憂鬱な放課後だ、と朔間直哉は溜息を吐いた。同じクラスの神崎芽衣と肩を並べ、静かな廊下を歩く。窓からは中庭が見え、グラウンドに入れなかった運動部員達の練習する姿が見えた。中学の頃はサッカー部に所属し、彼らのように校庭を駆けていたが、昨年の夏に靭帯を損傷してからグラウンドに立つのをやめ、アルバイト解禁と同時に近所のコンビニで空いた時間をシフトで埋めていた。本来なら今日だってシフトに入っていたはずなのだが、入学直後のホームルームでクラスメイトの殆どが避けた図書委員に抜擢されてしまった。というのも、皆が避けたせいで最終的にくじ引きとなり、見事に当たりを引き当てたのだ。当初は一年の任期ぐらいどうとでもなると考えていたのだが、委員会の仕事内容を全く把握していなかった直哉は、後に放課後に図書室の受付、掃除当番があることを知った。そして、冒頭に戻る。当番は週に一度。図書委員会に所属する三学年全員に回ってくる。直哉のクラスは毎週木曜日が担当となっていた。
「ねぇ、そんな露骨に嫌な顔しないでよ。私だって本当はこんな事してる暇ないんだから」
二度目の溜息を横で吐かれた芽衣も、お返しだと言わんばかりに盛大に溜息を吐いた。彼女の所属する吹奏楽部は毎日活動があるらしく、委員会が優先になることに腹を立てている。最後まで図書委員会に入るのを拒み、ホームルームではくじ運の悪さに泣いていた。
「……何か言い返してよ」
悪態を吐かれても、黙ったまま隣を歩く直哉に芽衣が言った。
「面倒な事には違いないだろ」
「どういう意味?」
「さあね」
言い返したところで彼女の虫の居所は変わらないが、更に煽る形になってしまった事に直哉はほんの少し反省をした。
図書室は教室棟の渡り廊下を渡った、旧校舎の二階にあった。旧校舎は音楽室や化学室などの特別教室が連なるため、放課後になると部活動で賑わいを見せる。特に吹奏楽部の練習音は、渡り廊下を歩いている最中からよく聞こえていた。
「えっ……」
突然、直哉の前を歩いていた芽衣が足を止めた。その視線の先にはブレザーのポケットから取り出したスマホが見える。
「どうかしたのか?」
「あ、いやぁ……その……」
直哉が尋ねると、芽衣は視線を泳がせる。しかし、再びスマホの画面に目を落とすと、数秒考えてから口を開いた。
「……あの、本当に申し訳ないのだけど」
「なんだよ」
歯切れの悪い彼女に苛立ち、直哉が怪訝そうな顔をした。
「今日、やっぱり部活に行っても良い……かな?」
「は、当番は?」
「本当にごめんっ!今日、担当楽器のテストするってメッセージ回ってきたの!」
どうやら新入部員の担当楽器を決めるテストらしい。これを逃すと、ほぼ一年間希望の楽器を担当できなくなるかもしれないと芽衣は訴えた。
「ね、お願いっ!来週は必ず人一倍働くからっ!」
芽衣は手を合わせて懇願する。
ったく……。面倒だな、本当に。
「……分かった」
直哉は溜息混じりに答えた。仕事量は倍になるかもしれないが、タイミングが悪かっただけだろう。彼女には今日しかチャンスはないらしい。
「本当に?ありがとうっ!」
芽衣は廊下に響くほどの大きな声で言った。ここで渋れば、毎週の当番で怨みをぶつけられるだろう。それに比べたら一度や二度、当番をサボられた方がマシだった。
「その代わり、本当に来週は」
「うん、分かってるから!ありがとう、どうしてもフルートだけは死守したかったの!それじゃあ、また明日ねっ!」
嬉しそうに芽衣は言うと、二つ上の階にある音楽室へ向かって階段を駆け上がって行った。
芽衣を見送った直哉は一人で図書室へ向かった。他の教室とは違う大きな両開きの扉の前へ近付くと、先程まではっきり聞こえていた吹奏楽部の練習音が遠くなった。直ぐ真横の壁には新刊リストが掲示され、人気作品は予約順番制になった知らせが書いてある。直哉は扉をゆっくりと押し開けた。小さな軋む音がしたが、中はしんと静まっている。貸し出しカウンターの上に視線を向けると、小さなホワイトボードが立てかけられていた。そこに司書の星野美咲の名前が書かれたマグネットと、その下に『職員室にいます』と書かれたマグネットが貼られているのを見て、直哉は口をへの字に曲げた。
今日、活動初日の一年がいるって知っているよなぁ……。
前回の顔合わせでは、上級生の殆どが経験者の委員だったらしく、活動内容の説明は一年生のために向けられていた事を、直哉は思い出した。
「……面倒くさ」
誰に向けるでもない独り言を小さく呟く。職員室は教室棟にあるため、ここから向かうのは面倒だった。貸出しカウンター近くの柱に掛けられた時計を見上げると、放課後になってまだ時間も浅い。暫くすればじきに戻って来るだろうと踏んで、直哉は大して興味のない本棚を眺めながら図書室を歩き回った。
利用者用の机を囲うように無数の本棚が連なり、手に取るのが億劫なハードカバーの背表紙が日に焼けていたり、真新しかったりとまばらだった。小学生の頃には時間割に図書の時間があったためか、小学校の図書室の間取りは薄っすら思い出せたが、中学校の図書室の記憶は殆どない。寧ろ、入った事すらあったかも分からなかった。
一通り周り、最後に一番奥の本棚を回っていると、窓辺の方で小さな咳払いが聞こえた。まだ司書の星野は職員室から帰ってきていない。直哉は眉を寄せた。弄月高校はまだ創立十八年たらずで、怪談が噂されるにはまだ比較的新しい学校なはず。気が付かなかっただけで、自分よりも先に誰かが既に居たのかもしれない。ゴクリと唾を飲み込み、直哉はゆっくりと音のした方へと近づいていった。心臓は少しばかり速く鳴り、手汗がじわりと滲む。本棚の端へ付き、軽めの深呼吸をすると、直哉は顔をゆっくりと出した。
「あ……」
突然、直哉の全身に電気のような強い衝撃が走った。窓辺に並んだ直哉の腰までしかない本棚に、一人の男子生徒が窓に寄りかかって居眠りをしていたのだ。誰もいないと思っていたせいなのか、その寝こけている男子生徒の顔が整っていたせいなのか、心臓の音がやけに煩い。どの学年の生徒かは全く分からないが、直哉は今まで見てきた何よりも綺麗だと感じた。陽の光を背負っているせいか、色素の薄いサラサラの髪と長いまつ毛が金色に光っている。その眩しさに思わず手を伸ばし掛けた。
「ん……」
先ほど耳にした声に直哉はハッとして、伸ばした手を引っ込めた。すると、彼の手に一冊の読みかけの本がある事に気が付いた。何の本を読んでいるのか気になった直哉が、屈んで表紙を覗き込むと、小さな寝ぼけ声が頭上で漏れた。
「……あれ……寝てた……?」
間抜けな声がしたかと思った瞬間、彼の手にしていた本がするりと手から抜け落ち、直哉の顔面に落ちた。
「痛っ!」
「え、あれ?落ち……うわぁ!君、大丈夫?」
直ぐ足元で鼻を両手で抑えて悶絶する直哉に、男子生徒は一拍置いてから慌てて声をかけた。
「だ、大丈夫です……」
鼻血が出ていないか、手のひらを確認しながら弱々しい声で直哉が答えた。
「キミってもしかして、今日当番の子?」
「え……あぁ、はい。そうですけど」
ひとまず鼻血は出ていないようで安心した直哉は、鼻の形を確かめるよう、しきりに鼻筋を撫でた。
「そっか……。あぁ、じゃあ、適当に掃除から始めようか」
男子生徒は直哉の鼻に視線を置いたまま言う。
いや、もっと他に言うことあるだろ……!
