「今日は冷えるね」
図書室の扉を施錠しながら馨が言った。最終下校時刻の十分前。空はすっかり暗くなり、一番星は既にどこにいるのか分からなくなっていた。今日で年内の当番は最後で、直哉は名残惜しそうに「閉館」と書かれた掛札を見つめる。つまり、年内に学校で馨に会えるのはもう残りわずかとなったのだ。
「冬も本格化って言ってましたからね」
今朝の天気予報を思い出し、直哉が続ける。しかし、その格好で冷えるとはよく言ったものだと直哉は馨を前に目を細めた。着膨れとも言って良いほどに分厚いダッフルコートを制服の上から着込み、首元には深緑色の毛糸のマフラーを巻いている。坂道で転べば、そのまま一気に下へと転がり落ちていきそうな膨れ方だ。
「暑くないんですか、それ」
「え、話聞いてた?」
怪訝そうな顔でもこもこの馨が直哉を見る。秋の文化祭が終わった頃、身長が伸びた直哉はそんな怪訝な顔を同じ目線で見つめ返すと、やれやれと溜息が返ってきた。
「大人は低体温なんだよ。お子ちゃまとは違うの」
「俺がお子ちゃまって言いたいんですか?」
「じゃなきゃ、そんなペラペラな薄着で今日を乗り越えられるわけがないね」
馨が薄着といった直哉のダウンコートは、軽量を重視された作りがウリの物。機能としては従来品と同様に温かく、上着としては申し分ない。寧ろ動きやすく、重宝出来る代物と思っていた。それをペラペラだと言われ、直哉の眉が無意識に中央へ寄る。
「俺にはこれが丁度良いんです」
馨にこの上着の機能を説明したところで理解されそうにないと思い、直哉は無理矢理会話を終わらせる。
「ふーん」
案の定、馨は司書室のキーボックスに図書室の鍵を戻しながら興味なさげに答えた。こんなくだらないやり取りも今年は今日で最後だと思うと、今の会話で良かったのかと直哉は自問する。来週には終業式があり、冬休みはもう目前だ。夏休みとは変わって、冬休みは図書室も始業式が終わるまで開館はしないらしい。先週までそうとは知らず、いつも通りに木曜日を避けてシフトを提出した直哉は、冬休み中の木曜日をどう過ごすかがここ最近の悩みだった。
「ね、来週からどうする?」
「はい?」
突然の質問に驚き、直哉は間抜けな声を出した。今のこの瞬間まで、今年で馨と何かを共にするのは最後だとばかり思っていたのだ。
「年内にやり残した事とかあるなら付き合うけど?」
「……どういうことですか?」
遠回しに木曜日の予定を聞かれているのは分かるのだが、どうしてこうも回りくどいのだろうか。
「俺が聞いているんだけど?」
質問を濁されている直哉の気はお構いなしに馨が言った。
「そうですねぇ」
はっきりと聞かれた方が予定も立てやすいのに……。
腕を組み、仕方なく考え込みながら直哉は昇降口へと足を進めた。後ろを着膨れした馨が一生懸命ついて来る。その姿が廊下の窓に映ったのが目に入り、直哉は馨に見られないよう隠れて笑った。
「例えば、どこか行きたいところとかさ。ほら何かあるでしょ?」
「ウーン……」
直哉は小さな唸り声を漏らした。言わないだけで馨と行きたい場所は山ほど浮かぶ。駅前のイルミネーションや、新作の映画。少し遠出してクリスマスマーケットや、ショッピングなど。浮かぶ事には浮かぶのだが、先輩後輩で、しかも男二人で行くのはどうなのだろうか。自分は馨とならば気にしないと思えても、馨がそうとは限らない。というかそもそも、馨がそんな場所に興味があるようにも思えない。以前映画の話をした時も、基本的に自分のペースで見たいから、映画館には滅多に行かないと話していたのを思い出す。
てか、誘ったら流石に俺の気持ちバレるよな……。もしかしたら他に誰か行く相手がいるのかもしれないし……。ていうか、バレるってなんだよ、バレるって。
本人から答えを聞いてもいないのに、顔も知らない誰かとイルミネーションを見上げて並ぶ馨を想像し、胸の奥がチクリと痛む。
「おーい」
これ以上は考えても何も出てこないと思い、直哉は首を横に振った。
「そんな急に言われても……。逆に馨さんはないんですか?」
「俺?」
馨も腕を組みながらウーン、と唸る。
自分だって大してやりたい事なんてないじゃん……。
しかし、直哉はハッとした。突飛な事を言い出すのはいつもの事だが、馨自身、毎度後先は殆ど考えていた事は一度もない。アルバイトもなく、受験も終わって自由の身であるが故の適当発言が主だが、高校生として最後の冬休みも目前に控えた今、後輩を使って行ける場所だと思えばどんなに遠くても行きたいと言い出しそうで、直哉は聞き返したことを少しだけ悔やんだ。しかし、直哉の心配とは裏腹に、口を開いた馨は「ないな」と、軽く言い放っただけだった。
「ないのかよ……」
身構えて損した、と直哉は力を抜く。だが、すぐさま馨は「あっ」と声を上げた。
「あったんですか」
直哉は嫌味を含めた聞き方をしたが、馨は気にも止めず嬉々とした顔を直哉へ向けた。
「初詣!」
「……え、今更?」
せめてもういくつか寝てくれと、直哉が答えるとケラケラと馨は笑う。
「まさか。ちゃんと年越し直前に家を出て、神社で待ち合わせするんだよ」
「あれ、年内に行きたい所って話じゃありませんでした?」
ていうか、そもそも木曜日の話じゃなかったのかと直哉が聞き返す。
「細かいなぁ」
そんな小さな事はどうでも良いと言って、コートからスマホを取り出すと、馨はスケジュールアプリに『初詣』と入力をした。
「気をつけてくださいよ、元旦の初詣はどこも混んでますから」
「何言ってんの、一緒に行くだろ?」
「……俺の予定無視ですか」
こうなれば何を言っても無駄だと、直哉は溜息を吐く。仕方なしにスケジュールアプリを開いて同じように初詣の予定を入れた。アルバイトもどうせ高校生のうちは深夜帯の出勤はできない。毎年見ている大晦日お馴染みのテレビ特番をぼうっと見るよりも、馨と過ごした方が自分にとっては有意義だろう。それに、おそらく馨と一緒に過ごす最初で最後の初詣だ。来年の今頃こそ、こんな会話をしている事は一切想像がつかない。大学一年生と高校生二年生。片方が進学しただけだというのに、こんなに縮んだ距離も一気に離れてしまう気がした。途端に直哉の胸がジン、と熱を帯びて痛む。同時に嫌な冷たい風が身体をキュッと強張らせた。
「やっぱ寒いんだ?」
「え?」
「今、ぶるって震えたでしょ」
「は……いや、これは」
「強がりやめろって。だから言ったじゃん、そんなペラペラな上着じゃ風邪引くって。まったく、仕方ないなぁ……」
馨は首に巻いていたマフラーを取ると、器用に直哉の首に引っ掛ける。
「これじゃ馨さんが寒いんじゃ……」
これだけ着込んでおきながら、まだマフラーを付けていたのだ。外に出たら凍えてしまうのではないかと心配になる。
「大丈夫、暑いぐらいだから」
「それ、さっきと言ってる事違いますよ」
直哉の突っ込みをスルーして、馨はマフラーを巻く。顔が近いことに直哉の心臓の音が跳ね上がったが、それよりも馨からする甘い香りが気になった。誘われるように鼻をよせると、馨が身体をゆっくり離した。
「……どした?」
「あ、えと……香水ってつけてましたっけ?」
「ん?つけてないけど」
馨が首を傾げると、直哉は確認しようともう一度顔を近付けた。しかし、馨がそれをかわすように先を歩き出す。
