その後もしばらく、哀川先生についての話をクラスメイト達に聞いて回った。けれど佐野さんから聞いた以上の話は出てこない。
 私が気にしすぎなのだろうか。けれども魚屋での出来事は、やっぱり普通とは違う気がする。お母さんにも見極めろと言われたから、完全に白黒つくまでは疑うのをやめられない。
 とはいえ放課後の教室で一人あれこれと考えていても、答えが出てくるわけではない。諦めた私は、机に広げた直近の課題に目を向けた。

『三年生一学期 進路希望調査 提出日:四月十三日(水)』

 一週間前、学級委員長決めのホームルームの後に配布され、すっかり忘れていた今日提出の進路希望調査プリント。提出期限当日になって思い出すなんて優等生失格だ。魚屋で見た哀川先生の姿が衝撃的で記憶から消し飛んでいたのだろうが、そんな言い訳はお母さんなら許してくれない。
 書くべきは決まっていた。第一志望も第二志望も第三志望も全て医学部。問題はどこの医学部にするかだ。お母さんは医学部に行けというものの、母子家庭で金銭的にも裕福ではないから、あまりお金を出せないはず。家を思う優等生なら、私立は選ばないだろう。行くなら国立。奨学金の制度もしっかり使える場所が良さそうだ。
 スマホで軽く調べた後、挑戦できそうな範囲にあるA大学とB大学とC大学を書いた。それぞれの大学がどんなところかはよく知らないけれど、とりあえず国立の医学部であればお母さんも満足するだろう。
 後はこれを哀川先生に渡せばいい。そう思った矢先に、先生が廊下を歩いていく姿が見えた。教室を出て呼び止めようとしたが、その手に握られているものを見て言葉を飲み込む。
 哀川先生は、ビニール袋を持っていた。白い無地のビニール袋。あの魚屋で貰えるものと同じだ。そしてその袋の中には、重そうな何かが入っている。
 魚を買ってきたのだろうか。けれど放課後に生魚を学校へ持ってくる必要性は感じられない。調理部だった頃ならまだしも、今は単なる生物教師なのだから。
 私は一旦教室に戻った。先生が歩いていったのは職員室と反対側。ならば行き先は生物の授業に割り当てられている第二理科室だろう。そこへ行けば、先生が何をするつもりなのか分かるかもしれない。
 逸り始める心臓を、深呼吸で落ち着ける。
 まずは第二理科室まで哀川先生を尾行しよう。もし見つかっても進路希望調査のプリントを渡しに来たという体でやりすごせるはずだ。先生を尾行するなんて常識的にどうかとは思ったけれど、これもクラスへの影響を調べるため。優等生として、無事にやり遂げなければいけない。

「……行こう」

 意を決し、私は進路希望調査のプリントを片手に教室を出た。
 第二理科室は教室のある西校舎とは反対側の、東校舎の三階にある。三年A組の教室からは、渡り廊下を渡ればすぐにつく場所だ。
 人気の無い渡り廊下を渡って、東校舎の廊下に出る。周りに他の先生や生徒はいないというのに、やけに心臓がうるさく鳴っていた。
 第二理科室までたどり着き、扉の陰に隠れて小窓からそっと中を覗いた。哀川先生は教室の後ろの席に座っている。身体の前にはまな板が置かれ、その上には何やら銀色の塊が乗っていた。状況からして、きっと魚だろう。
 そのままじっと眺めていると、哀川先生は手袋をした手で細い棒状のものを手に取った。唇に笑みを浮かべながら、棒を魚のお腹らしき部分に差す。その瞬間、先生の顔がうっとりとしたものに変わった。目元はどこか潤んでおり、興奮を隠しきれない様子で頬を上気させている。
 なんだかいけないものを見ている気がした。けれど優等生としての義務感と好奇心が先行し、もっとよく見ようと扉に身体を近づける。