しかし、彼は手にした本を小脇に抱え、本棚から降りると、さっそく直哉を手招きした。
「あのっ」
「あぁ、ごめん。俺は三年の如月馨。君と同じここの図書委員だよ」
「……朔間、直哉です」
突っ込むのを諦めた直哉が渋々答えると、馨はにこりと微笑んだ。
「じゃあ、直哉くん。こっち来て」
言われるがまま馨について行く。棚の上に腰掛けていたせいで分からなかったが、数センチほど馨の方が背が高く、自然と彼の襟足に視線が奪われる。おまけに彼の通った後は柑橘系の爽やかな香りがした。
「この前の委員会、俺休んじゃってさぁ。そしたら今日はもう一人のクラスメイトが休みになってねぇ。一人かなって思っていたんだけど……。そっちは?」
「あ、いや……休みって訳じゃ」
言いかけから直哉はしまったと、口を噤む。
「おぉ、一年生で初日サボり?キミも災難だね」
その嬉々とした目にどきりとしたが、悟られないよう直哉は会話の流れに乗じて首を横に振った。
「彼女、吹奏楽部で。今日は一年の担当楽器決める日らしいんですよ」
「へぇ。なら仕方ないか」
部活という真っ当な理由だったからか、馨はあっさりと興味を捨てた。
「キミは良いの?部活」
「まぁ、入ってないので」
「ふぅん、スポーツ得意そうな顔つきなのに。ま、そういう俺も部活に入部しないまま三年生だけど」
何となくで痛いところを突く人だと感じたが、あっさりしすぎて逆に腹が立たないほど清々しい。
変な人だな……。
「それで掃除なんだけど、用具は司書室の用具入れから借りてね」
馨はカウンターの裏の扉を指差した。どうやらそこから司書室へ行けるらしい。
「でも、割と綺麗だし、今日は貸出し業務だけで良いと思うな」
「えっ」
直哉は驚いて大きな声を出した。
「あれ、直哉くんって掃除好き?」
「いや、そういう訳じゃないですけど……!良いんですか、それで」
驚き半分、呆れ半分の声は直哉自身も思った以上に上擦っていた。
「良いも何も、綺麗だしなぁ。小さなゴミって塵取りで取るのも大変じゃない?」
確かに目立つ埃はほとんどない。しかし、一年の前に立つ上級生が初日から堂々とサボる宣言をするのには驚きだった。
「だいたいは星野先生が昼間に掃除してくれているし、それに一年生はこっちの方が大変だから」
にこりと笑って馨はカウンター裏のワゴンを指差した。そこには昼休みに返却された本が数冊重ねられている。
「掃除サボるより、本を戻さない方が怒られちゃうんだよね。今日はまだ誰も来てないし、一緒に片付けちゃおう。棚番号の見方教えてあげる」
馨は積み上げられた本を数冊手に取ると、直哉に押し付けるように持たせた。
「まだいける?」
笑顔を向け、有無を言わずに自分が持っていた本を直哉の持つ山に加えた。
「……限界ですよ、前が見えません」
「よし、じゃあ文学系の棚からいこうか」
「聞いてねぇし……」
溜息混じりに直哉が悪態を吐いたが、身軽になった馨はくすりと笑ってさっさと目的の本棚へと向かって行ってしまう。
「ほら、誰か来る前に終わらせるよ」
急かすように声をかけられ、直哉は本に隠れて小さな舌打ちをした。
これが、直哉と馨の出会いだった。
「直哉、夏休みの当番どこ出る?」
夏休み前の最後の委員会中、だいぶ離れた席に座っていたはずの馨が、わざわざ隣に移動して直哉に尋ねた。
「バイトのシフトも提出前なのでどこでも良いですけど……別に馨さんには関係ないでしょ」
「関係あるし。てか、最後の夏だよ?俺は後輩と青春を謳歌したいんだけど」
「ただの図書室の当番で何が青春ですか」
「当番終わりの帰り道に、アイスの買い食いとかさ。一本ぐらいなら奢ってあげるよ」
ふふふ、と嬉しそうに笑う馨に直哉は怪訝そうな目を向ける。
「アンタ受験生だろ」
「受験生もアイスの一本や二本食べますけどー?」
直哉に嗜められ、馨は不貞腐れながら座り直す。そのやり取りを見ていた女子生徒達から直哉は羨ましそうな視線を受け、小さく溜息を吐いた。高校三年の夏というのは、もっとピリピリとしていて何に対しても時間が無く、焦っているようなイメージがあった。しかし、馨を見ているとその全てが崩れていく。大して心配するほど進学に対して不安はないのだろう。成績は確かに優秀で、職員室前に貼り出されていた定期考査の点数上位者名簿には、毎度名前が載っているのを目にしている。しかし、夏休み後の定期考査を入れた成績で指定校推薦が決まると言われているのだ、他の生徒に巻き返されるとは考えないのだろうか。
「それで、どこ出るか決めた?」
直哉がアプリでスケジュールを開いていると、馨はさも当たり前のように覗き込んだ。
ったく……。
無意識に近付けられた顔をそっと避け、直哉は図書室のホワイトボードに書き出された夏休みの図書室開放日とスケジュールを見比べた。といっても、アプリのスケジュールはほぼ真っさらだった。家族旅行の予定もなければ、両祖父母はもう他界している上に、両親はどちらも東京出身だ。お盆に行く田舎もない。直哉は早々にスマホの画面を閉じた。
「人が少ないとこに出ます」
その方が話し合いもスムーズだと思い、面倒くさそうにそう答えた。
「じゃあ俺が決めても良い?」
「……どうぞ」
反論するだけ無駄だと感じ、直哉はすんなりと頷いた。
スケジュールの確認が取れた者から、ホワイトボードに書き出された日程の下に名前を書いていく。部活に所属している芽衣達は早々に担当日を取りに行っていた。馨は他の生徒達の様子をじっと見つめている。殆どの委員が名前を書き終えた頃、馨はようやく立ち上がると、誰の名前も書かれていない日程に直哉と自分の名前を書き加えた。それも、他の生徒達より一日担当する日が多い。
「なんで三日もあるんです?俺の担当」
鼻歌交じりで戻って来た馨に直哉が言った。
「だって、こうしなきゃ会えないじゃん」
「……会う理由あります?」
「俺が会いたいの」
馨がふふん、と鼻を鳴らして笑った。
いやいや、だからって勝手が過ぎるだろ。
直哉は眉を寄せ、小さな舌打ちをすると、机に頬杖をついたままホワイトボードに書き出された日程を写真に撮った。
「ほっそい字だな」
コンビニのレジ裏でスマホの画面に映るホワイトボードの文字を見て、直哉は呟いた。夜の二十時を超えると、客足は疎になってくる。特に直哉のバイト先は住宅街の真ん中にポツンと建っているため、夕飯時を過ぎると途端に暇になった。品出しも賞味期限のチェックも殆ど終わり、手持ち無沙汰になった直哉は、隠れてデニムの後ろポケットに入れていたスマホの画面を覗き込む。他人の、しかも馨の筆跡で書かれた自分の苗字は、普段見慣れている文字なのに何故か特別に見えた。細い線がただ交差して組み上げられた記号に何の力があるのかは不明だが、シフト提出の際にブッキングしないようにという名目でロック画面に設定していた。