「ほら、もっと寒くなる前に帰るぞ」
「……はい」
その時、本当に着膨れし過ぎて暑かったのだろうか、直哉には馨の耳が少しだけ赤いのが見えた気がした。
「帰りてぇ……」
直哉の口から切実な声が漏れる。それを隣りで聞いていた花田は苦笑いを返した。
「ごめんね、恥ずかしかった?」
「恥ずかしいって言うより、拷問ですね……」
「嘘、俺パワハラで訴えられる……?」
「流石にそこまではしませんよ」
直哉が溜息を吐いた。珍しく文句を直接店長へぶつけたのは、出勤前に渡された今日限定の制服のせいである。所々が白くてもこもことした真っ赤な服に、真っ赤な帽子。黒いベルトに白い付け髭。そう、どこからどう見てもサンタクロースの衣装だ。クリスマスイヴと明日のクリスマスはこの衣装を着て運営すると、花田が張り切っていた。それを察した数名の先輩達は「予定があるので」といつもなら出勤している曜日であろうがシフトを入れず、ほぼ年内にバイトを始めた新人達で固められたシフトに直哉も入れ込まれていた。逃げ道は出勤した時点でなくなり、ニコニコと楽しそうに押し付けられた衣装を渋々着用し、あろうことか外売りのケーキ販売員として立たされている。何も聞かされていない直哉には、はっきり言って最悪なクリスマスプレゼントだった。
「店長は俺がこの近所に住んでいるって知っていましたよね……?」
「もちろん。履歴書見て雇っているし?」
「じゃあせめて店内にしてくださいよ」
「ダメだよ、女の子は冷えたら大変だもん」
花田は首を横に振った。店内でレジや品出しを行なっているのは直哉より一学年上の女子高生。彼女も本日出勤するまでサンタコスプレをするとは夢にも思っていなかった者の一人だった。
「……せめてじゃんけんですよ。公平さに欠けます」
「まあまあ。今日はほら、特別手当出すからさ。朔間くんは売上げ次第で少しおまけしてあげるし」
ね?ほら、笑顔笑顔!と笑顔を押し付けられ、直哉は不機嫌な顔で「ケーキ販売中」と書かれた看板をゆっくりと左右に振る。十二月の外は想像以上に寒い。衣装の内側に花田から渡されたカイロを三枚も貼ったが最後まで持つのか不安だった。
外売りさせるならサンタ服ももっと良いやつ用意してくれよ……馨さんじゃないが、こんなにペラペラじゃ風邪ひいてもおかしくはないっつーの。
直哉のイライラが全面に出てきて、接客業にあるまじき貧乏ゆすりまで無意識に出てきている。年内最後の図書当番の後に、馨から「行きたいところはないか」と尋ねられ、クリスマスのイルミネーションを想像してからは、この日にアルバイトのシフトを入れた事を物凄く後悔していた。はっきりとした関係ではないが、誘うぐらいは許される関係だと自負している。本当なら今頃は馨とどこかへ出掛けていたのかもしれないと思うと、余計に直哉の苛立ちは増長され、隣りに立つ花田は、その様子をハラハラと気まずそうに伺っている。その時だった。
「わぁ、まさか。え、直哉?」
その声で直哉の貧乏ゆすりがピタリと止まる。目だけで横を向くと、今一番会いたくない人が、たった今駐車場に入ってきた車から出てきたのだ。馨は嬉々として直哉の方へと駆け寄った。直哉は黙って顔を背けるが、花田に「朔間くん、知り合い?」と言われて目線だけで「何も聞くな」と訴える。
「馨、仕事の邪魔しちゃ悪いだろ」
「邪魔なんてしてないよ。ケーキ買いに来たんだから」
車の運転席から出てきた高身長の男性が馨を嗜めた。手に持っていたコートを馨に羽織らせ「ケーキどれにする?」と屈んで馨に尋ねている。即席のショーケースにはショートケーキとチョコレートケーキの二種類のホールケーキが並んでいる。大きさも二種類ずつと少ないが、住宅街のコンビニにしてはある方だった。
「そうだなぁ……大きいのは余りそうだし」
「食べ切れそうなの選べよ」
「はーい」
…………誰だ、この人。
目の前で仲睦まじい姿を見せられた直哉の眉が中心に寄る。その目元がサンタ帽のおかげではっきりと見えないのが幸いだった。
「これにしよ。良いよね?」
馨が振り向いて男性に言うと、男性は財布を取り出して直哉に「これお願いします」とチョコレートケーキの大きな方を指さして言った。
「……はい」
一瞬間が空き、直哉がショーケースから既に箱に入ったケーキを取り出した。男性は千円札を三枚財布から取り出すと、ショーケースの上に置いていたカルトンに載せる。花田がビニール袋にケーキの箱を入れている際、直哉は会計を行った。
「ねぇ、写真撮っても良い?」
「ダメです、嫌です」
「えー、いいじゃん。俺も写るからさ!」
「何言ってんですか、余計ダメです」
「ケチだなぁ……」
「ケチで結構」
直哉がそう答えると、馨はいつものように揶揄い半分で笑う。
「なにムキになってるのさ」
「なってませんよ、馨さんが邪魔するからでしょう」
この状況で邪魔はどっちか知らねぇけど。
直哉は黙って馨の後ろでスマホをいじる男性へ視線を向けた。
「直哉、今日はいつもの時間までバイト?」
「……そうですけど」
「その後って予定は?」
「馨さんと違ってありませんよ」
「え?」
「こちら、ケーキです」
馨と直哉の会話を遮るように、花田がケーキの入ったビニール袋を馨の方へ差し出した。
「ありがとうございます」
半ば押し付けるように馨へ渡そうとすると、横からその袋を男性に取られた。
「どうも」
男性は小さな会釈をし、さっさと車へと戻って行く。
「もぅっ、待ってよ。あ、直哉、あのさ」
馨が何か言おうとしたが、タイミング悪く直ぐ後ろで「パパ、ケーキあった!」と親子がやってきた。保育園のお迎え帰りなのか、子どものコートの下からスモックが見える。
「いらっしゃいませ」
直哉は馨から視線を親子へと向けた。
「……ごめん、邪魔した。じゃ、また連絡する」
馨はそう言うと、潔く車へと乗り込んだ。
だから、邪魔はどっちだっつーの……。
苛立ちと胸を締め付ける痛みが同時に込み上げる。ぎゅっと握られたまま潰されてしまいそうな圧迫感に吐き気さえ覚えた。
クリスマスイヴに会えたらと、思っていた矢先にこれだ。そりゃ、あの如月馨だ、相手が居ないわけがない。所詮俺は都合の良い後輩で、時間潰しの相手なのだろう。
……マジであの人、誰だよ……。
聞いて良いのか悪いのかも分からず、不機嫌な態度を取るだけとった子どもは自分。あの長身男性の馨へのスマートな対応も、思い返すだけで直哉を追い込んでいく。じわじわと上り詰める苦しさと痛み。無邪気に笑う馨の顔が脳裏にチラついた。
ダサすぎかよ、俺……。
ゆっくりと発進を始めるその車を、視線だけで見送りながら、直哉は薄い白髭の下で小さく舌打ちをした。
退勤後、直哉が従業員出入口から出ると、少し離れたところから「直哉!」と聞き覚えのある声に呼び止められた。コンビニ付近のガードレールに腰掛けていたその声の主は、馨だった。
「よっ」
お疲れ様、と言いながら直哉のもとへ駆け寄って来る。手にはビニール袋が下げられており、しっかりと手袋を着けていた。相変わらずの着込み具合だったが、まだ直哉がマフラーを借りたままだったためその首元は寒そうだ。
「……何してるんですか」
「何って、待ってた」
「誰を」
「そこのペラペラダウンの人」
馨は言いながら直哉の胸に軽く拳を当てた。
「さっきは忙しそうで全然喋れなかったし」
