夏休みの図書室当番は、思っていた以上に退屈だった。三日前の夜から馨と一緒という事に浮かれて、熟睡できない日々となったのだが、今思えばさっさと寝てしまえば良かったと、直哉には後悔しかない。というのも、時間ぴったりに図書室に来たのは直哉だけで、馨は昼過ぎに欠伸をしながら現れたのだ。
「馨さん、遅いですよ」
 馨が机にスクール鞄を置く横で、直哉が言った。
「直哉、本当にごめん。昨日寝付き悪くてさぁ。俺、今日が相当楽しみだったみたい」
 馨はいつも通りに笑って見せたが、直哉には嘘っぽく見え、眉を寄せる。きっと受験生として遅くまで机に向かっているのだろう。後輩の手前、はっきりと言わないあたりが馨らしい。だけどここまで連絡無しは格好付ける所ではない。バイト先に突然現れた日以来だったせいで、自分だけ舞い上がっていた事もあるが、それ以前に何か遭ったのかと心配で堪らなかった。しかし、目の前の先輩は肝心な事は口にするのが苦手なようで、はぐらかすことを当然とし、いつも変に距離を取られている気がしてならない。そんな直哉の心を知らない馨は、返却ワゴンに重ねられた本が数冊しかないのを見ると「もしかして殆ど終わってる?」と尋ねた。
「……次からは連絡ぐらいくださいよ」
 溜息混じりに直哉が言うと、馨は眉をハの字に寄せた。
「あはは、うん。次からはそうする。一人で大変だった?」
 そう聞かれて直哉は首を横に振った。本の返却に来たのは午前中に数人。貸し出しも片手で数えられる程度。コンビニバイトよりも遥かに楽だった。
「そっか。それじゃあ、これは俺が片付けるから。直哉は休憩してて」
「いいですよ。俺もやります」
「だーめ」
 そう言うと馨は直哉の顔にぐっと自分の顔を近付けた。
「ちゃんと鏡見た?目の下のクマ、酷いんですけど?」
「えっ」
 直哉は思わず目の下を抑えた。
「夏休みだからって毎日夜更かしかぁ?何してるんですかねぇ、まったく」
 ニヤニヤと笑いながら馨はカウンターの中に入って行く。正直な理由を言うのも恥ずかしいが、変な想像をされているのも我慢ならない。直哉は半ばむきになって、馨が持ち上げた返却本を半分掻っ攫っていった。


 お盆明けの当番には、流石の馨も時間厳守でやってきた。本当はベッドからも、クーラーの効いた涼しい部屋から出るのも大変だったとぼやいていたが、今日は今年一番の夏日と天気予報で聞き、昼過ぎに出掛けるのはもっと大変になるだろうと、朝からしんどい身体を引きずって来たと言った。しかし、そう頑張って来たというのに利用者は現れず、午前中は掃き掃除をして終わり、午後はそれぞれ持って来た夏休みの課題に取り組んだ。向かい合わせに座り、黙って問題集に取り掛かる。直哉が取り出したのは一番苦手な数学の問題集。早めに手を付けてはいたものの、応用問題で躓いてから開く気がなくなってかなりのページ数が残っていた。
「分からないところ、あれば教えるよ」
「え?」
 馨の意外な申し出に驚いて、直哉は勢いよく顔を上げた。
「俺、その辺得意だから」
 馨は顔を上げず、問題集を黙々と進めながら静かにそう答えた。
「……あ、ありがとうございます」
 直哉は一瞬躊躇して返事をした。目の前には既に手も足も出ない問題があるが、なんとなく今は彼の手を止めてはいけないと思って踏み止まる。去年の自分も受験生だったが、ここまで集中して勉強へ取り組む事はできなかった。邪魔をしては悪いと思い、直哉は解答を開いて解説へと目を向けた。