「珍しいなぁ、堂々とサボり?」
突然の声に直哉は慌ててスマホをしまった。背後から声を掛けたのは、店長の花田青斗だった。
「いやぁ、良いんだけどね。お客さん誰もいないし。それに君はいつも真面目で、仕事も丁寧だから珍しいものが見れたというか」
「……すみません」
「あはは。だから、怒っている訳じゃないって」
花田はそう言って笑うが、就業中にルールを破ったのは事実だ。咎められない方がなんとも心が痛い。
「それで。そんな真面目な君がどうしたの?」
「いや、別に……」
「さっきの待ち受け画面はなんの日付?」
まさか見られているとは思わず、直哉は目を見開いた。その反応に花田が笑うと、バツの悪そうな顔を背けながら直哉が口を開いた。
「……図書委員会の当番です」
「委員会かぁ。その日、何時から当番なの?」
「十時から閉館の夕方十六時までです」
バイトをしている方が幾分もマシな時間拘束だが、馨と二人の当番なのは申し分ない。どの道シフトの相談をしなくてはならないため、直哉は誤魔化すのをやめて花田の質問にすんなりと答えた。
「当番の日だけ、入り時間を遅らせて欲しいんですけど……」
直哉が申し訳なさそうに恐る恐る伝えると、花田が吹き出した。
「あぁ、そんなこと心配してたの?学校の当番の日ぐらい融通きかせてあげるよ」
そう言ってケラケラと笑いながら花田は直哉の肩を軽く叩くと、レジ裏の扉を開け、事務室の掲示板からシフト表を剥がして戻って来た。そこには固定シフトとして仮組みされた来月のシフトが記載されていた。仮組みの状態であれば、変更の希望を出しても構わないのがこのコンビニのルールとなっていて、既に何名かの学生が夏休みの旅行でシフトを削っていた。
「むしろその日ぐらい休んでも良いよ?ぶっ通しで働くってしんどくない?」
直哉は首を横に振った。図書室当番の仕事はここに比べたらだいぶ楽だ。ばっちりエアコンの効いた部屋で、貸出し業務と軽い清掃をするだけ。もしかしたら殆どやる事が無い可能性だってある。去年の今頃までサッカーをやっていた直哉は、体力が有り余る気がしてならなかった。
「大丈夫です」
「分かった。良いよ、二時間ぐらい遅らせておこうか?」
優しさを上乗せしてにこりと花田が微笑む。しかし、直哉はまた首を横に振った。
「いえ、一時間で間に合います」
「本当?でも、ただでさえ他の人よりシフト入っているのに……」
休みで削られたシフトに直哉の名前が重ねて記載されているところを確認した花田が、心配そうに言った。
「構いません」
直哉は頑なに出勤すると言い張った。小遣いはバイトをし始めてからストップされたし、どこかへ行く予定もない。机に向かう習慣は受験から解き放たれた時からなくなった。そうなるとアルバイトしか時間を有効に使える手段はないと思っていたのだ。
「……そっか、了解。あまり無理はしないでね」
花田はすんなりと了承すると、シフト表に修正を書き加えた。
「ちょっと任せるね、改訂版出しちゃうから」
「あ、はい。よろしくお願いします」
直哉が答えると、花田はまた微笑んで事務室へと引っ込んでいった。客は相変わらず誰も入っていない。店内放送だけが響く中、直哉はもう一度だけ馨の書いた文字をレジ裏でこっそりと眺めた。
思えば、初めて会った日から頭の中には常に馨がいた。窓辺で寝こける無防備な姿が、やけに美しく見え、脳裏から離れない。憂鬱だと感じていた木曜日の放課後は、あの日以来待ち遠しくて堪らなくなった。一週間のうちに一度だけ。ただの委員会の当番だが、必ず決まった時間に会えるという確約は直哉にとって大事だった。それが、部活を休んで参加している芽衣や馨と同じクラスの女子生徒がいても、だ。二人きりでなくても変わらない。同じ空間にいる事が特別で、大事だった。
それに気がついたのは、終業式を終えて一週間経った頃だった。夏休みに入ると、その特別だった木曜日はなんの変哲もない日に変わってしまった。アルバイトもなく、予定もない。スケジュールはまっさらで、丁度暇を持て余していた夏休み最初の木曜日は、小学生の頃に所属していたサッカークラブの同級生、三宅浩太が押し掛けて来た。彼は直哉の様子を見に来ただけだった。彼とは小中両方とも学校が別で、怪我でサッカーを辞めてしまったという情報だけが一人歩きしたのだろう。サッカーが続けられない程滅入っているのかと心配していたようで、直哉はずっと連絡を入れなかった事を反省した。浩太との久々の再会はそれなりに楽しくて、時間を忘れて過ごした。その日は図書委員になってから初めて馨に会わない木曜日になった。
会わないとなると、落ち着かないな。
そう、もう夏休みの二週目なのだ。浩太が家に来た以外、コンビニと自宅の往復しかしていない。図書室の当番の日は八月のニ週目とお盆明けに二回ずつあるが、まだ一週間以上も先だった。何度も何度もスケジュールアプリを開いては溜息が漏れる。おまけにメッセージアプリを開いて馨とのやり取りを見返した。淡い期待を持ち、メッセージ画面をスクロールする。馨からは夏休み前から時々メッセージが送られて来ていて、毎週木曜日に顔を合わすだけでなく、時折り呼び出されることもあった。呼び出し内容は「今日のお昼は一人。つまんないから相手して」という連絡から「英和辞書忘れたから貸してくれない?」「放課後正門前集合」と様々であり、特に放課後正門前集合の場合は、SNSで人気の飲食店に連れ出されていた。行列の出来るラーメン屋に、駅前の新作スイーツ店など、並んでまで食べることに疑問を持っていた直哉が、長時間その列に並べたのは馨がいたからであった。待っている間もいつものように自分のペースを崩さない馨に振り回されたが、疲労よりも嬉しさが込み上げたし、何より年上の馨がはしゃぐ姿に愛おしさを感じていた(でも、流石に生クリームドカ盛りクレープに並ぶと言われた時は、はっ倒してやろうかと思った)。
休みに入ればこれ以上に連絡が来ると踏んでいたのだが、ぱったりと連絡は止んでしまった。夏休み前にだいぶバイトのシフトを突っ込んだと伝えたのが仇になってしまったのだろうか。木曜日だけはシフトを入れずに空けていたというのに。結果、連絡が来たのは昔馴染みの同級生だけだった。その同級生も流石に二週に渡ってやって来ることはない。
まぁ、約束していた訳じゃないしな。
勝手に期待し、当てが外れてしまったことに肩を落とす。すると、タイミングよくスマホが着信画面に切り替わった。表示されているのはコンビニの番号で、もしやと思い通話ボタンをタップした。
「お疲れ様です、朔間です」
「朔間くん、休みのところ本当にごめん!欠勤出たんだ。繋ぎの三、四時間出れたりできる?」