「それは馨さんも、でしょう?」
嫌な言い方だと自分でも分かっていながらつい口に出ていた。
「……すみません」
直ぐに謝ったが、罪悪感がどすんと下っ腹のあたりに突き刺さる。真冬の夜は冷えるのに、握り拳は汗でいっぱいだった。
「さっきも思ったんだけど、何か勘違いしてるだろ?」
「勘違い?」
「そう」
勘違いも何も、あれだけ仲良さそうに車で来店したのを目の当たりにしたのだ、他にどう思えと言うのだろう。直哉が怪訝そうに首を傾げると、馨はケラケラと笑った。
「さっき一緒にいたのは従兄弟の彰良くん。今日、母さんが叔母さん達呼んでクリスマスパーティーしてて、叔母さんをうちまで送ったついでにケーキ買い出しに俺と行かされたって訳。しかも彰良くん、ケーキ買って俺のこと送り返したら彼女と約束あるからってすぐ帰っちゃったよ」
薄情者だよね、と馨は言う。
「従兄弟……」
「そ、ただのイトコ」
直哉の頭と胸の中に渦巻いていたもやもやがすうっと晴れていく。ただの従兄弟と馨の口から聞けたことが嬉しく、握っていた拳が緩んでいった。
「で、もう一度聞くけど」
「……なんですか」
「この後、クリスマスしようよ。俺、ちゃんとプレゼント持ってきたから」
そう言ってコートのポケットから小さな袋を取り出して直哉にそれを見せつけた。
「……そういうことは前もって言ってくださいよ。俺、プレゼントなんて用意してないです」
「サンタさんなのに?」
「サンタさんじゃねぇよ」
さっきまでの格好を揶揄われ、直哉は急に不貞腐れ始める。感情が忙しい。馨に会ってからは常にそう思うようになっていた。
「……一応聞きますけど、欲しいものあるんですか?」
一応、の部分を強調して直哉が尋ねた。すると、馨は「ある!」と嬉しそうに答えた。
「なんでも言うこと聞く券!」
「却下」
碌なものじゃない、直哉は溜息と共に即座に首を横に振った。
「えー。これならすぐ用意できると思うんだけど。なんなら今でも」
「何に使う気ですか」
「なんでも、だから何にしようか?」
くすくすと笑い、馨は「考えとくわ」と言った。それによってその「なんでも言うこと聞く券」を用意することが確定となり、直哉は口をへの字に曲げた。
「それじゃ、直哉からのプレゼントは後日……ってわけで。今から唐揚げと菓子パンのロールケーキで乾杯しよう。コーラでいいよね?」
手に持っていたビニール袋の中身が分かり、直哉は苦笑いをする。
「寒がりなくせにコーラって……」
「これは冬のアイスが美味い的なアレだろ?」
「絶対違う」
直哉がくつくつと笑い、いつもの調子に戻ったのを確認した馨は、ペットボトルのコーラを手渡した。
「あ。プレゼント、先に渡しておくね」
「なんですか、これ」
「シャーペン」
「……小学生かよ」
直哉は大きな欠伸をし、従業員更衣室のロッカーを閉めた。時刻は十七時。馨との初詣まであと数時間。更衣室を出て事務室に移動しながらまた大きな欠伸が込み上げる。
俺、今日起きてられるのか……?
今朝は大掃除だなんだといって、早朝から直哉の母は張り切っていた。冬休みだからといって部屋に篭ることは許されず、ベッドの布団は勢いよく剥がされた。窓を全開にし、フローリングの隙間という隙間を雑巾で拭かされ、風呂掃除をさせられた。本当は今晩のために準備を色々としたかったのだが、家の手伝いで忙しく動き回ったせいで仮眠をとることすら出来ず仕舞いだった。
神社の列で眠ったりしたら、馨さんになんて言われるか……。
きっと、俺の新生活が順風満帆になるよう祈って欲しかったなぁ、まっ、直哉はどうでも良いんだろうけどさ?とか、今年一年神様に何されても知らないぞ、とか。
「脳内再生余裕すぎだろ……」
想像しただけで耳が痛い。直哉はシフトが終わった後、ブラックコーヒーを飲みながら一度帰宅する事に決めた。
欠伸三昧のシフトはてんやわんやで終了した。出勤直後は大して忙しくなかったが、日が落ちてからはいつも以上に来店する客が多かった。ホットスナックとホットのペットボトルの減りが早いので、これから年越しイベントへ向かう人達だというのが直ぐに分かる。補充要員に一人をレジから店内に出しただけで、長蛇の列が出来てしまった。二十時過ぎ頃に一度ピークを終えたのだが、また直哉の退勤直前に人が増え出した。今度は初詣に向かう人達で、眠気覚ましとカイロ代わりのコーヒーが次々に売れていく。レジで渡していたホット用の紙コップが無くなりそうになり、直哉は一度レジを止めると裏の事務室にいた花田に声をかけた。
「店長、俺この後予定あるので、マシンの豆と紙コップ補充したらあがって良いですか?」
「あぁ、もちろん。てかもうそんな時間かぁ、今年も終わっちゃうねぇ」
直哉と入れ替わるため、事務室の椅子に引っ掛けていた制服を羽織り、花田は直哉に尋ねた。
「この後予定あるってことは……もしかして初詣?」
「あ、はい」
直哉は事務室に置いてある段ボール箱からコーヒーマシン用の紙コップを三袋分取り出した。
「良いねぇ。あ、外は冷えるからこれ一つ持っていきな」
花田はそういうと、直哉の持っている紙コップの袋から一つ取り出すと事務室のテーブルに置いた。
「僕からのお年玉。来年もよろしくどうぞ」
ひらひらと手を振り、花田はレジへと向かう。直哉は紙コップをありがたく頂戴すると、今年最後の補充をするため、もう一度レジ中へ戻っていった。
花田に貰ったコーヒーを飲みながら一度帰宅した直哉は、風呂に入って身だしなみを整えると、再び出かける準備をした。その様子を遠目で見ていた母親は何か聞きたげにそわそわしており、隣に座って歌合戦を見ていた父親に嗜められた。ショルダーバッグにスマホと財布を入れ、馨にペラペラと言われたダウンを着込む。
あ、そうだ。
ふと思いついて、直哉は玄関のた引き出しからカイロを二つ取り出し、ダウンのポケットに忍ばせた。
きっとこれだけじゃ寒いだの、足りないだの色々言われるだろうけど……。無いよりはマシだな。
苦笑いを浮かべ、忘れないうちに借りっぱなしのマフラーを綺麗に畳んでバッグに詰め込む。その横にはクリスマスにねだられた紙切れを入れ込んだ。こんなもので良いのだろうかと、何度も思い悩んだが、他の物を渡したところで彼の望みは変わらない気がした。
「まったく、遅いなぁ」
「遅いって……まだ待ち合わせの二十分前ですけど」
予定より早めに家を出た直哉だったが、待ち合わせ場所である駅前に着くと、既に馨が立っていた。どうやら五分前に着いたらしい。後数分遅かったら鬼電するところだったと言う。理不尽すぎると、直哉が溜息を吐いた。
「デートは三十分前行動だよ、知らないの?」
膨れっ面のまま馨が言った。デートという単語に直哉の眉がぴくりと動く。
「……デートなんですか、これ」
「さぁね」
ふふんと鼻を鳴らし、馨はICカードに料金チャージをしに行く。その鼻と頬がほんのり赤く染まって見え、直哉はそれ以上問い詰めるのをやめた。
人でごった返す改札を抜け電車に乗り込むと、二人は二つ隣の駅で降りた。
「やっぱ凄いな……」
「ま、円福寺だもんな」
馨がさも当然だと言った円福寺は、最寄り駅が二つある大きな神社だった。両駅の中間に在り、どちらから来ても歩いて十分足らずで着く。そのため毎年の年末年始は大変混み合う神社だった。当初の予定では神社前で待ち合わせだったが、この人混みを見て二人は駅前集合に変更して良かったと苦笑いをした。