 夏休み最後の当番の日は、意外にも利用者が多かった。というのも、夏休み終了二週間前からは文化祭の準備が始まり、登校する生徒が多いからだった。温暖化の現在、全ての教室が冷暖房完備となったが、図書室はどの教室よりも冷房が効いているためミーティングを行う者たちがこぞってやってくる。それも殆ど上級生達で、普段の図書室では考えられないほど賑やかだ。司書の星野も毎年この時期はこうなのよ、と半ば諦め気味に言った。
「馨さんのクラスって文化祭は何するんですか?」
 賑やかな図書室をカウンターの椅子に座り、ミーティングの様子を眺めながら直哉が言った。いつものように向き合って課題を進められないため、カウンターに問題集を広げている。利用者は大勢いるが、カウンターに本を借りに来る者は殆どいなかった。
「俺のところは劇。赤ずきんと白雪姫混ぜたやつとか言ってた」
「へぇ。何役ですか?」
 馨の事だから、きっと王子役だろうと直哉は予想を立てていたが、馨は「裏方」とあっさり答えた。
「勿体無い……」
「何が?」
 思わず口にした直哉の呟きを馨が拾う。
「裏方って力仕事が多いでしょう?馨さん、ちゃんと出来るんですか?」
 直哉は問い詰められる前に話題を差し込む。すると、心外だとばかりに馨が唇をへの字に曲げた。
「一応その辺の女の子よりは力ありますけど?」
「その割には俺に返却本どさどさ持たせますよね」
「後輩への洗礼は先輩がしてあげないと意味がないからね」
 ふふん、と鼻を鳴らして馨が得意気に言う。
「それにね、図書委員って文化祭当日にも仕事があるんだよ」
「え、そうなんですか」
 馨は頷くと、直哉を手招いて司書室へ移動した。そこには以前当番の際には見かけなかった大きな段ボール箱が三つほど積み上げられていた。
「なんですか、これ」
「古本だよ。文化祭で毎年古本市を開いてるんだ」
「へぇ……」
「特に大学の赤本とか毎年増えていくものはこうやって少しずつ減らしているんだよ。本棚は増やせられないからね。お盆明けから星野先生が少しずつリストアップした本を移動させてたんだ」
 積み上げられた箱のすぐ横に畳まれたままの段ボールがあるのを見ると、まだ箱は増えることが分かった。確かに赤本は毎年購入していくと一校分だけでもかなりの量になってしまう。馨の話だと、直近三年分は残し、毎年入れ替えを行なっているようだった。
「で、この古書を売る店番が俺たち図書委員ってわけ。劇の本番と当番が被ったりしたら面倒だし、こっちの準備もあるから抜け出しやすい裏方を選んだの」
 馨はもっともらしい理由を並べて言ったが、それでも直哉の中では勿体無い、という気持ちが強かった。
「直哉のとこは何やるの?」
「お好み焼き屋です」
「超ド定番だ」
 馨にクスクスと笑われ、直哉はむすっとした顔を見せる。
「直哉は調理班?あ、接客?」
 コンビニバイトだし、と付け加える馨に直哉は首を振った。
「調理班です。当番は午前中で終わりますけど」
「誰かとまわる約束は?」
「えっ。いや……ない、ですけど……」
 驚いて声が尻切れになっていく。思わず見開いた目で馨を見ると「ふふふ」と小さく微笑んだ。
「なら都合は付くね。当日はこっちの当番たくさん入れてよ。俺も来るから」
「……はぁ」
 直哉は怠そうに答えた。期待をした自分を恨む。上げて落とすとはこの事で、一緒に校内を周れると思いきや、そうではない事にがっくりと肩を落とした。あわよくば、と思って時間に余裕が出来るように二時間シフト制の調理班に立候補したというのに。
「でもその調理当番終わったすぐに古本市当番は入れないように」
