完璧に本性を隠している哀川先生には、全く隙が見つからなかった。あの後も何度か魚屋の前で見かけたものの、前と同じく魚を眺めているだけ。一応写真は撮ってみたが、証拠としては使えそうになかった。
そのまま一ヶ月が経ち、ゴールデンウィークが終わっていった。表面上は穏やかに過ごしている振りをしながらも、内心では日を追うごとに何かしなければと焦燥感に駆られていく。気付けばことあるごとに哀川先生を観察し、尾行するようになっていた。
転機が訪れたのは、五月中旬。三年生最初の模試を翌週に控えた日曜日だった。模試の勉強のために近くの図書館へ向かっていると、偶然哀川先生を見かけたのだ。
すっかり尾行癖がついていた私は、さっと建物の陰に隠れて哀川先生の様子を眺める。スマホを取り出し、無音カメラで写真を撮った。
哀川先生は余裕のあるシャツにぴちっとしたパンツという姿だった。ヒールがいつもより高いからか、すらりとした足が余計に長く見える。ショルダーバッグを肩に提げ、背筋を伸ばして堂々と歩く哀川先生は、いかにも大人の女性という感じだ。
一体どこへ行くのだろう。一定距離を保ちながら、私は後をついて行く。
やってきたのは電車の駅だった。先生はそのまま改札へと入っていく。
財布を見ると、ICカードが入っていた。お母さんには勉強で遅くなると伝えているし、時間もお金もあるなら、このまま立ち止まれはしない。嘘をつくことになるけれど、哀川先生の本性が暴かれれば、お母さんも優等生だと喜んでくれるだろう。
私は改札をくぐり抜け、哀川先生と同じ電車の同じ車両に乗り込んだ。適度に乗客がいてくれたお陰か、先生がこちらに気付いた様子はない。つり革につかまり、スマホの画面を見つめている。私はそんな先生を緊張しながら目だけでちらちら観察していた。
降りたのは二駅先の駅だった。名前は知っているが、降りたことはない。百貨店もショッピングモールも何もない、古い住宅が集まる駅だ。ぱらぱらと人が降りていく中で、私も先生を追って外に出る。
駅の周りには、思いのほか人がいた。小さなスーパーやカフェ、雑貨屋が集まっており、地元の人たちのたまり場になっているらしい。
先生は人々の間を縫って、住宅地へ入り家と家の間を進んでいく。駅から遠ざかるに従って人通りは減り、ついには先を行く哀川先生と私だけになってしまった。私はできるだけ気配を隠すようにしながら、家や電柱の陰を渡り歩いて先生の後について行く。
不意に、先生が路地へ入った。私も続けてその道をのぞき込む。
「あ~~。やっぱり貴方ね、白沢さん」
哀川先生が腰に手を当ててこちらを見ていた。どうやらとっくに気付かれていたらしい。観念した私は、哀川先生に向き合った。
「こんにちは、哀川先生」
「挨拶している場合じゃないのよ。最近やけに私を探っているみたいだったから、もしかしてと思ったけれど。優等生でいたい貴方が、ストーカーなんていいのかしら?」
哀川先生は微笑んでいるようで、目が笑っていなかった。身体に緊張が走ったが、正義はこちらにあると思えば耐えられる。ポケットの中のスマホを操作し、準備していたボイスレコーダーのボタンを押しながら、私は慎重に言葉を返した。
「これもクラスのためですから。先生が危ない教師なら、私には先生を追い出す義務があります」
「どこをどう考えたらそんなことになるわけ? それに危ないってなによ。私はいたって普通の教師だけれど」
「魚の解剖写真を何十枚も持ち歩いているのは、普通とは思えません」
哀川先生の表情が消えた。次の瞬間、憎々しげに顔が歪む。
「……先生のバッグの中を見るなんて、とんだ不良生徒だわ」
「優等生として、すべきことをしているだけです」
「貴方がそう思いたいだけでしょう」
先生は大きなため息をついて、私をじろりと睨んでくる。
「それで? ストーカーさんはいつ帰ってくれるのかしら」
「先生の行き先を知って、その本性を暴いたら」
「だとしたら残念ね。私が行くところ、十八歳未満は立ち入り禁止なの」
「大丈夫です。私、四月生まれでもう十八歳なので」
小さく舌打ちが聞こえた気がした。
「なら今日はもう帰るわ」
「そうですか。やましいことがあると認めるんですね」
「……はぁ。変に頭が良い子って本当に面倒」
哀川先生の苦々しげな表情に、私は勝利を確信した。けれども先生はすぐに平然とし落ち着きを取り戻す。こちらに二歩近づいてきて、手のひらを差し出してきた。
「スマホ、出しなさい。この先は写真撮影もボイスレコーダーも禁止よ」
「…………」
スマホを奪われてしまえば、丸腰になるも同然だ。黙ってやり過ごそうとしたが、哀川先生は諦めない。
「黙っても無駄。気付かないとでも思っていたの? いいから出しなさい」
「…………」
「出さないのなら、親御さんにストーカーの件を相談するけれど」
今の段階でお母さんにこのことがばれるのは駄目だ。尾行がばれたら満足させるどころか怒られて失望されてしまう。私は仕方なくポケットからスマホを出して哀川先生に渡した。
「……はい」
「最初から素直に出せばいいのよ」
先生はボイスレコーダーを切って、私のスマホをショルダーバッグの中に入れてしまった。これでは途中で取り返すのも難しそうだ。
仕方が無い。今日は情報収集に徹しよう。証拠集めは別の機会にもできるはずだ。
「ついてくるのは勝手だけれど、どうなっても知らないから」