二人は駅を出ると、道なりに円福寺へ向かって歩いた。周りにいる人がどっと同じ方向へ流れていく。歩くというよりは殆ど流れに身を任せている状態だった。
円福寺が近付くと、参拝者の列が鳥居前の石階段の下まで伸びているのが見え、直哉と馨はその列に滑り込んだ。駅からここまで人混みの中を歩いたせいか、大して寒さを感じてはいなかったが、足を止めた途端に指先や顔に当たる冷気に身体が思わず反応する。直哉が馨へ視線を移すと、両手に息を吹きかけているところだった。
「そうだ」
直哉はショルダーバッグから深緑色のマフラーを取り出した。
「あ。延滞料金」
「レンタル代とか聞いてませんよ。代わりにこれで」
スッと差し出された馨の手のひらにノートの端を切って作った『なんでも言う事を聞く券』を置き、直哉はマフラーを馨の首にかけた。
「クリスマスプレゼントと延滞金は別なんだけどなぁ」
「よく言いますよ、くれたシャーペン新品じゃなかったくせに」
「あはは、バレちゃった」
ケタケタと笑い、馨はマフラーを巻いた。
「でも、こんなに寒いなんて思ってなかった」
深夜でなくてもこの時期の夜はかなり冷える。マフラー無しで家を出させて申し訳なかったと直哉は「すぐ返せなくてすみません」と謝った。
「俺が熱出したらさ、桃缶持ってお見舞いきてよ」
「なんで熱出すこと前提なんですか」
「ふふふ」
くすくすと笑う馨を横目に、直哉は小さく溜息を吐く。真っ黒な空に白い息が昇るのを見送っていると、隣で馨が小さなくしゃみをした。
「桃缶決定かも……」
「じゃあ、これも」
直哉はダウンのポケットからカイロを一つ取り、馨に手渡した。電車を降りた際に封を切ったので、丁度温かくなってきた頃合いだ。
「良いよ。これじゃ、ペラペラダウンの直哉が寒いじゃん」
マフラーも無いのに、と珍しく遠慮する馨に直哉は思わず笑みが溢れる。
「俺、こっちにもカイロ入れてるので」
直哉はもう片方のポケットを軽く叩いた。それをじっと見つめていた馨は、貰ったカイロをコートのポケットにしまうと「えいっ」と、直哉のもう一方のポケットに手を突っ込んだ。
「あ、ぬくい」
「ちょっ、馨さんっ」
直哉は体温が急激に上がるのを感じた。ポケットの中でカイロを握っているのは馨だというのに、身体の熱が一気に込み上げてくる。
「……直哉、背伸びた?」
「今、それ聞きます?」
そう返しながら直哉も言われて気がついた。いつの間にか馨より少し目線が上になっている。
「縮め」
「なんつーこと言うんですか」
言い返す直哉にポケットの中でカイロを触りながら馨が小さくパンチする。すると、周囲から「お、開けた」という声と共に前方からはぱちぱちという音が疎に聞こえ始めた。
「え……?」
前後で並ぶ人たちがスマホの画面を見たり、前列の方に倣って手を叩いていた。
「直哉」
いつの間にかポケットから手を抜いていた馨が直哉の顔を覗き込んだ。
「明けましておめでとう」
「……あ、明けましておめで」
続きを言う前に直哉の腹の虫が大きく鳴いた。周囲の話し声で大して目立つ音ではなかったが、そばにいた馨の耳にはしっかりと届いたらしい。
「あはは、なにそれ」
「失礼しました。おめでとうございます」
格好の付かない挨拶に直哉が不貞腐れた。
「食べて来なかったんだ?」
「……時間なくて」
「二十分も前に来たくせに」
馨に笑われ、直哉は唇を突き出して黙り込む。母親からは屋台は高いから少しでも良いから食べていけと言われたが、家を出たい気持ちが前のめりになり、ほんの一口つまんだだけだった。もう少しきちんと腹に納めるべきだったと後悔しても、もう遅い。加えて少しずつ動き始めた列の前方からは屋台からの芳ばしい香りが漂ってきていた。
「はい、これ」
「え」
前方に視線を奪われていた直哉に、馨がコンビニのおにぎりを一つ差し出した。
「お腹空くと思ったんだよね。どっちかが屋台に買いに行くのもありかなぁって思ったけど、それで逸れたら嫌だしさ」
そう言って肩から下げていたショルダーバッグを開け、馨はコンビニの袋を直哉へ見せた。
「準備良いですね」
「まぁね」
「そしたら俺、あそこでお茶買ってきますよ」
二人の並ぶ場所から少し前に自販機が見える。直ぐに戻れそうな距離だった。
いただきます、と言って直哉はおにぎりの封を切った。
「お茶、どーも」
直哉に手渡されたホットのペットボトルをじっと見つめて馨が言った。
「おにぎりのお礼です」
「延滞金残ってるけど?」
「まだ言うんですか」
「仕方ないからチャラにしてあげる」
くすくすと笑いながら馨はペットボトルを開けないままコートのポケットに入れる。
「あれ、飲まないんですか?」
ホットのお茶を飲みながら直哉が尋ねた。
「後で飲む。俺、猫舌だから」
少しだけ恥ずかしそうに答える馨を見て、直哉はゴクリと音を立ててお茶を飲み込んだ。
石階段を上がり、二人が本殿の前にやっと着いたのは年明けから一時間後だった。賽銭を投げて参拝を済ますと、後列を避けるように列から出た。
「待って」
直哉より数秒ほど手を合わせる時間が長かった馨は、逸れないよう咄嗟に直哉の上着の裾を掴んでいた。
「早過ぎ」
「そんなにお願いする事ありました?」
文句を言う馨に直哉が尋ねた。
「そうだね、直哉の身長が縮みますようにって」
「訂正してください。今ならまだ神様にも聞こえる距離です」
「冗談だっつーの」
ムキになる直哉にケラケラと笑って見せると、馨は屋台の方へと歩き出す。
「で、本当は何を?」
「直哉は?」
「言いません」
「じゃ俺も言わない」
そう言うと、コートのポケットから冷めて温くなったペットボトルを取り出した。馨の視線はもう屋台の食べ物へ向けられている。
「何か食べたいのありますか?」
「直哉の奢り?」
「延滞金まだなので」
「あはは、チャラになってなかった!」
笑いながら馨は立ち並ぶ屋台を眺めた。どれにしよう、お好み焼きは文化祭で食べたし、たこ焼きは同じようなものだし、あれはお好み焼きより熱くて食べれる気がしない。口に出して悩む馨の後ろ姿を直哉はゆっくりと追いかけた。
「決まりました?」
すると、馨は首を振って悩み中と言った。
「あ、甘酒無料配布だそうですよ」
向かいの屋台を指差して直哉がつぶやくと、馨がくすりと笑った。
「飽きないねぇ、まったく」
「……はい?」
「楽しいって言ったの。ね、来年もまた一緒に来れると思う?」
馨の問いに直哉は黙り込む。周りの喧騒が一瞬ぴたりと止んだ気がした。
「……あの券使えば良いんじゃないですか?」
「……あはは、そうきたか」
小さく笑って馨が答えた。直哉は心臓の音が馨へ聞こえないよう少しだけ歩幅を狭める。馨の質問の意図を想像し、心臓が高鳴った。深夜の冬空は震えるほど寒いというのに耳まで熱が上った。
「あの……」
直哉が口を開きかけると同時に、くるりと馨が振り返り「よし、決めた」と言って、ベビーカステラの屋台を指差した。
「あれにする」
「……今年最初がそれですか」
「だって他のやつ全部熱そうじゃん」
本当はお雑煮が食べたいけど、と言って苦笑いをする。直哉は呆れ気味に小さく溜息を吐くと、ベビーカステラの屋台へと向かっていった。