「え。なんでですか」
 あわよくばがないのなら、少しでも一緒に居られるよう当番をすぐに詰め込もうと考えていたのに、馨からノーが出た。
「だって、直哉が焼いたやつ一緒に食べたいもん」
「……は」
 予想外の答えに直哉は一瞬言葉を失った。ハッとして目の前の馨にもう一度目を向けると、「約束ね」と念を押された。
「…………はい」
 有無を言わせぬ物言いに、直哉は呆けた顔で返事をした。


「直哉、今日ってこの後バイト?」
 夏休み最後の当番が終わって、図書室の扉に『閉館』と書かれた札を引っ掛けながら馨が尋ねた。
「そうですけど」
「それ、何時に終わる?」
 馨は図書室の鍵をしまうため、司書室のドアを開けた。キーボックスは入ってすぐの壁にあるためドアは直哉が支える。
「だいぶ遅いですよ?」
「でも日付けは越えないでしょ」
「まぁ、高校生なので越えませんね」
「じゃあさ」
 馨がキーボックスを閉め、司書室から出てくると少しだけ屈んで直哉の顔を覗き込んだ。
「花火、しない?」
「花火?」
「うん。シフト終わる頃に俺が直哉のコンビニに買いに行くからさ」
 馨がにこりと微笑む。思わず喉が鳴り、直哉は顔を背けた。
「……どこでやるんです?」
 直哉は馨の方を見ないようにして言った。コンビニの近所もそうだが、今時花火を許可している公園や空き地なんてそうそう見ない。どこにもやれるような場所はない、と直哉が言いかけたが、そこへ被せるように馨が言った。
「俺ん家で良いじゃん?」
「…………は」
 直哉の背中をひやりと冷たい風が撫でた。
「手持ち花火なら狭い庭でもいけるでしょ」
「い、いや何を急に」
「あ、バイト行く前に泊まる準備しときなよ。そのまま行くんだから」
「と、泊まり?」
 慌てふためる直哉をよそに、馨はどんどん一人で話を進めながら廊下の先を歩いていく。
「あ、寝巻きは俺のを貸してあげる。荷物少なめのが良いよね。あー、直哉ガタイ良いから入るかなぁ……ま、大丈夫か」
「いや、あの……。急に泊まりとか、馨さんの両親だって困るんじゃ」
「親?あぁ、気にしなくて良いよ。俺は受験生だからって、勝手に旅行にいっちゃったし」
「りょ、旅行……」
 直哉は身体中に熱が籠っていくのを感じ、奥歯を噛み締め頭を振った。
 尚の事気になってダメだろ!
 そう強く言えれば良かったが、馨の押しは強い上に一人で話を進めていく。
「そういう訳だから……直哉?」
「は、はいっ」
「顔、赤いよ?」
 誰のせいだ、誰の。
 そう言い返そうにも、馨には自分が何を想像したかなんて言い出せず「夏ですから」と、曖昧な返事を返した。



 バイトが終わる五分前、約束通り馨は直哉のバイト先に現れた。服装はTシャツに短パン。ビーサンを履き、今まで見た中で一番ラフな格好をしている。出入口近くの棚に引っ掛けられていた手持ち花火と、サンドイッチを直哉の立つレジに持ってくると「ライターは家にあったんだ」と鼻歌混じりに言った。
 馨のレジを終えると、タイミングよく夜勤の学生が二人出勤してきたので、直哉は二人に挨拶してそのまま退勤させてもらった。
「お疲れ」
 従業員出入口から出ると、馨が直哉に先程買ったサンドイッチを手渡した。
「ありがとうございます」
 小腹が空いていたので有り難く頂戴し、袋から取り出して早々に齧り付く。本当はパンより米派だが、もしかしたらこれは馨の好みなのかもしれないと思い、直哉はいつも以上にゆっくりと味わって食べた。