電話口で花田が早口で要件を言った。余程人が居ないらしい。夕方に差し掛かるこの時間、そして夏という季節も重なって、火を使いたくないという主婦たちが夕食のおかずをレンチンで済ませようと、時短食品を買いに出てくるのだ。
「あ、はい。すぐ向かいます」
「良かった。助かるよ、お願いします!」
花田はそれだけ伝えると、電話を切った。
直哉がコンビニに着くと、店内は多少落ち着いているものの、棚の商品はスカスカで、夕方納品されたはずのものがまだ陳列されずにバックヤードに積まれたままだった。ロッカーに荷物を置き、上だけ制服に着替えて事務室からレジに顔を出すと、花田が「朔間くん!」と、汗だくの顔で出迎えた。
「助かったぁ!この後多分もう一回波が来ると思うんだ。僕、今のうちに納品出しちゃうからレジお願いね」
「あ、はい」
花田は一台のレジを締め、直哉に隣のレジで会計をしていた女子大学生と代わるように指示を出すと、慌ててバックヤードへ引っ込んで行った。
花田の読み通り、女子大生が退勤してから三十分後に店内が混み合い始めた。帰宅途中のサラリーマンの姿もちらほらと見受けられ、ピークは息つく間もなく過ぎていく。直哉はとにかくレジで会計列を捌き、花田は発注の確認をしながらレジに入っていた。
「いやぁ、本当に助かったよ……!次の子が来たら上がって良いからね」
花田がお礼と言って、栄養ドリンクをレジ裏から見える事務室の机に置いた。
「いえ。今日は暇だったので」
本来は直哉とは別の高校生バイトが入る時間帯だったのだが、どうやら夏風邪を引いてしまったらしい。次のシフトまで日が空くため、今日だけなんとかしなければならなくなったのだと、花田が話した。
「ごめんね、本当に。今度、出勤時間調整しておくから。どこか削りたい日とかあったら言ってね」
「あ、はい」
直哉は返事をしてレジ裏に掛けてある時計を見上げた。もう間も無く次の出勤者が来る頃だ。交代前にコーヒーマシン横に設置しているミルクや砂糖、カップの蓋の補充でもしておこうと、レジから出ると、丁度一人の客が店内に入って来た。
「あ、いたいた」
聞き覚えのある声に振り向くと、そこには馨が立っていた。
「その制服、意外と似合うね」
馨は指でフレームを作り、ぽかんと口を開けたまま固まった直哉に言った。
「ふふふ。驚いた?さっき電話したんだけど、出ないからここかなぁって」
馨は直哉の顔を覗き込むように屈む。身長は馨の方が若干高いため、見慣れない上から目線に直哉は思わず目を逸らした。
「俺、馨さんにバイト先教えましたっけ?」
「いいや。俺の勘?」
「は?」
直哉の接客業にあるまじき声量と表情に、馨が吹き出した。
「あはは、ウソウソ。前も言ったけど俺もこの近くに住んでるんだよ。それに、直哉も中学この辺だって言ってたし、その近くのコンビニっていったらここかなぁって」
「……ストーカーですか」
呆れ気味に溜息を吐き、直哉は補充作業の続きを始めた。
「やだなぁ。もっとロマンティックな言い方しようよ」
「例えば?」
ノールックで聞き返す。本当は心臓がバコバコと煩く鳴っていて、何かしていないとその音が馨にまで聞こえてしまうのではないかと内心冷や冷やだった。
「赤い糸で結ばれているとか」
「……で、何のようです?」
「え、ツッコミなし?」
ケラケラと笑う馨に何も言わず、直哉はレジの中へと戻っていく。
「冗談だよ。本当は、直哉の顔が見たくなったの。ね、それじゃあダメ?」
「…………は?」
直哉の心臓が一瞬、止まった気がした。さっきまで煩くて敵わなかった音がピタリと消え、周りの音が遮断される。全身に熱が込み上げ、手のひらにはじわりと汗が滲み、持っていた補充用のガムシロップのポーションが滑り落ちた。面食らった直哉を目にした馨は、くすりと笑って足元に転がったガムシロップのポーションを拾い上げると、直哉の手に握らせた。
「なーんてね」
「あのですねぇっ」
「言ったろ、アイス奢ってあげるって」
「……受験生のくせに」
「だから、受験生だってアイスぐらい食べるんだってば!」
「それで、本当に誰から聞いたんですか?」
直哉は馨にもらった当たり付きソーダバーの袋を開けながら聞いた。あれからあと数分で退勤だと伝えると、馨は直哉を待つと言って、約束通りアイスを奢った。
「三宅浩太って知ってるよね。彼、俺の家の近所なんだよ」
馨も同じようにソーダバーの袋を開け、一口齧った。「当たるかなぁ」という呟きに直哉は小さく笑う。
「実は彼、小さい頃から知ってる仲なんだよね。この前久々に会ってさ、昔の友達に会いに行ったって、すごく嬉しそうで。それで直哉の家に行った事が分かってさぁ。いやぁ、世間って凄く狭いよね。あぁ、浩太が直哉のこと元気で良かったって言ってたよ」
「……個人情報の取り扱いについて浩太にはなんて?」
「ありがとうって言っといた」
「まったく……」
呆れながら直哉はアイスを齧る。知り合いの知り合いだったとは驚いたが、自分の話が話題にされた事になんとも複雑な気持ちになってしまう。仲が良いとしても所謂近所の幼馴染だろう。それ以上の関係に発展するようには見えないが、自分の知らない馨を知る浩太が羨ましく思えた。
「直哉」
「はい?」
呼ばれて返事をしたが、馨はじっと手に持っているソーダバーの棒を見つめていた。数センチのカケラが頑張ってくっついている状態のそれは、夕方の日差しによって更に小さくなろうとしている。
「当たり出た?」
「いえ、はずれでした」
「……そっかぁ」
残念そうに呟くと、馨は溶けて落ちそうなアイスに食らいつく。その表情から、馨の方もはずれ棒だった事が分かった。
「こういうのは当たる人の方が少ないんですから」
「だから当てたいんじゃない。あ、そうだ。今度当たりが出るまで食べようよ」
「夏でも腹から風邪ひきそうですね、それ」
馨の無茶振りに、直哉は遠回しに嫌だと返事をする。
「直哉」
しばらく並んで歩き、赤信号で立ち止まった時に馨が口を開いた。
「はい?」
直哉はゆっくり馨の顔を見上げた。入学当初より身長は伸びたが、まだほんの少し馨に届かない。
「……やっぱ良いや。なんでもない」
「なんですかそれ」
気になった直哉は馨の方をじっと見つめる。言いかけたのはわざわざバイト先を覗きに来た理由だろうか。無意識に膨れ面をしていた直哉を見て、馨は静かにくすりと笑う。
「どうでもいい事だけど……聞く?」
「どうでもいいですけど、言ってください」
直哉は何も言われないままよりはマシだ、と喉元に出かけたがその言葉を飲み込んだ。
「コンビニの制服、めちゃくちゃ似合ってた」
「……さっきも聞きましたけど。それだけですか」
「うん。それだけ」