図書室の扉を施錠しながら馨が言った。最終下校時刻の十分前。空はすっかり暗くなり、一番星は既にどこにいるのか分からなくなっていた。今日で年内の当番は最後で、直哉は名残惜しそうに「閉館」と書かれた掛札を見つめる。つまり、年内に学校で馨に会えるのはもう残りわずかとなったのだ。
「冬も本格化って言ってましたからね」
今朝の天気予報を思い出し、直哉が続ける。しかし、その格好で冷えるとはよく言ったものだと直哉は馨を前に目を細めた。着膨れとも言って良いほどに分厚いダッフルコートを制服の上から着込み、首元には深緑色の毛糸のマフラーを巻いている。坂道で転べば、そのまま一気に下へと転がり落ちていきそうな膨れ方だ。
「暑くないんですか、それ」
「え、話聞いてた?」
怪訝そうな顔でもこもこの馨が直哉を見る。秋の文化祭が終わった頃、身長が伸びた直哉はそんな怪訝な顔を同じ目線で見つめ返すと、やれやれと溜息が返ってきた。
「大人は低体温なんだよ。お子ちゃまとは違うの」
「俺がお子ちゃまって言いたいんですか?」
「じゃなきゃ、そんなペラペラな薄着で今日を乗り越えられるわけがないね」
馨が薄着といった直哉のダウンコートは、軽量を重視された作りがウリの物。機能としては従来品と同様に温かく、上着としては申し分ない。寧ろ動きやすく、重宝出来る代物と思っていた。それをペラペラだと言われ、直哉の眉が無意識に中央へ寄る。
「俺にはこれが丁度良いんです」
馨にこの上着の機能を説明したところで理解されそうにないと思い、直哉は無理矢理会話を終わらせる。
「ふーん」
案の定、馨は司書室のキーボックスに図書室の鍵を戻しながら興味なさげに答えた。こんなくだらないやり取りも今年は今日で最後だと思うと、今の会話で良かったのかと直哉は自問する。来週には終業式があり、冬休みはもう目前だ。夏休みとは変わって、冬休みは図書室も始業式が終わるまで開館はしないらしい。先週までそうとは知らず、いつも通りに木曜日を避けてシフトを提出した直哉は、冬休み中の木曜日をどう過ごすかがここ最近の悩みだった。
「ね、来週からどうする?」
「はい?」
突然の質問に驚き、直哉は間抜けな声を出した。今のこの瞬間まで、今年で馨と何かを共にするのは最後だとばかり思っていたのだ。
「年内にやり残した事とかあるなら付き合うけど?」
「……どういうことですか?」
遠回しに木曜日の予定を聞かれているのは分かるのだが、どうしてこうも回りくどいのだろうか。
「俺が聞いているんだけど?」
質問を濁されている直哉の気はお構いなしに馨が言った。
「そうですねぇ」
はっきりと聞かれた方が予定も立てやすいのに……。
腕を組み、仕方なく考え込みながら直哉は昇降口へと足を進めた。後ろを着膨れした馨が一生懸命ついて来る。その姿が廊下の窓に映ったのが目に入り、直哉は馨に見られないよう隠れて笑った。
「例えば、どこか行きたいところとかさ。ほら何かあるでしょ?」
「ウーン……」
直哉は小さな唸り声を漏らした。言わないだけで馨と行きたい場所は山ほど浮かぶ。駅前のイルミネーションや、新作の映画。少し遠出してクリスマスマーケットや、ショッピングなど。浮かぶ事には浮かぶのだが、先輩後輩で、しかも男二人で行くのはどうなのだろうか。自分は馨とならば気にしないと思えても、馨がそうとは限らない。というかそもそも、馨がそんな場所に興味があるようにも思えない。以前映画の話をした時も、基本的に自分のペースで見たいから、映画館には滅多に行かないと話していたのを思い出す。
てか、誘ったら流石に俺の気持ちバレるよな……。もしかしたら他に誰か行く相手がいるのかもしれないし……。ていうか、バレるってなんだよ、バレるって。
本人から答えを聞いてもいないのに、顔も知らない誰かとイルミネーションを見上げて並ぶ馨を想像し、胸の奥がチクリと痛む。
「おーい」
これ以上は考えても何も出てこないと思い、直哉は首を横に振った。
「そんな急に言われても……。逆に馨さんはないんですか?」
「俺?」
馨も腕を組みながらウーン、と唸る。
自分だって大してやりたい事なんてないじゃん……。
しかし、直哉はハッとした。突飛な事を言い出すのはいつもの事だが、馨自身、毎度後先は殆ど考えていた事は一度もない。アルバイトもなく、受験も終わって自由の身であるが故の適当発言が主だが、高校生として最後の冬休みも目前に控えた今、後輩を使って行ける場所だと思えばどんなに遠くても行きたいと言い出しそうで、直哉は聞き返したことを少しだけ悔やんだ。しかし、直哉の心配とは裏腹に、口を開いた馨は「ないな」と、軽く言い放っただけだった。
「ないのかよ……」
身構えて損した、と直哉は力を抜く。だが、すぐさま馨は「あっ」と声を上げた。
「あったんですか」
直哉は嫌味を含めた聞き方をしたが、馨は気にも止めず嬉々とした顔を直哉へ向けた。
「初詣!」
「……え、今更?」
せめてもういくつか寝てくれと、直哉が答えるとケラケラと馨は笑う。
「まさか。ちゃんと年越し直前に家を出て、神社で待ち合わせするんだよ」
「あれ、年内に行きたい所って話じゃありませんでした?」
ていうか、そもそも木曜日の話じゃなかったのかと直哉が聞き返す。
「細かいなぁ」
そんな小さな事はどうでも良いと言って、コートからスマホを取り出すと、馨はスケジュールアプリに『初詣』と入力をした。
「気をつけてくださいよ、元旦の初詣はどこも混んでますから」
「何言ってんの、一緒に行くだろ?」
「……俺の予定無視ですか」
こうなれば何を言っても無駄だと、直哉は溜息を吐く。仕方なしにスケジュールアプリを開いて同じように初詣の予定を入れた。アルバイトもどうせ高校生のうちは深夜帯の出勤はできない。毎年見ている大晦日お馴染みのテレビ特番をぼうっと見るよりも、馨と過ごした方が自分にとっては有意義だろう。それに、おそらく馨と一緒に過ごす最初で最後の初詣だ。来年の今頃こそ、こんな会話をしている事は一切想像がつかない。大学一年生と高校生二年生。片方が進学しただけだというのに、こんなに縮んだ距離も一気に離れてしまう気がした。途端に直哉の胸がジン、と熱を帯びて痛む。同時に嫌な冷たい風が身体をキュッと強張らせた。
「やっぱ寒いんだ?」
「え?」
「今、ぶるって震えたでしょ」
「は……いや、これは」
「強がりやめろって。だから言ったじゃん、そんなペラペラな上着じゃ風邪引くって。まったく、仕方ないなぁ……」
馨は首に巻いていたマフラーを取ると、器用に直哉の首に引っ掛ける。
「これじゃ馨さんが寒いんじゃ……」
これだけ着込んでおきながら、まだマフラーを付けていたのだ。外に出たら凍えてしまうのではないかと心配になる。
「大丈夫、暑いぐらいだから」
「それ、さっきと言ってる事違いますよ」
直哉の突っ込みをスルーして、馨はマフラーを巻く。顔が近いことに直哉の心臓の音が跳ね上がったが、それよりも馨からする甘い香りが気になった。誘われるように鼻をよせると、馨が身体をゆっくり離した。
「……どした?」
「あ、えと……香水ってつけてましたっけ?」
「ん?つけてないけど」
馨が首を傾げると、直哉は確認しようともう一度顔を近付けた。しかし、馨がそれをかわすように先を歩き出す。
「ほら、もっと寒くなる前に帰るぞ」