 馨の家はコンビニから歩いて数分の所にあった。三角屋根とブルーグレーの外壁がおしゃれな二階建ての一軒家で、北欧モダンな門からは、小さな庭が覗いていた。
「バケツ、もう出しておいた」
 門を開き、直哉を中へ招き入れる。馨はベランダのウッドデッキに買ってきた花火を並べて置くと、ライターを短パンのポケットから取り出した。
「今年最後の花火大会の開幕だね。さて、何からやる?」
「じゃあ、これ」
 直哉は適当に一本手に取った。馨も同じ物を一本持つと、順に火を着ける。
「わっ」
 赤と緑の花火が勢いよく飛び出して、馨がケラケラと笑った。
「もう一本持っちゃお。直哉、火着けて!」
「はいはい」
 楽しそうにはしゃぐ年上に従い、直哉は言われるがまま火を着けた。



「ねぇ。夏休み終わったらさ、三年生は当番免除って知ってた?」
 バケツに差し込まれる花火の本数が増えてきた頃、馨が直哉に尋ねた。
「……いえ。でも、受験生は忙しくなりますから」
 仕方ないと、直哉は静かに答える。何となくそうだろうと思っていたため、さほど驚きはしない。部活に引退があるのだから、当番免除もあり得なくはない話だ。
「直哉はさ、どう思う?」
 馨はまだほんの少し残っている花火を手に持って、左右に揺らした。
「どうって……。受験生は大変だ、とかですかね」
 当たり障りのない答えを返すと、馨はムッとして唇をへの字に曲げる。
「……本当にそれだけ?」
「……何が言いたいんですか」
「……ううん。別に」
 馨は手に持った花火をじっと見ながら小さな声で答えた。
 沈黙が流れる。夜に鳴く蝉と、時期の早い虫の声がさっきよりもはっきりと耳に入った。
「馨さん」
「ん?」
 声を掛けた直哉は、返事と共に自分の方へ向いた馨の顔を見てゴクリと喉を鳴らす。
「大学、行くんですよね?」
 躊躇いがちに出したその問いに、今度は心臓もドクンと動いた。
「まぁ、そうだね」
「ここから近いところですか?」
「うん、通えるとこ。一人暮らしも憧れるけど、俺一人で生活出来る気がしないし」
 ヘラりと笑って馨が言った。確かにテキパキと家事をこなす彼を想像するのは難しいと、直哉がくすりと笑う。
「志望は晴朗大の商学部。就職率良さげだし、ほら、商社の営業とかカッコよくない?」
「あー……」
 スーツの営業スタイルに身を包んだ馨を想像すると、思っていた以上にしっくりと腑に落ちる。同時に同僚の女性陣から向けられる熱い視線まで想像でき、直哉は馨に聞こえないよう鼻で笑った。
「変な壺もちゃんと売って来そうですもんね」
「なんだよ変な壺って……。あっ、そうだ、線香花火やろ!先に落ちた方が明日の朝ごはん担当!」
「え、今生活能力ないって言うの聞いたばかりなんですけど」
「じゃあ直哉が作ってくれるの?」
「……勝負です」
「なんだよ、ケチ。ま、負けなきゃ良い話か」
 馨は得意気にそう言って直哉に線香花火を手渡すと、勝手に「よーい、どんっ」と火を着けてゲームを開始した。
「勝手に始めないでくださいよ」
「良いんだよ、言い出しっぺがルールなんだから」
「なんですかそれ」
「あ、ほら。喋ると花火落ちちゃうよ」
 そう言われ、直哉は仕方なく口を噤む。じっと手元で小さく光出す線香花火を見つめた。
 当番がなくなり、そして受験が終われば馨は卒業してしまう。まだ知り合ったばかりで、沢山の時間を彼と過ごしたいと願うのに。まだ時間は残されているが、想いを伝えてもいない相手を、自分の我儘に付き合わせても良いのだろうか。
