猫と、解剖刀

 ガタン。
 扉に身体をぶつけてしまった。
 途端にぐるんと哀川先生の顔がこちらを向く。びくりと心臓が大きく跳ねた。

「あら?」

 また気付かれてしまった。はやる心臓を抑えつつ、極力いま来た振りをしながら、私はそろそろと第二理科室の中に入る。

「白沢さん、いらっしゃい。何か用事?」
「進路希望調査のプリントを書いたので、持ってきました」

 記入済みの紙をひらつかせながら、ちらりと机に目を向ける。

「その、先生はなにを……?」
「これ? 鰺の解剖よ」

 ほら、と哀川先生は身体を避けてまな板を見せてくる。そこにはお腹は綺麗に切り開かれた鰺が横たわっていた。

「授業用の資料作り。貴方たちも二年の時に見たでしょう。ほら、眼球の形成についての授業で」

 言われてみれば、目の仕組みを観察するのだとか言って、鮪の目玉を解剖した記憶がある。確かそのときに、他の魚の解剖写真も見たような。
 なら哀川先生は、ただ授業の準備のために魚屋へ行き、解剖する魚を選んでいただけだったのか。死体と言っていたのも解剖用に使うが故の表現だったのかもしれない。
 ほっとしたような、もやもやするような、なんとも言えない気持ちになる。けれどもそれを先生に気付かせてはいけない。できるだけ声色を変えないようにと努力しながら、私は進路希望調査のプリントを手に首をかしげる。

「これ、どうすればいいですか?」
「うーん、いまは手が汚れてるし……準備室に私のバッグがあるから、その隣に置いてきてもらえる?」
「わかりました」

 私はうなずき、第二理科室の前方の扉から第二理科準備室へと入る。細長い部屋には明かりが付いていなかった。両脇には大きな戸棚が並んでおり、その中にはホルマリン漬けのウサギや鳥、魚などが並んでいる。死に満ちたこの部屋は不気味で、早く出ていきたかった。
 先生のものらしきバッグは、部屋の奥にある机の上に乗っていた。私は足早に机まで向かい、バッグの横にプリントを置く。
 先生のバッグは高級そうな黒の革製トートバッグで、ファスナーのないタイプだった。中は書類やペンケース、システム手帳などがぎっしり詰められている。先生ともなると、日々の仕事で必要な荷物も多いのだろう。
 なんの気なしに眺めていると、システム手帳の間にリフィル以外の紙が何十枚と挟まっているのに気がついた。その一枚が、手帳からはみ出し端が見えている。どうやら何かの写真らしい。
 優等生なら、人のバッグの中身を勝手に見てはいけない。それを分かってはいたけれど、写真に何が写っているのかが無性に気になった。
 物音を立てないように手帳を取り出し、そっと写真を手に取ってみる。
 途端、大声を出しそうになった。
 写っていたのは解剖された魚。けれその一枚だけじゃなかった。二枚、三枚、六枚、十枚、二十枚――手帳に挟まっていた何十枚もの写真、その全てに解剖された魚が写っていたのだ。
 赤やピンクの内臓がむき出しになったもの、お腹から消化管がでろんと伸びているもの、内臓全てがひとつひとつ取り出されたもの、エラを綺麗に切り取られたもの……。
 一枚めくるたびに呼吸が早まる。耐えきれずに手帳を閉じてバッグにしまい、第二理科準備室を飛び出した。

「お帰り。バッグ、わかったかしら?」

 戻った私に、先生は作業をしながら問いかけてくる。いつもの通りの「いい先生」の声だった。けれどもこの先生は、裏で魚の解剖写真を大量に持ち歩いているのだ。大事そうに手帳に挟んで。

「はい、もう、お陰ですぐにわかりました。では用が終わったので帰ります」

 もはや取り繕う余裕もなく、私は第二理科室から逃げ出した。優等生として許されない動きだったが、得体の知れない恐怖や不安に勝てなかった。
 急いで教室に戻り、スクールバッグを持って学校を出る。
 家への道を走っている途中に思い出した。魚の解剖写真を授業で見たのは、春ではなく夏だったと。




「ただいま」
「またこんなに遅くなって。なにしてた――って、ちょっと! どこ行くの!?」
「部屋! 勉強!」
 お母さんの叫び声が聞こえたが、立ち止まるのも忘れていた。まっすぐ自分の部屋へと飛び込んで、ばたんと扉を閉める。安全地帯に踏み込んで、ようやく恐怖や不安が和らいでいった。全身の力が抜けていき、ぺたんと床に座り込む。
 やっぱり哀川先生には何かある。
 魚屋の魚を死体と呼び。
 愛する人を見るような目で魚を眺め。
 授業に関係ない解剖写真を何十枚も持ち歩く。
 死体しか愛せない人なのか。解剖狂いなのか。もっと別の想像もできないような性癖の持ち主なのか。いずれにせよ、本格的に警戒するに越したことはない。
 けれど危険性を証明するには、もっと決定的な、本質に迫る情報が必要だ。
 スマホを取り出し、中に入っているアプリを確認する。ボイスレコーダーは入っていたが、カメラアプリは普通のものを使えない。私はネットで無音カメラのアプリを調べて、いちばんおすすめされているものをダウンロードした。
 これでいつ何があっても、証拠を集められるだろう。
 必ず先生の秘密を暴いてみせる。優等生として、クラスメイトを守るために。そしてお母さんの望む優等生になるために。
 私はスマホを握りしめながら、一人そう決意した。