「……はい」
その時、本当に着膨れし過ぎて暑かったのだろうか、直哉には馨の耳が少しだけ赤いのが見えた気がした。
「帰りてぇ……」
直哉の口から切実な声が漏れる。それを隣りで聞いていた花田は苦笑いを返した。
「ごめんね、恥ずかしかった?」
「恥ずかしいって言うより、拷問ですね……」
「嘘、俺パワハラで訴えられる……?」
「流石にそこまではしませんよ」
直哉が溜息を吐いた。珍しく文句を直接店長へぶつけたのは、出勤前に渡された今日限定の制服のせいである。所々が白くてもこもことした真っ赤な服に、真っ赤な帽子。黒いベルトに白い付け髭。そう、どこからどう見てもサンタクロースの衣装だ。クリスマスイヴと明日のクリスマスはこの衣装を着て運営すると、花田が張り切っていた。それを察した数名の先輩達は「予定があるので」といつもなら出勤している曜日であろうがシフトを入れず、ほぼ年内にバイトを始めた新人達で固められたシフトに直哉も入れ込まれていた。逃げ道は出勤した時点でなくなり、ニコニコと楽しそうに押し付けられた衣装を渋々着用し、あろうことか外売りのケーキ販売員として立たされている。何も聞かされていない直哉には、はっきり言って最悪なクリスマスプレゼントだった。
「店長は俺がこの近所に住んでいるって知っていましたよね……?」
「もちろん。履歴書見て雇っているし?」
「じゃあせめて店内にしてくださいよ」
「ダメだよ、女の子は冷えたら大変だもん」
花田は首を横に振った。店内でレジや品出しを行なっているのは直哉より一学年上の女子高生。彼女も本日出勤するまでサンタコスプレをするとは夢にも思っていなかった者の一人だった。
「……せめてじゃんけんですよ。公平さに欠けます」
「まあまあ。今日はほら、特別手当出すからさ。朔間くんは売上げ次第で少しおまけしてあげるし」
ね?ほら、笑顔笑顔!と笑顔を押し付けられ、直哉は不機嫌な顔で「ケーキ販売中」と書かれた看板をゆっくりと左右に振る。十二月の外は想像以上に寒い。衣装の内側に花田から渡されたカイロを三枚も貼ったが最後まで持つのか不安だった。
外売りさせるならサンタ服ももっと良いやつ用意してくれよ……馨さんじゃないが、こんなにペラペラじゃ風邪ひいてもおかしくはないっつーの。
直哉のイライラが全面に出てきて、接客業にあるまじき貧乏ゆすりまで無意識に出てきている。年内最後の図書当番の後に、馨から「行きたいところはないか」と尋ねられ、クリスマスのイルミネーションを想像してからは、この日にアルバイトのシフトを入れた事を物凄く後悔していた。はっきりとした関係ではないが、誘うぐらいは許される関係だと自負している。本当なら今頃は馨とどこかへ出掛けていたのかもしれないと思うと、余計に直哉の苛立ちは増長され、隣りに立つ花田は、その様子をハラハラと気まずそうに伺っている。その時だった。
「わぁ、まさか。え、直哉?」
その声で直哉の貧乏ゆすりがピタリと止まる。目だけで横を向くと、今一番会いたくない人が、たった今駐車場に入ってきた車から出てきたのだ。馨は嬉々として直哉の方へと駆け寄った。直哉は黙って顔を背けるが、花田に「朔間くん、知り合い?」と言われて目線だけで「何も聞くな」と訴える。
「馨、仕事の邪魔しちゃ悪いだろ」
「邪魔なんてしてないよ。ケーキ買いに来たんだから」
車の運転席から出てきた高身長の男性が馨を嗜めた。手に持っていたコートを馨に羽織らせ「ケーキどれにする?」と屈んで馨に尋ねている。即席のショーケースにはショートケーキとチョコレートケーキの二種類のホールケーキが並んでいる。大きさも二種類ずつと少ないが、住宅街のコンビニにしてはある方だった。
「そうだなぁ……大きいのは余りそうだし」
「食べ切れそうなの選べよ」
「はーい」
…………誰だ、この人。
目の前で仲睦まじい姿を見せられた直哉の眉が中心に寄る。その目元がサンタ帽のおかげではっきりと見えないのが幸いだった。
「これにしよ。良いよね?」
馨が振り向いて男性に言うと、男性は財布を取り出して直哉に「これお願いします」とチョコレートケーキの大きな方を指さして言った。
「……はい」
一瞬間が空き、直哉がショーケースから既に箱に入ったケーキを取り出した。男性は千円札を三枚財布から取り出すと、ショーケースの上に置いていたカルトンに載せる。花田がビニール袋にケーキの箱を入れている際、直哉は会計を行った。
「ねぇ、写真撮っても良い?」
「ダメです、嫌です」
「えー、いいじゃん。俺も写るからさ!」
「何言ってんですか、余計ダメです」
「ケチだなぁ……」
「ケチで結構」
直哉がそう答えると、馨はいつものように揶揄い半分で笑う。
「なにムキになってるのさ」
「なってませんよ、馨さんが邪魔するからでしょう」
この状況で邪魔はどっちか知らねぇけど。
直哉は黙って馨の後ろでスマホをいじる男性へ視線を向けた。
「直哉、今日はいつもの時間までバイト?」
「……そうですけど」
「その後って予定は?」
「馨さんと違ってありませんよ」
「え?」
「こちら、ケーキです」
馨と直哉の会話を遮るように、花田がケーキの入ったビニール袋を馨の方へ差し出した。
「ありがとうございます」
半ば押し付けるように馨へ渡そうとすると、横からその袋を男性に取られた。
「どうも」
男性は小さな会釈をし、さっさと車へと戻って行く。
「もぅっ、待ってよ。あ、直哉、あのさ」
馨が何か言おうとしたが、タイミング悪く直ぐ後ろで「パパ、ケーキあった!」と親子がやってきた。保育園のお迎え帰りなのか、子どものコートの下からスモックが見える。
「いらっしゃいませ」
直哉は馨から視線を親子へと向けた。
「……ごめん、邪魔した。じゃ、また連絡する」
馨はそう言うと、潔く車へと乗り込んだ。
だから、邪魔はどっちだっつーの……。
苛立ちと胸を締め付ける痛みが同時に込み上げる。ぎゅっと握られたまま潰されてしまいそうな圧迫感に吐き気さえ覚えた。
クリスマスイヴに会えたらと、思っていた矢先にこれだ。そりゃ、あの如月馨だ、相手が居ないわけがない。所詮俺は都合の良い後輩で、時間潰しの相手なのだろう。
……マジであの人、誰だよ……。
聞いて良いのか悪いのかも分からず、不機嫌な態度を取るだけとった子どもは自分。あの長身男性の馨へのスマートな対応も、思い返すだけで直哉を追い込んでいく。じわじわと上り詰める苦しさと痛み。無邪気に笑う馨の顔が脳裏にチラついた。
ダサすぎかよ、俺……。
ゆっくりと発進を始めるその車を、視線だけで見送りながら、直哉は薄い白髭の下で小さく舌打ちをした。
退勤後、直哉が従業員出入口から出ると、少し離れたところから「直哉!」と聞き覚えのある声に呼び止められた。コンビニ付近のガードレールに腰掛けていたその声の主は、馨だった。
「よっ」
お疲れ様、と言いながら直哉のもとへ駆け寄って来る。手にはビニール袋が下げられており、しっかりと手袋を着けていた。相変わらずの着込み具合だったが、まだ直哉がマフラーを借りたままだったためその首元は寒そうだ。
「……何してるんですか」
「何って、待ってた」
「誰を」
「そこのペラペラダウンの人」
馨は言いながら直哉の胸に軽く拳を当てた。
「さっきは忙しそうで全然喋れなかったし」