 パチパチと花火が激しく音を立てる。隣で馨が小さく「おぉっ」と声を漏らすのが聞こえ、直哉はくすりと笑った。同時に馨と直哉視線がぶつかる。馨の頬は花火越しに赤く染まって見え、そこに目を奪われたかと思ったその時だった。
「あっ」
 馨の声で直哉は自分の線香花火へと視線を戻した。
「あ……」
 小さな火の玉がぽたんと地面に落ち、静かに消える。勝負に負けたのは直哉だった。
「あーあ」
「やった、俺の勝ち」
 馨がケラケラと笑ってまだパチパチと激しく音を立てる手元に視線を戻した。
「何食べたいんですか」
 負けたからには文句は言えず、直哉が膨れっ面のまま花火をバケツに突っ込んだ。
「直哉の好きなものがいい」
「……なら、ハムとチーズのトーストですね。飲み物はコーヒー」
「俺のコーヒーには砂糖一つと牛乳入れてね」
「はいはい」
 あからさまに面倒だという顔をする直哉に馨が悪戯っぽく笑うと、線香花火がぽたんと落ちた。
「あーあ、終わっちゃった」
 ほんの少し遅れで馨の花火が終わり、残念そうにバケツへ花火を入れにいく。
「やっぱこれ、なんか寂しいよね」
「え?」
「線香花火」
「あ、あぁ……。そうですね」
 直哉は寂しいと言って良いのか分からず、小さな声でまごまごと答えた。


 夏休み明けの定期考査が終わり、指定校推薦を勝ち取った馨は、また木曜日の図書室に顔を出すようになった。当番免除を免罪符に休んでいたのはほんの数週間で、夏休み中に今後どうやって馨に会おうかと頭を抱えた直哉は拍子抜けだった。
 しかし、その当番の時間は文化祭が近付くに連れ、短くなっていった。放課後はどのクラスも殆どが準備に忙しなく動くようになり、部活動の開始時刻もいつもより遅くからと学校全体がシフトチェンジを始めた。直哉のクラスは屋台模擬店のため、大して準備する物はなかったが、一部の女子生徒が呼び込み用のポスターや看板を作ると張り切っていた。
「へぇ。やる気満々だね」
「模擬店部門は優勝狙うって言ってましたね」
 返却された本を二人で戻しながら、文化祭準備の話をする。だいぶ先だと感じていた文化祭も、気が付けばあと二週間後と迫っていた。図書委員会で行う古本市の準備に関しては、殆ど夏休みに出品する本を出し切っていて、作業としては値札を付けたり簡単な看板を作るぐらいだった。その細かい作業は、夏休み明け最初の委員会で二年の女子生徒達が担当する事になったため、直哉達は当日の店番をするだけとなっていた。ただ例外もある。既に馨同様に進路が決定している馨と同じクラスの女子と、文化祭で発表する曲の練習があると言って今日も堂々と部活へ勤しむ芽衣のこの二人に関しては、二年生の手伝いに必ず顔を出すよう星野から直々に言われていた。
「あ、そうだ」
 馨が最後の一冊を一番上の棚に戻してから直哉に向き直る。
「約束、覚えてる?」
「え、約束?」
 そう言われても咄嗟にその約束が浮かばず、直哉が狼狽えた。
「忘れたの?直哉のお好み焼き、食べるって言ったやつ」
 そういえばそんな話をされた事を思い出し、直哉が「あー」と声を漏らす。
「俺の分、紅生姜たっぷり入れてね」
「それ、紅生姜の味しかしなくなりますよ」
「どうせソースかけたらソースの味じゃん」
 なら、お好み焼きじゃなくても良いのではと思ったが、直哉はすぐそこまで出かけた言葉を飲み込んで「はいはい」と適当に返事をした。



「遅い。もうお腹ぺこぺこ」
 膨れっ面の馨が腰を両手に当て、文句を言う。人気の少ない屋上入口前で待ち合わせをした直哉と馨だったが、約束の時間よりも十分ほど遅れて汗だくの直哉がやってきた。