ね、どうでもいいでしょう?そう言って、青信号に変わった横断歩道を歩き出す。
「馨さん」
「んー?」
馨の後ろを追いかけるように直哉が歩き出す。
「……再来週の当番、よろしくお願いします」
「うん。よろしく」
そう答えると、馨は「じゃあね」と背後を向いたまま直哉に手を振り、真っ直ぐ直哉とは別方向へと歩いて行く。直哉はその後ろ姿に、本当は何を言いかけたのかと何度も心の中で問いかけた。
「ねぇ、そんな露骨に嫌な顔しないでよ。私だって本当はこんな事してる暇ないんだから」
二度目の溜息を横で吐かれた芽衣も、お返しだと言わんばかりに盛大に溜息を吐いた。彼女の所属する吹奏楽部は毎日活動があるらしく、委員会が優先になることに腹を立てている。最後まで図書委員会に入るのを拒み、ホームルームではくじ運の悪さに泣いていた。
「……何か言い返してよ」
悪態を吐かれても、黙ったまま隣を歩く直哉に芽衣が言った。
「面倒な事には違いないだろ」
「どういう意味?」
「さあね」
言い返したところで彼女の虫の居所は変わらないが、更に煽る形になってしまった事に直哉はほんの少し反省をした。
図書室は教室棟の渡り廊下を渡った、旧校舎の二階にあった。旧校舎は音楽室や化学室などの特別教室が連なるため、放課後になると部活動で賑わいを見せる。特に吹奏楽部の練習音は、渡り廊下を歩いている最中からよく聞こえていた。
「えっ……」
突然、直哉の前を歩いていた芽衣が足を止めた。その視線の先にはブレザーのポケットから取り出したスマホが見える。
「どうかしたのか?」
「あ、いやぁ……その……」
直哉が尋ねると、芽衣は視線を泳がせる。しかし、再びスマホの画面に目を落とすと、数秒考えてから口を開いた。
「……あの、本当に申し訳ないのだけど」
「なんだよ」
歯切れの悪い彼女に苛立ち、直哉が怪訝そうな顔をした。
「今日、やっぱり部活に行っても良い……かな?」
「は、当番は?」
「本当にごめんっ!今日、担当楽器のテストするってメッセージ回ってきたの!」
どうやら新入部員の担当楽器を決めるテストらしい。これを逃すと、ほぼ一年間希望の楽器を担当できなくなるかもしれないと芽衣は訴えた。
「ね、お願いっ!来週は必ず人一倍働くからっ!」
芽衣は手を合わせて懇願する。
ったく……。面倒だな、本当に。
「……分かった」
直哉は溜息混じりに答えた。仕事量は倍になるかもしれないが、タイミングが悪かっただけだろう。彼女には今日しかチャンスはないらしい。
「本当に?ありがとうっ!」
芽衣は廊下に響くほどの大きな声で言った。ここで渋れば、毎週の当番で怨みをぶつけられるだろう。それに比べたら一度や二度、当番をサボられた方がマシだった。
「その代わり、本当に来週は」
「うん、分かってるから!ありがとう、どうしてもフルートだけは死守したかったの!それじゃあ、また明日ねっ!」
嬉しそうに芽衣は言うと、二つ上の階にある音楽室へ向かって階段を駆け上がって行った。
芽衣を見送った直哉は一人で図書室へ向かった。他の教室とは違う大きな両開きの扉の前へ近付くと、先程まではっきり聞こえていた吹奏楽部の練習音が遠くなった。直ぐ真横の壁には新刊リストが掲示され、人気作品は予約順番制になった知らせが書いてある。直哉は扉をゆっくりと押し開けた。小さな軋む音がしたが、中はしんと静まっている。貸し出しカウンターの上に視線を向けると、小さなホワイトボードが立てかけられていた。そこに司書の星野美咲の名前が書かれたマグネットと、その下に『職員室にいます』と書かれたマグネットが貼られているのを見て、直哉は口をへの字に曲げた。
今日、活動初日の一年がいるって知っているよなぁ……。
前回の顔合わせでは、上級生の殆どが経験者の委員だったらしく、活動内容の説明は一年生のために向けられていた事を、直哉は思い出した。
「……面倒くさ」
誰に向けるでもない独り言を小さく呟く。職員室は教室棟にあるため、ここから向かうのは面倒だった。貸出しカウンター近くの柱に掛けられた時計を見上げると、放課後になってまだ時間も浅い。暫くすればじきに戻って来るだろうと踏んで、直哉は大して興味のない本棚を眺めながら図書室を歩き回った。
利用者用の机を囲うように無数の本棚が連なり、手に取るのが億劫なハードカバーの背表紙が日に焼けていたり、真新しかったりとまばらだった。小学生の頃には時間割に図書の時間があったためか、小学校の図書室の間取りは薄っすら思い出せたが、中学校の図書室の記憶は殆どない。寧ろ、入った事すらあったかも分からなかった。
一通り周り、最後に一番奥の本棚を回っていると、窓辺の方で小さな咳払いが聞こえた。まだ司書の星野は職員室から帰ってきていない。直哉は眉を寄せた。弄月高校はまだ創立十八年たらずで、怪談が噂されるにはまだ比較的新しい学校なはず。気が付かなかっただけで、自分よりも先に誰かが既に居たのかもしれない。ゴクリと唾を飲み込み、直哉はゆっくりと音のした方へと近づいていった。心臓は少しばかり速く鳴り、手汗がじわりと滲む。本棚の端へ付き、軽めの深呼吸をすると、直哉は顔をゆっくりと出した。
「あ……」
突然、直哉の全身に電気のような強い衝撃が走った。窓辺に並んだ直哉の腰までしかない本棚に、一人の男子生徒が窓に寄りかかって居眠りをしていたのだ。誰もいないと思っていたせいなのか、その寝こけている男子生徒の顔が整っていたせいなのか、心臓の音がやけに煩い。どの学年の生徒かは全く分からないが、直哉は今まで見てきた何よりも綺麗だと感じた。陽の光を背負っているせいか、色素の薄いサラサラの髪と長いまつ毛が金色に光っている。その眩しさに思わず手を伸ばし掛けた。
「ん……」
先ほど耳にした声に直哉はハッとして、伸ばした手を引っ込めた。すると、彼の手に一冊の読みかけの本がある事に気が付いた。何の本を読んでいるのか気になった直哉が、屈んで表紙を覗き込むと、小さな寝ぼけ声が頭上で漏れた。
「……あれ……寝てた……?」
間抜けな声がしたかと思った瞬間、彼の手にしていた本がするりと手から抜け落ち、直哉の顔面に落ちた。
「痛っ!」
「え、あれ?落ち……うわぁ!君、大丈夫?」
直ぐ足元で鼻を両手で抑えて悶絶する直哉に、男子生徒は一拍置いてから慌てて声をかけた。
「だ、大丈夫です……」
鼻血が出ていないか、手のひらを確認しながら弱々しい声で直哉が答えた。
「キミってもしかして、今日当番の子?」
「え……あぁ、はい。そうですけど」
ひとまず鼻血は出ていないようで安心した直哉は、鼻の形を確かめるよう、しきりに鼻筋を撫でた。
「そっか……。あぁ、じゃあ、適当に掃除から始めようか」
男子生徒は直哉の鼻に視線を置いたまま言う。
いや、もっと他に言うことあるだろ……!