「それは馨さんも、でしょう?」
嫌な言い方だと自分でも分かっていながらつい口に出ていた。
「……すみません」
直ぐに謝ったが、罪悪感がどすんと下っ腹のあたりに突き刺さる。真冬の夜は冷えるのに、握り拳は汗でいっぱいだった。
「さっきも思ったんだけど、何か勘違いしてるだろ?」
「勘違い?」
「そう」
勘違いも何も、あれだけ仲良さそうに車で来店したのを目の当たりにしたのだ、他にどう思えと言うのだろう。直哉が怪訝そうに首を傾げると、馨はケラケラと笑った。
「さっき一緒にいたのは従兄弟の彰良くん。今日、母さんが叔母さん達呼んでクリスマスパーティーしてて、叔母さんをうちまで送ったついでにケーキ買い出しに俺と行かされたって訳。しかも彰良くん、ケーキ買って俺のこと送り返したら彼女と約束あるからってすぐ帰っちゃったよ」
薄情者だよね、と馨は言う。
「従兄弟……」
「そ、ただのイトコ」
直哉の頭と胸の中に渦巻いていたもやもやがすうっと晴れていく。ただの従兄弟と馨の口から聞けたことが嬉しく、握っていた拳が緩んでいった。
「で、もう一度聞くけど」
「……なんですか」
「この後、クリスマスしようよ。俺、ちゃんとプレゼント持ってきたから」
そう言ってコートのポケットから小さな袋を取り出して直哉にそれを見せつけた。
「……そういうことは前もって言ってくださいよ。俺、プレゼントなんて用意してないです」
「サンタさんなのに?」
「サンタさんじゃねぇよ」
さっきまでの格好を揶揄われ、直哉は急に不貞腐れ始める。感情が忙しい。馨に会ってからは常にそう思うようになっていた。
「……一応聞きますけど、欲しいものあるんですか?」
一応、の部分を強調して直哉が尋ねた。すると、馨は「ある!」と嬉しそうに答えた。
「なんでも言うこと聞く券!」
「却下」
碌なものじゃない、直哉は溜息と共に即座に首を横に振った。
「えー。これならすぐ用意できると思うんだけど。なんなら今でも」
「何に使う気ですか」
「なんでも、だから何にしようか?」
くすくすと笑い、馨は「考えとくわ」と言った。それによってその「なんでも言うこと聞く券」を用意することが確定となり、直哉は口をへの字に曲げた。
「それじゃ、直哉からのプレゼントは後日……ってわけで。今から唐揚げと菓子パンのロールケーキで乾杯しよう。コーラでいいよね?」
手に持っていたビニール袋の中身が分かり、直哉は苦笑いをする。
「寒がりなくせにコーラって……」
「これは冬のアイスが美味い的なアレだろ?」
「絶対違う」
直哉がくつくつと笑い、いつもの調子に戻ったのを確認した馨は、ペットボトルのコーラを手渡した。
「あ。プレゼント、先に渡しておくね」
「なんですか、これ」
「シャーペン」
「……小学生かよ」
直哉は大きな欠伸をし、従業員更衣室のロッカーを閉めた。時刻は十七時。馨との初詣まであと数時間。更衣室を出て事務室に移動しながらまた大きな欠伸が込み上げる。
俺、今日起きてられるのか……?
今朝は大掃除だなんだといって、早朝から直哉の母は張り切っていた。冬休みだからといって部屋に篭ることは許されず、ベッドの布団は勢いよく剥がされた。窓を全開にし、フローリングの隙間という隙間を雑巾で拭かされ、風呂掃除をさせられた。本当は今晩のために準備を色々としたかったのだが、家の手伝いで忙しく動き回ったせいで仮眠をとることすら出来ず仕舞いだった。
神社の列で眠ったりしたら、馨さんになんて言われるか……。
きっと、俺の新生活が順風満帆になるよう祈って欲しかったなぁ、まっ、直哉はどうでも良いんだろうけどさ?とか、今年一年神様に何されても知らないぞ、とか。
「脳内再生余裕すぎだろ……」
想像しただけで耳が痛い。直哉はシフトが終わった後、ブラックコーヒーを飲みながら一度帰宅する事に決めた。
欠伸三昧のシフトはてんやわんやで終了した。出勤直後は大して忙しくなかったが、日が落ちてからはいつも以上に来店する客が多かった。ホットスナックとホットのペットボトルの減りが早いので、これから年越しイベントへ向かう人達だというのが直ぐに分かる。補充要員に一人をレジから店内に出しただけで、長蛇の列が出来てしまった。二十時過ぎ頃に一度ピークを終えたのだが、また直哉の退勤直前に人が増え出した。今度は初詣に向かう人達で、眠気覚ましとカイロ代わりのコーヒーが次々に売れていく。レジで渡していたホット用の紙コップが無くなりそうになり、直哉は一度レジを止めると裏の事務室にいた花田に声をかけた。
「店長、俺この後予定あるので、マシンの豆と紙コップ補充したらあがって良いですか?」
「あぁ、もちろん。てかもうそんな時間かぁ、今年も終わっちゃうねぇ」
直哉と入れ替わるため、事務室の椅子に引っ掛けていた制服を羽織り、花田は直哉に尋ねた。
「この後予定あるってことは……もしかして初詣?」
「あ、はい」
直哉は事務室に置いてある段ボール箱からコーヒーマシン用の紙コップを三袋分取り出した。
「良いねぇ。あ、外は冷えるからこれ一つ持っていきな」
花田はそういうと、直哉の持っている紙コップの袋から一つ取り出すと事務室のテーブルに置いた。
「僕からのお年玉。来年もよろしくどうぞ」
ひらひらと手を振り、花田はレジへと向かう。直哉は紙コップをありがたく頂戴すると、今年最後の補充をするため、もう一度レジ中へ戻っていった。
花田に貰ったコーヒーを飲みながら一度帰宅した直哉は、風呂に入って身だしなみを整えると、再び出かける準備をした。その様子を遠目で見ていた母親は何か聞きたげにそわそわしており、隣に座って歌合戦を見ていた父親に嗜められた。ショルダーバッグにスマホと財布を入れ、馨にペラペラと言われたダウンを着込む。
あ、そうだ。
ふと思いついて、直哉は玄関のた引き出しからカイロを二つ取り出し、ダウンのポケットに忍ばせた。
きっとこれだけじゃ寒いだの、足りないだの色々言われるだろうけど……。無いよりはマシだな。
苦笑いを浮かべ、忘れないうちに借りっぱなしのマフラーを綺麗に畳んでバッグに詰め込む。その横にはクリスマスにねだられた紙切れを入れ込んだ。こんなもので良いのだろうかと、何度も思い悩んだが、他の物を渡したところで彼の望みは変わらない気がした。
「まったく、遅いなぁ」
「遅いって……まだ待ち合わせの二十分前ですけど」
予定より早めに家を出た直哉だったが、待ち合わせ場所である駅前に着くと、既に馨が立っていた。どうやら五分前に着いたらしい。後数分遅かったら鬼電するところだったと言う。理不尽すぎると、直哉が溜息を吐いた。
「デートは三十分前行動だよ、知らないの?」
膨れっ面のまま馨が言った。デートという単語に直哉の眉がぴくりと動く。
「……デートなんですか、これ」
「さぁね」
ふふんと鼻を鳴らし、馨はICカードに料金チャージをしに行く。その鼻と頬がほんのり赤く染まって見え、直哉はそれ以上問い詰めるのをやめた。
人でごった返す改札を抜け電車に乗り込むと、二人は二つ隣の駅で降りた。
「やっぱ凄いな……」
「ま、円福寺だもんな」
馨がさも当然だと言った円福寺は、最寄り駅が二つある大きな神社だった。両駅の中間に在り、どちらから来ても歩いて十分足らずで着く。そのため毎年の年末年始は大変混み合う神社だった。当初の予定では神社前で待ち合わせだったが、この人混みを見て二人は駅前集合に変更して良かったと苦笑いをした。