「すみません、昼時舐めてました。抜けるに抜けられなくて……」
 手に持っていたビニール袋を馨に手渡しながら直哉が謝った。直哉の当番が終わる頃、どっと人が並び始め、列形成に時間を取られてしまったのだ。
「お疲れ様。もう温くなっちゃったけどこれは差し入れ」
 額の汗を拭う直哉に、馨がペットボトルのウーロン茶を手渡した。
「どうも」
 直哉はもらったボトルを早速開けると、半分ほど一気に飲み込んだ。馨は階段を椅子代わりに腰掛け、もらったビニール袋の中からお好み焼きのパックを二つ取り出すと、一つを自分の膝に置き、もう一方を直哉に手渡す。
「これ、直哉が焼いたやつ?」
「そうですよ。紅生姜多めに入れたら、クラスの連中にぐちぐち言われて大変だったんですから」
「ふふふ、さーんきゅ」
 パックを開けると、鰹節とソースの香りの中に紅生姜の酸っぱい香りが辺りに広がった。直哉の言う通り、馨のお好み焼きはもう一方のお好み焼きよりも紅生姜の量が多く、見た目も赤い。そんな直哉のサービスに、馨の口角が自然と上がった。
「いただきます」
 普段見ているような眉目秀麗さはどこかへ吹っ飛び、馨は嬉しそうに大きな口でお好み焼きを頬張った。
「うーまっ」
「それ、優勝できそうですか?」
「んー、どうだろう。直哉が作ったやつしか知らないし」
「なんですか、それ」
「だってそうじゃん?他の子が作ったのは知らないもん」
「少なくともそれよりは紅生姜は少ないですね」
「じゃあダメだな。俺の判断基準は紅生姜の量だし」
 聞いた俺が悪かったです、と直哉は小さくぼやいたが、自分が作ったものしか知らない、というその言葉を黙って反芻した。
「ねぇ、かき氷も食べたくない?」
「そんな次から次へと……腹壊しますよ」
「良いじゃん。こういう時しか食べないんだからさ」
 ヘラりと笑って馨は薄い唇に付いたソースを指で拭い、その指先を舐めた。そのほんの些細な仕草に、直哉はゴクリと生唾を飲み込んだ。
「……ついてますよ」
「え?」
「ソース」
 直哉が自分の右頬を指さして「ここ」と言った。頬張った際に付いたソースが馨の右の口角付近についていた。
「え、どこ?」
 ソースを拭おうと頬を触るが、うまく取れない馨は眉をハの字に寄せる。すると、ワイシャツの上に羽織っていたカーディガンの袖で拭こうとしたので、咄嗟に直哉が止めた。
「ちょっ……!染みになるでしょ。ここですよ、ここ」
「んぐっ」
 直哉はスラックスのポケットからハンカチを取り出すと、ぐりぐりと無理矢理馨についたソースを拭き取った。
「ちょ、直哉、加減してっ」
「動くからです」
 ハンカチを離し、まだ小言を挟む直哉をジト目で馨が見上げた。いつも以上に近い距離で目が合い、直哉の心臓がどくんと跳ねる。握っていたハンカチが手汗でしっとりと滲んでいくのを感じた。
「……ねぇ」
 目が合ったまま馨が口を開く。
「なん……でしょう……?」
 ゆっくりと顔を離しながら直哉が返事をする。さっきより手汗がどっと増えた。咄嗟とはいえ、やり過ぎたかもしれない。なんだかんだで付き合うが、相手は二つ上の先輩だ。生意気だという理由で、二度と近付けなくなる可能性もある。
 いや、生意気は今更かもしれないけど……。
 加えて二人きりでのこの状況だ。思っていた以上に刺激が強い。怒らせても怒らせていなくても、直哉の心臓は今にも飛び出しそうだった。
「かき氷の前にお化け屋敷、行かない?」
「…………へ?」
 予想外の提案に、直哉から気の抜けた声が出た。