先生はくるりと私に背を向けた。高らかにヒールを鳴らし、路地の向こうへ歩いて行く。心を決めた私は、足早にその後を追いかけた。
そのまま一ヶ月が経ち、ゴールデンウィークが終わっていった。表面上は穏やかに過ごしている振りをしながらも、内心では日を追うごとに何かしなければと焦燥感に駆られていく。気付けばことあるごとに哀川先生を観察し、尾行するようになっていた。
転機が訪れたのは、五月中旬。三年生最初の模試を翌週に控えた日曜日だった。模試の勉強のために近くの図書館へ向かっていると、偶然哀川先生を見かけたのだ。
すっかり尾行癖がついていた私は、さっと建物の陰に隠れて哀川先生の様子を眺める。スマホを取り出し、無音カメラで写真を撮った。
哀川先生は余裕のあるシャツにぴちっとしたパンツという姿だった。ヒールがいつもより高いからか、すらりとした足が余計に長く見える。ショルダーバッグを肩に提げ、背筋を伸ばして堂々と歩く哀川先生は、いかにも大人の女性という感じだ。
一体どこへ行くのだろう。一定距離を保ちながら、私は後をついて行く。
やってきたのは電車の駅だった。先生はそのまま改札へと入っていく。
財布を見ると、ICカードが入っていた。お母さんには勉強で遅くなると伝えているし、時間もお金もあるなら、このまま立ち止まれはしない。嘘をつくことになるけれど、哀川先生の本性が暴かれれば、お母さんも優等生だと喜んでくれるだろう。
私は改札をくぐり抜け、哀川先生と同じ電車の同じ車両に乗り込んだ。適度に乗客がいてくれたお陰か、先生がこちらに気付いた様子はない。つり革につかまり、スマホの画面を見つめている。私はそんな先生を緊張しながら目だけでちらちら観察していた。
降りたのは二駅先の駅だった。名前は知っているが、降りたことはない。百貨店もショッピングモールも何もない、古い住宅が集まる駅だ。ぱらぱらと人が降りていく中で、私も先生を追って外に出る。
駅の周りには、思いのほか人がいた。小さなスーパーやカフェ、雑貨屋が集まっており、地元の人たちのたまり場になっているらしい。
先生は人々の間を縫って、住宅地へ入り家と家の間を進んでいく。駅から遠ざかるに従って人通りは減り、ついには先を行く哀川先生と私だけになってしまった。私はできるだけ気配を隠すようにしながら、家や電柱の陰を渡り歩いて先生の後について行く。
不意に、先生が路地へ入った。私も続けてその道をのぞき込む。
「あ~~。やっぱり貴方ね、白沢さん」
哀川先生が腰に手を当ててこちらを見ていた。どうやらとっくに気付かれていたらしい。観念した私は、哀川先生に向き合った。
「こんにちは、哀川先生」
「挨拶している場合じゃないのよ。最近やけに私を探っているみたいだったから、もしかしてと思ったけれど。優等生でいたい貴方が、ストーカーなんていいのかしら?」
哀川先生は微笑んでいるようで、目が笑っていなかった。身体に緊張が走ったが、正義はこちらにあると思えば耐えられる。ポケットの中のスマホを操作し、準備していたボイスレコーダーのボタンを押しながら、私は慎重に言葉を返した。
「これもクラスのためですから。先生が危ない教師なら、私には先生を追い出す義務があります」
「どこをどう考えたらそんなことになるわけ? それに危ないってなによ。私はいたって普通の教師だけれど」
「魚の解剖写真を何十枚も持ち歩いているのは、普通とは思えません」
哀川先生の表情が消えた。次の瞬間、憎々しげに顔が歪む。
「……先生のバッグの中を見るなんて、とんだ不良生徒だわ」
「優等生として、すべきことをしているだけです」
「貴方がそう思いたいだけでしょう」
先生は大きなため息をついて、私をじろりと睨んでくる。
「それで? ストーカーさんはいつ帰ってくれるのかしら」
「先生の行き先を知って、その本性を暴いたら」
「だとしたら残念ね。私が行くところ、十八歳未満は立ち入り禁止なの」
「大丈夫です。私、四月生まれでもう十八歳なので」
小さく舌打ちが聞こえた気がした。
「なら今日はもう帰るわ」
「そうですか。やましいことがあると認めるんですね」
「……はぁ。変に頭が良い子って本当に面倒」
哀川先生の苦々しげな表情に、私は勝利を確信した。けれども先生はすぐに平然とし落ち着きを取り戻す。こちらに二歩近づいてきて、手のひらを差し出してきた。
「スマホ、出しなさい。この先は写真撮影もボイスレコーダーも禁止よ」
「…………」
スマホを奪われてしまえば、丸腰になるも同然だ。黙ってやり過ごそうとしたが、哀川先生は諦めない。
「黙っても無駄。気付かないとでも思っていたの? いいから出しなさい」
「…………」
「出さないのなら、親御さんにストーカーの件を相談するけれど」
今の段階でお母さんにこのことがばれるのは駄目だ。尾行がばれたら満足させるどころか怒られて失望されてしまう。私は仕方なくポケットからスマホを出して哀川先生に渡した。
「……はい」
「最初から素直に出せばいいのよ」
先生はボイスレコーダーを切って、私のスマホをショルダーバッグの中に入れてしまった。これでは途中で取り返すのも難しそうだ。
仕方が無い。今日は情報収集に徹しよう。証拠集めは別の機会にもできるはずだ。
「ついてくるのは勝手だけれど、どうなっても知らないから」
先生はくるりと私に背を向けた。高らかにヒールを鳴らし、路地の向こうへ歩いて行く。心を決めた私は、足早にその後を追いかけた。