しかし、彼は手にした本を小脇に抱え、本棚から降りると、さっそく直哉を手招きした。
「あのっ」
「あぁ、ごめん。俺は三年の如月馨。君と同じここの図書委員だよ」
「……朔間、直哉です」
突っ込むのを諦めた直哉が渋々答えると、馨はにこりと微笑んだ。
「じゃあ、直哉くん。こっち来て」
言われるがまま馨について行く。棚の上に腰掛けていたせいで分からなかったが、数センチほど馨の方が背が高く、自然と彼の襟足に視線が奪われる。おまけに彼の通った後は柑橘系の爽やかな香りがした。
「この前の委員会、俺休んじゃってさぁ。そしたら今日はもう一人のクラスメイトが休みになってねぇ。一人かなって思っていたんだけど……。そっちは?」
「あ、いや……休みって訳じゃ」
言いかけから直哉はしまったと、口を噤む。
「おぉ、一年生で初日サボり?キミも災難だね」
その嬉々とした目にどきりとしたが、悟られないよう直哉は会話の流れに乗じて首を横に振った。
「彼女、吹奏楽部で。今日は一年の担当楽器決める日らしいんですよ」
「へぇ。なら仕方ないか」
部活という真っ当な理由だったからか、馨はあっさりと興味を捨てた。
「キミは良いの?部活」
「まぁ、入ってないので」
「ふぅん、スポーツ得意そうな顔つきなのに。ま、そういう俺も部活に入部しないまま三年生だけど」
何となくで痛いところを突く人だと感じたが、あっさりしすぎて逆に腹が立たないほど清々しい。
変な人だな……。
「それで掃除なんだけど、用具は司書室の用具入れから借りてね」
馨はカウンターの裏の扉を指差した。どうやらそこから司書室へ行けるらしい。
「でも、割と綺麗だし、今日は貸出し業務だけで良いと思うな」
「えっ」
直哉は驚いて大きな声を出した。
「あれ、直哉くんって掃除好き?」
「いや、そういう訳じゃないですけど……!良いんですか、それで」
驚き半分、呆れ半分の声は直哉自身も思った以上に上擦っていた。
「良いも何も、綺麗だしなぁ。小さなゴミって塵取りで取るのも大変じゃない?」
確かに目立つ埃はほとんどない。しかし、一年の前に立つ上級生が初日から堂々とサボる宣言をするのには驚きだった。
「だいたいは星野先生が昼間に掃除してくれているし、それに一年生はこっちの方が大変だから」
にこりと笑って馨はカウンター裏のワゴンを指差した。そこには昼休みに返却された本が数冊重ねられている。
「掃除サボるより、本を戻さない方が怒られちゃうんだよね。今日はまだ誰も来てないし、一緒に片付けちゃおう。棚番号の見方教えてあげる」
馨は積み上げられた本を数冊手に取ると、直哉に押し付けるように持たせた。
「まだいける?」
笑顔を向け、有無を言わずに自分が持っていた本を直哉の持つ山に加えた。
「……限界ですよ、前が見えません」
「よし、じゃあ文学系の棚からいこうか」
「聞いてねぇし……」
溜息混じりに直哉が悪態を吐いたが、身軽になった馨はくすりと笑ってさっさと目的の本棚へと向かって行ってしまう。
「ほら、誰か来る前に終わらせるよ」
急かすように声をかけられ、直哉は本に隠れて小さな舌打ちをした。
これが、直哉と馨の出会いだった。
「直哉、夏休みの当番どこ出る?」
夏休み前の最後の委員会中、だいぶ離れた席に座っていたはずの馨が、わざわざ隣に移動して直哉に尋ねた。
「バイトのシフトも提出前なのでどこでも良いですけど……別に馨さんには関係ないでしょ」
「関係あるし。てか、最後の夏だよ?俺は後輩と青春を謳歌したいんだけど」
「ただの図書室の当番で何が青春ですか」
「当番終わりの帰り道に、アイスの買い食いとかさ。一本ぐらいなら奢ってあげるよ」
ふふふ、と嬉しそうに笑う馨に直哉は怪訝そうな目を向ける。
「アンタ受験生だろ」
「受験生もアイスの一本や二本食べますけどー?」
直哉に嗜められ、馨は不貞腐れながら座り直す。そのやり取りを見ていた女子生徒達から直哉は羨ましそうな視線を受け、小さく溜息を吐いた。高校三年の夏というのは、もっとピリピリとしていて何に対しても時間が無く、焦っているようなイメージがあった。しかし、馨を見ているとその全てが崩れていく。大して心配するほど進学に対して不安はないのだろう。成績は確かに優秀で、職員室前に貼り出されていた定期考査の点数上位者名簿には、毎度名前が載っているのを目にしている。しかし、夏休み後の定期考査を入れた成績で指定校推薦が決まると言われているのだ、他の生徒に巻き返されるとは考えないのだろうか。
「それで、どこ出るか決めた?」
直哉がアプリでスケジュールを開いていると、馨はさも当たり前のように覗き込んだ。
ったく……。
無意識に近付けられた顔をそっと避け、直哉は図書室のホワイトボードに書き出された夏休みの図書室開放日とスケジュールを見比べた。といっても、アプリのスケジュールはほぼ真っさらだった。家族旅行の予定もなければ、両祖父母はもう他界している上に、両親はどちらも東京出身だ。お盆に行く田舎もない。直哉は早々にスマホの画面を閉じた。
「人が少ないとこに出ます」
その方が話し合いもスムーズだと思い、面倒くさそうにそう答えた。
「じゃあ俺が決めても良い?」
「……どうぞ」
反論するだけ無駄だと感じ、直哉はすんなりと頷いた。
スケジュールの確認が取れた者から、ホワイトボードに書き出された日程の下に名前を書いていく。部活に所属している芽衣達は早々に担当日を取りに行っていた。馨は他の生徒達の様子をじっと見つめている。殆どの委員が名前を書き終えた頃、馨はようやく立ち上がると、誰の名前も書かれていない日程に直哉と自分の名前を書き加えた。それも、他の生徒達より一日担当する日が多い。
「なんで三日もあるんです?俺の担当」
鼻歌交じりで戻って来た馨に直哉が言った。
「だって、こうしなきゃ会えないじゃん」
「……会う理由あります?」
「俺が会いたいの」
馨がふふん、と鼻を鳴らして笑った。
いやいや、だからって勝手が過ぎるだろ。
直哉は眉を寄せ、小さな舌打ちをすると、机に頬杖をついたままホワイトボードに書き出された日程を写真に撮った。
「ほっそい字だな」
コンビニのレジ裏でスマホの画面に映るホワイトボードの文字を見て、直哉は呟いた。夜の二十時を超えると、客足は疎になってくる。特に直哉のバイト先は住宅街の真ん中にポツンと建っているため、夕飯時を過ぎると途端に暇になった。品出しも賞味期限のチェックも殆ど終わり、手持ち無沙汰になった直哉は、隠れてデニムの後ろポケットに入れていたスマホの画面を覗き込む。他人の、しかも馨の筆跡で書かれた自分の苗字は、普段見慣れている文字なのに何故か特別に見えた。細い線がただ交差して組み上げられた記号に何の力があるのかは不明だが、シフト提出の際にブッキングしないようにという名目でロック画面に設定していた。
「珍しいなぁ、堂々とサボり?」