「二年生のやつ。すごい人気ってさっきここ来る前に聞いたんだよね」
「いや……だからって今……」
「なに、直哉怖いの?」
「い、行きますよ、行きます!そういうの俺、全ッ然平気なのでっ」
 そう言ってカーディガンの袖を捲り、直哉は座り直した。
「でもこれ、食ってからですけど!」
「そうだね」
 残っていたもうひとパックの蓋を開け、不貞腐れ気味に直哉が割り箸を割った。
「あ、気をつけろよ。生焼けのところあったから」
「えっ!」
「あはは、嘘だよ」
「ったく……」
 大きなため息を直哉が吐く。
 揶揄うならもう少しマシな事言って欲しいんだけど……。
 直哉は横目で馨を見ながら冷めたお好み焼きに齧り付いた。
「そう言えば、良いんですか?俺といて」
「なんで?当日当番は搬入と撤収ぐらいだし、殆ど暇だよ」
 馨が首を傾げて答えたが、直哉が気にしたのはそこではない。
「そうじゃなくて。文化祭、回る人とか……」
 それは昨晩からずっと考えていたことだった。高校最後の文化祭だ。恋人が居ないとしても、仲の良い友人の一人や二人居るはずだろう。たまに廊下ですれ違う際に見かけると、だいたい誰かと一緒に居たのは確かだ。
「文化祭ってさ、当日より当日までが楽しいんだよね。特に俺みたいな裏方は」
 ふふふ、と笑って馨は続ける。
「だから、直哉とが良いって思ったんだよね。ほら、今日で直哉と一緒の文化祭は最初で最後だし」
 馨が珍しくニッと歯を見せて笑う。その笑顔に思わず見惚れて、直哉は反応に遅れてしまった。
「……あ、あの、それって」
 特別扱い。勝手にそう思って良いのだろうか。最初で最後なんて寂しいと思うはずなのに、嬉しくて、下っ腹の辺りがふわふわと浮いているようなくすぐったさが込み上げる。
「それにさ、お化け屋敷なんて直哉以外連れて行けないしね」
「えっ……」
「やっぱり、こういうのはビビるやついないと面白くないだろ」
「だから、別にビビってなんか」
「ふふふ、どうだか」
 くすくすと笑って馨は立ち上がる。直哉はジト目で馨を見上げながら残りのお好み焼きを口の中に放り込んだ。
「大きな声、出した方が負けね」
「良いですよ。負けたらどうします?」
「んー、そうだなぁ」
 馨は後ろポケットに丸めて差し込んでいたパンフレットを取り出すと、パラパラと捲った。
「あ、これなんてどう?」
 馨は実行委員会の紹介ページを指差した。そこには美術部と一緒に校門のアーチと昇降口に設置した顔出しパネルの制作を行ったとの記載があった。
「このパネルで写真撮るの。勝った方のスマホで」
 直哉はパンフレットを見て絶句した。弄月高校の月から着想したのだろう、月面の上で制服を着た生徒が踊っているイラストだった。彼らのバックにはUFOに乗った宇宙人の絵まで描かれている。顔が出せるようになっているのは、生徒の顔の部分と宇宙人の顔の部分だった。描かれた生徒のポーズはバレリーナのような動きをしている。言っちゃ悪いが、進んで写真を撮りに行きたいと思えるパネルではなかった。
「……絶対無理。てかこれ誰向けに描いたんだよ」
「あ、そんなこと言って。作った人に申し訳ないだろ」
「なら馨さんがどうぞ」
「俺はこのパネルで直哉の写真撮りたい」
「……なんで俺が負ける前提なんですか」
「ふふふ、楽しみ」
「……絶対負かす」




「あーあ、残念」
「残念、じゃないですよ、まったく……。絶対、流出したら怒りますからね!」
「大丈夫、俺しか使わないから」
「使うって……何に使う気ですか」
「そんなの秘密に決まってんじゃん」