ」
 一歩後ろに下がり、直哉は箒を持ち直した。
「うん、たぶんね」
 これ以上、何を聞いてもはぐらかされる。そう思った直哉は、その『忘れ物』が何なのかを確認しないまま掃除の続きを始めた。
「あ、直哉」
「はい?」
 直哉は振り返らずに返事をした。
「俺、来週は来ない。次に学校に来るのは来週の登校日と卒業式。それで最後だよ」
「……わかりました」
 今日が図書室で会える最後の日なのか。
 呑気なことが頭に浮かぶ。唐突すぎて何の実感も湧かない。卒業式は暦上の、学校行事という形だけで、馨が卒業して学校から居なくなってしまうことが信じられなかった。直哉の頭に浮かぶのは、いつも横で微笑む馨の姿だった。来年もその次の年も、そのまた次の年も。気がついたら横にいて、気がついたら振り回されて、一緒にいる。そんな風に思っていた。本人の口から「卒業式」という単語を聞くまでは。
「卒業、しなければ良いのに……」
 思わずぽろりと溢れた欲。直哉の小さな声は静かな図書室に響き渡った。
「ん、どうした?」
 その声に直哉の心臓がばくんと跳ねた。
「いえ……。なんでもないです」
「そっか」
 ほっと胸を撫で下ろし、再び箒を持ち直す。心臓は今にも飛び出す勢いで脈を打っていた。




「ね、直哉は俺にチョコレートないの?」
「……ないですよ」
「なぁんだ。じゃあさ、今から食べに行こうよ。俺、奢ってあげる」
「うわ、珍しい。槍でも降るんですかね」
「降らねぇし。ちなみに駅前のファミレスでやってる、期間限定特大チョコレートパフェだから」
「……遠慮します」
「ダメ。食べ終わるまで帰さない」