突然の声に直哉は慌ててスマホをしまった。背後から声を掛けたのは、店長の花田青斗だった。
「いやぁ、良いんだけどね。お客さん誰もいないし。それに君はいつも真面目で、仕事も丁寧だから珍しいものが見れたというか」
「……すみません」
「あはは。だから、怒っている訳じゃないって」
花田はそう言って笑うが、就業中にルールを破ったのは事実だ。咎められない方がなんとも心が痛い。
「それで。そんな真面目な君がどうしたの?」
「いや、別に……」
「さっきの待ち受け画面はなんの日付?」
まさか見られているとは思わず、直哉は目を見開いた。その反応に花田が笑うと、バツの悪そうな顔を背けながら直哉が口を開いた。
「……図書委員会の当番です」
「委員会かぁ。その日、何時から当番なの?」
「十時から閉館の夕方十六時までです」
バイトをしている方が幾分もマシな時間拘束だが、馨と二人の当番なのは申し分ない。どの道シフトの相談をしなくてはならないため、直哉は誤魔化すのをやめて花田の質問にすんなりと答えた。
「当番の日だけ、入り時間を遅らせて欲しいんですけど……」
直哉が申し訳なさそうに恐る恐る伝えると、花田が吹き出した。
「あぁ、そんなこと心配してたの?学校の当番の日ぐらい融通きかせてあげるよ」
そう言ってケラケラと笑いながら花田は直哉の肩を軽く叩くと、レジ裏の扉を開け、事務室の掲示板からシフト表を剥がして戻って来た。そこには固定シフトとして仮組みされた来月のシフトが記載されていた。仮組みの状態であれば、変更の希望を出しても構わないのがこのコンビニのルールとなっていて、既に何名かの学生が夏休みの旅行でシフトを削っていた。
「むしろその日ぐらい休んでも良いよ?ぶっ通しで働くってしんどくない?」
直哉は首を横に振った。図書室当番の仕事はここに比べたらだいぶ楽だ。ばっちりエアコンの効いた部屋で、貸出し業務と軽い清掃をするだけ。もしかしたら殆どやる事が無い可能性だってある。去年の今頃までサッカーをやっていた直哉は、体力が有り余る気がしてならなかった。
「大丈夫です」
「分かった。良いよ、二時間ぐらい遅らせておこうか?」
優しさを上乗せしてにこりと花田が微笑む。しかし、直哉はまた首を横に振った。
「いえ、一時間で間に合います」
「本当?でも、ただでさえ他の人よりシフト入っているのに……」
休みで削られたシフトに直哉の名前が重ねて記載されているところを確認した花田が、心配そうに言った。
「構いません」
直哉は頑なに出勤すると言い張った。小遣いはバイトをし始めてからストップされたし、どこかへ行く予定もない。机に向かう習慣は受験から解き放たれた時からなくなった。そうなるとアルバイトしか時間を有効に使える手段はないと思っていたのだ。
「……そっか、了解。あまり無理はしないでね」
花田はすんなりと了承すると、シフト表に修正を書き加えた。
「ちょっと任せるね、改訂版出しちゃうから」
「あ、はい。よろしくお願いします」
直哉が答えると、花田はまた微笑んで事務室へと引っ込んでいった。客は相変わらず誰も入っていない。店内放送だけが響く中、直哉はもう一度だけ馨の書いた文字をレジ裏でこっそりと眺めた。
思えば、初めて会った日から頭の中には常に馨がいた。窓辺で寝こける無防備な姿が、やけに美しく見え、脳裏から離れない。憂鬱だと感じていた木曜日の放課後は、あの日以来待ち遠しくて堪らなくなった。一週間のうちに一度だけ。ただの委員会の当番だが、必ず決まった時間に会えるという確約は直哉にとって大事だった。それが、部活を休んで参加している芽衣や馨と同じクラスの女子生徒がいても、だ。二人きりでなくても変わらない。同じ空間にいる事が特別で、大事だった。
それに気がついたのは、終業式を終えて一週間経った頃だった。夏休みに入ると、その特別だった木曜日はなんの変哲もない日に変わってしまった。アルバイトもなく、予定もない。スケジュールはまっさらで、丁度暇を持て余していた夏休み最初の木曜日は、小学生の頃に所属していたサッカークラブの同級生、三宅浩太が押し掛けて来た。彼は直哉の様子を見に来ただけだった。彼とは小中両方とも学校が別で、怪我でサッカーを辞めてしまったという情報だけが一人歩きしたのだろう。サッカーが続けられない程滅入っているのかと心配していたようで、直哉はずっと連絡を入れなかった事を反省した。浩太との久々の再会はそれなりに楽しくて、時間を忘れて過ごした。その日は図書委員になってから初めて馨に会わない木曜日になった。
会わないとなると、落ち着かないな。
そう、もう夏休みの二週目なのだ。浩太が家に来た以外、コンビニと自宅の往復しかしていない。図書室の当番の日は八月のニ週目とお盆明けに二回ずつあるが、まだ一週間以上も先だった。何度も何度もスケジュールアプリを開いては溜息が漏れる。おまけにメッセージアプリを開いて馨とのやり取りを見返した。淡い期待を持ち、メッセージ画面をスクロールする。馨からは夏休み前から時々メッセージが送られて来ていて、毎週木曜日に顔を合わすだけでなく、時折り呼び出されることもあった。呼び出し内容は「今日のお昼は一人。つまんないから相手して」という連絡から「英和辞書忘れたから貸してくれない?」「放課後正門前集合」と様々であり、特に放課後正門前集合の場合は、SNSで人気の飲食店に連れ出されていた。行列の出来るラーメン屋に、駅前の新作スイーツ店など、並んでまで食べることに疑問を持っていた直哉が、長時間その列に並べたのは馨がいたからであった。待っている間もいつものように自分のペースを崩さない馨に振り回されたが、疲労よりも嬉しさが込み上げたし、何より年上の馨がはしゃぐ姿に愛おしさを感じていた(でも、流石に生クリームドカ盛りクレープに並ぶと言われた時は、はっ倒してやろうかと思った)。
休みに入ればこれ以上に連絡が来ると踏んでいたのだが、ぱったりと連絡は止んでしまった。夏休み前にだいぶバイトのシフトを突っ込んだと伝えたのが仇になってしまったのだろうか。木曜日だけはシフトを入れずに空けていたというのに。結果、連絡が来たのは昔馴染みの同級生だけだった。その同級生も流石に二週に渡ってやって来ることはない。
まぁ、約束していた訳じゃないしな。
勝手に期待し、当てが外れてしまったことに肩を落とす。すると、タイミングよくスマホが着信画面に切り替わった。表示されているのはコンビニの番号で、もしやと思い通話ボタンをタップした。
「お疲れ様です、朔間です」
「朔間くん、休みのところ本当にごめん!欠勤出たんだ。繋ぎの三、四時間出れたりできる?」
電話口で花田が早口で要件を言った。余程人が居ないらしい。夕方に差し掛かるこの時間、そして夏という季節も重なって、火を使いたくないという主婦たちが夕食のおかずをレンチンで済ませようと、時短食品を買いに出てくるのだ。