二人は駅を出ると、道なりに円福寺へ向かって歩いた。周りにいる人がどっと同じ方向へ流れていく。歩くというよりは殆ど流れに身を任せている状態だった。
円福寺が近付くと、参拝者の列が鳥居前の石階段の下まで伸びているのが見え、直哉と馨はその列に滑り込んだ。駅からここまで人混みの中を歩いたせいか、大して寒さを感じてはいなかったが、足を止めた途端に指先や顔に当たる冷気に身体が思わず反応する。直哉が馨へ視線を移すと、両手に息を吹きかけているところだった。
「そうだ」
直哉はショルダーバッグから深緑色のマフラーを取り出した。
「あ。延滞料金」
「レンタル代とか聞いてませんよ。代わりにこれで」
スッと差し出された馨の手のひらにノートの端を切って作った『なんでも言う事を聞く券』を置き、直哉はマフラーを馨の首にかけた。
「クリスマスプレゼントと延滞金は別なんだけどなぁ」
「よく言いますよ、くれたシャーペン新品じゃなかったくせに」
「あはは、バレちゃった」
ケタケタと笑い、馨はマフラーを巻いた。
「でも、こんなに寒いなんて思ってなかった」
深夜でなくてもこの時期の夜はかなり冷える。マフラー無しで家を出させて申し訳なかったと直哉は「すぐ返せなくてすみません」と謝った。
「俺が熱出したらさ、桃缶持ってお見舞いきてよ」
「なんで熱出すこと前提なんですか」
「ふふふ」
くすくすと笑う馨を横目に、直哉は小さく溜息を吐く。真っ黒な空に白い息が昇るのを見送っていると、隣で馨が小さなくしゃみをした。
「桃缶決定かも……」
「じゃあ、これも」
直哉はダウンのポケットからカイロを一つ取り、馨に手渡した。電車を降りた際に封を切ったので、丁度温かくなってきた頃合いだ。
「良いよ。これじゃ、ペラペラダウンの直哉が寒いじゃん」
マフラーも無いのに、と珍しく遠慮する馨に直哉は思わず笑みが溢れる。
「俺、こっちにもカイロ入れてるので」
直哉はもう片方のポケットを軽く叩いた。それをじっと見つめていた馨は、貰ったカイロをコートのポケットにしまうと「えいっ」と、直哉のもう一方のポケットに手を突っ込んだ。
「あ、ぬくい」
「ちょっ、馨さんっ」
直哉は体温が急激に上がるのを感じた。ポケットの中でカイロを握っているのは馨だというのに、身体の熱が一気に込み上げてくる。
「……直哉、背伸びた?」
「今、それ聞きます?」
そう返しながら直哉も言われて気がついた。いつの間にか馨より少し目線が上になっている。
「縮め」
「なんつーこと言うんですか」
言い返す直哉にポケットの中でカイロを触りながら馨が小さくパンチする。すると、周囲から「お、開けた」という声と共に前方からはぱちぱちという音が疎に聞こえ始めた。
「え……?」
前後で並ぶ人たちがスマホの画面を見たり、前列の方に倣って手を叩いていた。
「直哉」
いつの間にかポケットから手を抜いていた馨が直哉の顔を覗き込んだ。
「明けましておめでとう」
「……あ、明けましておめで」
続きを言う前に直哉の腹の虫が大きく鳴いた。周囲の話し声で大して目立つ音ではなかったが、そばにいた馨の耳にはしっかりと届いたらしい。
「あはは、なにそれ」
「失礼しました。おめでとうございます」
格好の付かない挨拶に直哉が不貞腐れた。
「食べて来なかったんだ?」
「……時間なくて」
「二十分も前に来たくせに」
馨に笑われ、直哉は唇を突き出して黙り込む。母親からは屋台は高いから少しでも良いから食べていけと言われたが、家を出たい気持ちが前のめりになり、ほんの一口つまんだだけだった。もう少しきちんと腹に納めるべきだったと後悔しても、もう遅い。加えて少しずつ動き始めた列の前方からは屋台からの芳ばしい香りが漂ってきていた。
「はい、これ」
「え」
前方に視線を奪われていた直哉に、馨がコンビニのおにぎりを一つ差し出した。
「お腹空くと思ったんだよね。どっちかが屋台に買いに行くのもありかなぁって思ったけど、それで逸れたら嫌だしさ」
そう言って肩から下げていたショルダーバッグを開け、馨はコンビニの袋を直哉へ見せた。
「準備良いですね」
「まぁね」
「そしたら俺、あそこでお茶買ってきますよ」
二人の並ぶ場所から少し前に自販機が見える。直ぐに戻れそうな距離だった。
いただきます、と言って直哉はおにぎりの封を切った。
「お茶、どーも」
直哉に手渡されたホットのペットボトルをじっと見つめて馨が言った。
「おにぎりのお礼です」
「延滞金残ってるけど?」
「まだ言うんですか」
「仕方ないからチャラにしてあげる」
くすくすと笑いながら馨はペットボトルを開けないままコートのポケットに入れる。
「あれ、飲まないんですか?」
ホットのお茶を飲みながら直哉が尋ねた。
「後で飲む。俺、猫舌だから」
少しだけ恥ずかしそうに答える馨を見て、直哉はゴクリと音を立ててお茶を飲み込んだ。
石階段を上がり、二人が本殿の前にやっと着いたのは年明けから一時間後だった。賽銭を投げて参拝を済ますと、後列を避けるように列から出た。
「待って」
直哉より数秒ほど手を合わせる時間が長かった馨は、逸れないよう咄嗟に直哉の上着の裾を掴んでいた。
「早過ぎ」
「そんなにお願いする事ありました?」
文句を言う馨に直哉が尋ねた。
「そうだね、直哉の身長が縮みますようにって」
「訂正してください。今ならまだ神様にも聞こえる距離です」
「冗談だっつーの」
ムキになる直哉にケラケラと笑って見せると、馨は屋台の方へと歩き出す。
「で、本当は何を?」
「直哉は?」
「言いません」
「じゃ俺も言わない」
そう言うと、コートのポケットから冷めて温くなったペットボトルを取り出した。馨の視線はもう屋台の食べ物へ向けられている。
「何か食べたいのありますか?」
「直哉の奢り?」
「延滞金まだなので」
「あはは、チャラになってなかった!」
笑いながら馨は立ち並ぶ屋台を眺めた。どれにしよう、お好み焼きは文化祭で食べたし、たこ焼きは同じようなものだし、あれはお好み焼きより熱くて食べれる気がしない。口に出して悩む馨の後ろ姿を直哉はゆっくりと追いかけた。
「決まりました?」
すると、馨は首を振って悩み中と言った。
「あ、甘酒無料配布だそうですよ」
向かいの屋台を指差して直哉がつぶやくと、馨がくすりと笑った。
「飽きないねぇ、まったく」
「……はい?」
「楽しいって言ったの。ね、来年もまた一緒に来れると思う?」
馨の問いに直哉は黙り込む。周りの喧騒が一瞬ぴたりと止んだ気がした。
「……あの券使えば良いんじゃないですか?」
「……あはは、そうきたか」
小さく笑って馨が答えた。直哉は心臓の音が馨へ聞こえないよう少しだけ歩幅を狭める。馨の質問の意図を想像し、心臓が高鳴った。深夜の冬空は震えるほど寒いというのに耳まで熱が上った。
「あの……」
直哉が口を開きかけると同時に、くるりと馨が振り返り「よし、決めた」と言って、ベビーカステラの屋台を指差した。
「あれにする」
「……今年最初がそれですか」
「だって他のやつ全部熱そうじゃん」
本当はお雑煮が食べたいけど、と言って苦笑いをする。直哉は呆れ気味に小さく溜息を吐くと、ベビーカステラの屋台へと向かっていった。