「あ、はい。すぐ向かいます」
「良かった。助かるよ、お願いします!」
花田はそれだけ伝えると、電話を切った。
直哉がコンビニに着くと、店内は多少落ち着いているものの、棚の商品はスカスカで、夕方納品されたはずのものがまだ陳列されずにバックヤードに積まれたままだった。ロッカーに荷物を置き、上だけ制服に着替えて事務室からレジに顔を出すと、花田が「朔間くん!」と、汗だくの顔で出迎えた。
「助かったぁ!この後多分もう一回波が来ると思うんだ。僕、今のうちに納品出しちゃうからレジお願いね」
「あ、はい」
花田は一台のレジを締め、直哉に隣のレジで会計をしていた女子大学生と代わるように指示を出すと、慌ててバックヤードへ引っ込んで行った。
花田の読み通り、女子大生が退勤してから三十分後に店内が混み合い始めた。帰宅途中のサラリーマンの姿もちらほらと見受けられ、ピークは息つく間もなく過ぎていく。直哉はとにかくレジで会計列を捌き、花田は発注の確認をしながらレジに入っていた。
「いやぁ、本当に助かったよ……!次の子が来たら上がって良いからね」
花田がお礼と言って、栄養ドリンクをレジ裏から見える事務室の机に置いた。
「いえ。今日は暇だったので」
本来は直哉とは別の高校生バイトが入る時間帯だったのだが、どうやら夏風邪を引いてしまったらしい。次のシフトまで日が空くため、今日だけなんとかしなければならなくなったのだと、花田が話した。
「ごめんね、本当に。今度、出勤時間調整しておくから。どこか削りたい日とかあったら言ってね」
「あ、はい」
直哉は返事をしてレジ裏に掛けてある時計を見上げた。もう間も無く次の出勤者が来る頃だ。交代前にコーヒーマシン横に設置しているミルクや砂糖、カップの蓋の補充でもしておこうと、レジから出ると、丁度一人の客が店内に入って来た。
「あ、いたいた」
聞き覚えのある声に振り向くと、そこには馨が立っていた。
「その制服、意外と似合うね」
馨は指でフレームを作り、ぽかんと口を開けたまま固まった直哉に言った。
「ふふふ。驚いた?さっき電話したんだけど、出ないからここかなぁって」
馨は直哉の顔を覗き込むように屈む。身長は馨の方が若干高いため、見慣れない上から目線に直哉は思わず目を逸らした。
「俺、馨さんにバイト先教えましたっけ?」
「いいや。俺の勘?」
「は?」
直哉の接客業にあるまじき声量と表情に、馨が吹き出した。
「あはは、ウソウソ。前も言ったけど俺もこの近くに住んでるんだよ。それに、直哉も中学この辺だって言ってたし、その近くのコンビニっていったらここかなぁって」
「……ストーカーですか」
呆れ気味に溜息を吐き、直哉は補充作業の続きを始めた。
「やだなぁ。もっとロマンティックな言い方しようよ」
「例えば?」
ノールックで聞き返す。本当は心臓がバコバコと煩く鳴っていて、何かしていないとその音が馨にまで聞こえてしまうのではないかと内心冷や冷やだった。
「赤い糸で結ばれているとか」
「……で、何のようです?」
「え、ツッコミなし?」
ケラケラと笑う馨に何も言わず、直哉はレジの中へと戻っていく。
「冗談だよ。本当は、直哉の顔が見たくなったの。ね、それじゃあダメ?」
「…………は?」
直哉の心臓が一瞬、止まった気がした。さっきまで煩くて敵わなかった音がピタリと消え、周りの音が遮断される。全身に熱が込み上げ、手のひらにはじわりと汗が滲み、持っていた補充用のガムシロップのポーションが滑り落ちた。面食らった直哉を目にした馨は、くすりと笑って足元に転がったガムシロップのポーションを拾い上げると、直哉の手に握らせた。
「なーんてね」
「あのですねぇっ」
「言ったろ、アイス奢ってあげるって」
「……受験生のくせに」
「だから、受験生だってアイスぐらい食べるんだってば!」
「それで、本当に誰から聞いたんですか?」
直哉は馨にもらった当たり付きソーダバーの袋を開けながら聞いた。あれからあと数分で退勤だと伝えると、馨は直哉を待つと言って、約束通りアイスを奢った。
「三宅浩太って知ってるよね。彼、俺の家の近所なんだよ」
馨も同じようにソーダバーの袋を開け、一口齧った。「当たるかなぁ」という呟きに直哉は小さく笑う。
「実は彼、小さい頃から知ってる仲なんだよね。この前久々に会ってさ、昔の友達に会いに行ったって、すごく嬉しそうで。それで直哉の家に行った事が分かってさぁ。いやぁ、世間って凄く狭いよね。あぁ、浩太が直哉のこと元気で良かったって言ってたよ」
「……個人情報の取り扱いについて浩太にはなんて?」
「ありがとうって言っといた」
「まったく……」
呆れながら直哉はアイスを齧る。知り合いの知り合いだったとは驚いたが、自分の話が話題にされた事になんとも複雑な気持ちになってしまう。仲が良いとしても所謂近所の幼馴染だろう。それ以上の関係に発展するようには見えないが、自分の知らない馨を知る浩太が羨ましく思えた。
「直哉」
「はい?」
呼ばれて返事をしたが、馨はじっと手に持っているソーダバーの棒を見つめていた。数センチのカケラが頑張ってくっついている状態のそれは、夕方の日差しによって更に小さくなろうとしている。
「当たり出た?」
「いえ、はずれでした」
「……そっかぁ」
残念そうに呟くと、馨は溶けて落ちそうなアイスに食らいつく。その表情から、馨の方もはずれ棒だった事が分かった。
「こういうのは当たる人の方が少ないんですから」
「だから当てたいんじゃない。あ、そうだ。今度当たりが出るまで食べようよ」
「夏でも腹から風邪ひきそうですね、それ」
馨の無茶振りに、直哉は遠回しに嫌だと返事をする。
「直哉」
しばらく並んで歩き、赤信号で立ち止まった時に馨が口を開いた。
「はい?」
直哉はゆっくり馨の顔を見上げた。入学当初より身長は伸びたが、まだほんの少し馨に届かない。
「……やっぱ良いや。なんでもない」
「なんですかそれ」
気になった直哉は馨の方をじっと見つめる。言いかけたのはわざわざバイト先を覗きに来た理由だろうか。無意識に膨れ面をしていた直哉を見て、馨は静かにくすりと笑う。
「どうでもいい事だけど……聞く?」
「どうでもいいですけど、言ってください」
直哉は何も言われないままよりはマシだ、と喉元に出かけたがその言葉を飲み込んだ。
「コンビニの制服、めちゃくちゃ似合ってた」
「……さっきも聞きましたけど。それだけですか」
「うん。それだけ」
ね、どうでもいいでしょう?そう言って、青信号に変わった横断歩道を歩き出す。
「馨さん」
「んー?」
馨の後ろを追いかけるように直哉が歩き出す。
「……再来週の当番、よろしくお願いします」
「うん。よろしく」
そう答えると、馨は「じゃあね」と背後を向いたまま直哉に手を振り、真っ直ぐ直哉とは別方向へと歩いて行く。直哉はその後ろ姿に、本当は何を言いかけたのかと何度も心の中で問いかけた。



